宮澤賢治『やまなし』授業記録       社楽へ  第128回へ
                 授業者   高 橋 宏 滋
               
(愛知県葉栗郡木曽川町立木曽川東小学校)  


授業実施期間  平成12年1月24日(月)〜2月22日(火)              
※ 教材文は2学期末に配付してある。
※ 教科書教材に宮沢賢治の伝記教材があり、その学習を終えた上での授業である。
※ 『永訣の朝』を全員が読んでいる。

【 目 次 】
第 1 時・・・・音読練習
第 2 時・・・・音読練習 登場人物等の確認
第 3 時・・・・クラムボンとは何か
第 4 時・・・・・・作文「クラムボンとは何か」
第 5 時・・・・各段落のイメージのグラフ化
第 6 時・・・・五月のマイナスイメージをつくるも
第 7 時・・・・・・作文「五月・十二月のイメージの検討」
第 8 時・・・・十二月のプラスイメージをつくるもの
第 9 時・・・・五月の世界と十二月の世界
第10時・・・・やまなしは何を表しているか
第11時・・・・やまなしの中の無常と輪廻
第12時・・・・・・作文「『やまなし』の中の無常と輪廻」
第13時・・・・・・作文「『やまなし』の中の無常と輪廻」「『やまなし』と春
第14時・・・・『やまなし』は理想を表しているのか
第15時・・・・・・作文「『やまなし』は理想を描いたのか」
第16時・・・・色の検討
第17時・・・・青は何を象徴しているのか
第18時・・・・・・作文「青は何を象徴しているのか」
第19時・・・・・・作文(自分で問題を設定)
第20時・・・・「私の幻灯」の「の」の意味・作文『はじめに』『おわりに』

第1時 範読,追い読み1回,各自音読1回,段落交代による指名なし音読1回

第2時 各自音読2回
「幻灯」の簡単な説明
   「幻灯は何枚ですか」「二枚とは,何と何ですか」「幻灯は何色ですか」
「登場人物は誰ですか」「中心人物は誰ですか」
「動物や植物など,命あるものは,何が出てきますか」
     カニの親子,かわせみ,魚,かばの花,木の枝,やまなし,クラムボン,私が出てきた。
     クラムボンは反対もあったが検討はしていない。
「その中で,命を失ったものは何ですか」
クラムボン,魚,やまなし,かばの花が出された。これも検討はしないで,出させただけにとどめた。

第3時 クラムボンとは何か

「五月」だけ1回各自で音読する。
    クラムボンとして,次のものが出された。

日光,光のかげん,あわ,妹のとし,谷川の水,くだもの,魚,岩,わかめ,かえる,植物
魚・日光・あわなどカニの目から見えるもの

それぞれ,理由を発表させた後,一番人数の多かった「魚」から検討した。

第4時 作文『クラムボンとは何か』

【子どもの作文】
 「クラムボン」とは,光と妹のとしをうつしたものである。
 以下,その理由を述べる。
 「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ。」「クラムボンははねて笑ったよ。」。これは,まだ幼いカ
ニたちの想像だ。あわに入る光といっしょにあわがわれる様子を「かぷかぷ笑った」と表したり,「クラムボンは殺された」とは,お魚が通ったとたん,まだ小さなカニたちには大きなかげができた。そのとき光がかげり,「クラムボンは死んだ」と思われたのだ。でも,子どもたちは,「なぜ殺された」かわからなかった。お魚というものはわかっていても,ただお魚が通って,クラムボンが死んでしまったとき,お魚のせいとわからない子どもがいた。でも,十二月になると月の光はわかっていた。これはカニの子どもを表す成長なのだ。だから,五月に,日光や月光をわからなかったとき,クラムボンとわからず,名をつけていったけど,もう十二月には日光も月光もわかっているから,「クラムボン」は出てこない。つまり,五月にわかっていないクラムボンを十二月にはわかっていて十二月には出てこない。そして十二月になった20段落には,「あんまり月が明るく水がきれいだったので外に出ていた。」とある。これは月の光を日の光といっしょにせず理解したという証拠だ。わかっていなかったら月も日も「クラムボン」であるのだ。だから,日光イコール「クラムボン」なのです。(略)
 クラムボンとは「光」であり、カニの成長をみまもる谷川のただ一つの光だと考えます。そし
て、カニ自身を賢治にして、みまもる光をただ一人の理解者、妹のとしとして、この「やまなし」
の物語を書いたかもしれないと考えます。だから、光といっしょにあわがはじけるとき妹としが
光として笑ったり、死んでしまったりと見えたのです。そして、日光と月光と光と姿をかえて、カニの賢治をみまもっていたのです。
 農民として生きていた賢治の支えとして「やまなし」の「クラムボン」はいたかもしれないと考えます。そして登場人物の私として、カニとして出ているのだと考えます。
 以上のことから、「クラムボン」とは、賢治の妹のとしこのうつる、日光(光、黄金)だったと私は考えます。
【子どもの作文】
 クラムボンとは「天井(波)」である。以下、その理由を述べる。
 3段落に、「青く暗く鋼のように見えます。」と書いてある。だから、クラムボンは、青色で暗いのだと言える。12段落に「それっきりもう『青いもの』も魚の形も見えず」と書いてある。ここに「魚」と書いてあるのに、「青いもの」と書いてあるということは、「青いもの」が分からないということだと思う。これが「クラムボン」である。そして19段落に「波が青白い火を燃やしたり消したりしているよう。」と書いてある。だから、「青いもの」とは「波」とは、クラムボンが笑ったり死んだりしているように見える。ということである。
 次に、1段落に「青い幻灯」と書いてある。「青い」というのは前に述べたように波である。最後の30段落にも「波はいよいよ青白いほのおをゆらゆらと上げました。」と書いてある。話の最初と最後に書いてあるので、この波を強く表したいのだと思う。それが作者(宮沢賢治)が
つくった言葉、「クラムボン」である。
 そして、8段落に「波から来る光のあみが」と書いてある。かにの兄弟が「クラムボンが笑っ
たよ。」と言ったのは、波が光って見えて、明るくなったので「笑った」と見えたのだと思う。
 以上のことから、クラムボンとは、「波」だと言える。


