1日目                                 

7月23日(土)

出発
 8時にホテルロビー集合
 今回のメンバーは質が高く、時間に遅れない。さすがに1,844名の中から選ばれただけある。この企画に参加しての最大の収穫は、「出会い」だと思う。
 そもそも観光もないツアーに、自己資金8万円を出そうと思うこと自体すごいことだ。そこに1,800人以上が申し込むことが驚異だが、こうして集まった人は、「なるほど、選ばれるはずだ・・・」と言わせる人ばかり。みな海外経験が豊富のようだ。








ブラームスのクラリネット五重奏曲 
 10時35分発北京行きANA NH905便。予定通りの出発。
 イヤホーンを付けチャンネルを選択すると、個人的にもっとも好きな室内楽曲、ブラームスのクラリネット五重奏曲。ソロはあのサビーネ・マイヤー。アルバン・ベルク四重奏団の演奏だ。華麗だが、何か緊張感がない。なぜか?
 付点が甘いのだ。
 ブラームスは付点の音符で緊張感を高めるのがお得意だが、その付点が甘いために、(おそらくは楽譜に忠実なあまりに甘く聞こえる?)やや物足りない。演奏とは、もっと言えば表現とはそういうものだ。
 芸術では真は、必ずしも真ではない。音楽などその典型で、楽譜通りが正しいのなら、機械に任せればよい。しかし、それでは人は感動しない。
 楽譜という記号を見た演奏者が、それぞれの感性で解釈をして、音にして表す。だからおもしろいのだ。カラヤンはこう表す。ショルティはこうする。クライバーはこうする。みんな違うからおもしろいのだ。今回のODA視察も、それぞれの案件に対して、それぞれが考えたことを書く。15名の強者、そう、それぞれがユニークな人生があり、考え方が違う人たちがどう見て、どう考えたか。ODAの現場という楽譜に対して、どう考えて、どう表現するか、個人的にはとても楽しみである。
 もちろん、外務省主催という中での良識ある個人内規制が働くかもしれないが、それも人生観の範囲内。
 とにかく、自分の目で見て、自分の耳で確かめた事実を、余分な(実は重要なのだが)情報を排除して、感性でとらえてみたい。
 ブラームスの演奏がみんな違ってみんないいように、今回参加した15名の優秀なミュージシャンがどう演奏するか、皆さんご期待あれ!

アラン・ドロン
 成田空港は多くの人でにぎわっていた。なかには、複数の学校の中・高校生を見かけた。修学旅行なのか、学校を代表しての派遣なのかはわからないが、彼ら、彼女らに、若くして外国を見聞できる幸せをぜひとも理解してほしいものだ。
 私の住んでいる愛知県江南市では、子ども時代、外国人を見るということは、今で言うとタレントと町で出会うような感覚だった。唯一、カトリック教会の家族がいたのみで、それ以外では、「今日、町で外人見たよ!」と家にとんで帰って報告したものだ。
 今の子はどうだ。小学校でも週に1回は外国人の英語の先生が来て授業をしてくれる。
 この話はおそらく江南市だけの話ではない。おそらく日本のほとんどがそうだった。日本全体が欧米の生活スタイルを望み、欧米に追いつけ追い越せと、高度経済成長を実現していった。高度経済成長とは、欧米コンプレックスの払拭にすぎない(極論だが・・・・)。当時のテレビCMは、外国人がやたらに使われた。それも例外なしに白人。雑誌のモデルも同様。今から思うと、かなり偏見だろうが、当時としては憧れの的であり、消費者の購買意欲を誘ったのだろう。
 おまけに日本製と言えば粗悪品の代名詞。輸入品は「舶来品」(今も使うか?)と言って珍重?した。
 
 ところが、ある日、アラン・ドロンがテレビCMに登場した。ダーバンだ。
 アラン・ドロンと言えば、 今で言うトム・クルーズ以上の世界的大スターである。その時の驚きは今でも忘れない。アラン・ドロンの登場は、円の国際的認知であり、日本の地位向上の証であるが、こう安っぽく出られては・・・・・

