【キネマ館に雨が降る】
その2 『菊次郎の夏』編
『RONIN』は、面食らう。アメリカ映画に「忠臣蔵」が出てくるのだ。ヤ、だねぇ。その上、デ・ニーロだろうが、ジャン・レネだとしても、映画そのものがお粗末じゃ見る影がない。『猿の惑星』は言うまでもなくリバイバル。今なら陳腐な「文明批評」も、三〇年前になら意味はあったかもしんない。が、映画の出来は、バカにはできぬ。『スター・トレック』はフォロワーなのだろうな、きっと。ひさびさのドイツ映画『バンディッド』はバンドモノ。女性囚人バンドが主人公になるのが、イカす。『江原道の力』『クワイエットファミリー』『ディナーの後に』『つぼみ』は、韓国映画だ。『ネオ・コリア映画祭』のハシゴをしたのだ。韓国映画も変わり行くものよ、スカッと抜けて、軽ぅくなった。 この六月に観た映画、だ。今回の『菊次郎の夏』と合わせると都合八本ときたもんだ。映画評論家としてなら少なすぎるし、一般人としてなら少々多い。どっちからしてやや「変種」、そんなボクの映画的断片。 |
『菊次郎の夏』を観に行ったのだ。大阪は新世界、「シネフェスタ」という映画館
に、だ。ここは、大阪ではつとに有名な「フェスティバルゲート」という屋内遊園地
の最上階にある。その「フェスティバルゲート」は、かの「東京ディズニーランド」
のその次に一千万人の入場者を記録したのだという。が、その三日後には、「フェス
ティバルゲート大赤字!」の大見出しが新聞に踊ったのだ。入場料が無料の上、警備
の人件費が高くついているそうな。大阪の寄せ場・釜が崎の目と鼻の先だからといっ
て、周りをガードマンで固めてる。そこまでやるかと憤ってたらそのざまだ、と不謹
慎にも笑ってしまった。
学校休みの土曜日のしかも昼前だと言うのにだ。エスカレーターで上がっていくフ
ロアというフロアに、家族連れもアベックも、若者の姿さえ、まばらにしか居ないの
だ。その上、早飯に入ったファーストフードのフロアでは、閑古鳥の声が、ヒィーマ、
ヒィーマ。 |
『菊次郎の夏』だ。映画館でも閑古鳥が鳴いてる。十人少々ときたもんだ。北野武
監督作品は、評判の割には客が入らない。あれだけの事前報道があったというのにだ。
「カンヌ国際映画祭でグランプリ受賞か!?」という報道の喧しかったことといったら、
テレビは勿論、週刊誌も新聞までも。それなのに、この人数。どうする?
そもそも北野監督の映画は、醸し出すその雰囲気が勝負なのだ。ストーリー性は二
の次で、濃厚でクールな雰囲気を漂わす。それは形になるものではない。作家性の強
さが興業力を上回ってしまうのだ。だから、人は入らぬ。だけど、外国では受ける。
そのあたりが世界のオヅと共通しているのかもしれない。
『菊次郎の夏』もそのデンに漏れぬ。ストーリーはいたってシンプル。「母を尋ね
て三千里」なのだ。ロードムーヴィの典型。やくざかかった男と少し暗めの少年の珍
道中。縁で結ばれた二人が、行く先々で人々に出逢い、ついには心を通わせる。が、
少年の成長譚ではない。その逆、大のオトナが少年に返っちまう物語。そこがタケシ
風味であるのだ。
毒舌は健在である。いたいけな少年をいたぶる前半は見応えがある。が、中盤あた
りから失速する。繋いでいくギャグというギャグが見事なまでにはずれる。まったく
笑えないのだ。で、ただ歩く場面は未だ有効である。ひたすらに風景を歩く登場人物
には、そこはかとなく雰囲気が漂っているではないか。その場の空気が飄々と伝わっ
てくるのだ。
総じて『菊次郎の夏』は失敗作に他ならない。が、子どもをダシにして憚らぬ、そ
の感覚は尋常ではない。しかも邦画界でコンスタントに映画を創れる数少ない監督の
一人である北野武を、ボクは追うのだろう。 |
text by あがった |
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