朝の散歩
朝起きて朝食後7:20から散歩。大使館通りを歩く。ベトナム、スロバキア、ポーランドなどなど、どれも立派である。通行止めが至るところにあり、6か国協議が行われている北京ならではの厳戒態勢である。通りは車と自転車の波。北京の道路を横断するのは命がけだ。
朝から日差しが強く、日中は34度まで上がる予報だ。ただ、名古屋よりはからっとしている。
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パーキングメーター | 緑色のポスト | 止まれ! | マック | 地下鉄の切符(3元) |
昨日の夜も、Kさんを中心に1時過ぎまでODAについて語り合う。この時間がもっとも貴重な時間かもしれない。自分の中でも、ODAについての考えが揺れ動いていることがわかる。
北京の町は至る所で工事をしている。オリンピック前にシドニーへ行った時と同じ状況である。オリンピックは、単なるスポーツ大会ではないことがよくわかる。
鄭州の病院で作業療法士をしている人の月給が400元(6千円弱)。昨日の植林作業で雇う人の日給が20元(300円弱)。街で公園の入場料が1元。これらに比べてスターバックスのコーヒーは13元。かなりの高額だ。
北京の街は緑が多く、時々史跡の屋根瓦が見える。
国際交流基金について
ここで国際交流基金の説明を聞いた。詳細は、国際交流基金ホームページ http://www.jpf.go.jp/j/ をご覧いただきたい。
10:00 北京日本学研究センター拡充計画視察(無償資金援助)
まず概要を見てみよう。
6 北京日本学研究センター拡充計画(無償資金協力) http://www.jica.go.jp/activities/jicaaid/project_j/chi/004/ (1)実施年度 平成13年度(E/N締結平成13年8月3日) (2)供与限度額:8.51億円 (3)実施機関:北京外国語大学 (4)実施目的必要性'、 北京日本学研究センター(以下「センター」)は、中国における日本語・日本研究、日本との交流に携わる人材の養成を目的として、国際交流基金及び中国教育部双方の協力により.1985年に設立された教育・研究機関である。(前身は1980年に創立された「日本語研修センター」)このセンターは、設立から今日に至るまで、日中双方の研究者の率直な意見交換、共同作業のもと様々な実績を積み重ねており、これまで修士課程修了者約300名、博士課程修了者約40名、日本語研修生約300名を排出し、中国における日本研究の中心的な役割を担っている。センターの卒業生は現在中国各地方の日本語教師などとして活躍している。しかしセンターは、北京外国語大学の第2教学楼内に1950年代に建設された建物を使用しているが老朽化著しく、また、中国で最も多く日本関係図書を所蔵する図書館の安全性にも不安があり、新施設の建設が強く求められていた。 (5)事業概要 センターの改築、付帯設備(机・椅子・書棚等)6 (6)効果 日本語や日本文化を学ぶ学生のため自習室やコンピューター室、一般の方にも開かれた図書情報資料館、センターの活動を対外的に示す場としてのホールなどを備えた日本学研究の中核としてふさわしい施設が新たに建設され、中国における日本研究の充実、日本を理解する人材の育成、日中の知的交流の深化が期待される。 |
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日本学研究センターに到着 | 日本の援助を広報! | 研修生らと会談 | 図書館の様子 |
8.5億円の無償資金援助でつくった建物である。入り口にODAプロジェクトのプレートがある。1979年に大平首相が訪中して約束して生まれた大平学校から発展したもので、日本語研修が主なものだったが、1985年より日本学研究の場になり、2003年にここに移った。
日中合同事業が運営審議会の下に工作会議、さらにいろいろな委員会が置かれている。
主に以下の3点のセンター機能がある。
○人材育成のセンター
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研修生の自習室 |
日本研究者、日本語教師を養成するもので、600人近くの日本からの派遣教授が来ており、彼らとのネットワークができている。大平学校時代から含めて、1400名の人材が生まれている。卒業生は、中国の各大学などで活躍している。
日本語・日本語教育、日本社会・日本経済、日本文学・日本文化 の6コースあり、募集人数も年々増えている。
