大島教授の[暖蘭亭日記][2000年 5月 15日 (月)〜 2000年 5月 21日 (日)] [CONTENTS]

2000年 5月 15日 (月) 晴れ。

 H、起きて着替えたものの、腹が痛いと言いだすので、また寝かせる。ただ、そんなに痛いわけではないらしく、頻りに退屈を訴える。
 朝食はロールパンに胡椒付きポークをはさんだもの二つにグリーン・アスパラ。コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。

○Art O Dufaigh NO DISGUISE; Clo-Iar-Connachta, 1999
 ゲール語でもオリジナル曲を書くアイルランドのシンガー・ソング・ライターのアルバム。ライナーがゲール語だけなので、詳しいことはわからず。プロデューサーやバックのメンバーからするとREALTA の出身者かもしれない。うたはあまりうまい方ではないが、ゲール語の歌に一日の長がある。英語そのものがあまり得意ではないのかもしれない。バーンズを一曲歌っていて、それを聞くとかなりの訛りがある。曲調はジミィ・マカーシィやノエル・ブラジルにならうアイルランド的なもの。バックもドーナルやデクランたちが作ってきたフォームに従い、抑えたサウンドでシンガーをそっと載せる形。英語では歌うたいとしての粗が見えるが、ゲール語では声にも張りが出るのはちょっと不思議。

 午前中PTA役員会。
 帰るとHはだいぶ良くなったらしく、キャベツの味噌汁を一杯食べ、トーストにバターを塗って半分齧る。
 MusikFolkからCD1枚。fRoots。これも購読更新の案内が入っていた。
 留守電を聞き、『CDジャーナル』に架電。土曜日2時にケパ・フンケラの取材をすることになる。
 メールを見てのざきさんに架電。いろいろ雑談。

○Ashley Hutchings All Stars BY GLOUCESTER DOCK I SAT DOWN & WEPT: Live; The Road Goes On Forever, 1988/1999
 元になったスタジオ盤はもう記憶から消えているが、これはなかなかのアルバム。クライヴ・グレグソンがハッチングスのバンドにいたのは他に覚えがないが、多分、覚えがないだけだろう。ポリィ・ボルトンの歌が聞けるのは嬉しい。ハッチングスはもっと引っこむべし。とはいえ、シンガーとして精進はしている。音楽はこの頃のハッチングスのものと特に変わったところはない。水準はさすがに高い。クライヴのギターはちょっと大仰なところもないことはないが、まずまず合っている。

 Hは回復捗々しくなく、一度は治ったといいながら、頭痛と腹痛が交互に現われていて、結局夕食はバナナ一本食べさせて寝かせる。
 こちらの夕食は豚肉と舞茸の中華風炒めと莢豌豆のかき卵スープ、ご飯。
 夕食後、国文社・Nさんからファックス。ブラウン『アイルランド:社会と文化1922〜1980』の見本が明日出るとのこと。定価3,600円。

2000年 5月 16日 (火) 晴れ。暑し。

 H、一番に起きて腹が減ったとてバナナを二本食べるが、いざ朝食という段になり、気持ち悪いと言って寝てしまう。その後、気分が悪いとのたうち回っていたが、9時過ぎにもどす。K、朝、2時間休暇をとり、Hを小児科へ連れてゆく。昼まで寝ていて、お茶を飲み、薬を飲み、だいぶ回復。

 朝食はエボダイの開き、菠薐草の胡麻和え、大根と榎の味噌汁。
 歯医者。左下奥続き。ようやく悪い神経を探当てて、処置をする。いささか痛む。処置用の針を入れたままレントゲン撮影。910円なり。

 昼食、パストラミ・ポークと目玉焼き、朝の残りの味噌汁と菠薐草、ご飯。
 オルターポップからCDサンプル4枚、のざきさんからサンプル3枚、ビデオアーツからCDサンプル1枚とビデオ、ともに Virginia Rodrigeuz のもの。
 MusikFolkからカタログ。

