大島教授の[暖蘭亭日記][99年5月1日〜 5月4日] [N E X T]

1999年 5月 01日 土曜日 晴れ。涼しい。
 朝食はジャム付きクロワッサン、ロールパンのハムサンド。サニーレタス。
 午前中、ニフティ書込んで巡回。あがったさんからメール。中川敬氏との対談をしてくれという。ちょっとびびる。
 MSI・Sさんからニーヴ・パースンズのカセットと資料。早速一聴。

○Niamb Parsons BLACKBIRDS & THRUSES; 1999 (advanced caseett)
 今回は全篇伝統曲。"The water is wide" などまである。"Banks of the Nile" はサンディ・デニーで初めて聞いた由。さすがの歌唱。無伴奏がやはりいい。プロデュースは贅肉を削ぎ落したもので、この人にふさわしい。実によろしい。一度聴いてもいいが、多分これはスルメ盤だろう。"The maid on the shore" はマーティン・カーシィ版を父親から習ったそうだが、本当にそのまま。感動してしまう。
 
 午前中 Paul McCann 氏から電話。Jim McCann の弟さん。日本人と結婚して日本に住んでおられる。翻訳中のブラウンのアイルランド共和国文化・社会史に出てくるゲール語表記を教えて欲しいとメールを入れておいたもの。快く引受けてくださる。秋のお兄さんの来日公演、オール・スタンディングはどうかと言われるので、座った方がいいと思うと言うと、ヴぇニューはOn Air West をおさえたのだそうだ。そうすると座るのは難しい。午後、リストをファックス。
 昼食、釜上げうどん。朝食の残りのサラダ。子供たちはやまゆりで新たに買ってみたソーセージのスライス。美味しいそうだ。皆、猛烈な食欲で三玉があっという間になくなる。
 夕刻、あがったさんからメールを見たといって電話。中川さんとの対談の件。日帰り。2〜3時間でまとめは別の方がやる由。とりあえず、スケジュールの確認。
 今日の中谷宇吉郎は「九谷焼」。実家が反物屋で父親が焼き物に興味があったため、九谷焼の有名な陶芸家たちと親しく交際していたらしい。町の小学校に入るため、その一人の家に預けられた由。英語の先生も陶芸家。やはりこの人、かなりの教養人だ。加賀という環境のせいもあるか。古くからの町で「宮廷」があったところ。
 夕食はカレー。
 結局仕事はせず。どうも最近、翻訳に気持ちが乗らない。困ったものだ。
1999年 5月 02日 日曜日 晴れ
 9時起床。Hの誕生日祝いの買い物をした後、実家へゆく。
1999年 5月 03日 月曜日 晴れ後曇。風あり。
 朝食は目玉焼き、ハム、ご飯、豆腐と和布の味噌汁、ばあ様の一夜漬けなど。
 十時起床。 昼食前にケーキ切り。ケーキを食べ、昼食は食べずに出発。2時少し過ぎに厚木に帰る。246の下りはまだ少し詰ったりしていた。
 帰ってからすぐにメールをダウンロード。さすがに少ない。ニフティ巡回。
 先日原稿を書いた『魂花時報』届く。定期購読している分も来たので同じものが3つ。リスペクトからサンプルCD2枚。レイ・カーネ&山内雄喜と山内氏のマンドリン・アルバム。ハワイのマンドリン音楽だそうだ。それにしてもリスペクトのTさんはよほどハワイ音楽が好きなのだろう。とまれ、ありがたいことではある。
 London Review of Books。アップルから「iMac パワーアップCD-ROM」なるものが届く。何だと思ったら真っ黒ソフトの「オフィス」の試用版とかが入ったもの。即ゴミ箱行き。
 川崎を出る前にふと無性に気になって、森有正の『砂漠に向かって』を持ってくる。 夕方、おちついてからラティーナのためのディスク・レヴューに手をつける。まずはローレル・マクドナルドの『クローマ』。何ともとらえどころのない音楽で、その捉えどころの無さはおそらく故意のものだろう。これは音楽そのものが表現の対象なのではない。歌いたいとか、この音楽を聞かせたいという衝動が源になっているのではなかろう。音楽は手段のひとつにすぎないのだ。そう、聞える。
 夕食は駅前に出て吉本家。キャベツ・味玉。ラオックス、古本屋2件のぞく。Book Off という古本チェーン店は「パブ」でCDの掘出物を見つけたという書込みがあったので覗いてみた。CDも置いているが、何だか良くわからない品揃え。
 FMについては例えばKenwood のチューナーを買えばいいと思いつく。ただ、今のアンプではつなぎ口が不足。入力が最低でも4つあるものでないとだめだ。K's のアンプの出来はどうだろうか。結局何も買わずに帰る。帰宅7時過ぎ。
 帰ってMacのスイッチを入れるとファイル共有が効かない。ネットワーク上でおたがいが見つからないという。よくよく見てみるとルータのLANのランプが消えている。Macのスイッチを入れてもつかないのだ。ケーブルを繋ぎかえても、設定をデフォルトに戻しても、コンセントを繋ぎなおしても、全然だめ。ヤマハのフリーダイアルに架電するも、当然休み。これはいささか困った事態。仕事をやる気が失せる。