中国側教員13名ほど。日本側教員は7名。1400名余の卒業生は、政府機関20% 大学60% 研究機関 10% に就職している。
最近は企業が増えている 2003年33%、2004年38% で、特に日系が増えている。
今後は 修士課程3年、博士課程3年、 募集は 修士課程36名、博士課程6名
20名4ヶ月の日本研修と、博士課程では1年の日本研修がある。
○日本学研修の舞台としてのセンター
コースにあわせて 3つの研究室があり。研究ネットワーク、研究成果の出版、学術シンポジウムと研究会 を行っている。
○情報ネットワークとしてのセンター
中国最大規模の日本学専門図書資料館がある。日本語図書7万冊、中国語図書3万冊あり、利用者サービスの拡充 貸し出しは北京市の研究者教育者、閲覧はだれでもできる。開館時間の拡大にも努めている。収容能力は17万冊あり、閲覧座席120 利用者1日500人いる。
ここで卒業生の紹介があった。簡単に紹介する。
Sさん(出版社) センター第8期生。外国語教育の書物を出している会社で、日本語の辞書、教科書、読み物を300種類ほど出版している。中国の大学生向けが多い。日本語を第二外国語として学ぶ人が増えているので、教材を三種類出している。ほとんどは語学の教育書。売り上げは12億元。英語の次に日本語が多い。日本語スタッフは14人。中国の日本語学習者は100万人ぐらい。 Hさん(人民日報社) 人民日報 http://www.people.ne.jp/ 1999年卒業の12期生。すぐに人民日報に入社。人民日報は6か国語に翻訳しているが、その日本語Webサイトを作成している。中日関係のメディアの役割は重要。自分の目でセンターを視察することは大事。日本での半年間の研修は貴重だった。日本社会のようすを自分の目で見たことが今の仕事に役立っている。できるだけの日本語読者のためにがんばりたい SGさん(北京外国語大学) 2004年卒業17期生。社会人の教育を担当している。以前は教室が小さかったので、寮で勉強している人が多かった。今の教室は大きくて快適。同じ教室で座れてコミュニケーション、ディスカッションができるのでよい。 Gさん(JICA北京事務所) 昨年卒業し、JICAで貧困、社会保障を担当している。センターで半年の日本での研修がある。論文審査をここで受けた。 新しい建物はあまりにも違って、卒業したくないほどの気持ちだった。センターはありがたがった。大学時代は、日本語の勉強だったが、センターでは、日本の社会、教育、環境を学ぶことができた。センターが日本で半年勉強させてくれたことは良かった。独立した空間を与えてくれた。生活面の困難を乗り越えて大人になった気がする。 社会調査、その方法、の知識を身につけたので、今の仕事にも活用している。センターは人生の変わり目。感謝している。 SNさん(現役院生) 文学コース。日本の古典文学を専攻。古今和歌集を研修している。将来は日本語教師になりたい。センターに入ることができて幸運。よく勉強したい。 Tさん(JBIC) 今年卒業。卒業したときは、楽しいと言う言葉が出てきた。ここでは、自分の目で見て確かめて、社会の真実を求めること、研究をとても重んじられている。2年間研究に励んでいた。日本の高齢者が企業を退職してどう人間関係を構築したかがテーマ。日本の企業文化、サラリーマン文化は強く、人間関係を作っているが、定年になるとそれがなくなり、生き甲斐を失う人が多かった。日本へ行って、東京都立大学へ行った。「現場に行ってみてください」と言われた。高齢者を通して、社会調査を行った。調べてみると、現役時代でも趣味を通していろいろな人間関係を築いていることがわかった。本に書いてあることは正しいとは限らないことを知り、自分の目で見て確かめることが大切だと思った。 中国でもいろいろなところへいって自分の目で見てみたら、ずいぶん都市と違うと感じた。ODAの報道に影響されなくて、自分の目で確かめてくれればありがたい。JICA、日本政府に感謝したい。 SKさん(センター副教授) 4期生。仕事は3つあり、学生を教える、授業を担当している。学生は日本語を勉強して、専門に入る。日本語の教育ではなくて、専門分野を教えるので、自分も勉強しなければならない。 専門は社会学、 社会保障・社会福祉を研究している。業績はこれからがんばりたい。3番面はセンターの運営。ODAについても担当した。 |
グループ別懇談会を行った。主なやりとりは次の通り。