第5時 各段落の+(プラス)・−(マイナス)イメージとそのイメージをつくるもの

 五月,十二月の各段落を,+(プラス)イメージと−(マイナス)イメージに分け,5段階にランク分けする。その際,イメージをつくっている言葉も選び,表に書いていく。

                     表 略

  表を作成した後,その結果をグラフ化する。
 グラフから読みとれることを書き,発表する。

                         グラフ 略

第6時 五月のマイナスイメージをつくるもの

 五月を1回音読する。
 五月のマイナスイメージをつくるものとして,子どもたちから次のようなものが出された。

    魚  魚の白い腹  かわせみ  コンパス  黒くとがったもの  鉄砲玉
    花びらのかげ  暗いあわ

 それぞれ理由を発表させる。
 その後,次のような問答をする。
 T
魚は何を捕っているのですか。
 C 「命」「エサ」「プランクトン」「ミミズ」「微生物」 
 T
コンパスとは何のことを言っているのですか。
 C 「かわせみ」
 T 
黒くとがったものとは?
 C 「かわせみ」
 T 
鉄砲玉とは?
 C 「かわせみ」  
 T
かわせみは,何をするために出てきたのですか。
 C 「魚を捕るため」
 T
かわせみは魚を捕り,魚は他の生き物を捕る。このように,命を捕ったり捕られたりする関係のことを何と言いますか。
 C 「弱肉強食」「食物連鎖」「生存競争」
 T
五月のマイナスイメージは,かわせみや魚の命を捕る捕られるという関係がつくりだしています。そして,花びらのかげや暗いあわなどが,そのイメージをさらに強調しているのです。

授業のまとめを書く。

第7時  作文『五月・十二月のイメージの検討』

    1 各段落のイメージ 
    2 グラフから読めること
    3 五月のマイナスイメージをつくるもの

【子どもの作文】
 五月のマイナスイメージをつくるもの
 魚は、プランクトンやみみず、微生物をくらう。その魚は十に段落等にあるようにかわせみに食べられる。ライオンなどが弱い他の動物をくらうことと同じだ。そして魚がプランクトンを食べ魚を私たち人間という生き物がくらうということと同じことなのだ。
 この五月には「とる」「とられる」「くらう」というとったりとられたりの様子が、たくさん描かれている。この様子を、カニとして姿をかえてでている賢治が見たら、どうするか。あわれみ、悲しむだろう。賢治は、同じように生きる動物も、人も、みなに幸福を…と考える人である。つまり同じものを食べてまで、自分だけの幸せはいらないと考えているのだ。賢治は菜食主義者である。自分と同じように生きるものはみなの幸せのためにくらわない。そういう賢治カニに同じ生き物の命をうばう場面を見させる。この「食物れんさ」「生存競争」「弱肉強食」を反対している賢治カニはとてもつらいのだ。そして、妹のとしを写す「クラムボン」の死と、この「食物れんさ」がカニの心をおおう。とても悲しいことを、この五月はくやみながらえがかれているとわかる。だから五月は「マイナスイメージ」をもっているのだ。
 賢治の話の他の作品にも、「やまなし」のように自然のありさま、人間の欲望、悲しみというようにみのまわりを表されている。他の何冊かの本はすべて自分を主人公にし、ありのままの姿をえがいているのだ。
 例えば、他のものを殺してまで自分が生きているというあわれさになげく『よだか』の悲げき。(よだかの星)
 本当のまことの幸せをさがすジョバンニたちの銀河鉄道。
 「貝の火」を手にしたことで、みにくい「欲望」にきづくきつねのホモイ。
 自分の心と世の中のありのままの生きざま。これを童話や詩に表す。そう考えると、この「やまなし」の五月と同じなのだ。
 カニたちへおそろしいことは、賢治の身におこったことなのだ。
 そして、かわせみが魚をくらうというカニのこどもたちには見たこともなくおそろしく、ぶるぶるふるえることのようにマイナスがかかれている。それをひきたたせるように、授業にあった魚の白い腹や「取っている」などとある。かばの花、鉄砲玉等も、このマイナスイメージをつくるものになり、五月の方の話に出てきている。
 賢治の心と体のできごとと、世の中のこと、そのものをひきたてるワンポイントが入っていることで、五月はマイナスイメージとなっていくのだ。
 だから五月はマイナスイメージなのである。

第8時  十二月のプラスイメージをつくるもの

 十二月を2回音読する。
 十二月のプラスイメージをつくるものとして,子どもたちから次のようなものが出された。

  やまなし  酒  におい  にじ  月光  影法師  親子  波  穴

 意見を発表させた後,「かわせみ」と「やまなし」を対比させた。
    
「かわせみ」     「やまなし」 
      鳥           植物
     こわがられる     よろこばれる
     こわい         こわくない
     命をとる        命をつなげる
     動く           動かない

  対比を発表させた後,次のように説明した。
 「五月のマイナスイメージをつくるものの中心がかわせみ。十二月のプラスイメージをつくるものとして,その対極にあるのがやまなし。さらに,プラスイメージを強調する表現として,波や虹や酒や影法師や穴があるのです。」
    

