-在所の仕事
-敷地
-平面が決まるまで
-最終的な平面
-立面
-人達
-工事中(建物が!)
-引っ越したぞっ
-バンドがやってきた
-冬の午後2時30分
-「侘」と「錆」

敷地

敷地は浜松市四本松町にあり、旧芳川村字四本松集落の縁に位置している。 田圃を10年程前に埋め立て、畑として使用していたものである。 天竜川下流の氾濫源に属し、埋土もシルト−粘土の田土で、降雨時にはぬかる。 このため過大な地耐力は期待出来ない。


大日本帝国陸地測量部
明治25年刊
二万分一地形図
「濱松」より

四本松はもと長下郡芳川村に属し、江戸時代には浜松宿の大助郷であった。 将軍上洛などの時には狩り出されるが、常は百姓という「田舎の入り口」らしく、 浜松からから街道を下った橋のたもとの、番太郎が居たらしい場所に交番が立っていたが、 いつの間にか場所を変えて新しい建物に引っ越してしまった。

江戸の吉原同様、「葦川」ではあんまりだ、という訳で「芳川」にしたのであろうが、 天竜川の河口近くの氾濫源であることには変わりはない。 上の図で集落の間に網の目の様な模様を描いている田圃が、 天竜川の旧河道であろう。昭和19年には堤が切れて、 村の北側の小溝を天龍の本流が走ったという。しばらく前まで本家の軒下に、 舟が吊られていたのも、そのためであろう。

四本松は田舎の癖に宿場に近い所為で、江戸時代には街道筋に出て、 屋根屋稼ぎをしたものが多かったという。 浜松宿の屋根屋で稼ぐばかりでなく、宮本常一さん謂う所の「世間師」を生む土地柄であろうか、 家系には近郷で始めて江戸に行ったことがある、「江戸行き清サ」というのもいる。

江戸時代から街道筋の近在らしく遠州縞と称して棉織物が盛んであった。 御一新の殖産興業で、それまでのイザリ機に細工をするのが流行り、 浜名湖の向こう、鷲津村では豊田佐吉が「豊田式」と称したが、 隣の芳川村字鼠野では指物大工だった鈴木道雄が「鈴木式」と称して、 やはり機械仕掛けの織機を売り出した。 ともに織機から自動車に乗り換えて現在に到っている。

殖産興業だけではなく、それまで手形を持って江戸・京都へ行っていた代わりに、 旅券を手に入れて海外雄飛を図った人々も居たらしい。 鉄道が開通し、「モモタロウサン」の童謡が流行ると、その尻馬に乗って、大陸を目指した人もいた。 村社熊野神社の境内には「奉天遠州銀行株券奉納」の石碑が立っている。

家尊も「尻馬の尻馬」位の口で、昭和7年3月1日満州國建国の折にはその経済部に奉職している。 しかし、これは本人も言う通り、養蚕学校卒の学歴では、 内地に居ても雇員から吏員になるのが難しいのに反し、 満州に渡れば皇帝陛下の奏任官とか、が魅力だったのだと思う。 建国当時の満州国は俄造りの国らしく、馬骨であっても相当な肩書きがバラ撒かれたらしい。 時と共に帝国大学などから国を追われた人材が流れ込むに連れ、 家尊の肩書きは下がる一方であったようでもある。

ともあれ北満への挙村移住などと違い、海外雄飛でも街道筋の近在らしいもの多かったらしく、 敗戦後の混乱期の話もそうした土地柄を反映したものを耳にする。 本田宗一郎が戦後売り出した、原動機付き自転車の発動機は、陸軍通信隊の発電機のエンジンだとやら、 浜松祭りの凧上げの糸車のタイヤは隼戦闘機の尾輪であったとやらの類いである。 一時浜松市内にはオートバイのブランドメーカーが二十数社あったそうな。

市街中心部に人が集まるに連れ、文明開化以来、産業近代化を担いで来た職人衆は、 街中を追われ、或いは嫌って近郷近在に引っ越して来た。 明治以来、ということは江戸のなかばであろうか、新田開発で村が出来て以来、 大して変わり映えのしなかった村の周りも、だんだんに建物が立て込んで来たのだ。


国土地理院
平成3年年刊
1/25,000地形図
「浜松」より

決定的なのは国道1号浜松バイパスが突然天から降って来たことであった。 それまで、四本松の集落の北、用水堀のほとりからは、遠くに村の中心地、村役場のある大橋集落まで、 田畑ばかり何も無くて見通しが利いたものが、バイパス開通と共に建物が並び、 今ではすっかり家並に隠れてしまった。四本松の旧集落周辺には、 都市計画法の指定によって田畑がかろうじて残されているものの、今回の様な住宅建設などで、 いずれ市街地の中に埋もれてしまうのではなかろうか。 埋もれて解らなくなるにせよ、現在も旧集落の「辻」は道路線形になごりを止めている。 更に言えば上の図で、辻を含むやや左下がりの東西の道路と、 右半分に見えるやや右下がりの東西の道路の向きが遠州平野に代表的な道路軸線で、 大方何れかが奈良時代の条里制の名残りでは無いかと思われる。