1999年10月11日月曜日 晴れ。昨日よりも暖かい。
9時過ぎ起床。
朝食はハム・トースト。
午前中、デ・ダナンのベストの歌詞対訳用の原詞をタイプ・アップ。手元にあるもの。メールでMSI/Sさん宛送る。
リスペクトからソウル・フラワーのライヴのサンプルCD。Good Book Guideからカレンダー2種に書籍2冊。
エコノミストのO氏から『ユーロ・ルーツ・ポップ・サーフィン』の紹介の掲載号。ありがたいことである。
ローカス、Barnes & Noble、Yさんから著書。
昼食は回肉鍋。胡瓜、人参、玉葱の中華風スープ。ご飯。
○ソウル・フラワー・ユニオン ハイ・タイド・アンド・ムーンライト・バッシュ; リスペクト、1999
まずは乾杯。相変わらずのこってりてんこ盛りおなかいっぱい苦しいアルバム。もちろん、悪いわけではない。この饒舌、このサービス精神、これこそがソウル・フラワーだ。特にライヴだ。メンバー個々の音がしっかり捕えられていて、気持ちがいい。音はややチープでそのチープさが饒舌な「語り」にリアリティを与えている。
夕食はKの両親ととるため、Kたちは2時半のバスで出発。こちらは4時過ぎに車で出る。いつものように相模大野の西櫻亭。今日は季節の料理として、イトヨリのソテーの茸ソース、南瓜のポタージュ、ご飯、バニラ・アイス、コーヒー。帰宅7時半過ぎ。 |
1999年10月12日火曜日 晴れ。暑し。
日が当たっていた車の中など、暑い。もっとも窓を開けさえすれば涼しい風が入っては来る。
朝食はチーズ・バタールと胡瓜。
昼食はご飯を炊き、冷凍の餃子を焼き、搾菜を切って塩をもどす。
午前中、翻訳。昼食後、ブラウンのゲラ。夕方からまた翻訳。
朝一番でリスペクトに昨日届いたソウル・フラワーのライヴの感想をファックス。なぜか途中で time out になるので2回送りなおしてしまったが、3回目の途中でTさんから電話が来る。
正午少し前、東京創元社・Yさんから電話。ホーガンの本で「先進テレコム」としておいた京都の会社はどうやら実在するらしく、そこの社員だという人から問合せがあったそうだ。もろカタカナ名前で「アドヴァンスド・テクノロジー・リサーチ」というらしい。そんなことも思っても見なかったが、そう言われればその付近の名前はみな実在の会社だ。なんでも、「日本ヴァーチャル・リアリティ学会」なる団体があり、そこの会報でレビューされる由。ありがたいといえばありがたいが、なんだかくすぐったい。
リスペクトへのファックスをクラリスワークスで打っていて、WXGのいつものHDへのアクセスが少なく、また速いことに気がつき、試しに YooEdit の最新β版をダウンロードして試してみる。なるほど、Jedit よりも速い。ひょっとするとアプリによって違うのかもしれない。
夕食はカレー。前にやまゆりで買っていたナンを消化するため、Kはこれもやまゆりのインド・カレー手作りセットで作る。マニュアルにある通りの分量で、具はチキン、ジャガイモ、人参、玉葱、南瓜、ピーマン。これがすばらしく美味く、辛く、ひいひい言い、汗をだらだらかきながら食べる。子供たちは全然だめで、林檎のすりおろし一個分に生クリームをぶち込んでもなかなか食べない。Kが釜飯を買ってきていたので、それを分けている。ナンもギーはなかったがそれなりに美味しく、まずまず家でたべた一番美味いカレー。当然たっぷり残ったので明日の昼食もこれ。
夜はまた翻訳。