![]() A 増えている。85年からスタート。100人ぐらいの応募があって、20人とった。多いときは140人ぐらいの応募者があった。 Q 総合講座について教えて? A 必修科目。外部からも参加。インターネットでも情報を公開。日本語ができる人だけ。わかれば誰でもOK。 Q 日本に興味を持ったきっかけは? A アニメなどから日本の大衆文化に興味を持った。 Q 建設費は? A 8億円が建物だけにかかった。4000平米。 Q 日本の大学との交流は? A 北京外大は交流がある 名商大、大東文化大学など センターとしても今後連携を打診中。 Q 卒業生が日本の企業に勤めて日本で勤める人は? A 数十人いる。 Q 卒業生の性別は? A 女性が9割 Q 北京外国語大学には? A 留学生400人 Q ODAの知名度は? A ODAという言葉は知らないが、技術協力とか無償援助と言うことは、普通に新聞を読みテレビを見ている人は誰でも知っている。 Q 韓国人留学生が多い? A 今韓国語がブーム。 Q 理科系の日本語養成機関は? A どうしても英語が多いが、日本語が多い技術者は人気がある。 |
言葉は大切で、通訳のHさんのような人がたくさんいると、日中関係の正常化は簡単なことだ。国際理解にはまず人材だ。それは言葉がわかり、しかも、ある程度日本に対する専門的な知識のある人が必要だ。単なる通訳ではなく、プロジェクトに参画できるパートナーシップが今後必要な人材である。
この日本学研究センターでは、日本語指導は当たり前で、それ以外の専門家を養成している。中日の交流にとって、貴重な人材育成機関である。。
ぜひとも、日本の中国研究生と、中国の日本研究生の間でネットワークを形成し、交流しながら学んでほしいと思う。
ただ、日本からの援助の削減で、日本から派遣された教師が削減され、日本への研修生も減らされているという。これは、国益に反するのではないか。何を優先するかは、政治的な判断だ。
この後、館内見学。そして、昼食はこれまででもっともおいしかった、と言うより、日本の味に近かった。
14:00
中日友好病院視察(無償資金援助+技術協力)
さっそく、概要を見てみよう。
7 中日友好病院(無償資金協力・技術協力) http://www.kyowa.or.jp/china-japan/ (1)協力期間及び供与限度額等 @無償資金協力・病院建設(1981年度〜1983年度)160億円・病院機材整備(1986年度)5.7億円 Aプロジェクト方式技術協力(1986年度〜1993年度.1994年度)・専門家派遣:81年〜92年累計長期41名、短期133名・研修員受入:79年〜92年累計223名・機材供与45億円 (2)実施目的必要性 1979年の大平総理訪中の際に協力を表明したことを端緒に日中間の協力が開始され、その後永年にわたって協力が継続されていた日中友好のシンボル的存在.1984年に設立された総合病院(病床1300症)であり、中国の医療体制の近代化を計るためのもの。 (3)事業概要 1984年に無償資金協力により設立後.1981年から10年間にわたり、JICAのプロジェクト方式技術協力が実施された。 (4)効果 同病院の診療・教育水準、病院管理技術等が著しく向上し、日本の専門家派遣協力が終了した現在も、独自に、日本を始め国内外の病院や研究機関との交流を続け、技術の向上、研究に努めている。その結果.1999年には中国の優秀100院に選定されるなど中国の一流病院として大きな発展を遂げている。近年は同病院が日本の技術協力を通じて蓄積した技術・知見の西部貧困地区の医療従事者に普及するため、貧困辺境地域の医師、看護婦を対象とした現地国内研修を実施するなど、内陸部全体の医療水準向上に貢献している。 |
国立医療センターに当たる病院は、中国で2つしかない。北京病院とここで、中国最大級の病院である。西洋800ベッド、漢方400ベッドあり、西洋・漢方の結合が特徴である。ドクター800人、看護婦900人いるが、自力で経営しなければいけないので経営が大事だ。
このあと、DVDを見て、自己紹介の後、懇談があった。その内容を紹介する。