  作文『五月・十二月のイメージの検討』の続きを書く。残りは宿題とする。
  4 十二月のプラスイメージをつくるもの

【子どもの作文】
 十二月のプラスイメージをつくるもの
 賢治は、五月をマイナスイメージにし、十二月をプラスイメージとしてつなげた。それは五月はかわせみ、十二月はやまなしと、うれしさや楽しさと反対におそろしさやこわさをつかった。
 かわせみのイメージとは鳥であり動き、他のものの命をうばいながら生き続ける。
 逆にやまなしでは、あれば喜ばれ、こわがられることもなくかわせみと逆に食べられる方になり、命をつなげるイメージをもつ。
 この二つを比べると、五月と十二月とは、プラスとマイナスでできているとわかるだろう。
 次に、やまなしと他のプラスイメージをつくるものについての検討をする。そこには、「にじ」「かげ法師」「親子」「穴」というように+をつくるものをあげていこう。
 「にじ」とは雨のあとに光がさしこむことででるものだ。五月のカニたちの大きなしょうげきに光をさし雨をやませ「にじ」をつくる。つまり五月のカニのしょうげきの−の心に、うれしさや楽しさなどをもり立たせるにじをさすということなのだ。
 かげ法師と賢治が表したのは理由があると考える。そのまま三匹のカニと表せばいいものを三つのかげ法師とえがかれている。それはわざとなのだ。賢治は十二月のうれしいイメージをふかくするものの一つとして、このかげ法師をつかった。これは、「かげ法師」と表すことで、カニの親子といっしょに幸せもひっついてくる…というようなイメージでいつもひっついてくる「かげ」は表せる。そして同じイメージをひきたてる「月光のにじ」にも関係している。月光のにじの光が出ると、カニの親子の背にはかげ法師がでてくる。つまり、にじと光が幸せをはこび、その幸せをかげ法師へとつけて穴までもっていく。穴へ入ると青白い金剛石の粉をはく波がゆれた。というように、プラスイメージをつくる「にじ」「かげ法師」「親子」「穴」、「波」はつながりがあるのである。同じプラスイメージはこのような関係をもち、十二月をうれしさや楽しさ、幸福を表す。金剛石の粉のゆれたあとも平和がつづく…、というように表されているのだ。
 そして、賢治自身の心と身体のえいきょうを重ねているのだ。
 十二月のプラスイメージの「やまなし」は、賢治の十二月での幸福の中心なのだ。そしてそれにつけたすプラスなものたちは中心の幸福をやるために行ったことや、中心以外の小さな幸福だと読むことができる。
 五月との対比と、マイナスイメージをかえるためにつかわれた十二月のもの。そして、賢治の身のまわりにあるものすべてが、賢治の幻灯として表れているのである。
 やまなしは、かわせみとちがって命をつなぐ。
 月光のにじは、雨(五月のマイナス)の後のカニの心を、もり上げる。
 そして、ここからつながっていく、カニたちの平和なふんいき。それに重なって「やまなし」のこの童話にでてくる賢治ガニ。
 これらのものがつながることで、賢治が生まれ、有名になる。この童話を読むことで、幸福になれると願う作者。こうやって、この十二月のプラスイメージがつくられていると考える。

第9時  五月の世界と十二月の世界

   五月と十二月を「○○の世界と○○の世界」のように表す。子どもたちから出されたのは,以下の通りである。

 不幸な世界←→幸福な世界      争いの世界←→おだやかな世界
 やみの世界←→光の世界      欲望の世界←→未知の世界
 現実の世界←→夢の世界      かたい世界←→やわらかい世界
 汚れた世界←→きれいな世界    現実の世界←→理想の世界
 地獄の世界←→天国の世界     死の世界←→生の世界
 冷たい世界←→暖かい世界     黒いダイヤの世界←→黄金のダイヤの世界
 昼の世界←→夜の世界        争いの世界←→平和の世界
 みにくい世界←→さわやかな世界    戦争の世界←→平和の世界
 しばられている世界←→自由な世界    動物の世界←→植物の世界
 青い世界←→黄金の世界       こわい世界←→楽しい世界
 とし子の世界←→賢治の世界     つらい世界←→なごみの世界
 始まりの世界←→終わりの世界    暗い世界←→明るい世界

作文『五月の世界と十二月の世界』を書く。残りは宿題とする。

【子どもの作文】
 まず、五月に出てくるかわせみ、十二月に出てくるやまなしを対比する。
  かわせみ         やまなし
   食べる           食べられる
   動く             動かない
   ざんこく           幸福
命をとるもの 命をつなげるものとなる。このことから、かわせみ(五月)では、おそろしい感覚、それとは反対のやまなし(十二月)での感覚は、命をつなげ、みんなのため、賢治の理想に向かっていると分かる。このことと照らし合わせて、この二つの季節のそれぞれの世界を表す。

欲望の世界 未知の世界
暗い世界 明るい世界
死の世界 生の世界
冷たい世界 暖かい世界
しばられている世界 自由な世界

となる。私が選んだ世界とは、「現実の世界 理想の世界」である。
 まず、五月には、「食う、食われる」といった、弱肉強食の世界。これは、賢治のきらいな現実をありのままに表現したもの。しかしそんな五月に、きれいなかばの花びらが流れてくる。これは、五月と十二月の境目を表すものです。そして、その実が「やまなし」となり十二月がやってくるのだ。
 また、十二月では、“自分も生きてゆけるが、他の命を失わずに助けることができる”そんな賢治の夢の理想が表されている。こんなふうにしてこの五月、十二月を対比させてみているのだ。
 しかし、五月は、マイナスイメージだが、季節は春だし、昼間だ。十二月でも、五月と同じように、感じる世界と見た目の世界が、十二月と、五月とは逆だ。
 中国の古い言葉で『夏日おそるべし、冬日愛すべし』という言葉がある。この意味はよく私には分からないが、それを自分流(賢治)に解釈してみる。まず、賢治の生まれた時代は、科学文明の恩恵を、それほど受けなかった時代。今の、ストーブやクーラーなど、もちろんなかった。その中でも冬は特に皮ふにあたえる不快感をしんぼうしなければならなかった。当然冬の方が、生活が厳しかった。だから春は、みんながほっとする季節なのだ。しかし賢治はちがった。冬に農作業をするのは大変なこと、それを賢治は助けている。国語の教科書からも分かるように、農民たちの仕事を手伝うことは、自分の理想に確実に近づいているということだ。自分に楽をさせないため、ドンドン厳しい立場になってゆく。しかしそれは、賢治にとっての、大きな前進となっているのだ。だから、つらい立場の方が、自分の理想に早く近づける。という意味と考える。このことから五月と十二月の、見た目の感じが逆になっている意味が分かるのだ。
【子どもの作文】
 五月と十二月の世界と出してみると,「現実の世界 夢の世界」と読める。
 以下,理由を述べる。
 この「やまなし」で世界をつくるとしたら,賢治が「心象スケッチ」といっていることの理由が分かる。賢治の理想とは「世界全体の幸福」なのだ。つまり,五月のように弱肉強食の世界を見る賢治は,理想ととてつもなくちがうということなのだ。魚は自分を生かすため,他のものを食らおうとしても生きる。その魚をかわせみが食べる。賢治にとってきらうかんきょう。だから,五月は現実の世界なのだ。そして,賢治自身の身の回りで起こっていること。それが五月にこの「やまなし」の話として,理想とはちがう現実のきびしさを,深くえがいているのだ。
 次に,十二月の方を述べる。
 五月は現実をうつしているならば十二月は何を写しているのか。それは賢治の理想的な世界である。十二月のプラスイメージの「穴」「にじ」「波」はみな,プラスイメージをつくる幸せという意見が出ている。しあわせそうに穴へ帰るカニ。五月の雨のような現実に対し,「にじ」という理想の橋。いつまでもカニの幸福を見守る「波」。賢治にとってみんなが幸せになり,いつまでも見守っていられるような夢の世界。まさに,賢治の思いそのものなのだ。そしてプラスイメージにつつまれた幸せ。賢治の理想とは,みんなが本当の幸せになり,そして自分がそれを見守ることだったのだと思う。
 そして現実と理想のきびしさをこの「やまなし」でえがいたのです。自分がどんなに努力しても現実はとてもきびしくつらい。世界全体を幸福にしたい。そんな気持ちがわいてくるのです。そしてこう考えると,クラムボンとの結びつきがよくわかります。クラムボンとは妹のとしである。つまりとしがなくなってしまった後の賢治は,やまなしでの五月に,としという理解者の死と理想と現実のきびしさ,「弱肉強食」という悲しみをかいた。
 これは賢治のまわりの現実だった。
 そして平和な世界。親子にやまなしというこれからも命をつなげていくという平和なできごとが十二月にはある。これこそ賢治の理想である世界。自分も世界の幸せを見守っていく世界なのだ。
 そしてこれを「雨 にじ 」というようにも読める。現実のおそろしさ。それを雨として表す。そして,理想というかけがえのないもの。それをにじとして表したのだ。
 だから五月は賢治にとってとても悲しく,恐ろしい世界,「現実の世界」なのだ。
 そして永遠に続く幸福を見守れるような十二月の世界「理想の世界」なのだ。
 以上のことから五月と十二月の世界は,「現実の世界 理想の世界」なのである。

