(1)【教育記事から教育を考える】2008年6月13日(金)作者:中土井鉄信 VOL.287
『今日のテーマ』秋葉原無差別殺人事件に思う。
【記事】「重大な事件を犯し申し訳ない」 加藤容疑者の両親謝罪
朝日新聞(2008年6/11)より以下抜粋
○ 東京・秋葉原の無差別殺傷事件で、殺人未遂の疑いで逮捕、送検された加藤智大容疑者(25)の両親が10日夜、青森市内の自宅前で報道陣を前に謝罪した。(中略)
○ 加藤容疑者の両親は近隣でも教育熱心と知られ、小学校低学年のころから加藤容疑者にそろばん塾などの習い事をさせていたという。
○ 子どもが加藤容疑者と小中学校で一緒だった近所の女性は、加藤容疑者が中学に進学したころ、反抗期を迎えた息子たちについて母親から何度か相談を持ちかけられた。互いに子どものことを相談し合うことはなかったため、記憶に残っていた。
○ 友人らによると、加藤容疑者は県立の進学校の高校に合格したものの、成績は伸び悩み、一方で自動車に興味を持ち始めたという。進路についても、4年制大学への進学を望んでいた両親の想いに従わず、自動車整備関係の短大に進学したという。
*私(中土井)からのコメント
◇ まず、犠牲者の皆さんのご冥福をお祈り申し上げます。またその関係者の方に、お悔やみ申し上げます。こんな事件が、二度と起こらないような社会にしなければなりません。そのために、この事件で考えたこと思ったことを教育の側面から書きたいと思います。
◇下記のものは、6月4日に加藤本人が、書き込んだものだ。
(読売新聞からの抜粋)
5時51分 親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから勉強は完璧
5時52分 親が周りに自分の息子を自慢したいから完璧に仕上げたわけだ
5時53分 中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられた
5時55分 中学では小学校の「貯金」だけでトップを取り続けた 中学から始まった英語が極端に悪かったけど、他の科目で十分カバーできてたし
5時57分 当然、県内トップの進学校に入って、あとはずっとビリ。
高校出てから8年、負けっ放しの人生
5時58分 自分で頑張った奴に勝てるわけない
◇ この書き込みを見て、私は、この事件は、親に対する復讐なのではないかと思った。それほど、この書き込みには、子どもと親の断絶が感じられるし、子どもの親に対する憎しみが、感じられる。
◇ 加藤容疑者の両親は、教育熱心だったのだろう。子どものために必死に関与して、勉強を見ていたようだ。この書き込みを見ると「親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り」と親の勉強に対する強い関与と子ども時代に勉強等で注目を受けたことが書いてある。
◇ 多分、その頃の加藤本人は、そんな自分と親の関係をそれほど気にしていなかったのではないだろうか。むしろ歓迎していたのではないだろうか。しかし、中学生になってからは、その親の勉強に対する強い関与だけでは、小学校時代のようには、行かなくなっていったのだ。そして、自慢の息子の地位から段々外されていったのだろう。
◇ だから、彼は、「中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられた」と書いたのだ。この頃から、徐々に操り人形としての自分から脱却しようとしたのではないだろうか。多分、高校進学でもきっと彼には、葛藤があったのだろう。このままでは、親の期待には応えられないと。
◇ しかし、親の期待と自分のプライドで、県内トップ高校へ進学したのだが、高校生になってからは、学力競争についていけずに、劣等感が植え付けられていったのかもしれない。そして、大学進学では、親から決別することになる。もう、親の言うことを聞く必要がないからだ。落ちこぼれの自分に親は必要ないと思ったのだろう。優越感や劣等感の源泉も実は親の評価だったのかもしれない。
◇ 今回の書き込みは、その当時の感情ではなく、大人になってから子ども時代を振り返った時点で考えていることだ。あのころ、親の操り人形になっていなかったら、こうなっていなかったという思いが感じられる。親の言うなりになって、したくもない勉強をやらされていた自分が、勉強を「自分で頑張った奴に勝てるわけない」と振り返るのだ。
