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20171214 | ||
Lịch Sử Kiến Trúc Việt Namという書物を鏡にして日本の水辺の建物を振り返ると、何か見えてくるかもしれませんね。
日本にも古くから水辺の建物、というのはあります。上の図は大方ポケットに入っていて毎日見慣れているであろう、平等院鳳凰堂です。1053年完成だそうです。 | ||
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「私の仕事はご同好の皆様の眼の玉の代表となり御鑑賞の全権となっていい風景よい情景を写生し版画に制作しその場所に時も日も天候も同じに皆様を立たして御見せしたと同様になればそれでいいので、筆者の満足この上なしです。」
という川瀬巴水は日本人の好む名勝を絵にしています。巴水の絵の2/3ほどには水面が描かれています。 | |
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日本の水辺の建物の集大成みたいなものが1168年頃に清盛が寄進したという厳島神社の社殿でしょう。
川瀬巴水も何度も書いています。そしてそれでは足りずに、人々は観光客となって現場へ見物に出かけます。 | |
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毛越寺も同じ頃に作られています。 日本人にとって極楽浄土は水の向こうにあるものと考えられていたのではないでしょうか。 | |
池の向こうには厳島神社のような極楽浄土の金殿玉楼があったのでしょう。
つい昨日まで、日本人の普通の暮らしの中を川は流れていました。これは千葉大学医学を創設した伊東弥恵治博士が明治の末、受験勉強の合間に描いた橋場村の景観です。水面が村人の足から60cm程のところにあります。 それまでの日本人と水の付き合い方は「低水位治水」と呼ばれるものです。田んぼの中に住んでいれば600mm程度の雨なら、畳までは浸からない。数週間掛ければ水は川へ吐ける、というものです。 浜松市中心市街地の新川では、戦前までは道から1mほどのところに水面があって、赤い灯青い灯を水面に映していたそうです。 明治の御一新でこれが、降った雨はなるべく早く排水する、そのためには堤防をなるべく高くする、という「高水位治水」に改められ、日本人の伝統的な水との付き合い方は駆逐されてしまい。不透水面の多い都市部では、これまでなかったタイプの都市型洪水が起きています。
高水位治水とは何かを見るには冬のヨーロッパが解りやすいです。高緯度なので朝9時が夜明け、晩3時が日暮れという感じです。そして冬が雨季なので、冷たい雨が降り続きます。シェークスピアの怪談に見る様に、陰鬱という感じです。そして道路際が餌場なのか、草地の20cm程水が溜まった中に足を浸したまま、羊がもそもそと口を動かしているのを見ると、
という感じがします。
明治時代の日本に「治水の指導」かなんかに来たオランダ人が | ||
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福島県新地町では、川が短いので、昔から水を大切にして来ました。溜池もあちこちにありますが、屋敷の中にも様々な仕掛けがありました。 これはSさん宅。蔵の横に外流しがあり、それが小さな池につながっています。屋敷の一番下には池があって、魚を飼っていたそうです。 池は台所の水を流して、魚を飼って食べる、というのが本来形でしょうか。 | |
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これはSモータースさん宅。外流しの先が溜池になっています。
やがて石鹸が登場して、それが合成洗剤になるという間に、溜池の魚を食べるのも嫌だなあ、となって行くのでしょう。
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静岡県で川の短いところというと、小笠山周辺でしょうか。一度見物に行ってみましょう。 海辺の建物も、伝統的な建物が、随分変わっているようです。 浜松市舞阪町の「前の川」です。浜名湖全体が「都田川」として管理されているように、日本の津々浦々では、海辺の集落が河川舟運と密接な関係の上に、成り立って来たことが伺えます。 結構東アジアの水田稲作文化圏に通底するものがあるかもしれません。
浜名湖の船と田船との関係は次回でございます。今度入出の庄屋様に聞いてみよう。
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