第10時 やまなしは何を表しているのか

 十二月を1回音読する。 
  やまなしは生きているか,死んでいるかについて考えさせた。
     生 19人   死 9人
  それぞれ理由を発表させた後,やまなしは何を表すのかを考えさせた。
 子どもたちからは,次のものが出された。

 希望  幸福  やさしさ  賢治の生き方  地球  賢治の分身  賢治自身
 平和をつくるきっかけ  命の尊さ  生きることのうれしさ  みんなの幸福  トシ

 それぞれ理由を発表させた。
 作文『やまなしは何を表しているのか』を書く。

【子どもの作文】
 希望である。以下、理由を述べる。
 まず、やまなしは生命のかたまりである。やまなしは果物であり、命をつなげる物だ。やまなしが生まれてきた理由は、食べてもらうためである。そのために熟すのだ。だからやまなしは自分の仕事を果たすまでは生きている。生きたまま食べられ、死ぬのだ。そのかわり、他の生物が生きる。そのようなことが命をつなげるということである。反対意見にやまなしは死んだまま命をつなげるという意見があった。しかし、それは違う。やまなしは死ぬことによって命をわたすが、食べられるまでは生き生きしているのだ。28段落のように「ひとりでにおいしいお酒ができる」のはやまなしが生きている証拠であるのだ。そして他の生物に命をつなげるために準備をするのである。
 また、やまなしが生きているということは、23段落からも読みとれる。「きらきらっと黄金のぶちが光りました」という文からだ。光とは生命である。死んでいるものには輝きはない。生きているから光るのである。このぶちが黄金に光るのは、美しさから生命を表現しているのだ。よってやまなしは生きていると言える。
 では、生きているやまなしがなぜ希望となるのか。ぼくたちが毎日生活しているのは、希望や夢があり、楽しいからである。生きたやまなしが他の生物に命をつなげると、その生物はやまなしのかわりに生きる。その生物の暮らしが希望であるのだ。楽しく生きるすべての生物は希望がある。しかし、五月の段落で賢治は激しいショックを受け、しばらくはとしのことばかり考えていた。だから、毎日が生き生きしたものでなくなり、希望がなかった。その希望を新しく見つけたのが十二月の段落である。このころから賢治はまた、目標に向かって激しく燃えていったので
ある。やまなしは希望であり、立ち直りのきっかけともなる。五月の悲しみの中心・・・かわせみとは全く対照的に十二月の希望の中心・・・やまなしが登場するのである。そして悲しみが賢治の心を弱く、希望が強くするのだと言える。
 以上のことから、やまなしは希望を表現していると言える。

第11時 『やまなし』の中の無常と輪廻

 この時間は,『やまなし』の中にある無常観,そして輪廻について,教師の考えを示した。
 同時に、詩集『心象スケッチ 春と修羅』より「序」と関連させながら読んでいった。

※ 輪廻・・・五月にも十二月にも,形こそ違うがおなじ輪廻が描かれている。
    五月の中の輪廻・・・魚は餌を捕り,かわせみはその魚を捕る。そのかわせみもやがては命を失い,小さな生き物たちの餌となっていく。五月では,食う・食われる,殺す・殺されるといった殺生による命のつながりが描かれている。
    十二月の中の輪廻・・やまなしは,自らカニたちの酒になるために身を投ずる。やまなしの命は,カニの命として受け継がれる。五月の殺生とは違う,自ら命を与えることによる輪廻がそこにある。

※ 無常・・・世の中の全てのものは,常に定まりなく変化し続ける。形あるものはその形を失い,命あるものは,いつか必ず死を迎える。五月に出てくる魚,かわせみ,光,クラムボン,十二月に出てくるやまなし,月光の虹など,『やまなし』に描かれているすべてのものが,生滅変化している。これは,『やまなし』そのものが無常を表していることの証拠である。

※ 生死一如・・・魚の死はかわせみの生であり,やまなしの死はカニの生である。あるものの死は,同時にあるもの生であるという考えを生死一如という。これを象徴するものがクラムボンである。クラムボンは,笑い,殺され,そして再び笑うというように生と死をくり返している。つまり,クラムボンは,生と死を同時に持つもの,生死一如の象徴として描かれているのだ。

※ 永遠・・・五月,十二月には,生滅をくり返すものが描かれている。しかし,変わらないものが一つある。それは,川の流れである。常に変わらず流れ続けるもの。それは,永遠の時の流れに他ならない。『やまなし』は永遠の時の流れを写した二枚の幻灯である。五月の前には十二月があり,十二月の後には,五月がやってくる。