9時過ぎ、松平維秋さんの奥様から突然電話。松平さんが癌で明日をも知れぬ命だと言われる。先月末に初めて癌とわかり、その時余命3ヶ月といわれたそうだが、その後加速度的に病状が悪化している由。連休中に家に帰ったときも、朝は車椅子で散歩しながら話をしていたのが、家に着いたときにはすでに意識がもうろうとなっていたそうな。とりあえず、電話番号がわかったのがおれだけということで、電話されてきたという。入院先の病院(ホスピス)名と住所、電話番号、奥様の携帯の番号をお聞きして切る。Mさんに架電しようとして番号がないことに気づき、茂木に架電。用件を伝えて、Mさんの番号を聞く。白石さんに架電するが留守電。ニフティにあげることも考えるが、個人的なことだからとシャワーを浴びてから、五郎さん、和久井さん、ディスクユニオンのKさん、タムボリンにメールを打ち、ヴィヴィドのEさんにファックス。白石さんにもメールを送る。今日はここまで。 |
1999年10月13日水曜日 晴れ。
明け方暑くて布団をはいだらしく、鼻水がずるずるして目が覚める。6時ぐらいだったらしい。気温は高くなったが、午後からは風が少し出て、こちらは涼しい。
朝食はフランスパンにハムをはさんだものと、サツマイモ、林檎、干しぶどうのサラダ。
食事中8時前、Mから電話。やはり今日お見舞いに行ってくるから場所とか教えてくれ。先日クランのライヴに行った時、松平さんによく似た人を見かけたのが、きっと彼が来てくれと言っているのだと思うという。おそらく伊藤よたろう氏のことだろう。
朝、何ともいえない気持ちになり、家事をしながら綾戸智絵の LIFE をかける。少し元気が出る。
10時、PTAの役員会。12時10分前ぐらいに終り、体育館でやっている芸術鑑賞会を覗く。モンゴルからの民族芸術団のような人たちらしい。こういう行事でおそらくツアーをしているのだろう。慣れたものだ。会議中、ホーミィも聞えていたが、行った時には男女のシンガーの掛合いのバラッドの途中で、その次はモリンホール、揚琴、パーカッションのトリオでモリンホールのソロ。シンガーは歌いながら子供たちの間に入って握手してまわる。6年生ぐらいは照れているが、3年生ぐらいは先を争って握手を求めていた。
昼食はご飯を炊き、昨日のカレーの残り。さすがにいい味になっていたが、こういうカレーではやはりナンが欲しい。
2時頃、Mから電話。午前中にお見舞いに行ってきたとのことで、その報告。松平さんは四年ほど前に、奥さん、お嬢さんとは別居していたそうで、ここ四年間は別の女性Nさんと一緒に生活していたらしい。病室にはそのNさんと松平さんの御母堂がおられた。本人は昨日の方がまだ意識があったらしいが、今日は大分おとなしく、眼も濁っていたそうな。それでもMがプラクティス・チャンターを持っていって音楽を聴かせると、反応していたという。
はっきり癌とわかったのが先月24日、本人の53歳の誕生日で、本人には翌日知らせた。その時、残り3ヶ月どう過ごしたいと聞くと、延命治療はいらない、痛みのないケアが欲しいといった。そこでNさんがあちこちさがして今の病院を見つけた。ここ四年間で二十回ぐらい、アルコール依存症で発作を起こしていて、今度起こしたら会社もクビになると社長に言われて以降、ようやく飲まなくなったらしい。その会社の人もお見舞いに来ていたそうな。
クラダからCD。MusicFolk からCD。The Living TraditionからCD。
○Nancy Kerr & James Fagan STEELY WATER; Fellside, 1999
タムボリンの船津さんがすごくいいと書いてきていたが、確かにすばらしいアルバム。Scalene とは一応別に活動しているようだ。フェイガンがすばらしいので全体が引立つ。松平さんには綾戸智絵とこれを持って行こう。
○Fieldwork Productions A DAY'S WORK; Wild Goose Studios, 1995
