(1)【教育記事から教育を考える】 2008年10月10日(金)
作者:中土井鉄信 VOL.304
【記事】大阪府 市町村別成績公開へ 読売新聞(2008年10/8)より以下抜粋
■学力テスト 知事が方針
○大阪府の橋下徹知事は、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の市町村別成績を公開する方針を固めた。
○府への情報公開請求に対し、府情報公開条例に基づいて判断した。府は市町村名を示す考え。すべて公表されるのは都道府県で初めてとなる。「地域の序列化につながる」と公開に反対する文部科学省や、すでに市町村として非公開を決めた府内自治体の教委などの反発が起きそうだ。
○市町村別の科目別正答率のほか、成績と補習授業や早寝・早起きなどの関連の分析結果を公表する準備を進めている。
○市町村別成績について、文科省は各市町村教委が自ら公表することは禁じていないが、都道府県教委には通達で非公表を要請しており、府教委は9月16日、情報公開請求に対し、非公開を決定。橋下知事は翌17日、府教委から市町村別成績のデータ提供を受け、検討していた。橋下知事はこれまで、「結果が示されないから市町村教委は甘えている」として公表を主張。府内の一部自治体はすでに自主公表したが、「点数だけにこだわるのは教育の本質を忘れている」とする吹田市などが公表を見送っている。(以下略)
*私からのコメント
◇ 全国学力調査の結果公表については、賛否両論あるが、今回、大阪府で公表に踏み切る。まずは、テストは、どういう目的で行われたのだろうか。そして、そのテスト結果をどういう風に活用するのだろうか。この点を明確にしない限り、テスト結果の公表が、どういう意味を持つのかは、人それぞれの推測になるはずだ。そこで、私の推測。
◇ 学校選択制が、普及したこの時代に、テスト結果を公表するということは、学校の序列化を生み、テストの出来不出来を固定化する可能性を孕んでいる。それは、テスト結果の良い地域(多分、その地域のどの学校かも特定できるだろう)に生徒が集まるからだ。
◇ 全国学力調査は序列化を助長するために実施したわけではないだろうから、結果公表よりも、行政単位の弱点なり、成果なりをその教育委員会が把握し、次年度の教育方針の指針にすればよいはずだ。
◇ 子どもや保護者の学力忠誠競争を煽ることはない。このことにかこつけて、知事ともあろうものが、物議をかもして、関心を引くことはない。テスト結果の公表よりも、施策と効果の検証と結果分析こそをしっかり行うことが重要だと思う。保護者は、こういう結果に一喜一憂するものだ。何も保護者を惑わすことはないように思う。
☆★☆★ コメント ☆★☆★
もっともなコメントである。
そもそも、問題数の多いテストで、平均点が50点ほどの正規分布のものなら、平均点を出す意義は認められる。今回のB問題のような少数で採点基準が曖昧な問題、A問題のような高い正答率のものでは平均点の客観性は薄れる。たとえば、外国籍の生徒が1割もいるような学校ではどうなる?国語や数学のB問題は点がほとんど取れない。そこで平均を出して比較して意味があるのか。数字にすると一人歩きし、本質を見失う。
フィンランドやキューバでは、競争原理を排除して教育の質が向上した事実をもう一度噛みしめたい。
(2)【日本史斜め読み】 vol.158 地域性と「日本の歴史」@北陸地方 (その3)
お怒りと誤解を覚悟で書くならば、「北陸地方は『日本史』の中核になりにくい地域」といえます。
●継体天皇など、初期の「朝廷」のキーパーソンが登場した地域である。
●「渤海」との関係を解くことで、中国・朝鮮半島の諸王朝以外の古代日本社会との外交関係に焦点をあてられる のではないか。
●木曾義仲(源義仲)が平家打倒を目指して進軍したのは北陸路ではないか。そもそも、義仲にとって最も有名な戦いともいえる「倶利伽羅峠の戦い」は北陸地方ではないか。
●「勧進帳」の舞台である。
●南北朝の争いで南朝方の最有力武将の一人、新田義貞は北陸地方で討ち死にしている。南北朝の戦いで新田氏を中心として北陸地方で北朝・足利氏と抗争した拠点ではないか。
●「加賀の国一揆」(一向一揆)に代表されるように、織田信長による本願寺制圧までは「戦国時代最大の民衆勢力」だったのではないか。「民衆の歴史」の観点から日本史を眺めるならば一向一揆の勢力拡大の契機となった北陸地方の風土・政治的背景を分析することは無視できない。