※ 生滅・・・『やまなし』の世界は無常の世界である。すべてが生滅変化をくり返す。五月のイメージは,+と−が何度も入れ替わる。+を生,−を滅と読めば,五月のイメージそのものも生滅変化している。さらに,五月全体が−で,十二月全体は+である。『やまなし』が永遠であり,五月と十二月がくり返されるとすれば,二枚の幻灯そのものも生滅変化していることになる。

第12・13時 作文『やまなしの中の輪廻と無常』『やまなしと「春と修羅」』

【子どもの作文】
『やまなしの中の輪廻と無常』

 輪廻とは、「すべてのたましいは、転々と他の人間や生物にうつりめぐり、永久にほろびることがない」ということを指す。やまなしに輪廻がどのように取り入れられているのか。
 五月を検討する。
 この場面にも輪廻が描かれているだろうか。かわせみとクラムボンについて考える。
 かわせみは五月のマイナスイメージの一つである。その内、毎日のように絶えずエサをとり続けている。これは、命を失うと同時に新しい命をつなげていることになる。かわせみもうばいあうことで、命をつなげていく。すると、形は変化するが生死を繰り返している「輪廻」である。
 十二月の「やまなし」も、自ら命を与えることで変化しているのだろう。次に命を再びとりもどし、姿を変えることが新しい季節の変わり目として表現されているのだ。そして、この殺生による輪廻と、自ら命を与える輪廻の象徴として「クラムボン」が書かれている。笑ったり、殺されるさまざまな表現も輪廻を繰り返しているあかしなのだ。他にも、かばの花が酒となったり、段落ごとにプラスマイナスが激しく変化することで、五月全体が輪廻であると言えるだろう。
 無常とは、「この世の全てのものが生じてほろび、決して永遠ではない」ことを指す。五月を例にした輪廻からもわかるように、やまなし自体が生滅し変化を続けていることがわかる。
 やまなしに登場するものを考える。
 「世の中の全てのもの」をこれに置きかえる。魚、かわせみ、日光、にじ、やまなし、クラムボン、カニ・・・。生を受けたものは必ず死をむかえる。これを無視することはできない。しかし、このやまなしにも常に一定の形を守り続けているものがある。時の流れである。プラスマイナスを繰り返しながらも受けつがれていく時間と共に、時の流れも永遠にとだえることはない。
 カニの成長の変化も、生死をくり返す時間も、いいことも悪いことも全て一定に保たれている時の流れこそがつくり出している世界なのである。
『「やまなし」と「春と修羅・序」』
 賢治の描く童話は「心象スケッチ」として表される。この「春と修羅・序」と「やまなし」は、賢治が思うままに書いた童話であり、そこに共通点がある。
 「やまなし」と「春と修羅・序」の共通するところと言えば、「例え」である。「やまなし」
で輪廻をクラムボンに、イメージを魚やカワセミに例えたように、「春と修羅・序」では、賢治自身を有機交流電灯の青い照明と言っている。なぜわざわざ他のものに例えたのだろうか。それはきっとこうだろう。
 賢治は幼い時から植物の生長や人間の生き方に疑問を持っていた。輪廻をくり返すときに殺し合い、うばい合うことで、人間も動物も植物でさえも恥をさらけ出しているように思える。賢治が菜食主義者であったように、素直に現実を受け入れることができないのだ。しかし、例えを入れることで、ありのままの世界を、心象スケッチを描いているのだ。それがこの「やまなし」と「春と修羅・序」から読みとれ、共通する部分と言える。
 次に、この二つに共通点があるとすれば、「新しいものを追っている」ということだと思う。「やまなし」全体が輪廻であるとするならば、これは永遠に続く。そして絶えず新しいものを探していることになる。「春と修羅・序」ではこうである。「化石を発掘する巨大な足跡を発見するかもしれない」とある。山に登ったり、植物や鉱石を採集することが好きだった賢治にとって、次に新しいものを求めている、ということになる。「やまなし」も「春と修羅・序」も新しいものを求めていることが共通する。
 そして、「やまなし」にも「春と修羅・序」にも、「雨ニモマケズ」にも青色が使われている。青が使われているところは明るいいいイメージの場面である。これは、未来や希望のあらわれだと思う。新しいものを求めていることと青も同じなのだと言える。
 「やまなし」と「春と修羅・序」の共通点は、例えと新しいものを追う青である。

第14時 「やまなし」は理想を描いたのか

 まず、五月と十二月を対比させた。
 
     
五月    十二月
      昼      夜
      春      冬
      日光     月光
      明      暗
      温      寒
     にぎやか    静か
   生き物が多い  生き物が少ない
     現実      理想

 その後、次のように発問した。

五月が現実を表し、十二月が理想を表すと読むなら、現実を表す五月が暖かく明るい場面
として描かれ、理想を表す十二月が冷たく暗い場面として描かれているは、なぜですか。