ミック・ライアンが書いた「フォーク・ミュージカル」の「サントラ」。第一次大戦で兵役拒否をする若者の物語らしい。やはり舞台のための音楽なので、これだけ聴くのはちょっと物足りない。もう少し音楽としての演出が欲しい気もする。とはいえ、うたもシンガーも一級品で、じっくり聞込むと味わいが増しそう。
夜は翻訳。
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1999年10月14日木曜日 晴れのち曇り、夜に入り雨。
ひどく暑い。夏と変わらず。夜の気象情報でも、30度を越えたところすらあったという。
午前中歯医者。左下の奥歯、麻酔をかけて削り、神経を抜く。なかなか麻酔が効かず、3回打直し。あとに残った神経を殺す薬を入れ、とれにくい素材で穴埋め。今度は来週火曜日。
家にもどってすぐ支度をして出かける。真直ぐ横浜。横浜、ジョイナスの地下のラーメン屋「札幌や」で昼食。久しぶりだ。麺がちょっと細くなった。麻酔がなかなかとれず、食べているうちにようやくもとにもどってくる。とれると今度はなるほど、鈍痛あり。痛止めなど飲むほどではない。
東横線で日吉で降り、左側北口へ出てタクシーで川崎市立井田病院へ。緩和ケア病棟はかなり奥まった一角。病室には奥様、お嬢さん、Nさんがおられる。松平さん本人は眠っている。鼾をかいているのは、あとで来た看護婦さんの話からすると、気管がむくんできているかららしい。しばらくすると、苦しげに声を立て、手を動かす仕種をする。これも呼吸が苦しいのもあるようだ。顔はそれほどやつれてはいないが、さすがに眼のまわりに隈ができ、すでに生者の顔ではない。生物としては生きているが、人間としてはすでに死んでいる。が、そうと認めさせないよう努めることが死にゆくものを看取るということなのだろう。Nさんはクラシックのヴァイオリンからタンゴまで弾かれるそうで、ブリテンやアイルランドの伝統音楽にも大きな関心を持っておられる。これから習おうと思っていた矢先に松平さんが倒れてしまったとおっしゃっていたが、これからいくらも機会はあろう。アルバイトに出かけるというお嬢さんが顔を叩き、声をかけても反応はない。左の眼はうっすらと開いているが、それは開いているのではなく、閉じきれないだけで、その奥の眼に光はない。こういう状態の時、人の意識はどうなっているのだろうか。すでに魂魄は旅立っているのだろうか。
持っていった Nancy Kerr & James Fagan の新作をかけていただく。ナンシィのフィドルを聞いて、節子さんがこういうのを弾きたいのだとおっしゃる。これともう一枚、綾戸智絵の『LIFE』を置いてくる。『ニュー・ミュージック・マガジン』1977年10月号をお見せする。あとでコピーを送る約束。
奥様にうながされて、お別れのお礼を松平さんに言う。言葉が出てこない。病院の小さなカフェテリアで奥様とお茶。あれこれ雑談。パソコン通信やメーリング・リストの話。専用のメーリング・リストのおかげで煙草がやめられたとのこと。今は昏睡に向かっているところで、昏睡に入ると四日ほどだそうだ。おそらくはあと一週間ほどか。
そのまま辞去し、タクシーで日吉の駅にもどる。駅に着き、券売機に向かうところで、急に、もう一度元気な松平さんと話をしたかったという思いがむくむくと湧いてくる。アン・ブリッグスの愛らしさについて、ヴィン・ガーバットの明るさについて、ディック・ゴーハンの深さについて、ボシィ・バンドの「真白な闇」について、話をしたかった。なぜ、ぼくらはこんな音楽に惹かれるのか、話をしたかった。
