20171214

水辺の歴史的建物
家庭用発電所

まちづくり



Lịch Sử Kiến Trúc Việt Nam
tìm hiểu
nhà xuất bản xây dựng hà nội 2011

日本語だと
ヴェトナムの歴史建築
ティム ヒエウ
建設出版社 2011。

というのでしょうが、ヴェトナム語なので読めません。しかし彼の国は長く中華帝国に朝貢していたようなところがあり、単語などにその痕跡があります。Lịch Sử は歴史、Kiến Trúcは建築であるようです。

ヴェトナムは19世紀にフランスが植民地とし、それまでの漢字を使った修辭法がアルファベットの変わりました。中国文化を習って国を治めていたフエの阮朝がアヘンとマージャンのイカレポンチになっていたことも背景にあるでしょう。それによって断絶した地域文化も大きいと思います。

同様に韓国/朝鮮では第二次大戦後に日本憎しというわけで漢字仮名交じり文がハングルに改められましたが、李朝時代にも使われていた漢字ハングル交じり文がなくなってしまったことは、大きな損失だと思います。



ドンソン文化というのは紀元前4世紀から紀元1世紀ごろだそうですが、青銅器にも建物らしい模様が見られるようです。

これに続いて水と建物の関わりについて述べているようお見受けします。



図1-12、ミンマン帝陵
lăng minh mạng
Lăng Minh Mạng

ハノイは漢字では河内の字を当てるように、紅河に沿った湖の周りに作られた街ですが、フエ市街から15km離れた小高い錦鶏山にある、1843年に完成したという、考陵も周りを水面に囲まれています。

フエ観光情報促進センター



そうした宗教建築は残りますが、普通の住宅というものはなかなか残りにくいのかもしれません。しかし本書では日常生活が水辺で行われていた記憶を辿ります。

これは高速沿いで見かけた家ですが「歩くか船か。」という暮らしがモータリゼーションと共に急速変わっていくことが考えられます。」



日本では17世紀の新田開発以来、洪水に強い村づくりが行われてきたでしょうが、このメコン川下流域では、洪水の姿も日本とは違うものがあるのでしょう。


図2-8a bình đồ
大家族というより、同族で多人数が住むような住宅に見えます。
Ao 池
Sân 中庭
bếp, nơi để nông cụ キッチン、農業用具
nah tho 客間

世代が移ると同族大家族が核家族住宅の集合に変わって行きます。グエンさんの家ばかりですが、私の在所も昔は古山・大山・鈴木しかなく、皆屋号で呼ばれていました。分家も代が重なると仲が良い家と、それほど付き合いのない家という風になって行きます。

同族の大家族住宅が核家族住宅の集合に変わって行くと、先祖祭りの部屋は集落の廟に取って代われれることが想像できます。



図2-8a nah khaki

客殿といったところでしょう。日本なら盆正月に一族が集まることが、人口の都市集中で少なくなりましたが、かってヴェトナムではそうした集まりのために客殿が作られていたようです。これも近代化とともに形を変えていくでしょう。



そして川の家というのもあるようです。江戸時代の日本でも物資輸送の主役は水路でした。船が重要な物資輸送だった時代には、今のガレージ付き住宅と同じように便利なものだったはずです。

これはまだ川の家という構えですが、これは便利だ、となると村人が通り抜けることもあったでしょう。

内陸部でもメコン川のように大きな川では、季節によって定期的に川が氾濫するという地域もあるようで、高床式住居というのは中国の鄱陽湖沿岸始め、各地に氾濫気を快適に暮らすためのものもあるのでしょう。

海辺の家、というとこんな光景が思い浮かびますが、こちらも地域の物流が船から自動車に変わると、激変して行くでしょう。日本でも沼津港に伊豆漁船が水揚げしたのは10年前までだそうです。

伊豆半島でも漁船が大型化・集約化・機械化という近代化の末に津々浦々は寂れてゆき「観光で食え。」というわけですが、高齢化・過疎化が進んでいます。 メコンデルタではお見受けしたところ、漁船とも田舟ともつかないものが、観光で食いつないでいるようです。



日本ではすでに和船を作る船大工が絶滅してしまったそうですが、今ならまだ和船の図面を持ってメコンデルタに行けば、和船を作ってくれる船大工がいるかもしれません。



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