 十年間飲酒運転を続けたあげく、高速道路で乗用車に追突し、3歳と1歳の姉妹を殺したトラックの運転手に、検察は「厳しい処分を」と言って懲役五年を求刑したとの報道。子ども二人殺しておいて懲役五年が「厳しい処分」などと言っているから交通事故が減らないのだ。交通事故は「業務上過失致死」罪だからこういう量刑になるのだろうが、一定条件ならば「殺人罪」を適用すべきだろう。さらにその上に、十年間、飲酒運転を続けることを許したのはこれまた警察の怠慢ではないか。
 午後、メディアワークス・Yさんから電話。「電撃小説大賞」選考の件。応募総数はまた百本増えて、1,500本弱になったそうな。
 Nisus Compact-J のフリー・ダウンロードが始まっていたのを見つけてダウンロード。

2000年 5月 17日 (水) 曇。

 朝食、ハム・トースト、菠薐草胡麻和え(昨日の残り)、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。

 Hは起抜けはまだ少し腹が痛いというが、おじやを食べているうちによくなったと言って出てゆく。どうやら、同じクラスでも他の子が似たような症状で早退したりしていたらしい。

 森首相の「天皇中心の神の国」発言で、当然のことながら公明党が反発し、首相と自民党はあわてて「陳謝」している。これでまた政府・与党内での公明党の発言権が増すだろう。
 森氏の発言は、今までも同様のことを言っていたはずで、それが首相になって注目された、ということなのだろう。悲願の首相が棚から牡丹餅で舞上がったか、いずれにしても首相としての自覚が薄いところから出てしまったにすぎない。

 昼食、焼き餃子、菠薐草胡麻和えの残り(最後)、ご飯、ゆかり。
 国文社よりブラウン『アイルランド』の見本五冊到着。カヴァーは粒子が粗い写真で、予想していたのとちょっと違う。活字が緑色に見えるのは気のせいか。
 クラダよりインヴォイス。Read Ireland より本一冊。何と、アメリカ版であった。クーフーリンの話の再話。

 宮田昇さんの『戦後「翻訳」風雲録』をまた読みはじめる。読みはじめると止まらない。なんとも不思議な文章。書いてあることや、全体の調子はむしろ暗澹たるものなのだが、かすかにとぼけたユーモアのようなものがある。

 昼過ぎ、図書館より『井上究一郎文集』が入ったとの連絡があり、明日から長期休館とのことで、Hが帰るのを待って受取りに行く。宮田さんの本を持って出て、往復り読みつづけ、帰宅後も読みつづけ、夕食前に読了。ちょっと言葉が出ない。プロの翻訳者として、編集者として、至らなさをつきつけられる想い。半分は宮田さんの自伝であり、こうした人びとと共に人生を歩んできた宮田さんの姿が反射光で浮かびあがる。俺などよりよほど濃密な人生を歩んでこられてきたのだ。

 宮田さんもまた十代半ばで敗戦を迎えた世代であり、その点では広島県安原町の「日の丸・君が代」強制町長や森「神の国」首相と同世代のはずだが、こうも考え方が違うのは何故だろう。宮田さんの言われる「敗者」だからだろうか。敗れたものは何を残すか。だが、勝敗とは決定的なものではない。それとも当事者にとっては決定的だろうか。勝者は勝ったがゆえにその勝利の奴隷となる。敗者は勝敗から解放されて、将来へ遺産を残す。

 『井上究一郎文集』で来たのは第一巻のみだが、一見してこれは買わねばならないと決めた。月報を読みながら帰る。いずれもいい文章だが、菅野昭正、入沢康夫、蓮見重彦とならぶと、改めて辰野隆の学統の凄さに思いいたる。中でも蓮實重彦の文章が出色。小林秀雄に「殺された」一人としての井上究一郎が都落ち前夜目にした首都の夕暮の情景を鮮やかに描きだしている。たしかに小林秀雄はそういう意味でもわが国戦後文化にとって差引きすればマイナスの効果の方が大きい存在であったのかもしれない。とはいえ、小林に「殺される」事によって、井上究一郎のプルースト研究と翻訳が生まれたと言う可能性もある。宮田さんの本にも如実に現われているが、ものごとは常に両面がある。

 午後、推理作家協会から、会報に書いた原稿のタイトルの督促電話。
 夕食はハンバーグ、人参と莢豌豆のグラッセ、ご飯、大根卸し。

○Ciaran Mac Gowan ...OUTTA BELFAST; ...outta Belfast, (1998)
 三流のシンガー・ソング・ライターの三流のアルバム。なぜかわざわざタイトルを変えている伝統曲もつまらない。途中で聞くのをやめる。バックはバンドもつき、ものによってはホーンも付くし、バック・コーラスもつくのだが、スティーヴ・クーニィ以外一切クレジットがない。サンプリングとも思えない。