 その後、夜11時頃の音楽番組に、あのエリック・クラプトンが出演したり、さらに後にジョージ・ハリスンが出たことがあった。
 ちょっと待て!
 自分の世代にとっては、神様(おそらくエリザベス女王以上の存在)が、突然目の前に表れるようなものだ。普通なら、何日も前から報道されて、ゴールデンタイムに特集番組が組まれておかしくない二人なのに・・・・・。
 
 円が切り上げられたと同時にドルの価値が下がり、欧米のスターの価値も比例するように下がっていった。また、衛星通信を用いた情報も進化し、世界同時に同じ情報を享受することができる。これもまた、情報自体の価値を下げた。
 かつてエリック・クラプトンにあこがれ、ビートルズに狂った世代のものから見て、今の子ははたして幸せなのか、疑問に思ってしまう。

 またまた話は大きくそれたが、海外に平気で行く中高生諸君!平気で行くな!君たちはすごいことをしているのだ!ぜひ今の感性を大切にして、自分の目と耳で外国を見て聞いてきてほしい。そして、改めて今の日本を見つめてほしい。
 それができなければ、お金の無駄遣いだぞ!

日本も援助を受けていた!?
 かつて、日本も世界銀行からの援助を受けていた。その資金で東海道新幹線や東名高速道路、愛知用水、黒部第四ダムなどを造り、やっと1990年に返済を終えたばかりだそうだ。日本人がアラン・ドロンにあこがれていた時、着実に援助を国力に変えていたのだ。先輩方、ありがとう!
《参考》 ODA(政府開発援助)50年:平和的生存権を実現するODAに 
       越田 清和(こしだ きよかず) アジア太平洋資料センター理事

13:15 北京首都空港着
 バスで、京倫飯店へ。ここでガイドをしていただいたのは、現地JTBの林屋こぶ平に似ている李新さんと、日本大使館のTさん。そこで聴いた話をまとめてみたい。

○ 中国では李、張、王さんが多い。中でも、李がもっとも多く、四千万人〜五千万人いる。
○ 北京の空港は、2000年のオリンピックのために道路と共につくった。しかしシドニーに負けてしまった。 今は、2008年の北京オリンピックに向けて、街中工事中だらけ。
○ 北京の地価は中国で上海に次いで高い。
○ 滞在中の注意
 1 日本との時差が1時間ある。中国では、全土が北京時間なので、ウィグル自治区へ行った時は、午後6時が最も暑く、午後10時くらいまで明るかった。
 2 中国の水は硬水なので飲むことができない。
 3 パスポートは貴重品。中国国内で、50万〜100万円で売買される。
 4 元から円への再両替は北京首都空港でしかできない。しかも、通常レートの半額ほどしか返還してくれない。
○ 国内線飛行機の注意
 1 お酒は手荷物で持ち込めない。
 2 ペットボトルは空港であけさせられる。
○ 中国では日本食がヘルシーで人気がある。回転寿司は大人気。吉野家の牛丼も流行っている。
○ 北京は800年の都であり、史跡が多いため、ビルに高さ制限がある。
○ 地下鉄の切符は3元(40円ちょっと)でどこまででも乗ることができる。以前は7円ほどだった。

 李さんに言葉を教えてもらう。「おつかれさま」にあたる言葉がxinkule(辛苦了)。「新しいクーラーと覚えてください。」の一言でゲット!

京倫飯店  
 雨降りでうまく写真が撮れなかったが、高速道路の料金所が中華風ですばらしかった。そしてバスで15時前に京倫飯店へ到着。京倫飯店には計4泊お世話になる。ここは決して新しくないが、日航系列のホテルなので安心できる。 

日本大使館表敬訪問
  16:10 日本大使館を表敬訪問した。

 何かと話題の多い在中国日本大使館。正門前には若い警備委員が2人、入り口にはさらに数人、さすがに簡単には入ることができない。一部ではあるが壁が汚れ、玄関のガラスにはまだひびが入っている。あの対日暴動の名残である。
 廊下には雨漏りがあり、バケツが二つ置いてある。老朽化がかなり進んでいる。
 部屋の写真は、窓側はあまり撮らないようにと言われた。
 大使館側の人は8名で、最近の中国情勢、各機関の業務等について説明があった。
 以下、印象に残った点を羅列する。

