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SHINANSHA − 指南車

- Die altertumliche chinesische Technik -

石 田 正 治
ISHIDA Shoji


1.指南車を知っていますか

 『指南車』とは、字義のごとく「南の方角を指す車」のことである。車がいかなる方向に向きをかえても車の上に立つ仙人像の手は常に南を指している車である。中国の晉代以降の歴代史書に指南車の記述があり、史書が伝えるところによれば、古代中国の伝説の帝王、黄帝軒轅(けんえん)が敵蚩尤(しゆう)とたく鹿( たくろく)の野で戦った時、黄帝は指南車を造り、蚩尤が起こした大霧の中でも迷わずに敵を捕らえたという。また『古今注、輿服(よふく)』には周の時代( 紀元前770年〜紀元前221年)指南車を造ったとの記述がある。しかし、それらは寓話、逸話の類で実際に指南車が造られたのは魏代(220〜265)以降ようである。晉代以降の歴代史書の中で技術史上注目すべきは、『宋史』である。その『輿服志』のところに「仙人車雖轉而手常南指」とあり、車上の指南人形である仙人像の手が車がいかなる方向に転換しても常に南を指すと述べている。そして指南の仕組みは磁石によるものではなく、歯車によるからくりであることが詳細に書かれている。中国では、磁石の利用は古くから知られ、司南針(指南針)として羅針盤として、あるいは占いなどに使用された。したがって指南車は当初は実用のものであったかも知れないが、宋史が語るように祭礼の時に曳かれたようである。それは方位を示すことから隊列の先頭をいく車であった。黄帝伝説とあいまって、いわば、皇帝の威光の象徴であったのであろう。指南車が常に南を指して人を導いたことから転じて、「教え授けること」「指し示すこと」などの意味として『指南』の言葉が今日も使われる。

三才圖會の指南車    [写真1]

指南車

全国からくり作品コンテスト
グランプリ受賞作品(1994)

 ところで北や東でなくなぜ方角は『南』なのであろうか。中国には古来「天子は南面す」という思想があると言われる。指南車は磁石ではないのでどのような方位にも設定できるが、それが指南であるのはこの思想が影響していると考えられる。ちなみに紫禁城(現在の故宮博物館)の皇帝の椅子は真南を向いている。日本の指南車に関する最古の記録は日本書紀である。巻第二十六の齊明天皇の時代、齊明四年(658年)に『沙門智踰、造指南車』とあり、ついで天智天皇の時代、天智五年(666年)に『倭漢沙門智由、獻指南車』とあり、指南車が天皇に献上されたことが記されている。また祭りの屋台としては、かつて名古屋まつり、高山祭りに指南車(南車台)があったことが知られている。


2.指南のメカニズム

 
王振鐸の復元模型
J.Needham and Wang Ling, 1965
"SCIENCE AND CIVILISATION IN CHINA"
 図2 Moule-王振鐸の復元した指南車の図
J.Needham and Wang Ling, 1965
"SCIENCE AND CIVILISATION IN CHINA"

 『指南』の原理は、車が向きを変えたとき、その転回した角度分指南人形(仙人像)を反対に回して、人形が常に一定の方位を示しているのである。指南車自身が方位転換を知るのは左右の車輪の回転数の差である。その差を歯車のメカニズムにより計算し、指南人形の軸を回すことにより指南するのである。上の写真は、Moule−王振鐸が宋史輿服志にもとづいて1937年に復元した実験模型で、図3はその機構図である。指南車が方向転換する時は、その方向にわずか轅( ながえ)が動く。例えば、図2に示すように右に回転しようとすると轅が動いてAの歯車が下に落ちて車輪の歯車と指南軸の歯車がかみ合って指南人形を常に一定の方向に保つ。この場合、注意しなければならないことは、指南車を回すとき、内側の車輪は固定していなくてはならないことである。古代中国では、実際には祭りの行列として動いたであろうからこうした片側車輪を固定しなこてはならない弱点はほとんどめだたないものであったと思われる。Moule−王振鐸の実験模型に対して、前述の弱点をなくしたものが差動歯車機構をもった指南車である。この差動装置による指南車の実験模型はすでに多く製作されているが、最初の試みはジョージ・ランチェスターで、1947年に実験模型を製作している。図3はスウェーデンのストックホルム国立科学技術博物館の復元模型の原理図である。近年の研究で、指南の差動機構には歯車の組み合わせ方法がいろいろ考えられることが示されている。また、指南車の差動原理を反対に応用したものが自動車のデファレンシャルギヤ(差動歯車)である。こちらは、自動車が曲がろうとするとき、エンジンの回転は一定であるにもかかわらず、差動歯車の働きによっ て左右の車輪の回転数は変化する。外側の車輪は早く回転し、内側の車輪はゆっくりと回転して、自動車は滑らかに曲がることができるのである。指南車の差動機構が両車輪の回転数の差を積分するのに対し、自動車の差動機構は、両車輪の回転数の和を積分してエンジンの回転数としているのである。


3.宋史輿服志の指南車と記里鼓車

 宋史輿服志(左図)によれば、皇帝仁宗の天聖五年(1027)に、
燕肅が指南車を造り、ついで大觀元年(1107)年に呉徳仁が
指南車造ったと述べられている。それぞれに歯車の直径、円
周、歯数、個数などが記されている。図がないのでどのよう
なものであったか定かではないが、機構はおよそ推定できそ
うである。

← 宋史輿服志に書かれている指南車の構造




復元モデルとしては、王振鐸のものがよく知られている。王振鐸は、燕肅の指南車を復元し、Mouleは呉徳仁の指南車の復元図を書いている。輿服志の中で指南車とともに興味深いのが記里鼓車である。指南車と同様に歯車のメカニズムでできているのである。記里鼓車とは、ある一定の距離を車が進むと人形が鼓(たいこ)を打つもので、一種の走行計である。輿服志によれば、車は二階建てに造られていて、

      指南車 (燕肅)

輪 名 称 直 径 円 周 歯数 個数
足輪(車輪) 6尺 1丈8尺  
(足立)子輪 2尺4寸 7尺2寸 24枚
小平輪 1尺2寸   12枚
大平輪 4尺8寸 1丈4尺 48枚

      記里鼓車 (廬道隆)

輪 名 称 直 径 円 周 歯数 個数
足輪(車輪) 6尺 1丈8尺  
立輪 1尺3寸8分 4尺1寸4分  18枚
下平輪 4尺1寸4分 1丈2尺4寸2分  54枚
旋風輪 6尺   3枚
中立平輪 4尺 1丈2尺 100枚
小平輪 3寸少半寸 1尺   10枚
大平輪 3寸少半寸 1丈 100枚

一里行く毎に下の人形が鼓を打ち、十里行く毎に上の人形が鐘をたたくと述べている。
さて、宋史輿服志から指南車と記里鼓車の設計データを抽出してみよう。一覧を表に示す。


文化祭での取り組み−指南車、記里鼓車の復元模型製作−


高山祭の屋台「指南車」をつくる


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