○Ronnie Drew THE HUMOUR IS ON ME NOW; Dolphin, 1999
 「ダンシング・パブ」の前川さんの書込みを見て、買ってあったのを聞いてみたのだが、やはり何も感じない。もう今後ダブリナーズ一派のCDを買うことはまずないだろう。技術がどうとか、プロデュースがないとかあるいは声が嫌いとか、そういうものではなく、どこか本質的なところで、この人たちの音楽が音楽として響いてこないのだ。世界が違う、ということだろうか。いいと思ったのはクリスティ・ムーアがうたったのを聞いて覚えたという、マウンテンの "One last cold kiss"。なぜか、タイトルを変えている。それと、シェイン・マクガワンが求めに応じておくってくれたという、〈大飢饉〉をうたった[10]。要するにこの人たちが伝統歌をうたうとだめなのだ。これも最後まで聞けず。

○Mick Flynn A SINGER'S DOZEN; Green Island, 1999
 とにかく録音がおかしく、声がこもって聞える。これでOKとする神経がまずわからず、そこでもう拒否反応が出る。ブックレットも歌詞を全曲載せてくれるのはいいが、細かい文字で、おまけに薄緑色のインクなので、見難いことおびただしい。全曲無伴奏。一曲だけ、奥さんとおぼしき女性とデュエット。うたい手としては二流にしか聞えず、どんなうたも全部同じテンポ、同じ発声、同じイントネーション。ひょっとしてシャン・ノースを勘違いしているのではないか、と思えるほど。コブシは全くない。"The lowlands of Holland" など聞くと、節回しは面白い。

2000年 5月 18日 (木) 朝のうちの雨は早く上がり、昼前には晴れる。

 朝食、ハム・トースト、プチ・トマト、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。
 朝食後、掃除。玄関から扉の前の踊り場、下の階段まで一通り掃く。

 午前中はまず『スポーン』82話。マクファーレンはこの物語で、アメリカの病理を描きだそうとしているように見える。人種差別、児童虐待、銃、カルト、権力濫用。が、それにしてはストーリーの一貫性を欠き、それにしたがって説得力も欠く。特にすでにここ二、三十号にわたって物語に緊張感がない。これは延々と話が続くアメコミの病弊なのだろうか。
 昼食はほっけの干物を焼き、キャベツの味噌汁、朝の残りのプチ・トマト、和布ご飯、バナナ。

 昼食をはさんでレニー・ブルース。第三章、一応終了。
 1時20分、ほぼ時間通りにMの担任、家庭訪問。リヴィングに上がる。途中でH帰宅。
 2時半少し前、予定にやや遅れてHの担任、家庭訪問。玄関先だけ。
 3時過ぎ、『CDジャーナル』のIさんより、ケパ・フンケラの取材の確認の電話。
 『CDジャーナル』、『ラティーナ』、Songline(CD付録付き)、東京エムプラスなど。

 夕方近く、のざきさんから電話。携帯からで、アーリー・ミュージックの吉原氏の連絡先を知らないかとのことだが、知らない。どうやらタラフ・ドゥ・ハイドゥークスのツィンバロンがうまく着かなかったらしい。しかし、あれはさすがに国内にはないのではないか。

○Gerry O'Beirne HALF MOON BAY; 1999
 見事なアルバム。ここのところひどい録音が続いたのでほっとする。特にうたがうまいとかギターが飛びぬけているというのではない、ただ作者にしかうたえない微妙な襞をていねいに織込んでゆく。メアリの "The holy ground" もモーラの "Western highway" も、元は確かにこうだろうという陰翳に満ちる。ノエル・ブラジルほどではないが、かなりデリケートな人だろう。ただバランスははるかにとれている。もっともっとこういうアルバムが聞きたい。