![]() A 日本語、英語、中国語で作っているが、交流者、見学者に配っている。 Q SARSの時の様子は? A 400人あまりの患者を収容した。 Q 日本では紹介状があるが中国では? A ない。中国は、医療保険、公費医療、公務員は大きな病院(2〜3)と契約するとそこに行く。 だめな場合だけ、紹介する。 医療保険は北京なら5つぐらいから選ぶことができる。保険がなければどこでもいける。 Q 遠隔医療は行われているか? A ウルムチ、新疆 、甘粛省、四川省 とつながっている。日本とは大阪医科大学とつながっている。 手術、医療、講義 の研修に使用。甘粛省の人なら遠隔医療の方が安い。 Q ODAについて不満があれば A 164億円の援助をもらい、その後追加援助で200名以上が研修に行った。全部で200億円以上の支援を受けた。また、日中の医学の交流ができるようになった。日本語が話せる人が多いのもそのためだ。 困ることは、20年前に一気に機械が入ったので更新が一度になるの。更新のためのお金がないことが困る。 Q 患者数は? A 外来と救急で1日に3500人から4000人の患者がいる。 Q 東洋・西洋医学は誰が決めるか? A 中国人は漢方についての知識がある。慢性病なら漢方治療をするのが普通。 Q 課題となる病気は? A ここは総合病院で専門病院ではない。 AIDSは専門病院に回す。 Q 2003年SARSの時の日本の援助は役に立ったか? A 大変役に立った。医療チームのほか、マスクなども持ってきてくれた。中国にも少なかったので、本当に助かった。日本の日中友好協会 を通じて募集し、民間からも集まってきた。 Q 日本との関係はわかるか? A 名前で必ずわかる。中味までわかるかどうかはわからない。医療費は他と一緒。日本からの医師もいる。それは患者にとってもプラス。 東洋医学で治る例が多い。日本大使館に相談する例もある。 |
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中日友好病院 | 上:富士山と万里の長城 下:鑑真和尚像 |
上:取材風景 下:研修会場 |
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病室 1日600元 | SARS撲滅の檄文 | 腎臓透析の病室 | VIP専用病棟 |
ここはまさしく、日中友好のシンボル的存在。名前も「中日友好病院」とはそのものずばりである。シンボルマークも万里の長城と富士山が握手をしており、中日友好のシンボル的存在 鑑真和尚像が迎える。
ここでも、継続性は十分配慮されていた。日本からの専門家派遣と日本への研修生受け入れ、その後は、中国各地から中日友好病院への研修生を受け入れ、250名を送り出している。このようなODAなら、日本国民の理解も得られよう。
ただ、ここでも中国の貧富の差の大きさを感じた。
何度も言うが、開封市第一人民病院の作業療法士の月給が400元。しかし、ここの個室の病室は1日600元でしかも保険は適用されない。それでも、利用する人はいるのだ。
資料 中国人の給料U 前にも述べたが、中国での給与は格差がありすぎて、単純に比較は出来ない。讀賣新聞「膨脹中国」(H17.8.18 1面)に次の記事があったので紹介する。 「経済特区、広東省・深セン。現在、日系企業約50社が入る工業団地「テクノセンター」でも工員約3,000人のほとんどが女性民工だ。平均年齢19歳。月給約1,000元(1万4,000円)の半分は親元に送る。」 ※ 民工:農村からの出稼ぎ者 都市住民の年間平均所得が9,422元なので、日系企業の給与水準は高いと思われる。 |
JICA訪問
JICAを訪問した。とてもきれいな建物である。
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こんにちは! | プレート | 事務所の様子 |
ここでは、まずJICA 中国事務所の説明があった。詳細はhttp://www.jica.go.jp/china/ にゆずる。
その後、青年海外協力隊員の話を聞く会があった。青年海外協力隊の制度は40年ほどの歴史があり、中国へは1986年よりスタート。のべ500名強が経験している。毎年、50〜80名ほどおり、現在58名派遣されている。(一般隊員51名、シニア隊員2名、シニア海外ボランティア5名)
そのやりとりの様子を一部紹介する。
![]() 瀋陽 から車で1時間ほどのところで、日本人の派遣としては初代。そこで、日本語の教え方のアドバイスをしている。教材が少ないのも問題で、問題集も間違いが多いので、教材も作っている。また、周辺の日本語を教えている先生を集めて研修会を行っている。 周辺の中学校では、主流は日本語から英語に変わっている。そのために、少ない日本語希望者にもボランティアで教えている。 かつて、日本軍による大虐殺事件があった。そのような場所に日本人が始めて行く。日本人に対するイメージは「怖い、残酷」というものだった。現在の日本と中国の関係は最悪で、テレビをつけると、絶えず抗日戦争の映画をやっている。その中で海外青年協力隊は国益にもなると思う。 Y隊員(日本語教師) 生活には全く困らないところに住んでいる。