◇ この事件は、人生に負け続けた人間が、その人生の最後で、誰かに注目されたいという思いが、起こさせたものかもしれないし、最後の彼の自己顕示欲が起こしたものかもしれないが、彼のこういう人生を決定付けた両親に対する復讐だと思えないこともない。親にしてみれば、良かれと思って、教育に強く関与したのだ。こんな結末では、救われないだろうし、子どもである加藤容疑者自身も救われるものではない。
◇ 紙面の都合で、結論を急ぐが、勉強は子どもが自律するための、道具だ。勉強ができるようになることが目的ではない。勉強は、子ども時代に目の前にある課題なのだ。その目の前にある課題に誠実に取り組むことを子どもに要求するだけだ。勉強の結果を評価するために、勉強をさせることではない。勉強を競争の道具にしてはいけない理由もここにあるのだ。自律を促すものが、勉強以外にあるのならば、それでもいいのだ。その程度のものが勉強だ。そう考えて見ることも重要なことだ。
◇ もう一度確認して終わりたい。学校で優秀な成績をとることが勉強する目的ではない。勉強ができるできないを親が評価して、優越感や劣等感の源泉にしてはいけない。そのために、勉強をどう考えるかを私たちは、もう一度考えてみることだ。大人になってから、勉強することができるようにしてあげればよいのだ。その程度のものなのだ。勉強なんて。
☆★☆★ コメント ☆★☆★
週刊誌でも一斉に加藤家の教育に対しての批判が始まっている。
私は、これまで、親に捨てられてきた子を何人も見てきた。食事も作ってもらえない子もいた。学校に1度も来ない親もいた。それに比べたら、加藤家は立派なものである。
事件の原因を分析したい気持もわかるし、必要なことかもしれないが、成人した人がおこした事件の主原因を家庭に求めるのはいかがなものか。法律上でも矛盾している。ましてや成人を18歳に引き下げようと議論している時に…。
よく女優の息子が覚醒剤を使ったとして、マスコミの前で親が謝罪会見を開いているが、あれも疑問である。
ただ、中土井氏の今回の後半のコメントは納得できる。その通りだと思う。
(2)教育情報 Magazine/ある小学校教師の独り言
[1]授業実践フォーラム 参加記録 ― その3 ―
■ 算数で育てる「表現力」とは何か 〜「活用型学力」につながる表現活動のコツ〜
筑波大学附属小学校教諭 田中博史 先生
1 表現力が育つ授業
○友達の話を聞き取り,再現する力を育てること。
理解するということ→自分で聞き取った情報を自分なりに再現できること
→授業の中で小刻みに再現活動を取り入れること
○自分の考えたことを説明する力
一通りではなく複数の説明力を持たないとなかなか伝わらない。
→なかなか伝わらないことを体験させたときに初めて説明力が育つ。
○抽象的な算数の表現ツールを使いこなす土台として,子どものイメージ力育成
説明のための道具として図や式,グラフ,操作などを使いこなすこと。
→抽象表現の方法を早い時期から使わせるのではなく,自分の言葉や絵な ど,具体化の活動を通してから道具を使わせること。
○式,図,グラフ,操作など算数の抽象表現方法と自分の言葉による具体的な表現力をリンクさせ ていく力を育てること
式を読んだり,図を読んだり,またその逆の活動を取り入れるなどして,各表現方法の相互の 関係を意識させること。
○着目したい「語りはじめの言葉」
・「もしも・・・・」
場面を仮定したり,条件を変えたりして吟味していくときに使う言葉(一般化,統合化につ ながる言葉)
・「たとえば・・・・」
具体的な例を挙げて自分のわかり方を表現しようとするときに使う言葉
・「だったら・・・・」
活動の先を自ら想起し,発展的に動こうとするときの言葉
・「だって,でも・・・・」
反例をあげて反証しようとするときの言葉
子どもたちはつたない言葉を用いた表現を繰り返すことで新しい内容を自分の理解できるもの に置き換えていく。「わかる」とは,自分の中で具体的に何か別の説明に置き換えることができる こと。
2 新指導要領のキーワードにみる新たな課題
○「活用型学力」
・覚えるのではなく「使う」ことが前提。繰り返し使いながら育てる。
○「スパイラル学習」
・単に繰り返し学習を行うことではない。…計算力はあるが応力がないという現実
・指導者には,徐々に育てていくというゆったりとした構えが必要
・基礎が定着していないと応用問題にすすめないという教師の思い込み→その場でわからなくて も,その先の学習をしながら振り返った時にわかってくるという習得の仕方もある。
・学習方法の順序性にも問い直しを求めているキーワード
・スパイラルに物事を学んでいれば,その繰り返しの学習の中で,ものの見方が多様な視点で広 がる。
☆★☆★ コメント ☆★☆★
文字記録だけ読んでいてもなるほどとうなずけるお話だ。ぜひ聞いてみたかった。