ノートに意見を書いた後、9名が発言する。

 「やまなし」は理想を描いているのですか。それとも、理想を追うほど現実に打ちひしが
れる賢治の心の中を描いたのですか。


理想を描いている・・・11名   理想を描いているのではない・・・18名

第15時 作文「やまなし」は理想を描いているのか

【子どもの作文】
 「やまなし」とは理想を描いているのか。それはちがう。
 以下、理由を述べる。
 「やまなし」とは一つの灯である。灯とは消せばつけられ、つければ消せる。賢治の心も灯であった。その灯には暗やみがある。暗やみとは次に光がみえる。暗やみとは光をおう。光ろうとするのだ。十二月とは命を自ら負担し続けていく賢治の理想なのだ。だがなぜか月がでる夜で暗く、さみしい感じである。そして十二月とは寒く冷たい。温かい方が理想なのになぜ暗くするのかなぞだ。灯とは明るい。明るいとは理想へつながっていく。賢治の理想へつながっていくのだ。
 逆に暗いというのは明るいへつながっている。こう考えると理想は現実につながっている、という考えになる。つまり五月は現実は理想へ続く。そして十二月は理想は現実につながるということになる。そうするとこの「やまなし」には賢治の二つの心があるとわかる。そして、対称に描かれている、ということになるのだ。五月の現実から理想へつながる、という意見の暖かさとは、夢を追う賢治のつよいしせい。次に十二月とは理想から現実となっている。理想から現実と考えると賢治の考えと逆になってしまうのだ。
 それはなぜか検討してみよう。
 もし私の考えるように理想から現実というようにつながるとしたら賢治の考えとはちがっている。それはどうしてか。
 賢治の心の中に現実という負担がのしかかってきたからである。仏教の輪廻や無常を信じていると言うことは、仏教の輪廻と無常とはとても賢治にとってじゃまになる。これがあるかぎり理想にはおいつかないだろうという考えがでてくると思うのだ。理想とは暗いもの。現実へつながっていってしまう。つまり前述べたように輪廻の世界は賢治にとって理想をかなえるということに、本当にこわさなければならないかべとなってしまう。つまり賢治の心の灯の一部は現実におびやかされていたということなのだ。十二月を理想としてた中で、兄弟げんかをしたりした。だ
が、この暗やみは、やまなしのおかげで明るい光がさしこんだ。これは光が暗やみへ、暗やみが光へさしこむということのつながりの証拠だ。だからまた暗やみへと光はつづいてしまう。これと逆の光を追う賢治が自ら暗やみは光へ…。光は暗やみへ…。といいはっている。
 他の作品「春と修羅・序」でもわかる。これも同じように光は暗やみへ。暗やみは光へ。とくさりで結ばれている、といっている。ということは賢治は自分のかべ、輪廻と無常に対して反こうせず認めたように語っている。
 賢治は自分の童話、詩を「心象スケッチ」といっている。ということは反こうせず輪廻、無常を心象スケッチで認めたということは、次のように答えれるだろう。賢治の心には、本当に少しあきらめてまおうかという気持ちがあるということだ。
 だから「やまなし」とは理想を描いたのである。
 次に、「青」という賢治に対する色で検討してみよう。
 前述べたように、五月と十二月を対称にして描かれている。十二月は明るいが本当は暗い。「やまなし」の話の中にはこの「青」という色がたくさんつかわれているのだ。五月と、十二月には同じ輪廻がある。五月は「とってくらって」という食物れんさの中で続く輪廻。そして十二月には、やまなし自体が自ら命をたち、命をつなげるという輪廻。この幻灯の中には二つとも輪廻がある。私は授業のとき五月は現実、十二月は理想と解釈したが、それはちがうのだ。いくらちがう輪廻であったとしても、輪廻は輪廻である。だから賢治にとっては敵や理想へいくためにじゃ
まになる輪廻なのである。
 ということは理想ではなく二つとも現実。灯で考えれば五月も十二月も消えるにつながっている。五月はかわせみが魚をくらうおそろしい世界。十二月も光は暗やみへと続くという世界。だから二つとも現実なのである。その現実の中にでてくるという「青」。やまなしでは、二段落も、三段落も、三十段落も他の段落と同じように「青」が出てくる。
 つまり二つの現実世界に青が出てくると言うことは、この青は現実に対する悲しく、こどくな色。おそろしい色。ということになるのだ。悲しいことイコールこの二枚の現実という幻灯なのだ。
 だが賢治は、このように理想とは遠いものと知っていてもあきらめなかた。その悲しい青色を美しい色へかえることをあきらめなかった。すこしでも理想へおいつくために、その心を表す童話や詩を書いたり、苦しんでいる農民への手助けをしたり…とあきらめずやっているのだ。
 だがその中にも賢治の負担や苦しみがあり、このやまなしがあるのだ。現実の色「青」はその証拠をよく出す。「やまなし」の最初の一段落の意味もよく分かる。
 「小さな谷川の底を写した、二枚の青い幻灯です。」
 これは「小さな谷川に今の時の流れを写した、二枚の悲しい(青い)現実(幻灯)です。」という意味なのだ。悲しい現実。「やまなし」は理想を描いているかを、このように考えると、理想へのはかない賢治の思いが「やまなし」に描かれているとわかるのだ。
 だから「やまなし」とは理想は描いてはいなく、現実という悲しさ、おそろしさを賢治はあらわしていると思う。

第16時 色の検討

出てくる色を、すべて順番に書き出させる。各自ノート作業。
 
  青・・・7回  青白・・・3回  黄金・・・4回  白・・・5回
  銀・・・2回  黒・・・5回  赤・・・1回  鉄色・・・1回  金・・・2回
 
 それらの色が何を表す色なのかを書かせる。(例: 白→かばの花)   
対比されている色は何かを考え、対比の意味をノートに書く。

第17時 青は何を象徴しているのか

 出てくる色を、下のようにグラフ上に配置する。

               グラフ略

  5名の子に板書させる。
 
 「この中で、おかしいと思うものはどれですか。」と問い、検討する。
  銀、黒、青の順で検討された。
  『春と修羅』『無声慟哭』のプリントを配布し、教師が読む。
  二つの詩にみられる「修羅」と「青」との関係について説明する。
  「青は何を象徴しているのか」について、ノートにまとめる。

