-在所の仕事
-敷地
-平面が決まるまで
-最終的な平面
-立面
-人達
-工事中(建物が!)
-引っ越したぞっ
-バンドがやってきた
-冬の午後2時30分
-「侘」と「錆」

人達

えいぢ一家

阪神大震災が無ければこの家はこうした形で立つことは無かったかもしれない。 長男が家に居着かない家風の通り、在所の長男である彼は、20年この方 奉職した船会社の所在地である神戸に住まいしていた。 構造不況業種である開運会社にとっては、震災はリストラの好機であったろうとおもわれる。 戦前のしっかりした造りであった本社社屋は、震災にも深刻な被害は受けなかったようであるが、 人間の方はそうは行かない。 住まいであった社宅こそ倒れはしなかったものの、日常生活が崩壊してしまったのだ。 「もし」という仮定に意味は無いが、あの大震災が無かったら、 希望退職者の募集があっても、彼が応じたかどうかは解らない。

昔もそうだが、今の日本でも大半の人は「住みたい場所」に住んでいる訳では無く、 その場所に「仕方なく」住んでいる、と言うのでは無かろうか。 土地が無いから、という割には国土の大半は過疎地と化している。 長時間通勤は嫌だという割には、高速道路は未だに有料である。 御一新から130年になるが、「住みたい場所」を考えるよりも、 「仕方ない」と考えることの方が多く、それが今の国土の姿を造り出しているのであろう。

彼が浜松に帰って来て、「家を建てたい」と言った時に、 時間を書けて聴き出したのは「どこに住みたいか」という点であった。 既に田圃を埋め立てて、そのために準備した敷地に建てることを決めるまでには、

  • 新たに土地を取得するには土地代金が高すぎる。
  • 田圃を埋め立てて、そのために準備した敷地がある。
  • 彼が20年間、他所に暮らす間に、在所の環境も様変わりして、昔と同じでは無くなっている。
  • 旧集落の環境がそれなりに守られているのは、 「隣近所を気にする」という昔ながらのル−ルに住民が従っているからであり、 そのルールは必ずしも現代の我々にとって、抵抗なく受け入れられるものとは言えない。
等と言う話を1年程も交わした。妻にとっては夫の在所は特別に愛着のある場所では無い。 とは言え、他所にどうしても住みたい、ということも無い。ひとり息子は生れ育ちからして、 「神戸の子」であり、浜松の高校では無く、神戸近くの全寮制の高校にひとり旅立つことにした。 結局「ここに住みたい」かどうか、というはっきりした意思決定のもとに、ではなく、 畑に建てれば建つのだから、良いではないか、という成り行きで敷地が決められた。


じいさま

工事が始まって以来、じいさまは毎朝、カメラ持参で母家から出勤して、工事の様子を撮影している。 近所の同年輩の人々が立ち止まっては話をして行く。 彼が新築工事で一番幸せを感じているようだ。


Robert Cole一家





ボブはこの建物を終わったら、子供の幼稚園入園を期にシアトルに引き上げるという。 10年間の日本滞在から見て、「日本社会を一言で表すとすれば?」と聞けば彼は
「仕方がない。」
と言う言葉を挙げるかも知れない。確かに日本の歴史では「仕方がない。」と言わなかった人々は死刑!であったが、 米国の開拓史では「仕方がない」と言ったやつは大西洋岸から大平洋へ辿り着くまでにヒモノになっちまったに違いないからね。







左:Robert Cole
右:Mrs. Koyama