浜松は昭和20年6月18日の空襲で中心市街地の大半を失いました。空襲の記録で印象的なのは、当時浜松に復員してきた人の手記だったと記憶しますが、主旨次の様なものでした。

深夜列車が一面に灯りの無い野原の様な所に停まった。空襲などで列車の運行が順調でなく、駅でもない所に何時間も停まることもザラだったので、そのまま寝付いたが、朝になってみるとそこは何と浜松駅であった。

6月18日の空襲記念日には、近くの公園で追悼集会が開かれます。

去年演壇に立った一人の方(左)は「16歳で少年兵に志願し、戦場から復員してみると、家族全員と全財産が空襲で失われていた。子供の事とて財産を守るすべも無く、少年兵は正規の軍人ではない為、軍人恩給ももらえない」という話をされていました。

当時の浜松には陸軍飛行場と飛行第7連隊がありました。先日公開された「硫黄島からの手紙」では昭和20年3月17日に玉砕した栗林中将を描いている様です。しかし正規軍玉砕後も数万の将兵が地下に潜り、長く米軍を悩ませたことが知られています。飛行第7連隊からは4月末と5月末に遊撃戦状態の硫黄島に渡洋爆撃が行われており、 航空自衛隊浜松基地教育資料館 には関連資料が展示されています。もとより戦術的戦果を期しての爆撃行ではなく、洞窟陣地に籠る日本軍将兵に「せめて日の丸を見せたい、それが叶わなければ爆音だけでも聞かせたい。」というものだったそうです。距離的にも限界であり、「燃料を積むなら爆弾を積んでくれ。」という訳で、帰路、浜松まで帰投出来ず、紀州山中に不時着した機もあった、という記録が教育資料館には収められています。「硫黄島への最後の手紙」は浜松から発信されたのです。

当時市内にあったヤマハではプロペラを作っていました。 郊外に作られたスズキの新鋭工場では高射砲の弾丸を作っていました。 しかし6月18日の空襲の目標はこうした軍事目標・軍需目標のいずれでもなく、駅を中心とした中心市街地に対する510トンの焼夷弾攻撃でした。これはいわゆる無差別「大量破壊」戦略というものではないでしょうか。

...8月15日にはこれらの戦陣に散り、戦禍に倒れた人々のことに思いを致し、全国戦没者追悼式に臨んでいます。
というのは昨年12月の天皇誕生日記者会見における天皇の御言葉の一部です。それほど長くはない御言葉ではこれに続いて、
...戦闘に携わった人々も、戦闘に携わらなかった人々も、
...国や国民のことを思い、力を尽くして戦い、あるいは働き、亡くなった人々......

と同じ意味の言葉が三回も重ねられています。御言葉は宮内庁の専門家が原文を作り、天皇がチェックして決めるのだそうです。同じ意味の言葉を三回も重ねる、というのは専門の文章家がすることとは思えず、後からチェックが入ったと考えることが出来ます。「綸言汗の如し」という天皇至尊の立場からすれば大御心を悩ませ、同じ意味の言葉を三回も重ねさせるというのはちょっと想像がつかない事ではないでしょうか。戦前なら切腹ものとも言えるでしょう。

元宮内庁長官による昭和天皇の「だから私(は)あれ以来参拝していない」という発言のメモも新聞紙上を騒がせました。 しかし軍民の犠牲者を共に祀る慰霊施設ではなく、「軍神」を祀る靖国神社への政府関係者の参拝が続いています。