70年代半ばのある雑誌の記事が、今も強く印象に残っている。当時もてはやされたいくつかのプログレ・バンドが比較されるなかで、エマーソン・レイク&パーマーの音は一瞬たりともじっとせず躍動感を溢れさせているようでいながら、実は音数の少ないピンク・フロイドの方がずっと生きた音を出している、というような一文がそこにはあった。
フロイドの『おせっかい』、とりわけ「エコーズ」に戦慄を覚えていたぼくにとってそれはひどく納得できるものだった。テレビドラマの手術のシーンで脳波かなにかが描く波形、あれにに音色を与えただけのような印象を、 ぼくはELPに感じていたのだ。
浮き輪にゆだねた体で波間をいく感覚にも似たフロイドのあの音空間。体は浮き、魂は抜け出すようでいて、地球からも宇宙からもけっして切り離されることのない生の感触を、それは確かに伝えていた。そんな音のなかで、ぼくは考える胎児だった。そう、あの境地はまさしく胎内だったのだ。
というわけで、姫神である。
「奥の細道」は国語の教科書で習った以上のことは知らなかった。
「遠野物語」はタイトルしか知らなかった。
それでも姫神と出会うことはできるのである。
「春風祭」。その1曲で、姫神はぼくを虜にした。というか、その旋律で。忘れていたなにか、置き去りにしてきたなにか、知らず封印されてきたなにか、そんな記憶に揺さぶりをかけてくるかのようなあの旋律で。
透明なベールであっても幾重にも重なれば奥は窺い知れない。そんなベールの1枚1枚を、この曲はめくっていってくれるかのようだった。ほら、こんな光景、あなたにも覚えがあるでしょう。そんな囁きとともに。そしてそれは、まつろわぬ民だけが見た光景ではない。蝦夷の末裔だけの記憶ではけっしてないのだ。
呼び覚まされた記憶は、時空をも一気に越える。それが2曲め「水光る」の3分24秒経過時だ。ベースが鳴り出したまさにそのとき、ぼくは「そこ」に立っている。風の匂いも光の色も、時間の経過もなにもかも、「ここ」とはちがってみえる「そこ」に。
そこでぼくは伝わったばかりの稲作に従事していたりする。西国には見られない駿馬を引いてのんびり歩いていたりもする。やがて戦いに駆り出され、花畑に屍を晒したりもする。そうやって何度も生き、何度も死ぬ。生まれ変わり死に変わ、そこからここへ来たったことを知る。姫神奏でる調べとともに。
冒頭のフロイドとELPの話がどう姫神と関わってくるかについて、 謎のままこの文章は唐突に終る。 |