第18時 作文「青は何を象徴しているのか」

【子どもの作文】
 青とは「生滅」を表す色である。
 以下、理由を述べる。
1 青に対する賢治の思い
 青とは賢治にとって悲しくこ独な色である。「春と修羅・序」で検討しよう。
 「春と修羅・序」では賢治はこう述べている。自分は、因果交流電灯の一つの青い照明なのだ…と言っている。因果とは原因があるから結果があるという意味だ。この因果の電灯とはつけるから消せて、消すからつけるというように原因と結果の関係にいるのだ。このつける←→消すという関係を「やまなし」と「賢治の理想」にあてはめて考えよう。
 「やまなし」は「五月」は「十二月」へ続く因果の関係にあたる。賢治も自分自身は、「かなわぬ理想」から「かなえた理想」へ走る因果なのだ。理想がかなわないから理想のかなったものがあり、理想がかなったから、理想がかなわなくなる。そもそも賢治の理想とは永遠という幸福。永遠の幸福はざんこくな地ごくをおう。これも因果であるのだ。「やまなし」の五月は「現実」、十二月は「理想」である。これは無常という関係でつながると「やまなし」では表れている。永遠の幸福を追う賢治がなぜ因果を表すのか。それは自分の理想が因果というかべにはかなわないと知っていたからだ。そう考えると賢治はとても悲しくこどくだろう。その思いを「やまなし」に表したのだ。ということは段落一ではこう表れている。「…二枚の青い幻灯です。」とかかれている。「やまなし」とはこどくな賢治の思い。それを青い幻灯に表すということは、青とはこどくな色を表すということだ。
2 修羅とは…
 修羅とは「天」や「仏」などの意味を持つ。自分を修羅だといっている中で欲のふかいとてもみにくい修羅だといっている。その修羅を、修羅の世界を賢治は青に表している。青くくらい修羅の世界。青とはやはりさびしさ、悲しさ、こどくさを表す。そして修羅とは二つの賢治の心の色。黄金と青を比べてえがいているのだ。「春と修羅」でみてみよう。
「… 草地の黄金をすぎてくるもの ことなくひとのかたちのもの けらをまとひ おれをみる その農夫 ほんたうにおれが見えるのか まばゆい気圏の海のそこに (かなしみは青々ふかく)」
 草地の黄金という色と心の青という色。理想をおうために農家の手助けをする黄金の心。
 だがその中にあるみにくい欲望の青の心。この二つを比かくしていることがよくわかる。たえず明滅するのは理想とはちがい、その理想をかなえるために明滅を破ろうとする心。その中で明滅は本当は正しい。仏教の中のおしえなのだ。という理想をあきらめる心。本当は理想などおわなくてもいい。というようすを修羅として表した。
3 青の検討
 一で述べたように「青」とは賢治にとっておそろしいものなのである。それはなぜか。理想をこえるためにこえなければならないかべだからだ。やまなしの中ではいろいろなものが生滅をくり返し無常に輪廻が続く。その話を青という色で表すということはこの二枚の幻灯とは現実であり、おそろしいもの。修羅という二つの心がある中で青はその心。輪廻や、無常を続ける中で賢治にとっておそろしいやまなし。電灯のようについたり消えたりしながら生滅をくり返す。青とはそのおそろしいやまなしの中の理想とはかけはなれた明滅を象徴しているといえるのだ。生滅しほろび、生滅し、ほろびと一生この因果をたもたれ、これを表すやまなしという童話。これは青くかなしい。 その悲しみをおこすのが「生滅」なのだ。賢治にとって悲しい青。青とは理想と反対な色。やまなしはいろいろなものが生滅しながら動く。ということは青とは「生滅」をくり
返すものの象徴となるのだ。
 やまなしの最初には、「小さな谷川の底を写した、二枚の青い幻灯です。」
とある。悲しみであり「生滅」を表す色が青。そしてやまなしは生滅をくり返し無常に時が流れる話なのだ。だから最初に「青」と入るということは、もう最初からこの話をいっていて、生滅という意味をかいているのだ。だが生滅とは理想のかべでしかない。「春と修羅」で黄金と青を対比するということは、この生滅というものを表す一つの証拠なのだ。
 修羅という世界も生滅をたえずくり返しその世界を「無声慟哭」の作品では青いものといっているのだ。修羅とは仏教の教えででてくる。仏教には「生滅」「輪廻」「無常」「生死一如」のように永遠の幸福とはかけはなれたものがでてくる。賢治は仏教の修羅というこの生滅のでてくるものを「青」の世界とした。だから修羅や「やまなし」の世界は「青」であり、その象徴が「生滅」なのだ。
 だから「青」とは修羅の世界とやまなしの世界に因果の関係で流れる、たえずつけたり消したりする「生滅」というものなのだ。
4 図での説明
 右の図、「六道」とは仏教にある教えである。人間たちが死ぬと六道のどれかに行き、生まれ変わったりまた死んだりするということだ。これと賢治の関係を述べよう。
 自分は修羅であり二つの心を持つ…と数々の詩で述べている。
 二つの心とは理想を求めたい賢治と、現実にふつうにいけばいい…と理想なんてあきらめようとしている心。「無声慟哭」という詩の例をあげよう。
 無声慟哭の一部をとろう。
「わたくしが青ぐらい修羅をあるいているとき…」とある。
 これは修羅の六道の中の世界と現実の世界を歩いているときと考えられる。賢治は心をたえず生滅させ現実と修羅を歩いていたのだ。青ぐらい現実と修羅の世界をたえず生滅しながら歩いていたのだ。さて。賢治が修羅や現実をいききするときにはなぜ青という色が強くかかれているのか。それは青とは生滅というものの象徴だったからなのだ。現実を写す青い幻灯「やまなし」。
 これも生滅変化をおこしている。そして無声慟哭でも修羅の世界というように生滅をし、それを青で表している。この二つの同じ点から見ると象徴=青というようになるのだ。
 つまり、やまなしの青も生滅の世界。修羅の世界も青という世界。それを生滅しながらいききする賢治。同じ点から見て青とは生滅を表す色なのである。
 次にクラムボンやかわせみとかんれんづけて考えよう。
 右の図(略)では上の位じゅんに並んでいる。一番に「クラムボン」。二番に「カニ」や、谷川のものがくる。この順番は何に関係があるのか。六道にもかんけいする。まず「クラムボン」とは光であり、妹のとしである。次に谷川のものである。谷川とは青い。賢治の心のことなのだ。無声慟哭の中から述べよう。
「…どうかきれいな顔をして、あたらしく天にうまれてくれ…。」とある。自分は修羅にいる。だがおまえは天にいてくれ。ということだ。だから青いものよりクラムボンとは上にあるのだ。そして、青とは生滅を表し、やはり天より下にある賢治の心なのである。
そして「かわせみ」も青くなっている。食物れんさという関係の中で生き、おそろしいかわせみ。このかわせみとは、賢治のもう一つの心。自分だって生き物をころしたりしながら生きているという悲しみを、「生滅」という悲しみをえがいたのだ。六道の中で生きるものすべて生滅してまた六道へ行く。輪廻のかんけいで回りそれが無常となる。その中の修羅を青くした。そして谷川の水は青い。修羅の心をもつ賢治の心だからだ。生滅を行っている修羅だからだ。つまり、修羅とは二つの心をもち理想を追う賢治とおわりない賢治がいるのだ。
5 最大のつながり図 
谷川では一つの生滅が輪廻で無常に、五月、十二月…とつづいていく。
 そして六道の修羅と現実を生滅しながら生きる賢治がいる。これはみな生滅し、すべての関係はこのように結ぶことができる。そしてこの図には春と修羅から電灯の因果のかんけいや修羅のかんけいと結ぶことができるだろう。そして理想にはかべができて、賢治の二つの心もくわわるだろう。だからすべてものはクラムボンも十二月の世界もすべてのものは、生滅という関係で結ばれる。
 銀河鉄道の夜でもカンパネルラは六道の夜へ行った。
 貝の火の世界とは六道の中の「ちく生」にあたるだろう。
 このようにすべてのものは青とかんけいする。そして今述べてきたものを簡易にするとこの図ということだ。
 以上のことから青とは生滅というものを表す(象徴する)色なのである。
【子どもの作文】
 青色は、賢治の心のあらわれである。
 春と修羅を考える。
 ここでは、賢治自身を「修羅」だといっている。「修羅」とは何だろうか。「戦いや争闘の悲惨な場所、激しい争いの行われる場所」である。それと同時に、二つの心を持っていると書いてある。この二つの心は、「春」と「修羅」ではないだろうか。「春」は温かく、きれいで明るく、美しいイメージがある。それに比べて「修羅」は、暗く、こどくなさみしい感じがある。この二つは対照的である。賢治の心も同じである。時には明るく希望を持つが、ひどくこどくにおちいることもある。大きくゆれている賢治の心と「春と修羅」は、同じことなのだ。
 では、春と修羅はなぜ青色と関連があるのだろうか。
 青色は「やまなし」のどこに登場しているか。幻灯、上の方や横の方、かわせみ、波である。幻灯や上の方や横の方、波といった自然なものに対して、かわせみは命をとるものとして描かれている。いいものにも悪いものにも使われているのだ。これは、賢治の心がいい方に行ったり悪い方に行くあかしなのだ。それを、修羅では「春」と「修羅」に例え、青色は、「かわせみ」と「自然」に例えている。「春と修羅」と「やまなし」が心象スケッチとするならば、青色は、賢治の心のあらあれなのである。
 青色に例えられているかわせみついて考える。
 青色が賢治の心のあらわれだとすると、かわせみにも同じことが言えるだろうか。
 「やまなし」に登場するかわせみは、心の変化がなく、悪い者としてあつかわれる。しかし、二つの対照的な心を持つ賢治の場合、共感ができたと思う。賢治の本当の心に近い存在だったのだ。過去や現在のみにくい自分を捨てようとしている。この時の修羅という賢治から見えた生物(かわせみ)は、六道をさまようものであり、賢治の青い、ゆれた心なのだ。それを修羅で表すことで、自分の心と六道の流れを重ねてみているのだ。だから、かわせみは青色であり、青色は「賢治の心」を象徴しているのだ。
 青と対比されている色として、青白という色が登場する。この色も賢治の心を象徴する色の一つである。青は前にも説明したが、大きくゆれている心を象徴している。青白はそれとは反対に、冷静な心を表している。
 青白は、青に比べてうすきみの悪い、静かなイメージがある。冷たくさみしくて、プラスマイナスの変化があまりない。青白に例えているものといえば、底と波である。一定に保たれた時間の中で過ごす冷静なものばかりである。これは、賢治のもう一つの心を表している。青色が象徴するものは、青白と対比されているが、賢治の二つの心も対比しているのだ。だから、青や青白というのは、賢治の心の象徴なのだ。そして、賢治の心は、青色と深く関係しているのだ。
 以上のことから、青色は、「賢治の心」の象徴だといえる。