○里国隆 路傍の芸;ジャバラ,1999
 仕事部屋で明りを全部消して聴く。
 ぎりぎりの音。生きる最低限のぎりぎりさと、唄わずにはいられない、ぎりぎりの存在としての唄者が火花をちらす。その一瞬一瞬の接触が唄となって迸る。聞いているだけで、自分が裸に剥かれ、宇宙の風にさらされる想い。
 続けてCDの『あがれゆぬはる加那』を聴く。こちらはリビングでやはり明りを消す。録音はこちらの方が悪いくらいだが、さすがに声に張りがある。後半、聞いていなかったことに気がつく。三味線の音の激しさ。乞食の国隆。それは最高の賛辞ではないか。至高の存在。聖なる唄者。

 その後、酒を飲みながら、『ラティーナ』5月号を拾読み。植野さんのペイオ・セルビエルとミケル・ラボアの対談の記事。スペース配分をちょっと間違えたのではないか。それでも「想い」は伝わってくる。
 ジャパラ・レーベルは奄美の音楽紹介に専念しているらしい。要注目。
 就寝2時近く。
1999年 5月 04日 火曜日 雨。終日断続的に降り続き、夜に入り激しくなる。
 朝一度目が覚め、ぐずぐずしているとうつらうつらして起床10時。妙な夢をみる。
 食事して朝の儀式、食器洗いなどするともう正午である。
 まずは里国隆のラティーナ用レヴューを書いてしまう。
 ルータは相変わらずLANを認識しない。仕方がないのでPowerBookとiMacを直接繋ぐ。するとMac同士は認識するので、やはりルータがおかしいのだ。

○The Deighton Family ACOUSTIC MUSIC TO SUIT MOST OCCASIONS; 1988
 Folk Rootsが騒いでいたので名前だけは聞いていたが、ついに聴くチャンスがないままに来た。メアリ・ストーントンがこのアルバムからの曲をやっているので聞いてみた。なるほど、おもしろい。まさにごった煮。しかもそれぞれの素材の溶け具合が絶妙。かろうじてそれぞれの形はわかるが、半分以上溶けていて、他の素材とのバランスの中でどれか一つだけ飛びぬけて主張することがない。
 リズム楽器がのんびりしたタンバリンのみで、蛇腹もベース的な音を聞かせ、メロディ楽器が皆リフを刻んだり、とても柔らかい。どしんどしんと押付けてこない。

 中谷宇吉郎の「茶碗の曲線」の中に、「こんにちの科学は、その基礎が分析にあるので、分析によって本質が変化しないものでないと、取り扱えない。分析によって本質が変わらないものならば一応分析をして、それをまた綜合することに意味がある」という一文。苦手の例として個々の木の姿は違うのに全体を見ると梅だとか松だとか木の種類はわかる。しかし、その枝振りを細かに分析して数値化してみても、そこから木の種類を特定できるような客観的法則は引出せない。生命現象も然り。カオス理論や複雑系はこうしたものを扱おうとするものなのだろうか。
 それにしてもこの人の文章はさり気ない物言いの中に説得力のある主張を展開する。曖昧なものを曖昧なまま明確に提示することに秀でる。「日本のこころ」はその好例。
 夕刻、メアリ・ストーントンのライナー翻訳に手をつける。翻訳は一気にかたづける。 夜は再び中谷宇吉郎。このユーモア感覚は師匠の寺田寅彦にはあまりなかったように思う。それにしても「I駅の一夜」はすばらしい話。ここに出てくる本屋の話は、目黒さんに教えるべし。
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