BAR
オリガ『Aria』

▲オリガ『Aria』 Sure 016
BAR
オリガはロシアから来た妖精。
札幌にホームステイ中、ふとしたことから人前で歌う機会を得、薦められるままに自主制作盤からメジャーデビューという道を辿った。日本人スタッフに囲まれ、ロシア語で歌い続ける。
最新作に『リラからの風』があるが、この『Aria』はその前に出たミニ・アルバム。プロデューサーは梁邦彦。

タイトル曲「aria」は無機質なピアノと一転叙情的なチェロに導かれて幕を開ける。ヴォーカルの質感がそれまでの作品とちがうのは録音処理のせいばかりではないだろう。これまでにない深みがそこにある。抑制と開放を、彼女はすっかり会得してしまったようだ。抑制された声こそはいざないだ。次に待つものへの期待と高鳴りを煽るのだ。それはレゲエのリズムを刻みながらやってくる。
ロシア語の響きは依然ぼくにとってはまぎれもない異国を感じさせ、ちょっとした発音が妙に新鮮だ。ときに囁き、ときに裏返り、そして常にまとわりつく生気にあふれた彼女の声は、それが母国語であるときに最も魔力を発揮するのだろうと思う。
が、言語に頼らずとも魔力はもちろん備わっている。それが「ロシアの森」におけるコーラスだ。この浮遊感覚。この柔かさ。彼女はしなやかに受け流す。あるいはたおやかに受け入れる。「なにを?」はない。あるのは、ただ受け入れ、ただ受け流すオリガの客体だ。もちろん彼女の人となりを語っているのではない。この旋律とコーラスから受けるぼくの感覚の話だ。
呪文が旋律を伴なってはならないという法はない。オリガはこうして呪文のことばを吐き出し、ぼくを絡めとる。そして、絡めとられることの快感をぼくは知っている。
「ロシアの森」には確かに妖精が棲んでいるようだ。

さらに「川よ、私の川よ」を聴け。ロシア民謡をアカペラで歌うオリガに、ぼくはどこか遠くへ連れ去られてしまっているではないか。そこはどこか。夜の自室では当然ない。移動中の車内でもない。そこではないどこか。ここではないどこか。
ぼくはいつもどこかへ連れ去られたいと望んでいる。だが、目に見える世界は頑強だ。なかなかどうして、ぼくの足はこれでけっこう地についている。それをオリガは声の魔力でひきはがしにかかる。足が浮く。体が軽い。心が飛ぶ。視野が広がる。
覗きこんだ深き湖から巻き起った声は太い水柱と化し、天にも届く勢いでほとばしる。なのに、水面にはなんの波紋も飛沫もない。水しぶきひとつたてず声は水中から発し、やがて天から降り注ぐ。それがオリガの声なのだとぼくは知る。

そして「リリカ」。ファースト・アルバムのオープニングを飾った曲の再演だ。なぜ再演する必要があったのか。名曲だからか。そうではない。それこそが、オリガが伝えたいただひとつのことだからだ。さらに、自らの成長を見せつけるためなのだ。陰影に富む語り口に、ぼくはただ身を任せるだけだ。

「この白い鍵盤をみてごらん
 そっと触れたら判るでしょう
 それはあたらしい世界 まるで河のように流れてゆく
 それは私が音楽と呼んでいるもの
 さあ、一緒に泳いでみない?

 あなたに贈るわ

 あなたに音楽を贈るわ」
     「リリカ」詞 :Ольга Яковлева
       訳詞:高橋由紀子/外間隆史

これがこの類い稀なる歌い手の言いたいことでなくてなんだ。手を変え品を変え、彼女はこのことを訴え続けるのだろう。
その「音楽を贈られる」ことの感動を、ぼくはファースト・アルバムではなくこの『Aria』での再演で味わった。なぜか。それに伴なうだけのアレンジがここでは施されているからだ。音楽の持つ魅力、あるいは魔力を、オリガの言葉だけではなく音でも聴かせてみせようという心意気があるからだ。旋律の妙、リズムの妙、音色の妙、なんと豊かな表現だろう。この音は生きている。音も言葉も、ぼくに音楽を贈ろうと言う。一体となったそのメッセージに気づいたとき、ぼくはほとんど泣きそうなぐらいに感動した。ありがとう。ぼくは確かに受け取ったよ。素敵な音楽をありがとう。

こうして、ファーストでは伝えられることなく終った感銘を、ぼくは『Aria』から受けた。「リリカ」が名曲、名演としてぼくのなかで機能するのは実にこのときからだ。それは同時に、オリガという若い歌い手がぼくのなかで俄然大きな存在になっていった日でもある。
(96/11/18) text by まるこめAboutMe!
BAR

[聴かずに死ねるか] [N E X T]