菊名経由で町田に出る。菊名では空が真っ黒。町田でももっと黒い。タハラに寄り、星川さんに教えられた板を探す。ワールドもののバーゲンをやっており、うかうかと買い過ぎる。じゃがたらも二枚買う。店を出ると本降り。幸い、バスを降りる頃にはやや小降り。帰宅6時半前。くたびれる。
夜は、今日の報告をあちこちにメールで送り、Mにも架電。何をする気力もなかったが、翻訳だけは意地で一ページこなす。
茂木からジョセフ・オコナーの訳書。帯で Finbar's Hotel を創元が取り、茂木の訳で出すことを知る。ちょっと驚く。 |
1999年10月15日金曜日 曇りのち雨。
明け方、やはり松平さんがらみの夢を見る。
朝食はハム・トースト。
○Orla THE BLUE NOTE; Aran, 1998
本人は作詞のみで作曲は別の人間がやっている。シンガー・ソング・ライターだが、ちょっと「神秘のケルト」にかぶれた気味がある。サウンドもシンセサイザーを多用して淡い背景を作り、本人のヴォーカルにもベールをかぶせる。ただ、まったく救いがないかと思うとそうでもなく、ちょっとごつごつしたところが感じられる。
昼食、釜揚げ饂飩に朝の残りのプチ・トマト。
朝はまず翻訳をひとしきりやってからブラウンのゲラ、一章分。
昼食後、『ニュー・ミュージック・マガジン』1977年10月号の松平さんの記事のコピーをとり、アン・ブリッグスのトピック盤とともに病院の松平さん宛宅急便で送る。
野崎さんから電話。ルナサのセカンドをやるかも知れないので、決まったらライナー頼むという依頼。出す場合、早ければ来月14日発売。11日のクランに行ったそうで、ショーン・コーコランの歌がすばらしかったそうな。演奏は素朴だというが、セカンドは思いきりプロデュースしてるから、それはそうだろう。
夕方5時過ぎ、松平夫人から電話。昨夜、0時54分、亡くなられた。葬儀の日取り等はファックスでいただくことにする。6時半、ファックスが入る。日曜通夜、月曜葬儀。クランはパスする可能性が出てきた。
すぐ、M、船津、茂木にファックス。ヴィヴィドに架電したら社長のH氏が出られたので、事情を伝えてファックス。MSIにもファックス。白石さんにはメール。他に、関係のありそうなところでメールで連絡がつけるところは全部一斉にメールを送る。『ザ・ディグ』のTさんとミュージック・マガジンの編集長も含む。
Mさんから折返し電話。茂木から10時過ぎ、電話。7時少し前、名古屋・カフェ・カレドニアのHさんから電話。亡くなったことを伝える。
夕食は揚げ物。海老カツに鮪カツ、白菜の味噌汁、トマト(今日やまゆりで一箱来た)、ご飯、梨。
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1999年10月16日土曜日 曇。寒し。
昨夜、2時頃に目が覚め、左足の甲、親指側に疼痛が走る。何度か突刺すような痛みで、痛いというより寒気。いよいよ通風か。朝までに今度は左腕の肘の内側や、もう一ヶ所どこだか痛む気がした。朝起きて以降は痛みはない。
PTA運営委員会。
2時過ぎ、Uさんから電話。松平さんが亡くなった旨の連絡がいきわたらず、病院に行ってしまったとのことで外から。事情を説明する。心当たりへの連絡を頼む。
昼食後、メールをチェック。ニフティもチェック。小川さんがすばらしいレスをつけてくれていた。ちょっと返事をする気が出る。
早川からハードカヴァー。アンソロジーでいろんな人が訳しているので誰からの献本かわからず。F&SFは五十周年記念特大号。
3時過ぎ、スイミングに行く子供たちと勤めに出ているKをピストン輸送。郵便局の本局で別れる。本局でポール・マッキャンからの今日の招待状を受取る。ミロード上のハゲ天で夕食。海老2匹、魚、サトイモ、かき揚げ、赤出汁、おしんこ、茶碗蒸し、ご飯。
