まずテープで手に入れたこの作品の、B面ばかりをぼくは聴いていた。
それはタイトル曲「有没有這種説法」で始まる。
人間の耳が聴き取ることのできる限界に挑んだようなうねる重低音とパーカッション。寡黙な音による、寡黙な構成。途中、斬り込んでくる歪んだギターは、まるで前時代の蒸気機関。浮遊感と地に足ついた躍動感との融合。銀河鉄道の出立やかくあらん。
そんな曲に、台湾ポップスの右も左もわからずにいたぼくは魅了されたのだった。今だって右も左もわかっちゃいない。が、奥行きだけはよくわかった。その深さだけは。この曲で。この齊豫で。
「有没有這種説法」で波紋さえ消えてしまった水面がにわかに盛り上がり、なにものかが空に向かって立ち昇っていくかのような光景を出現させるのが続く「冷冷的心」だ。この流れ、この展開、見事という他なかった。
「なかった」と過去形で書くのには理由がある。
テープでは「有没有這種説法」の最後の音が消えたその刹那、絶妙の間をおいて立ち上がった「冷冷的心」のイントロ、それがCDでは4秒もの空白の後におっとり始まるのだ。これは拍子抜けである。緊張の糸がはらりと切れてしまうでないか。
というような不満はしかし、ぼくだけのものかもしれない。10年前ならいざ知らず、今この作品をテープで入手することはほぼ不可能だからだ。それを言えば、CDでだって怪しいものだが。
ともあれ、「有没有這種説法」で始まり「十二個夜晩」で終るB面に、ぼくは一通りでない感銘を受けたのだった。それは台湾ポップスに対する敬意をも同時にぼくに植えつけた。齊豫、そしてこの作品に大きく関わった彼女の弟、齊秦が後に台湾ポップスの牽引者として名を馳せはじめたとき、ぼくは思ったものだった。
さもありなん、と。 |