○ 日本と中国との関係は、79年の大平総理による対中ODA開始以来ほぼ四半世紀、25年間で日本も変わったが、北京はもっと変わっている。
○ 今の日本と中国の関係は、4月9日のデモとかを思い出すが、それ以外のところで大きく見ると、人や物、金の流れが増えている。貿易では日本が世界一、投資でも91億ドル、相互訪問者数や在留邦人者数は多くの国は減っているが中国では増えている。
○ 日中間貿易もこの15年間で10倍近い。対中投資は、一度下がったがまた増えている。
○ 日本と中国の関係は、政治的には変動が大きい。靖国、教科書問題などがある一方、一般の人・もの・金の関係は増えている。ODAは、政治と分けて、一般の交流の視野で見ることも大切。
○ 中国の一人当たりGDPは日本の60年代レベル。北京が日本の70年代前半、上海が70年代後半レベル。しかし、中国の人は当時日本になかったパソコン、携帯を持っている。
○ 地方では何もないところもある。水もないし、暖房もない。お茶が凍るほど。当時緑のコートを着て寝ていた。今では、相当奥地まで行かないとそんなところはない。道路があるかどうかで生活が変わる。
○ 1979年、中国が改革開放政策を始めた。日本が中国の近代化政策を祝福し、よりよい中国がよりよい世界につながると大平首相は考えていた。欧州は日本に対して懐疑的であったが、日本はそこから乗り越えて、長期的視点で支援を始めた。当時の重点は、インフラ整備。それは中国の政策にも合っていた。中国は生産できないから貧しかった。そのために生産のためのインフラを支援した。当時の円借款が中国に与えたインパクトは大きい。
1980年代
 日中友好病院 青年交流センター
 第二次 基礎生活のためのインフラ
1990年代
 ODAに対する日本国内の目が厳しくなった。理念が重要になる。そこでODA大綱を作った。
 凍結する時期もあった。環境面のニーズが増えている。沿海部からら内陸部へ対象地域が移り、重点もやり方も変わってきた

○ 現地の人々と日本の人々との交流が一つの目的であった。大きな目で見て、日本と中国との関係をバランスよく健全な方向で進めていくことが大切。

○ 中国への円借款等は2008年をめどに終わろうしている。理由の一つとして中国が第3国へ援助しているというが、インドもしている。軍事費の増大というが、増やしている途上国は他にもある。なぜ中国これだけだけ問題になるか悩ましい面もある。
○ 中国は白酒を飲まないと友達になれない面もあり大変。その風習は地方では残っているかも…
○ 空港も円借款で便利になったが、昔のように沿海部のハードインフラから、環境、人材育成へと重点がシフトした。場所が増えて、管理が大変で、仕事は難しくなってきた。金額が減って仕事が増えたのは今の悩みだ。
○ 昨年はモニターと同行。広報が足りないと言われたが、中国語でパンフ等を作るのはたいへん。完成式典等を利用している。将来的な広報の課題は、両国の若者に日本のODA支援を正しく認識してもらうことだ。

○ 北京の日本人小学校の社会見学では、円借款事業の現場を案内したりしている。最近は、直接の受益者にアピールして、地方から上げていくようにしている。
○ 円借款は中央政府主導のものからから地方政府主導のものへと移行している。国が広いと地方の力が強い。
○ 円借款は近い将来縮小の運命かもしれない。その後の経済協力、文化交流をどうやっていけばよいのか議論をする必要がある。これまで両国関係の命綱だった円借款がなくなった場合、次の協力のあり方をどうするのか考えるべき。
○ 最近の円借款は、環境と交流がキーワード。円借款などの事業を利用して、交流の場を!

○ ジャイカ中国事務所 50名。日本人が20名、中国人が30名。中国人スタッフに移行するようにしている。日本人を減らして中国人を増やしている。
○ JICAは何をやっているか。ODAの技術協力の実施機関である。
 援助重点分野
 ・ 環境問題など地球規模の問題に対処するための協力
 ・ 改革・開放支援
 ・ 相互理解の増進
 ・ 貧困克服のための支援

○ 草の根無償資金協力について
 中国は広く、内陸部1に対して都市部は13倍。さらに内陸部の中でも10倍の開きがある。
○ 1990年の草の根協力は699件 51億円。毎年30数件で推移し、昨年は18件 1.8億円。
○ 経済協力はJICA等がやっているが、草の根無償資金協力は外務省が直接やっている。草の根無償援助は、顔が見える援助と言われている。なぜなら、直接申請ができる(住民のニーズが直接届く)、早い(年度中に申請があれば年度中に支払う)という特徴がある。中国は人海戦術で工事が早い。