○KEPA, ZABALETA ETA MOTRIKU; Elkarlanean/Triki/AlterPop, 1987
KEPA, ZABALETA ETA MOTRIKU  ケパ・フンケラのデビュー・アルバム。多少モダンな装いもあるが、ひたすらトリティキシャを弾きまくっている。すでにテクニックは完成されているが、一方バスクのトリティキシャのスタイルでもあるのだろう。リズム楽器はほとんどパンデロアのみなのだが、これが実に気持ちよい。ちょっとバゥロンに使い方が似ている。インスト・アルバムと思いきや、半分以上うたが入っている。本人は歌っていないようだ。

○Kepa, Zabaleta & Imanol TRIKI; Elkarlanean/AlterPop, 1990
Kepa, Zabaleta & Imanol  三年後のセカンド。がらりと変わって、フュージョン・バンドをバックにして、サックスやギター、ピアノなどもリードを取る。振り子が思いきり逆に振れた感じ。これはこれで面白いが、まだ本来の伝統的な要素とモダンな要素が完全には溶合っていない。各要素の質は相当に高いが。

2000年 5月 19日 (金) 曇。

 朝食、早良の西京漬け、和布キャベツ、大根の味噌汁、ご飯、細切り昆布の佃煮。
 昼食、朝の残りの和布キャベツと味噌汁、目玉焼き、海苔、ゆかり、ご飯。

 ひさしぶりに巽さんから編書『日本SF論争史』が送られてきて、思わず拾読みしてしまう。
 朝からケパ・フンケラのCDを聞く。明日のインタヴューのための準備。米山画伯に架電するが、明日は新たなCDのための練習の由。ちょっと雑談。

○Kepa Junkera KALEJIRA AL-BUK; ElkarlaneanAlterPop, 1994
Kepa Junkera  初期の頂点。ジャズ・フュージョンの使い方が板につき、マダガスカル、インド、アラブなど、外の要素の取入れ方も見事。ケパが自分の音楽のスタイルを確立したアルバムとみていい。ここで参加しているヴァリハの Justin Vali はその後もケパの重要な仲間の一人になる。
 あらためてライナーなど読んでいたら Silex はなくなってしまって、ジョン・カークパトリック、リッカルド・テシとの蛇腹トリオのアルバムは入手できないらしい。ケパのたっての希望でベストに一曲入っていて、それを聞くとぜひアルバムを聞きたいもんだ。

 3時半、家を出る。新宿に出て、夕食にアカシアでロール・キャベツとKRB。うっかり乗車券を買ってしまってから、代々木までだったら歩いた方が早いと気がつく。とまれ代々木で降り、フジタ・ヴァンテに向かうが、チラシの地図があまりよく分からず、見当をつけて歩出してみたら当たりだった。
 Kさんからパンフを一冊もらう。デザインが良くできていて、俺の原稿もうまく処理されていた。

 今回は土壇場でトラブル続出で大変だった由。ツィンバロンが着かなかっただけではなく、バンド自体も遅れたそうな。出発地の空港がストで飛行機が飛ばず、別の空港まで行ってなんとか出てきた由。関西空港に着いたのは開演予定の2時間半前。「前座」のソウル・フラワーとリブ・ラフ!が長めに演奏して、うまく盛上げたらしい。その前にはタラフとアルタンのビザ関係書類が先方に届かなかったり、現地の日本大使館が日本のカレンダーに合わせた連休でビザが間に合わなくなりそうになったりで、あわや来日できないことにもなりかけたそうな。

 このフジタ・ヴァンテは円形の空間で、こじんまりしていてステージと客席の距離が近く、なかなか良いところだ。が、親会社のフジタが経営不振でこのビル全体が売りに出ているので、今後使えるかどうか、分からないらしい。後でケパにインタヴューした時も、ああいうこじんまりした会場は好きだと言っていた。

 ステージの前はクッションを置いて座る形。その後ろと脇に椅子席。開演前にピーターさんと話したら、瞽女のCDはぜひ聞くと言っていた。

 メンバーは6人で、ギター、マンドリン担当。ベース、マラカス担当。ドラムス、パーカッション。それにチャラパルタの二人。ベースの兄ちゃんはちょっとアラブかロマの血が入っているのではないかという感じ。ギターとマンドリンは眼鏡をかけて、髪の毛をまん中で分けたちょっと理知的な感じなのだが、実はかなりの剽軽ものらしい。ドラムスは頭の禿上がった、四十代ぐらいのおっさんだが、シュアなドラムを叩いていた。この三人はいずれも表面クールに、しかしなかなか楽し気に、シャープなグルーヴを作っている。チャラパルタの二人はまだ田舎の青年というよりも少年という感じで、実際かなりナイーヴらしい。顔も何となく似ているが、兄弟ではないそうだ。

