2000年 6月 12日 (月) 雨。涼し。
朝食はブルーベリィ・ジャム・トースト、昨夜の小松菜煮浸しの残り、炒り卵、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。
○Dulce Pontes O PRIMEIRO CANTO; Polydor, 1999, Portugal
期待が大きかったのかもしれないが、今ひとつ乗れない。ひとことで言えば仕掛けが大きすぎる。大きな仕掛けを使いこなす力量がヒロインにないわけではなく、本人も十分に歌っているのだが、音楽スタイルの点でも、ゲストの点でも、編成でも詰めこみすぎているのだ。オーヴァー・プロデュースと感じさせないのはこの人のシンガーとしての器の大きさであろう。なるべくいろいろな面を聴かせ、できるかぎり包括的なアルバムづくりをするのがメジャーの志向ないし性癖なのか。もっとこの人の歌を聞きたい。じっくりと、よけいな飾り物がないかたちで。だから、今のところあのライヴ・アルバムがベストだ。
○MacUmba BRUHUHAHO!; Greentrax, 1999, Scotland + Brazil |
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ブラジル〜カリブのリズムをたたき出すリズム・セクションにハイランド・パイプをメインにしたフロントが乗る形は相変わらず。アンサンブル等で特にファーストから進歩をしているわけではない。それだけファーストの完成度が高かったということだろうか。基本的にはリズムとフロントがうまく行く曲の組合せをさぐることになるようだ。その点ではリズムが細かいし、旋律打楽器なところもあるので、フロントはむしろスローなメロディの方が合う。もっともラストの曲ではパイプがちょっと面白い、サックス的な音の出し方をしていて、新たな展開を予感させる。パイプでは結構難しいと思うが、ぱっと出してぱっと止めるのだ。今回はシンガーがおらず、歌がないのが寂しい。アルバムとして聞くと、やはり単調になる。あるいはリズムとの組合せの面で別の実験をしているのかもしれない。とまれ、こういう実験的なバンドが続いているらしいのは、めでたいことである。 |
午前中、PTA役員会。
昼食、昨日の残りの茄子豚、牛肉きんぴらの残りにご飯、胡瓜、味噌、ゆかり。
Irish Music Magazine。
○Zhu Changyao/朱昌耀 ERHU/二泉映月〜朱昌耀の二胡; King, 1998, China
二胡のソロ・アルバム。伝統的な演奏から曲弾きまで、まあ、たった二本の弦でようここまで多彩な音を聞かせるものだ。音楽自体は典型的な中国の曲、という感じで、メロディなどはあまり好きというわけでもない。どこが気に入らないのか、はっきりしないのだが、昔から中国のメロディをいいと感じたことがない。我ながら不思議だ。南京での録音なので、おそらく中国でも南部のものなのだろう。と思ってみても、地域的な感興も動かない。まさに「うまいだけ」に聞える。聞く人が聞けば、おそらくはかなり高い評価を受けるはずだが。
○YR HERGWD; Fflach, 1996, Wales
ウェールズのバンドであることは明らかだが、伝統音楽とは言いきれない。ハープやフィドル、ブズーキ、アコーディオンなどのアンサンブルで、ジグなどもやるのだが、ちょっと正体が掴めない。ウェールズのポップスと伝統音楽の中間的なところだろうか。リード・シンガーの男がリーダーのようで、歌はオリジナルも含む。この辺があまりウェールズらしくない。というか、伝統的なメロディではない。一方で、ウェールズのバンドとしてはダンス・チューンをアイリッシュやスコティッシュ的なスピードで演奏しようとしているのは珍しい。アイデアとしてはなかなかなのだが、全体の印象はくすんだ、どっちつかずのものになってしまっている。ダンス・チューンのぎこちなさなど聞くと、やはりウェールズにこういうスピードは合わないのではないか。
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2000年 6月 13日 (火) 雨。終日ほぼ休みなく降り続く。夜に入り、多少強くなる。
EFDSSから ROOTS AND BRANCH 第二号。
朝食は銀鱈西京漬け、茄子の味噌汁、空豆、ご飯。
家事をすませて10時過ぎに出かける。まっすぐ神保町。宮田昇氏を訪ねる。少し早すぎたので、東京堂を覗く。一階レジ横の、書評や固め新刊の棚の平台に、宮田さんの『戦後「翻訳」風雲録』が積まれていた。後で伺うと再版が出た由。12時半に事務所に伺い、すぐいっしょに出て、近くのスパゲティ屋。高菜とツナのスパゲティにするが、なかなか美味。麺(とこの場合言うのだろうか)の腰がちょうどいい。