渋谷に出て、ON AIR WEST に入る。ジム・マッキャンのライヴ。椅子を並べてあったのは助かった。茂木がいたので、その隣でもらったベイリーズを舐めながら話をしていると、声をかける人間がいる。誰かと思えば何と宮仕え時代の同僚のG。ポールとは10年来の友人だそうだ。思わず懐かしく、開演まであれこれ話す。昨夜おれの夢を見たなどというのは何のつもりか。
ジム・マッキャンのライヴは2時間たっぷり、休憩もとらず、アンコール2回。今回は何曲かの歌で、歌の背景と内容の説明を日本語のアナウンスで行った。これはなかなかいい試み。会場は招待客が多かったようだが、まずまず一杯になっていた。来るかどうか迷ったが、来てよかった。生きる上でのエネルギーをもらった気がする。
出口でようやくポールと顔を合わせる。上の 7th Floor で打上げ。茂木、白石と、松平さんのことや追悼の会の予想でもりあがる。11時頃、ポール、ジムに挨拶して辞去。帰宅0時過ぎ。 |
1999年10月17日日曜日 曇ときどき晴れ。気温は低い。
午後、出かける時、ネルのシャツにジャケットを着るが、出た時はこれでちょうどいい。
朝食はハム・トースト、胡瓜の塩揉み。
11時半、昼食。豚肉白菜、小松菜の味噌汁、ご飯。KとMは七五三の撮影のため、先に出る。Kは十年ぶりくらいに和服で、着付に手間取り、出かける時刻はぎりぎり。駅まで送る。2時過ぎ、こちらもHとともに出かける。横浜高島屋の美容室の前で待合せ。美容室の場所がわからず、ちょっと手間取る。Mは髪をあげて結い、花のついたピンで止め、和服を着せてもらっている。おふくろは、あざみ野までのバスが大渋滞で、20分ほど遅刻。そのまま写真室へ行き、一家で撮影。Mは独りですでに撮影済み。撮影後、KとMは着物を返しに行き、こちらは資生堂パーラーでお茶。その後、すぐ前のディン・タイ・ファンで早めの夕食。おふくろは親父に食事をさせねばならないといって、テイクアウトを買って帰る。Mの晴着用のブーツを買い、真っ直ぐ帰る。帰宅7時半。資生堂でプリン・ア・ラ・モードを食べた直後とて、チャーシューメンとあんまん、小饅頭でお腹一杯。
10時過ぎ、のざきから電話。クランの連中が明日の松平さんの葬儀に行くことになり、その場で演奏ないし歌を歌いたいと言っている、という話。ショーンが出るが酔っぱらっていててんで何を言っているかわからず。ロナンに替ってもほとんど同じだが、要するに何かしたいと言っていることはわかる。日本の慣習はアイルランドのとは違うから、確実にできるとは言えないよ、といっておく。かものはしに替り、その旨、もう一度伝える。いずれにしてもと、電話を切ってから奥様に架電。折返しのざきの携帯に架電。
あいた時間は CELTIC WOMAN 2 の歌詞対訳。 |
1999年10月18日月曜日 晴れ。やや暖かし。
松平さんの葬儀。
千歳船橋からタクシーを飛ばそうとしたが、どうも駅前には見当たらない。一度成城学園にもどろうとして陸橋に上がってみたら、踏切を渡った向こう側には結構走っているようなので、もう一度出る。ちょうど来た車を捕まえるとなかなかの運転手さんで、細かい道を走り、環八がだめとなるとまた裏に入り、十分遅刻で着く。なかなか話好きの人で、ある時、おばあさんが乗ろうとして近づいてきて、前のドアのゴムのところに手をかけた途端転んでしまった。どうしたのかと思ったら、歩道が車の出入口で一団低くなっている、そこに貼ってあった滑止めのいぼいぼに足を取られたらしい。