 肝心のケパは想像していたよりエキセントリックで、天才の名に恥じない。演奏中もダイナミックに首を振回し、表情を変える。思っていたよりジャズ的で、曲のはじめにフリーでかなり長く即興演奏したりするところは、前衛的でもある。音友のSさんも言っていたが、蛇腹でここまで可能なのかと思えるほど、ありとあらゆる技法を駆使し、様々な音を出す。しかもそれが技法のための技法に陥らず、音楽として昇華している。見て、聞いているだけで刺激的だ。

 途中休憩を挟んで、後半、俄然動きが欲なり、音楽も乗ってきた。観客の反応がいいことが実感されたらしい。後で、マネージャーが言っていたが、日本でこういうホットな反応を受けるとは予想していなかったとのこと。日本人は礼儀正しく、大人しい人間だと思われていたらしい。もっとも、バスク人らしい男女五、六人が客に来ていて、この連中が騒いでみんなをリードした分もある。

 アンコールでは一曲、最前列の二人の男性をステージにあげ、マラカスを一つずつ渡してふらせた。左は四十代のやや頭の禿げあがった眼鏡のおっさん、右は二十代のやはり眼鏡をかけた若者で、あがってから捩じり鉢巻きをしている。ほとんどやけっぱちで振っていた。最後は場内総立ち。

 終わってからしばらく、その辺でいろんな人たちと雑談。北中さん、ピーターさん、長嶺さん、アオラのTさん、五十嵐さんなどなど。ケパはサイン会。帰りがけに五十嵐さんと二人、各務さんに紹介してもらう。事実上の奥さんが一緒に来ていた。この人は英語が分かる。ケパは英語は全くダメ。

 代々木駅に出る五十嵐さんと別れ、新宿まで歩く。紀伊国屋の前から高島屋のテラスにのぼるが、あの辺のベンチはどれにもアベックが座っている。なかには同性同士らしいものもいた。ここのところちゃんと寝ていないので、くたびれる。深夜バスに間に合い、帰宅0時前。

2000年 5月 20日 (土) 雨。


○Virginia Rodrigues SOL NEGRO; Hannibal, 1998
 ヴィルジニア・ホドリゲスのファースト。セカンドにくらべて、曲調やテンポにヴァラエティがある。アカペラが一曲で、これはもろに聖歌。セカンドでもアカペラが聞きたかった。とまれ、セカンドと甲乙つけがたい。

 朝食、チーズ・クロワッサン、アンパン、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。
 午前中はPTA運営委員会。今年度第一回。正午過ぎに散会となり、飛んで帰ってすぐに出かける。

 まっすぐ青山Cay。約束の2時に着くと、ちょうど各務さんがケパたちと昼食から帰ってきたところ。一階に『CDジャーナル』のIさんが雑誌を持って待っていた。そのまま3階に上がり、ケパの楽屋でインタヴュー。通訳は三十代ぐらいの女性で、なかなか優秀。1時間はあっという間。その後は松山さんが『musee』のためのインタヴュー。外は雨がざんざんで、一度昼食に出ようとするが、考え直して会場にそのまま居残る。前の方の正面はクッションを置いて床に座る方式。

 タラフは右スピーカーの手前に席をとってあり、ここから入れ代わり立ち代わりステージにあがってゆく。全員が同時に上がることはなく、曲によって様々な組合せで上がる。ヴォーカルが4人、うち一人はフィドル兼任だが、この人のフィドルにはマイクが通っていない。またもう一人は最後に全員が上がった時、ギターを持って出てきたが、まるで演奏する気はなく、ただやっている振りをしていた。メインのフィドルは三人。うち右側の一人がリーダーかステージ上の音頭取りらしい。左が有名なカリウだが、この人はむしろソロイストらしい。もう一人が名物のニコライ。足下がおぼつかず、ステージの上がり降りは誰かが手をとって支えていた。蛇腹は3人。右側が蛇腹のリーダーのようだ。ベースは一人でこの人は出ずっぱり。他が引込んでもベースだけは引込まない。ツィンバロンが二人で、手前が小型、後ろが大型。これがはじめ着かなかったやつだろう。手前の小型は曲によって裏返しにして撥で叩き、パーカッションにする。かなりうるさい。ビデオで見て、そういう打楽器があるのかと思っていたら、単に裏返しにしただけだった。ツィンバロン奏者は固定ではないようだが、手前の担当が後ろを叩くことはあったが、後ろの担当は小型を叩くことはなかった。手前の担当は歌伴もするが、後ろはダンス・チューンだけ。それに今回はアイルランドのホィッスルそっくりの木製と思しき六つ穴の縦笛が一人。こいつが目立ちたがり屋。

