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在所へ祀事で出かけたが、時間があったので村内をお散歩。四本松村が合併により芳川村に属したのが明治22年だそうだ。しかし現在でも生活上の「近所」というと、明治の合併以前の「むら」が単位になっている感じがする。 | |||||||||||
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これは子供の頃に使っていた古山家の入り口、当時はホソバの間が6尺ぐらいだったと思う。それで裏から入ることにしたのだろうが、その後近所の家でも出入りが楽なようにと、現在では9尺ぐらいになった。 | ||||||||||
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熊野神社は大方は化政期の蟻の熊野詣かと思ったら、 | ||||||||||
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境内には 昭和八年十月二十六日□□ 奉天取引所信託株式會社株式弐拾株 奉天 遠州銀號 □□□□□大山庄一
という石碑もある。一部読めないが、昔から東海道の大助郷で、お上の目が緩いので、浜松宿へ出たり、他国へ行って「世間師」になる人がいたのだろう。昭和八年は父が友人の誘いに従って「大陸雄飛」を果たした年だが、明治時代すでにその種は蒔かれていたのだ。 | ||||||||||
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こちらは下江町稲荷神社。かっては立派な松の防風林があったが、風倒害などの事故防止のために切ってしまった。何かあっても対応できる人手がないのだ。 | ||||||||||
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「かさや」交差点より西を望む。「かさ」というのは三角形の「老間笠」のようなものだっただろう。筋向かいにあった「とうばや」も無くなって久しいが、コンビニだのドラッグストアができて、暮らしには困らない。
しかし人口減と高齢化と農業の荒廃は容赦なく進む。 | ||||||||||
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バス通りの大山庄一邸。食事宅配の車が止まっていたが、おばあさんは半ば痴呆だそうだ。
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えいぢくんちは落ち着いた感じになってきたが、冬の西風、台風の東風が半端じゃないそうだ。
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| 屋敷の北側は少なくとも9尺ぐらい地境から離す、というのが長いしきたりだったように思うのだが、今では右のお宅の様に3尺離せば軒が収まる、という都市住宅になっている。都市住宅が果たして良いものやら、止むに止まれぬ土地政策の犠牲としか思えず、どうも納得がいかぬ。
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中には「西日は嫌だ」「通過交通は邪魔だ。」というわけで、コンクリートの壁で難を逃れよう、というお宅もあり、村の通りは寂れてゆく。「とうばや」あった頃と違い、村の通りが生活道路では無くなっているのだろう。
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