葬儀はすでに始まっていて、フランキー・アームストロングの LOVELY ON THE WATER の流れる中、献花が親族から始まるところだった。会場はあまり広くなく、奥の祭壇の前、両側に親族席、間にスペースがあって後ろの方に机と椅子が並んでいて、一般の参列者はそちらに座っている。スペースの奥、玄関と反対側が少しひっこんでおり、そこで立った。あとで五郎さんとカモノハシがいることに気がつく。クランの連中は来ておらず、とうとう姿を見せなかった。献花は一人ずつ、ゆっくりとできた。列の最後についていたが、後から一人見えたのと、受付をやっておられた女性が最後に着いた。無宗教で簡素な、好ましい葬儀。献花のあと、喪主のおじょうさんが一言、本当に一言挨拶される。棺の蓋をもう一度開け、最後のお別れ。親族らしい初老の男性が、喪服ではなくセーターにジーンズという格好の方だったが、最後まで残って花で棺を一杯にしておられた。専用の台車に載せた棺をそのまま玄関から車に積む。そこで見送った。
パイパーのMは火葬場まで行くマイクロバスに乗っていった。
車が出てから外に出る。後から茂木とUさん、五郎さんとかものはしが出てくる。奥さんが迎えに来るという五郎さんを残して、四人で千歳船橋の駅前に出る。途中でビクターのKさんが急いでくるのに行合う。そのまま、駅前の讃岐うどんの店に入って精進おとし。この店はかものはしが地元の店のおばあさんに訊いて教わった。日本酒に天笊饂飩。結構量のあるもの。その後、また近くの喫茶店でお茶。
真っ直ぐ帰って、帰宅4時少し前。
ラティーナ、Folk Roots、Rounder のカタログ。
夕食は焼きそばに梨。
夕方はオーマガトキのための歌詞対訳残り。夜までかかって一応全部かたづける。夕方、Hがテレビでアニメを見ていると、Mは嫌いな番組で仕事部屋に逃げてきた。いつもは邪険に追いはらうのだが、今日は相手をしてやる。昨日の着物の着心地を訊ねると、満更でもなかったらしい。皆に可愛い可愛いと言われて、結構いい気持ちになっていたようだ。また着るかと訊くと、着ると言う。
船津さんに葬儀の様子を報告するメール。 |
1999年10月19日火曜日 曇。気温低い。
午前中歯科。先週末から痛んだりふくれたりしていた右下のことを言うと、そちらを先に治療しようということになる。レントゲン。麻酔をかけ、削り、神経を抜く。後に残った神経を殺す薬。ストッピング。左下も薬を入替え、ストッピング。化膿止めと炎症を止める薬が二日分出る。正午を過ぎて麻酔が切れてくると、右下が痛む。左下の比ではない痛み。しかし、リンパ腺が腫れていたらしいのはすでに大分ひっこんできた。夜に入ってもときどき痛む。よほど悪かったようだ。
MusicFolkからCD6枚。
CELTIC WOMAN 2 のライナーを書くために朝から資料のCDを聴く。
○Rita Connolly GRANUAILE; Tara, 1985
16世紀、海賊の女王と呼ばれた女傑の紹介をベースにしたショーン・デイヴィの組曲風の作品。オーケストラにリーアム・オ・フリンをはじめとするバンドが加わった編成をバックにリタ・コノリィが歌う。クラシックの声域の広さながら、ベル・カントになびかない、実に素直で気持ちの良いヴォーカル。バックのアレンジも見事。
○RITA CONNOLLY; Tara, 1992
これはすばらしいアルバム。ハリィ・ベラフォンテの「ヴェネズエラ」で始まり、ブルージィなスタンダード・ナンバー、トム・ムーアのアラブ風の曲、ショーン・デイヴィのトラディショナル風の曲、ビートルズ・ナンバー、本人のオリジナルも2曲ほど。アレンジと演奏が秀逸で、適度にポップでもある。本人のヴォーカルが素直なので、気のきいたアレンジに映える。曲もいい。ショーン・デイヴィはドーナル、デクラン、アーティ・マッグリンと並ぶプロデューサーといっていい。特にラッパの使い方のうまさは、他の人たちにない。