 メンバーは人数が多いためだろう、いつもの脇の楽屋は使わず、3階から直接降りてきた。
 ヨウジ・ヤマモトのパリ・コレクションのモデルを勤めたとのことで、今回もヤマモトのデザインによる服を全員が着て出てくる。ほとんど黒のゆったりしたもので、留め金がユニーク。帽子は色とりどりだが、ニコライだけは黒のシルクハット。ちょうど後ろがこのヤマモトの関係者の席で、モデルか何かの女の子がこれを見てきゃあきゃあ騒いでいる。それだけでなくて、やたら金切り声を挙げて騒いでいて、いささかうるさかった。音楽に合ってはいたが。右側の太めのフィドラーは後半、ズボンをとめている紐が弛んでしまい、後ろにいってやりなおしていた。

 演奏はもうこの世のものとも思えない。壮絶、凄絶、抱腹絶倒。ニコライの弦を糸で擦る芸もなかなか細かい。歌もよく、ダンス・チューンはもっと良く、そのヴァイタリティ、仲間内の競争心。カリウのフィドルは、確かにクラシック屋が涎をたらしそうなところがある。クラシックの技法をうまく取入れているのだろう。弓を震わせて細かい音を連続させるのが得意のようだが、左手でのビブラートはかけていないようだ。

 目立ちたがり、あるいはサービス精神ということで、アンコールでは曲弾きも披露。フィドラー二人が互いに片手ずつを一台のフィドルにかけて弾いたり、二人の腹の間に支えた弓に、裏返しにフィドルを押付けて弾いたり、果ては床に置いた弓にフィドルを押付ける。フィドル二本とホィッスルを中心に鳥のを声をまねたりもする。途中で、ダンス・パーティになり、ホィッスルのおっさんとタラフのマネージャーのミシェルが最前列の女の子たちをステージに引きずりあげ、プランクトンのKさんまで引きずりあげられた。

 基本的にソロ演奏が中心で、ソロを回すことまでしていたが、最後に全員で超高速ダンス・チューン・メドレーをやったのは圧巻だった。二時間たっぷり。もちろん場内総立ちだ。

 一度外に出て、食べそこなった昼食の代わりに、表参道のラーメン屋でメンマ醤油ラーメン。いつも行く店だが、どうやら経営が替わったらしい。味はそんなに変化した様子はない。
 Cay から外に出たところで世阿弥のKさんに声をかけられる。はじめ、誰だか分からなかった。

 また早めに中に入って開場を待つが、ちょっとタラフでくたびれてしまい、後ろの方にいることにする。ケパの音合わせをしているところで、アルタンの一行が店の後ろの方でくつろいでいる。マレードがこちらの顔に気がつき、挨拶してくれる。その後、トムに挨拶。ロンドンで会ったよというと思いだしてくれた。ダーモットも覚えていてくれたらしい。トムとしばし雑談。この人はアイルランド人には珍しく、実に良くレコードを聞いている。

 結局、カウンターの一番ステージ寄りの椅子に座る。タラフの時もそうだったが、満杯。外は雨ざあざあなのに、いや、みな偉いものだ。
 またタラフとケパたちが上から降りてきて、ピーターさんの司会で始まる。はじめはアルタン、次にケパが加わって一曲。半分バスク、半分アイリッシュのメドレー。ケパのバンド、タラフのメンバーが一部加わって一曲。タラフ。三つのバンドの蛇腹奏者だけで一曲。こうなるとタラフが強い。ダーモットはちょっと気の毒。次にフィドルで、これはカリウがアイルランド勢に合わせる。そして最後はほぼ全員があがると、タラフが音頭をとってのダンス・パーティ。10時過ぎ終演。