○ 四川省の山奥は平地が多いようだが、実際は山国で、住民は川沿いにへばりつくように住んでいる。毎日、けもの道みたいなところを上がって村役場で勉強している。中は暗く、午前クラス、午後クラスの1日4時間。学校義務教育は、本来中国政府の仕事だが、吟味して、経済社会開発案件として基礎的な足りないところを、また、一般の人に直接利益になることをやっている。西部は政府ががんばっているので、中西部を重視している。沿岸部は、シンボリックな案件に絞って、これをやった時に日本国民が納得してくれるだろうとものだけをやっている。
○ 草の根無償資金協力は、基本的に1千万円が限度額。
 自助努力 マッチングファンド 「こっちでこれだけやるけど、のこりはやってね。」というものだ。
 事前調査でニーズ等も把握し、事後調査も行う。以前の案件も事後調査に行く。
○ シンボリックな案件としては、北京の障害者が野菜畑をつくる自立支援センターがある。案件はテレビで報道されている。 

 このあと、雑談の中で外務省のTさんに聞いた。 
 「抗日運動のことで、いやな思いをしたことはないか?」
 その後の回答は、日本人の一人として、とても勇気づけられるものであった。

 「ほとんどないが、一度、タクシーの運転手に60年前の戦争のことについて言われたことがあった。そこで、こう言い返してやった。
 60年前のことは事実だ。しかし、日本人はそこで反省して平和憲法を作り、平和な国家をつくった。それ以後、戦争で一人も人を殺していない。
 中国はどうだ。朝鮮半島で何をやった。ベトナムで、ラオスで、カンボジアで、何をやったんだ。言ってみろ。こう言ったら相手は黙ってしまった。」

(実際には、もう少しやわらかい言葉だったが・・・・)
 そうだ、そうなんだ。日本人は、戦後一人も戦争で外国人を殺していないではないか。
 これは誇るべきことだ。
 一方、中国が何をやったのか、中国の人は知っているのだろうか?
 
見ると聞くとでは大違い
 この後、北京小王府三里屯店へ食事に行く。2グループに分かれて座ったが、ここでも貴重な話を聴くことができた。
 見ると聞くとでは大違い。
 これが話を聞いたもっとも大きな印象だ。上海の反日運動は、実際にはたった1日、一部で起こっただけである。しかし、人がいるところだけを切り取った画像を1週間毎日流されると、あたかも中国中でデモが起こっているような印象を受ける。
 4月9日の暴動も同様だ。大きな北京から見れば暴動はごく一部で、その日も北京の公園では和服で日本風の花見を楽しんでいる若者がたくさんいたそうだ。
 農民による反政府暴動は、反日デモの何十倍も起こっている。

資料 農民の暴動

農民の暴動については、讀賣新聞「膨脹中国」に次の記述があった。(H17.8.20 1面)

 社会科学院によると、昨年1〜6月に全国の農村で起きた暴動や紛争は130件。このうち87件が土地の強制収用を巡る農民と警官の衝突だった。土地を失った農民は全国で4000万人以上と推計される。

 公的機関が発表した数字が、半年間で130件だ。実数は何件なのか、相当数に上ると思われる。
資料 自然災害の死者数、隠していました  中日新聞9月14日付朝刊より

 【北京=加藤直人】十三日付の中国各紙によると、中国の国家保密局と民生省は、自然災害による死者数や被害状況を今後は秘密扱いとせず公表する方針を明らかにした。中国紙には「秘密解除は(自然災害に対する)国際援助に有利」と歓迎する論調もあるが、今回の方針公表で中国政府が死者数などをこれまで秘密扱いとしてきたことが裏付けられた形だ。(中略)沈氏は、「さまざまな歴史的条件で秘密としてきた」と述べたうえで、改革・開放政策の進展や救援活動を進めるうえでの必要性、国際社会と同じ(統計上の)やり方がふさわしい−などの理由で公表に踏み切ったとした。(後略) 

  ということは、暴動の数もあてにならないことが分かる・・・