○Rita Connolly VALPARAISO; Tara, 1995
○The Fallen Angels HAPPY EVER AFTER; Tara, 1998
クラシックの訓練を受けたとおぼしき四人の女性コーラス・グループ。ここでもクラシックの嫌らしさは表に出てはこない。アイルランド版の女性だけの「マン・トラ」というといいすぎか。曲によって効果的なパーカッションがつき、2曲でなぜかサイモン・ニコルとデイヴ・ペッグがコーラスで参加している。
○d'goya JULIET'S DREAM; DTD, 1998
○WEST OF EDEN; EKGCD 007, 1997
スウェーデンの「ケルティック・ポップ」バンド。女性ヴォーカルを表に立てて、ミディアム・テンポでアイリッシュ風のメロディーを持つ歌を歌う。男性ヴォーカルも三分の一ほどあり。とりたてて特徴や魅力のあるバンドではない。アイリッシュに憧れて作ってしまった二流バンドの作品。アマチュアとは言わないが、無邪気とも言切れず、中途半端な結果になっている。アイリッシュに流し目をくれながら、アメリカのシンガー・ソング・ライターが本当は好き。というところ。
昼過ぎ、プランクトンのKさんから松平さんを悼むファックスが入る。ちょっと返事ができない。
メールをチェックするとのざきから昨日のクランの顛末が入っている。
9時過ぎ、パイパー・Mから電話あり。追悼の会の話。だいたい考えていることは同じ。12月の頭ぐらいの寒い時期がいいだろうというかれの意見。奥様によると、最後の最後は、もう寝ようかと思っていたら、様子が変わっているので看護婦さんを呼ぶともう息をしていなかった。奥様が、家に帰ってその場にいなかったお嬢さんが来るからちょっと待って、と呼びかけると、息がないままにこりとした、という。Nさんと看護婦さんが見届けているそうだ。矢吹伸彦さんの弔辞に「やさしくて、頑なきみには生きにくい世の中だった」という言葉があったこと。葬儀に使われた写真はやはり、印象が強かったようだ。葬儀の時、誰かがネットに書きこんだ文章のプリントアウトが御母堂に渡されていて、それを読んだご母堂が、息子がこんなに慕われていたとは知らなかったと、涙されていたこと。 |
1999年10月20日水曜日 雨。寒し。
○Lunasa OTHERWORLD; Green Linnet, 1999
こういうバンドは基本的なスタイルは変わらない。ファーストと違うところといえば、パイパー二人がゲストに回り、ケヴィン・クロフォードが前面に出ているところ。ドノ・ヘネシィのギター、トレヴァー・ハッチンソンのベースにはますます磨きがかかり、とりわけトレヴァーのアルコが見事。とはいえ、やはりあのステージにはちょっと比べられない。困ったものだ。
10時半頃、オーマガトキのMさんより電話。昨日メールで問合わせを頼んだゲール語の件。夕方5時過ぎ、もう一度電話で、レコード会社に問合わせた結果を教えてくれる。9時過ぎまでかかって、ライナーを書上げ、歌詞対訳をもう一度見直して、メールで送付。
小学校の給食試食会。カレー、レンコンのソテー、フルーツ(缶詰)、牛乳。袋入りの福神漬けがついていたが食べなかった。味はまあまあ。レンコンのソテーは美味。量は六年用らしい。六年が修学旅行でいない間にやるのだそうだ。 夕方、近くのO医院に架電。基礎検診を申込む。明日、午前中、朝食をとらずに行くことになる。
寝ようとしていたら、11時半頃、Pからファックス。昼間ファックスで問合わせたゲール語名の表記の回答。 |