 ほとんどの時間は座っていたが、目の前には人垣ができて、何も見えない。気になるところだけ立上がって見ていた。右の耳が時々痛む。

 くたびれ果てた感じで、早々にひとり抜出す。深夜バスに間にあい、帰宅11時半過ぎ。
 Kがまだ起きていて、キュブリックの『アイズ・ワイド・シャット』のビデオを見ている。その後、しばしおしゃべりしてから就寝1時半。

2000年 5月 21日 (日) 曇。

 朝食、健康パン半分、バナナ、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。
 メール・チェック。

 なにか落ちつかず、昼過ぎに家を出てまっすぐ日比谷に出る。昼食に有楽町の芳蘭で醤油ラーメン。そのまま野音に向かう。中に入るとタラフ・ドゥ・ハイドゥークスが音合わせの最中。やはりこのバンドは屋外の方が映えると思う。CDその他物販のテントを覗くと、鈴木さんがいて、音友などの本を並べている。今日は売れるだろう。喉が乾いたので備付けの売店の片方で缶ジュースを買うとおばちゃんが今日はどれくらい入るのかねぇと聞くので、電話予約が全部来ると満杯になるらしいよと答える。天気はかろうじて保ちそうだ。売店の荷物の移動など手伝ったり、アオラの一党などと雑談してているとやがて開場となる。今日は一通りの顔がそろう。席はけっこう後ろの方から埋まってゆく。

 そろそろかと思って急いで席につくと、ちょうど司会のピーターさんが出てくる。まず一番手はタラフ・ドゥ・ハイドゥークス。例によって歌ものからで、昨日最後に出てきて気のない様子でギターを弾いていたおっさんが今日はリード・ヴォーカルの一人で歌う。45分のステージなので、昨日の縮小版。ニコライの弦を糸で擦る芸はもちろん入っている。後ろのツィンバロンだけになった時、前の楽器の椅子の背にジャケットを脱いでかけていて邪魔だったのを、右側のフィドル(一応のバンマスらしい)がどけていた。やはりダンス・チューンの方が受けがいい。フィナーレのダンス・チューン・メドレーが始まるころから雨が降出した。雷も鳴っている。観客は気にする様子もなく、最後は総立ちで喝采。

 上にあがってトイレに行き、飲み物を買いなどする。誰と喋ったか、記憶がほとんどない。売店では雨合羽を求めて長蛇の列。山口洋さんが一番上の段にいた。そのうちまたピーターさんが出てきたので慌てて駆けおりて席に戻り、カッパを羽織る。二番手はケパ・フンケラ。チャラパルタの説明を少しする。やはりこれが今日一番の話題。ケパは一昨日ほど奔放ではなく、ジャズの度合いが少ない。前奏のソロもあまりやらなかった。バンドとしてのまとまりはやはり今日の方が上だろう。チャラパルタのソロは一昨日、昨日とは違っていて、聞かせた。これはやはり大受け。これもまた最後は観客総立ち。雨は2曲目ぐらいでいい案配にあがり、青空が広がる。みな用意が良くて、傘やら雨合羽やらを取出し、帰る人間はまるでいなかったらしい。

 休憩時また上に行く。栩木さんを見つけて声をかける。その後トイレに行こうとしたら、星川さんとビクター勢が固まっていた。ステージに向かって右手の方のトイレが空いていて、そちらに行く。その後星川さんたちと雑談。ビクター・Tさんがチャラパルタにつき、あんなに持ちにくい棒でやらなくてもいいんじゃないかと言う。また手に持つ方の棒の先も工夫すればもっといろいろな音が出るはずだとのこと。いずれにしてもこれからの「楽器」だ。自分でもガムランを叩いているTさんなんかは一緒に叩きたくて仕方がない様子。星川さんに言わせるとああいう「バラフォン」系の楽器はヨーロッパにはないことになっているのだそうだ。やはりバスクはヨーロッパではないのだろう。またピーターさんが出てきて慌てて席に戻る。

