2011.10.25

御殿か獄舎か
殿様か下男か

「殿」というと、今の人は志村けんの「馬鹿殿」くらいしか思い浮かべないのではないでしょうか。元々「殿」というのは「御殿」「宮中三殿」のように、主要目的に使われる建物、という意味を持っている様です。「殿」に居る人がその建物、あるいは建物群の主、つまり「殿様」という訳です。



平安以来の貴族住宅では、殿の廻りを「庇」が取り巻いています。「庇」部分は「縁」とも呼ばれ、庶民住宅では床を張らない「土庇」で「縁台」を置いたりしました。

当時からつい昨日までの日本人は、余程身体が丈夫に出来ていたのでしょう。殿と庇の仕切りは障子程度、庇の先は昼間は建具が無く、外の空気が通うというものでした。夜にはここに板戸を立てます。

ローマ帝国の「浴場」と呼ばれるものは、沐浴もありましたが、床下に蒸気を透す「床暖房」が主要な設備で、「風呂屋談義」よりも重要な、帝国の会議に使われる会議室もあった様です。窓は空気抜きの小さな穴程度で、季節の良い時は中庭で過し、寒くなると暗い部屋の中で明かりをともしていた様です。

ルネサンスの頃まで「宝石より高価」だった板ガラスは、近代に入り急速に広がりました。どの部屋にも窓から明かりを取り入れることが可能になったのです。

明治維新と同時に入って来た外国の文物の中で、住宅デザインに大きな変化をもたらしたものの中に、板ガラスもありました。明治村に保存されている当時の顕官の邸宅や、夏目漱石、幸田露伴といった小説家の自宅を見ると、当時の日本人の窓ガラスへの傾倒が感じられます。

時は流れ、戦後の「住宅難」の時代を乗り越え、都市に人口が集中する頃、住宅に求められたのは「如何に小さく、多くの家族を収容するか」と「個人のプライバシー」でした。



二つの命題を解決する為、中廊下の両側に個室が並ぶ、という今のマンションスタイルの間取りが、戸建て住宅にまで蔓延しています。かっての「殿」と「庇」からなる住まいとは似ても似つかない「監獄スタイル」の住宅です。

家事労働の合理化ということで殿様も、家事管理者が仕切る作業場と中廊下の、脇に並ぶ個室でおとなしくしていなければなりません。

「個人の尊重」は他人との「縁を切る」のが手っ取り早い、という訳で縁側の無い家が都市住宅の条件みたいなデザインが流行しました。都市住宅では敷地が狭いこともあって「自然との縁」も同じ様に断ち切られてしまいました。

以前は立って歩く床と座る床に別れていて、それなりに合理的な空間だった立ち仕事の作業スペースも、「土間に這いつくばる主婦のスペースを殿と同じ高さにかさ上げしよう。」という農村住宅改善運動などで、座敷と同じ高さになり、残されたものはますます汚く見える畳でした。



もう一度平安時代以来の「殿」と「庇-縁側」の機能を振り返り、畳は立って歩く床から尺三寸上げる、縁側を取れれば取って、外側に断熱性の高いサッシを入れる、といった工夫をすると、日本の住宅の伝統的な知恵がよみがえるものと思います。


風の中の家


市郎兵衛家の改装 

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