ヴァーチャルまちづくりヴァーチャル空間怖い 空中庭園 俯角と仰角 近づき易さI 近づき易さII ヴァーチャルまちづくり 子供達にとってヴァーチャルな空間に簡単に入ることのできるのは、コンピュータゲームです。10年前には東京駅舞浜線地下ホームのようであった、 コンピュータゲームの中に現われる都市の姿もこの10年で大分進化しました。1997年の夏休み、我が家の小僧共がハマっていたのは 「ファイナルファンタジーVII」だったようです。 「ファイナルファンタジーVII」の都市景観は、近代的機械文明の終焉を暗示する様な、暗いものです。 そして不思議なことにこの暗さは、しばらく前に出たヴァーチャルシナーリーディスク "Gadget" や "Myst" にも共通しています。 主人公達は場末のごみの山の様な所に住んでいるらしく、それを取り巻く都市は、全体が巨大な機械のカタマリと化しており、しかも古びています。 登場する市民の多くはやはり古びてごみの溜まった街角に住んでいて、辺りには東アジアの匂いのする無国籍な店が並んでいます。 唯一キラキラと照明の当たるところはヴァーチャルテクノロジーで複製された「遊園地」であり、 都市の中心は絶対的権力組織が掌握するエネルギー供給施設、というのが筋書のようです。そして主人公は武器を取り替えつつ「敵」を倒して行く、 というゲームです。
子供達はゲームに熱中していたようですが、後ろで見ていた私はゲームよりも、ゲームの背景になっている舞台設定が気になって仕方ありませんでした。
「敵」と戦うゲームなので、都市の外には様々な危険が潜んでいるのは当然です。そしてその上に都市もまた「敵」である絶対的権力組織によって支配されており、
主人公の息抜きの場は都市のそのまた中に囲い込まれた「遊園地」というのが、子供達を取り巻く環境に重なって見え、なんともいじらしく、可愛そうに思えたのです。 「都市」といった自分達を取り巻く環境をどう変えたら良いか、をテーマにしたゲームは有るのでしょうか、 これまたわが家の子供達が熱中していたゲームに「シムシティー」というのがあります。このゲームの主人公は市長なのですね。 市長になって都市計画をやる。住宅地域、商業地域、といった土地利用計画をやってそれにそって鉄道・道路、上下水道、電力といったインフラストラクチャーの整備をやる、 学校、公園、野球場といった施設整備をやる。そしてそこに住んでいる市民が幸せそうで人口が増えて財政が健全であれば、ゲームは「うまくいっている」ということになります。 「ゲーム」ではあっても、環境をテーマにしているから「終わり」ということはなくて、「うまくいっている」かぎりどこまでも続きます。 そして「敵を倒す」ことが目的ではないので、「うまくいった」結果は人によって同じものにはならず、様々です。 1987に登場したときには簡単な地図の上に土地利用計画、鉄道・道路、いくつかの施設整備をするだけであったのが
地震、火災、航空機自己などの災害と共に、巨大ロボットが登場して都市を破壊することもあり、子供達はこっちのほうで遊んでいるようでもあります。
作者自身が「プランナーやデザイナー、そしてシミュレーションゲームのファンなど、限られた人にしか、受け入れられないだろう」 と考えていたこのゲームは結構多くの人にウケて、現在第3版を準備中のようです。
建物も、たぶん操作条件も複雑になって、画面は格段にリアルになりました。 市長さんの目から見た、行政にとっての「まちづくり」を自分で試してみるにはなかなか良いゲームではないでしょうか。 「まちづくり」の計画側の仕事というのは日頃の我々にとってはなかなか実感しにくいものですが、こうしてゲームとしてやってみると、 担当者の苦労が少しは想像できそうな気がします。
計画者の苦労と同時に、都市建設をおもちゃにして遊ぶ、というのがどんな気分なのかを体験することもできます。 新しく人間の目の高さに近いアングルも用意されているようです。しかし画面がリアルになればなるほど気になってくるのは、人影の薄さです。 「都市」がもし計画者のみによって形作られるとすれば、おそらくこのような人影まばらな、それゆえにいかに新しくともゴーストタウンの様な不気味なものになるでしょう。 simcity2000ではゲームの密度が低かったおかげで、画面にゴミの様に車があふれていました。その車を一台づつ別々な意思をもったものとして、渋滞を引きおこすだけ並べれば、 それだけでも大変なメモリ量になるものと思われます。 さらに歩道にあふれ、商業地域を活気あるものにするだけの人影が加わるといったいどういうことになるのか、果たしてゲームとして成り立ちうるのか、興味を引くところです。 simcityの開発にはMITで都市の数値的なモデル解析を研究するスタッフが加わっていたそうですが、都市の数値的なモデルは都市そのもでもなければ、 都市の魅力を産み出すものでもなく、都市の様相を把握する方法の一つに過ぎません。 ヴァーチャル空間がどれもこれも同じ様な不気味な感じをもたせるのは、人の気配が感じられない、というところに共通点がある様です。 そして人の気配が感じられないほうが、計画する側からいえば簡単であることも確かでしょう。 週間ダイアモンドの8月16/23日号でも伊藤滋さんが、現在のまちづくりで最も求められている住民参加にとって、デジタル技術は反対側のところにある、 というようなことをおっしゃっていました。 都市の数値的なモデル解析は、特定の事項に対する住民の反応をyes/noというディジットに変えるところから始まります。 しかし、そのような外から見たyes/noが人間を作り上げている訳ではありません。 そう考えると「いったい誰のための都市か」というのが我々の直面する課題であると思います。 上空からみた浜松市の姿は確かに整然としたものではありません。しかし雑然としたまちなみが、人の気配が感じられないまま「美しく」なっても、 決して好ましいものとは言えないのではないでしょうか。21世紀の浜松市の姿はどうなるのでしょうか。 市役所の前から伝馬町の方を見る 下池川町からアクトタワーを見る アクトタワーから鍛冶町を見る 中山町の夕焼け pagetop
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