引越しが思いの他、苦労が多かったこと。クロネコヤマトのおまかせにしたら、わざわざ残したいい食器を割られたこと。今まで住んでおられたご自宅は借りる予定だった人が癌になってしまい、急遽取止め、代わりの人もまだ正式に申込んでこないこと。『翻訳権の戦後史』は初版がまだはけないそうだが、売れた部数を伺うと、あれがそれだけ売れたのはたいしたものだと思う。都心の方がやはり便利だし、歩くことが多くなること。今度の本で、創元と乱歩と早川の確執の件につき、厚木淳氏から軽い抗議を受けたこと。本の中ではあたかも創元が乱歩にやらせたことになっているが、あれは乱歩が自ら買ってでたことだと言われたそうだ。大筋では違わぬけれど、一言配慮が足りなかったと悔やんでおられる。それが書けなかったのは、体力が足りなかったためだと言われる。ここはコーヒーも出るので、1時半過ぎまでおしゃべりをしてから出て、会社の前で別れる。
秋葉原まで歩き、ヤマギワの本店やラジオ会館の中を回ってみるが、AR Jordan は見当たらない。やはり闇雲に行ってもだめなようだ。銀座に出て、昼食が軽く小腹が空いたので、はしごで搾菜坦々麺。いつもの喫茶店で休憩。本を読もうとしたら、うつらうつらしてしまう。四時頃に出て、伊東屋。Lenox を見るが、買う気が失せる。極細字のボールペンとスタイペンの替え芯だけ買う。無印良品の店を探すが見つからず。結局六本木に出てしまう。ピットインの場所を確かめに行くと、向いが Axis のビルだったので、一階の Motif と二階の生活用品、文具、ペンの店を覗く。どれも今ひとつ。Paddy Foley's に入って、ギネスを舐めながら読書。ほぼ時間になったので、ピットインに行くが、ドア・オープンまでしばし待たされる。Kokoo のセカンド・アルバム発売記念ライヴ。
はじめはガラガラで、大丈夫かと心配になったが、開演する頃にはかなり立ち見も出て、ぎゅう詰めとまでは行かないが、まず満員。客層はお琴関係のおばさんたちもいたが、普通にピットインに来そうな人たちが大部分。とはいえ、客はやはり普通のロックやジャズなどに比べるとおとなしい。マネージャーのKさんに挨拶。キング・Iさんは当然来ている。後で聞くと、ビクターのディレクターやミュージシャン関係もいろいろ来ていたようだ。中村さんは例によってサングラスで、美女二人とならぶとぽん引きの兄さんに見えないこともない。今日はお弟子さんらしき人たちが何人か出て、チューニングや箏の交換を手伝っていた。演奏は当然のことながらセカンド『super-nova』からの選曲がメイン。出色は前半の「タルカス」と後半の「シーズ・リーヴィング・ホーム」。前者は中村さんの循環奏法がスリリング。
後者は録音よりもさらにゆっくりしたテンポで、そうすると曲の美しさが際だつ。今回「ゴジラ」はアンコール前で、アンコールは「ムーンチャイルド」。ザッパはやらなかったのが、ちょっと寂しい。バンドはユニットとしての一体感が増している。前に聞いたときも呼吸の合い方が普通ではないと思ったが、今日の演奏を聞いてしまうと、前はばらばらだったと感じる。各自のソロも良くなっている。それから今回は一曲、たしかデヴィッド・ボウィとイーノの曲だったか、八木さんと丸田さんがヴォーカルを披露した。これがすばらしかった。もっともっとやって欲しい。
ピットインは打上げができないそうで、星川さんと二人、近くで一時間ほど飲む。気温が下がっていて、外はややもすると寒いほど。11時過ぎに店を出て、交差点で別れ、乃木坂まで歩く。最終小田原行きに間に合い、帰宅0時半。
雨用の靴を穿いてきたのだが、六本木の交差点から乃木坂に向かって歩いている頃から、右足の指が当るようになった。帰る頃には右足小指が痛い。
Hは歯科検診で、虫歯が見つかったそうだ。やはり、磨いてやらねばならない。
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2000年 6月 14日 (水) 雨。梅雨の雨だ。今日も涼しい。
朝食、ハム・トースト、バナナ、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。
昼食、銀鱈の西京漬けを焼き、大根の味噌汁、空豆の残り、ご飯、ゆかり、海苔。
○Various Artists SEX; SCA & SEDITION: The New Ballads; Free State Records, 1998, Ireland |
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1998年冬のコーク・アーツ&シアター・クラブでのライヴ録音。サブタイトル通り、基本的に現代を歌ったバラッドの競演。全曲歌詞はついているのだが、印刷が細かい上に薄く、見難いことおびただしい。地元の人びとであろう、名前を知っている人は一人もいない。無伴奏かギターなど簡単な伴奏がつくのみで、いずれも一級のうたい手。ただし、女性のうたい手は一曲のみ。歌そのものも歌詞を完全に聞取れたわけではないが、大半の歌はむしろユーモアや皮肉を籠めたものらしい。聞取れたかぎりでも結構笑える。じっくりと歌詞を見ながら聴直したくなる。 |
○Various Artists RICORDU: 25eme Anniversarire; Ricordu, 1999, Corsica