第19時 作文 各自で問題を設定する

 各自で問題を設定し、作文を書く。次の例題を示した。
  1 「『やまなし』における色の検討」
     「黄金は何を象徴しているのか」
     「対比されている色の検討」
  2 「やまなしの生死」 
  3 「兄弟の会話の検討」
  4 「イサドとはどのような場所か」
  5 言葉の検討
     「波」「幻灯」「底」「網」「かばの花」など
  6 「『やまなし』と賢治童話」
  
 最低1問は自分で問題を設定し論述することを課題とする。最終締め切りを3月6日とし、家庭学習で取り組ませる。

第20時 「私の幻灯」の「の」の意味・作文「序」

  「私の幻灯はこれでおしまいであります。」の意味を考えさせた。
  「私の本」といった場合、この「の」にはどのような意味があるかを考えさえた。
  「私が持っている本」という例を一つ示し、これ以外の意味を考えさせた。
  子どもたちが考えた意味は、次の通りである。

・ 私がつくった本  ・ 私だけの特別な本  ・ 私のための本
・ 私が読んでいる本  ・ 私が内容を知っている本  ・ 私が選んだ本
・ 私のことが書かれている本  ・ 私が書いた本  ・ 私が買った本

  次に、「私の幻灯」の「の」の意味を考えさせた。
  子どもたちから出されたのは、次の意見である。

・ 私が知っている幻灯  ・ 私にとって特別な幻灯  ・ 私が目指している幻灯
・ 私のことが描かれている幻灯  ・ 私のための幻灯  ・ 私の見たすべての幻灯
・ 私が映っている幻灯  ・ 私が描いた幻灯  ・ 私を映した幻灯

  その後、「私の幻灯」の意味に触れながら、論文の「序」を書くことを指示した。
  各自「序」を書く。

  論文を書く。

  これまでの学習を、論文としてまとめさせた。その際、これまで書いてきた作文の他に、自分で 課題を設定させ、書き加えさせることにした。その作業は主に家庭学習とした。
  学校では、プロットの指導をした。子どもたちのプロットの例を示す。


1 クラムボンとは何か
2 イサドとはどのような場所か
3 五月と十二月のイメージの検討
(1)各段落のイメージ
(2)グラフから読めること
(3)五月のマイナスイメージをつくるもの
(4)十二月のプラスイメージをつくるもの
4 五月の世界と十二月の世界
5 やまなしとは何を表しているのか
6 やまなしの生死
7 「やまなし」の輪廻と無常
8 「やまなし」と「春と修羅・序」
9 「やまなし」とは理想を描いたのか
10 色の検討
(1)黄金は何を象徴しているのか
(2)青は何を象徴しているのか
おわりに


1 言葉の分析
(1)かばの花の分析
(2)かわせみの分析
(3)波の分析
2 クラムボンとは何か
3 五月・十二月のイメージの検討
(1)各段落のイメージ
(2)グラフから読めること
(3)五月のマイナスイメージをつくるもの
(4)十二月のプラスイメージをつくるもの
4 五月の世界と十二月の世界
5 やまなしは何を表しているのか
6 やまなしの生死
 「やまなし」の中の輪廻と無常
8 「やまなし」と「春と修羅・序」
9 「やまなし」は理想を描いたのか
10 色の検討
   青は何を象徴しているのか
論文を終えて