●「加賀百万石」という日本有数の穀倉地である。
また、弊誌の「範囲外」になりますが・・・
●幕末に登場するキーパソンの一人、松平春嶽(しゅんがく、または松平慶永、よしなが)の領国は北陸地方である。
●「安田財閥」(のちに、旧・安田生命、旧・安田火災、旧・富士銀行ほか)を一代で築いた安田善次郎の出身地は富山県である。日比谷公会堂や東大の安田講堂を「寄付」した業績は特筆すべきである。
●「米騒動」の発火点は「北陸地方」であり、当時の内閣・寺内内閣崩壊の大きな原因になったのではないか。寺内内閣をうけた原内閣が日本で最初の「本格的な政党内閣」(註)として小学生でも知っている。
(註)「最初の政党内閣」を形式的に解釈すれば、大隈・板垣による「隈板内閣(わいはんないかく)」がこれに該当します。
などなど、数々の反論が思い浮かびます。というより、前述のいくつかは弊誌誌面上でご紹介した
内容でもありますが。
さらに、
●「応仁の乱」発生の背景には、将軍継承争いがある。8代将軍・足利義政は当初、弟の足利義視(よしみ)を 後継指名したが、応仁の乱をへて足利義政と日野富子の間に生まれた足利義尚(よしひさ)が将軍職に就任した。しかし、義尚が病死したために義視の子・足利義稙(註)が将軍に就任。
義稙は管領・細川勝元の子、政元による政変によって将軍職を追われたが、足利義稙が一時身を寄せたのは越中(現・富山県)である。
(註)足利義稙は「足利義材(よしき)」など複数回の改名を行っていますが、ここでは一般的にもっともよく使われる「足利義稙」の名を用いています。なお、足利義稙はのちに西国一の守護大名・大内氏(大内義興)の後ろ盾をえて、将軍職に復位します。
などと書けば、「足利義稙と北陸地方」というネタだけで弊誌を数回発行できるかもしれません(筆者にその能力はありませんが・・・)。
前置きだけで前半部分を使ってしまいましたが、以下、本題です。
本文冒頭で「『北陸地方は「日本史」の中核になりにくい地域』といえます。」と書いた筆者が墓穴を掘った形になりますが(苦笑)、ここであげた日本史の史実をながめてみても、「○○の舞台」といった歴史のヒトコマにはなりうる要素は北陸地方にたくさんあります。
「前半部分」で列挙したように、「北陸地方」をテーマにした歴史的な挿話は枚挙にいとまがありません。
「日本の歴史に興味をもつ」ことを最優先にするならば、「北陸地方」は(他の地域の例にもれず)多くの郷土史に恵まれています。
ただ、「北陸地方を中心として『日本史』をある程度の体系性を備えた説明ができるか」と問われれば、現時点での筆者では「否」と答えるよりほかありません。
たとえば、古代(奈良以前・平安)には京都・奈良を中心とした近畿地方、中世(鎌倉・室町)には鎌倉・京都、近世(江戸)には江戸・大坂・京都といったように、時代ごとに変遷するものの「核」となる地域が出現します。
「地方の歴史」を描きやすくなるのは、応仁の乱により朝廷・幕府の本拠地である京都が荒廃し、文化の担い手である公家が地方に「避難」し、諸国では足利幕府の凋落をみて「群雄割拠」の状態になったことがきっかけです。
弊誌で個々の地域を取り上げた際に「応仁の乱から戦国時代」にかけての時代に言及することが多いのも、上述した背景があります。
「朝廷・幕府との関係なく、ある程度の一貫性をもった『日本の歴史』を編纂することができるかどうか」というテーマに向かった場合、京都・東京などを中心にすえられた記述を通して「日本史」を学んだ筆者には大きなカベとなってたちはだかります。
「日本の歴史」という文脈の中で「世界の中の日本」をとらえなおした場合にも、日本国外の勢力等にとっては「日本側の窓口」を求めることになります。
そうなると、今日の概念でいえば「日本政府」の代替ともいうべき「朝廷」「幕府」の存在を無視することができないのです。
もっとも、たとえば「各地の生活習慣・風土の変遷」は既存の「日本史」では描ききれていない(多くが未開拓の研究分野)になっているともいえるでしょう。
☆★☆ コメント ☆★☆
おもしろい。一つの地域を、こうした時間軸の目で見ると、また違ったものが見えてくる。「北陸地方」は、東日本と西日本の境にあり、大陸から見ると対岸のほぼ中央にある。近畿・関東史観ではない見方ができそうな期待を抱かせる。
●ピカソが作成した版画は何点?