日本クラブという、日本のことを知りたいと思っている生徒を集めてクラブをつくっている。国際交流の場として、中国を理解していきたい。 東北三省は日本語教育熱が高い。日本語教師の派遣が多い。 M隊員(幼稚園教諭) 日本は遊びから入るが、中国は小学校と同じように授業をする。知育玩具や水墨画などを学んでいる。1クラス45名の子どもがいる。 給食でも、日本は楽しんで食べるが、中国ではおしゃべりはだめ。子どもたちの絵は、日本では経験したことを描くが、中国では決められたことを描く。遊びの中で教育する意義を伝えていきたい。 K隊員(日本語教師) 100名ほどの学生に日本語を教えている。日本文化紹介として、日本料理を振る舞ったり、和服の気付けを教えたりしている。散歩クラブも作った。日本の映画上映、ハイキングなども行う。中国では先生のミーティングがない。教師間の交流がないので、レベル向上、進度調整、がない。そこで、教師間で勉強会をすることにした。若いので自信がもてない先生のために、教科書を作成した。日中関係が緊張しているので、先入観がないうちに日本のことにふれてほしいと思った。 Q なぜ応募したのか。日中関係をどう感じたか、 A I:1 台湾のことを勉強してきた。9ヶ月すんでいたので大陸を見てみたかった。 2 けっこうある。学校ではない。軍国主義者と一般の国民を分けて考える。蔑称を浴びせられることがある。普段の生活ではない Y:1 日本語教師になりたかったから。 2 北京でデモがあり、外に出られなかった。緊迫した雰囲気になっていたが、任地ではまったくない。歓迎され、うれしかった。 M:1 お勉強幼稚園 最後は表現保育 言葉やものがなくても表現できるという思いを伝えたいともって応募した。 2 河南大学で学生の間でもデモがあったので、公安からは家から出るなと言われた。でも何もなかった。 K:1 サークルの中に先輩がいた 2 友達は理解してくれる。知らない人の中にはいるが、交流すれば何とかなる。 |
このあと、さらに4名の隊員の話を聞いた。4人目のT隊員の活動は、すでに青年海外協力隊員の域を超えている。プロジェクトXのような報告だった。
そして、夜には隊員との懇親会の場があった。特に、涼山民族中学校で音楽を教えるM隊員といろいろと話をすることができた。
何というすがすがしい気分なんだろう。
その原因は、もちろん協力隊員のさわやかさからくるものだが、このような青年たちと出会うと、日本の未来は捨てたものではないと思ってしまう。
まず、応募しようと思うだけでもすごい。しかい、それ以上に、言葉の壁を越えて、現地の人と信頼関係を気付くことができるだけのバイタリティと柔軟性がすばらしい。
さらに、この2年間で得た経験は、何事にも代え難いことは容易に想像できる。彼ら、彼女らの力になっていくと思う。
ただ、制度としてこのままでよいのかという若干の危惧を感じる。
青年海外協力隊は、個人の善意に頼る所が大きすぎるのではないだろうか?大切な2年間を費やしたのだから、ぜひともその後の就職活動に有利にはたらくような、公的な資格としてほしいものである。また、例えば公務員なら、給与の号級にも反映できないものであろうかと思う。
例えば教員採用に於いても、青年海外協力隊として海外で活躍できた人ならば、学校でも活躍できる可能性が高い。海外で一人で働き、信頼関係をつくるというのは、教員の資質と共通する部分がある。
また、青年海外協力隊で海外で日本語教育に携わったものは、教員経験年数に加算することも可能ではないか。1年でもよいので加算できればと思う。
外務省と文部科学省や総務省、または他の省庁との連携を期待したい。
資料 内閣総理大臣談話(平成十七年八月十五日) |
マッサージ
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この日の最後に8名で行った足つぼマッサージも、強く思い出に残った。
約90分のマッサージをしてくれたのは、河南省からきた女の子たち。どう見ても16,7歳だ。この店ではないが、一人マッサージをしての手取りは、考えられないくらい安かった。うら覚えなので金額は書かないが、店に支払う1割もないと思っていただきたい。
ここで、われらがエンターティナーHさん&中日友好合唱団のアカペラ大会が始まった。テレサ・テンの「川の流れのように」や「幸せなら手をたたこ」、「一休さん」、「昴」など、彼女らが知っている日本の曲をみんなで合唱した。マッサージ店で、お店の子も交えて合唱する団体は他にいないのでは?
それにしても、音楽は偉大だ。初対面の16名は、見事に一体化していた。