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ITJE TRISUNAWATI『ADUH-ADUH CINTA』

■小鳳鳳『祝福』 皇星全音 HK 9319

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90年にリリースされていたらしい『新歌舊曲會知音』、これを92年の末になってようやく聴いたのが、小鳳鳳、後の童欣とのそもそもの出会いだった。94年に19歳という記録があるから、ぼくがまずドギモを抜かれたのは15歳の少女の歌唱だったわけだ。15歳の少女の美しさに息を飲むことはあったかもしれないが、歌そのものにビビビときたことなど初めてだった。

そんな小鳳鳳の、これは93年作品。たぶん(笑)。
思えばこの頃、彼女の作品は新旧を問わず毎月のように日本に渡ってきていたような気がする。それらのほとんどすべてを、ぼくは買い漁ったものだった。しかしながら、一時期に集中した買い物は、個々の作品の印象を薄めてしまう。まずタイトルを覚えない。ジャケットもうろ覚え。どんな曲がどのアルバムに入っていたかも定かでない。6年が過ぎた今となっては、悲しいことにそういうことになっている。いくつかの作品については確かに。

『祝福』がそのような作品群のなかにあって今に至るも強い印象を残しているのは、なんといってもタイトル曲の出来のよさによる。これは強い。しかも、そのタイトルは、これ以上ないというぐらいに覚えやすいときている。すごく強い。

たとえばここに「丑丑思想枝」という曲がある。「うしうししそうえだ」とぼくは心のなかで読みはするが、声にすることはちょっとできない。「月娘光光照故郷」となるとすべてを読むことはもはや放棄され、単に「つきむすめ」ということになってしまう。そこへいくとこのタイトル曲である「祝福」はどうだ。誰に対しても恥じることなく「しゅくふく」と胸を張って言えるではないか。聞く方にだって通じる。「うしうししそうえだ」ではなんのことかわからない者にも、「しゅくふく」はどう聞いたって「祝福」だろう。日本人にとって最強ともいえるこのタイトル、忘れられるわけがないのである。

さらにこの作品の印象を強いものにしているのが、ジャケ写である。数ある小鳳鳳作品のなかで、ここでの彼女が最も愛らしく写っているとぼくは思っている。それは表よりも裏、裏よりも歌詞カードに顕著だ。いかにも17、18の娘らしい得難い可憐さではないか。これは覚える。

で、肝心の曲である。もちろん、白眉はタイトル曲の「祝福」だ。オープニング曲でもある。イントロ、タイのモーラムを思わせるチャルメラばりの音色に導かれて出てくるリフ、これが実は印象深さの秘密なのだった。このメロ、このノリ、このリズム、ほとんどこれがこの曲の主題であるかのようだ。つまり、まずこのリフが思いつかれたところから紡がれた曲ででもあるかの如く。それほどこのイントロは秀逸だ。で、おもむろに出てくる声がこれなのだ。

これが18歳の声なのだ。これが18歳の節回しなのだ。この張り、この腰、この押し出し。にわかには信じがたいが、これが小鳳鳳の歌なのだ。はかなげだのセンチだの繊細だの、この年頃の歌い手についてまわりがちな形容とはまったく無縁ではないか。なんとなれば、それらの形容、実は不安定さと下手っぴいさの裏返しでしかないのだから。ハマりどころにきちんとハマッた上手さを知るがいい。恐ろしいまでに増幅された力を知るがいい。10の力量を持つ歌い手が10の曲に恵まれたときの総得点は20ではなく、どうやら100らしいということが、 この「祝福」でわかるのであった。

軽く3桁を越えそうな彼女の持ち歌のなかでも十指に入る出来であろうこの曲を、誰が忘れてしまえるものか。ぼくはけっして忘れない。墓場まで持っていく。きっとだ。
(99/08/29) text by まるこめAboutMe!
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[聴かずに死ねるか] [N E X T]