まぐまぐのたかゆきです。今月4日より、東京の国立新美術館とサントリー美術館で、「巨匠ピカソ」展が開催されています。今回は、両館あわせて約230点ならぶ、国内最大級のピカソ展なんだとか。僕は西洋画が好きで、いろんな絵画展を観に行ってるのですが、どの絵画展もたいてい70〜80点の展示です。それに比べると、230点は相当見ごたえがありそう…。今週末観に行くので、楽しみです!
ちなみにピカソは、およそ13,500点の油絵と素描を描いたそう。「最も多作な画家である」とギネスブックに載るくらい、多くの作品を残しました。中でも、もっとも多く作成したのが版画だそうですが…ピカソが生涯で作成した版画はいくつあると思います?答えは一番下です!
■ピカソが作成した版画は何点?
★答え⇒ 100,000点
正解は10万点でした!このほかにも、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作したと言われています。油絵と素描の13,500点をあわせると、147,800点!すごい…という言葉しか出てきません。僕は自分のブログを更新するのでさえ、1日1記事がやっと。1年続けても365記事にしかなりません。ピカソは、いったい1日何個ペースで制作していたのでしょうか…。
☆★☆ コメント ☆★☆
すごすぎて、本当か?と疑ってしまうほどの数字である。また調べてみたいテーマができてしまった。
(4)ごまめの歯ぎしり メールマガジン版 衆議院議員河野太郎の国会日記
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日本人三人がノーベル賞受賞と日本のマスコミは報道している。
が、たとえばニューヨークタイムズではアメリカ人と二人の日本人がノーベル物理学賞を受賞と報道している。
ノーベル賞委員会の公式ホームページでも、二人の日本人とアメリカ人になっている。
南部陽一郎シカゴ大名誉教授は、日本生まれの方だが、アメリカ国籍を取得されている。
国籍法上、自分の意思で外国籍をとれば、日本国籍は自動喪失する。だから国籍で言えば、今回のノーベル物理学賞は、日本人二人とアメリカ人一人が受賞したことになる。
問題は、南部さんのことを離れて、一般論で議論すると、もともと日本国籍を持っていた人が、ノーベル賞を受賞して、その際、ノーベル賞の公式ホームページでも明確に外国籍であることが明記されていたり、もともと日本国籍を持っていた人が、オリンピックに外国の代表として出場し、金メダルを取り、外国の国旗を揚げたりした場合、日本政府はどうするのか、ということだ。
国籍法上は、自分の意思で外国籍をとった場合は日本国籍は自動的に喪失するわけだから、ほぼ間違いなくそれに該当するような場合、日本政府はそのご本人に確認をとるのだろうか。
国籍法の手続きによれば、中央官庁が職務上、ある人が国籍を喪失していることを知れば、その本籍地に通告することになる。
が、オリンピックに外国代表で出場をしていたり、ノーベル賞を受賞して、その公式ホームページに外国籍であることが明記されていたとしても、つまり、公に報道され、日本国民誰もが知り得る情報になっていたとしても、政府の各省庁は、それは職務上知り得た情報とはいえないので、通告しないのだそうだ。
つまり、国籍法上、自分の意思で外国籍を取得すると日本国籍を自動喪失することになっているが、現実的には、そうならない。法的には喪失しているのだろうが、戸籍が残っている以上、たとえばパスポートを申請すると交付されるのだ。
父母が国際結婚した場合のように、子供が二重国籍になり、本来二十二歳で国籍を選択しなければならないにもかかわらず、現実には国籍選択する人がほとんどいないと同じように、外国籍を自分の意思で取得してもあたかも日本国籍を失っていないかのように振る舞えることになる。
国籍法は、国籍に関するルールを決めているにもかかわらず、現実には正直者が馬鹿を見ることになっている。自己の意思で外国籍を取得したら日本国籍は自動喪失するという規定も形骸化している。
きちんと法を運用するか、あるいは二重国籍を認めるように国籍法を改正するか、政治として結論を出す必要がある。
☆★☆ コメント ☆★☆
これもおもしろい。南部氏が日本人か、アメリカ人か論争の裏には、私の知らない問題があったことを知らされた。