 アルタンのセッティングを見て、改めてこのバンドのシンプルさに思いいたる。わずか五人、全員が持ち運びできる楽器だけ。それで他の二つに負けないダイナミックな音楽を聞かせるのだ。パーカッションがないのだが、ダヒィのギターはベース弦に何か仕掛けたのか、恐ろしくベースが効いていて、少しも不足感はない。マレードの歌、ダヒィの歌のすばらしさ。キアラン・カランは力があまったのか、三度も弦を切っていた。例によってジグで一曲リードをとっていたが、それよりもダンス・チューン伴奏であんなに切れ味が良かったか、記憶にないくらいの演奏をしていた。バンド全体の質もどこか一段レベルアップした感じで、他の二つのバンドの演奏が刺激になっていたのかも知れない。特にキアラン・トゥーリッシュのフィドルがとび捲っていた。声をかけて煽りもする。今回はダーモットのスロー・エアがなく、代わりにキアラン・トゥーリッシュがホィッスルを披露。場内シンとしてホィッスルの音だけが流れる中、ちょっと遠くのどこかでけたたましい音を立ててバイクが走っていき、キアランもおやというような顔をした。アルタンだけは80分予定だったが、おそらく他の二つと同じく、若干のびていたはずだ。

 アンコール前、バンドが引込んだ時、ふと振返ってみた。客席最前列の底から見上げると、野音満席の聴衆が総立ちになって拍手している。自分がステージに立っていたわけではない。自分がこのコンサートを仕掛けたわけでもない。しかし、ほんの一瞬見たあの光景はおそらく忘れられないだろう。バンドが再び現れたステージに向きなおり、アンコールでマレードが「北国の少女」を歌いだしたとき、涙が出てきた。胸が震えた。

 アンコールを歌い終わったマレードが他の二つのバンドを再びステージに呼出し、後はタラフが音頭をとっての大ダンス・パーティ。リーダーのフィドラーがマイクを持ち、何やらインド歌謡にも似た歌を歌いだすと、タラフのマネージャーのミシェルと縦笛のおっさんがステージ際に押掛けた聴衆の中から女の子ばかり選んでステージに引きずりあげ、一緒に踊りだした。歌はどうやら今日の出演者のことなどを即席で歌っているらしい。延々と続き、いつ終わるのかと心配になったが、アコーディオンのリーダーが何やら囁くと、急に合図してあっさり終わった。キアラン・トゥーリッシュがマイクを取戻して、最後の挨拶をする。ステージ前に集まっていた連中はまだアンコールを求めていたが、すでに8時20分で祭りはお開きとなった。

 上にあがり、合羽を処分する。物販のテントの前でプランクトン・Kさんに出くわしたので、思わず抱締めてしまった。後は感動を噛みしめて、うろうろしながら、みんなが引上げるのを待つ。
 誰彼となくおしゃべりし、ゴミの後片付けなど少し手伝う。物販のテントの撤収を待ち、Sさん夫妻とその友人で『サウンド・パル』のT氏とともに会場を後にして、打上げ会場へ向かう。表参道へ出て、夕食は4人でラフォーレ筋向かいのビルの四階にある中華料理屋に入る。前にも一度入ったことがあったが、今はオリジナル料理として「キーマーカレー丼」というのがあるのでそれを頼むと、結局カレーであった。キーマーは挽肉のカレーのはずで、一応入っていたようだ。

 打上げに行くが、アルタンの連中は今日は大人しく、ケパのバンドがまず盛上がっていて、次にタラフの連中が楽器を持出していた。五郎さん、鈴木亜紀さん、山口さんなどと話す。山口さんにキアラン・カランに紹介してもらう。プランクトン・Kさんにマレードがプレゼントした Jill Freedman というアメリカの写真家がアイルランドで撮った写真集を見せてもらう。70年代前半の人びとだが、どの人もいい顔をしている。見事な写真集なり。今は版元が潰れて絶版だそうで、この本は彼らがわざわざインターネット上で古本をさがして買ってきたのだそうだ。Kさんはマレードの家に行く度にこの写真集を眺めているという。今日はとことんつきあうつもりだったが、少しすると立っているのがたえられなくなり、疲れていると自覚して、終電に間に合うように引上げる。小田原行き最終で、帰宅1時前。

 帰るとKが耳鼻科の予約をとっていた。Hの咳がひどいと言う。が、耳鼻科は満杯で、様子を見て、明日午後、別の病院へKが連れていくことにする。崩折れるように就寝。

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