パリの植野さんの紹介らしく、音友経由で送られてきたコルシカのレーベルのCD2枚組サンプル集。創立25周年記念らしい。レーベルを紹介するパンフも一緒に送られてきて、その写真によると設備などはそろっているようだ。CDを聞いての印象は、コルシカの人たちはとにかく合唱が好きらしい。何らかの形で合唱が入っていないトラックがない。ハーモニカをフィーチュアしたインスト・バンドだけが例外。このハーモニカの録音の一つは、ど演歌に聞える。イ・ムヴリニも2曲入っているが期待したほどでない。むしろ、Canta u Poplulu Corsu というバンドの方が面白い。ぼんやり聞いていると合唱しか耳に入らず、うわあとなるが、多少集中して聞くと、それなりに個性がある。
朝一番でメール・チェック。「新し物好き」や作者からのメールであれこれソフトをダウンロード。Jamming 2.9 が出たと作者からメール。作者のサイトからさまざまな辞書を公開しているサイトにリンクをたどる。何と、Webster 3rd がデジタル辞書になっていた。オフィシャルなものなのかどうか。とまれ16メガのサイズがあるので、ダウンロードはやめておく。
大野光子さんから本の礼状。ありがたいことにすでに買われてしまっていた。Orange World からのCDが届く。馬鹿に薄いとおもったら、1枚除いて、ソフト・ケースに入っていた。
メディアワークス・Y氏から電話。昨日留守電に入っていた件の確認。
ラティーナ・Kさんから電話。ポーランドの件。ちょうど今日CDが着いたので、それを聞いてみて、来週頭にでも連絡することにする。
夕食、鶏肉カシューナッツの中華風炒め、ご飯、かき卵スープ、ゆかり。
午後、MacOSメール環境を試すが、ダウンロードしたファイルの処理に以上に長い時間がかかる。一通あたり一分近くかかり、40通ほど処理したところで爆弾を出す。その後、ファイルのオープンなどしようとするとひどく時間がかかるようになってしまう。あれこれ試したところで、ゴミ箱の中に大量の、2000個以上のファイルがあることに気が付き、これを消したところ、尋常に戻った。このファイルはダウンロードしたメール・ファイルを処理してできたものらしい。
そのメールの処理を待ちながら、『辰野隆随想全集』第一巻を読了。改めて『寺田寅彦全集』を先に読む気になる。ここに集められたエッセイからうかがえるのは辰野の人間の大きさで、おそらく薩摩人流の人間の大きさとは別の、江戸が生み、育んだ人間の大きさなのだろう。親分肌とはまた違うらしい。井伏鱒二についての文章で、自分は弟子などとった覚えはない、そんな面倒くさいものは願い下げる、今まで教えたことのある相手も皆仲間や相棒だ、と言う。実際にはそうも行かなかっただろうが、これは本人としては理想だったのだろうし、本気でそう考え、行動しようとしていたことを疑う根拠は何もない。鈴木三重吉の観察に一番よく現われていると思うが、人間を見る目がユニークではある。相手の長所のみを見るのではなく、短所は短所として、そこを珍重する。短所があるからこそ人間なのだと言っていると思いたくなる。煙草仲間の本への拔にしてもそうだし、荷風、あるいは辰野が在学中の東大総長・浜尾新、内田百鬼園(「ひゃっけん」の方は「けん」の字が出ない)といった人びとについての観察も、本来短所のはずのものをエスプリを通してその人の個性にしてしまう。その基本にあるのは「男らしさ」を尊重する態度だ。潔さ、度量、独立独歩、淡白、洒脱、頑固、といった資質を上とする。そしてもちろん粋でなければならない。野暮ではだめなのだ。その意味では明治というよりも近世の価値観を疑うことをしなかった人であり、明治社会のタテマエを奉じた人である。忠君愛国は当然のことであり、戦争は日支共栄の大義のためだった。
もっとも、この二つはあるいは辰野の中では別物であったかもしれない。忠君愛国ないし尊皇愛国は、「民衆が祖先から伝え受けた、和気に充ちた」ものであったからだ。それを軍人が独占して、「天皇を偶像に祭りあげ、そうした民衆の真情を蹂躙して知らぬ厚顔無恥を虫唾の走るほど」嫌った(「弟子――井伏鱒二」254pp.)。この一節を書いたのは1950年夏となっている。「日支共栄の大望」という表現が出てくるのは、友人・志田文雄の死を悼む1938年5月3日の文章だ。もっともこれにしても、志田が北支視察の帰途に病を得たことから志田自身の「大望」を尊重したとも読める。一方で辰野自身は共産党の有力者と親しく言葉をかわしたり(「伊藤博文の手紙」275pp.)、一高時代には一高唯一の社会主義者だった友人の感化で平民新聞を購読したり、クロポトキンの自伝をわざわざフランスから取寄せて読んだりしている(「旧友三人」のうち横田兵馬 205pp.)。しかも一高在学中に結核で亡くなったこの友人のことを、1937年冬の文章で懐かしく思い起こしている。
してみると、辰野自身が判断の基準としたのは相手の人格であって、相手の思想で付合い方を変えることはなかったと言えるだろう。自らの政治思想についてはほとんど黙して語らずだが、それなりに確固たる考えを抱いていたことはこうした文章に断片的に現われる部分からも感じられる。ただ、一介の「老書生」たる自分としてはそれは文章として現わすべきではなく、政治は行動、と考えていたのかもしれない。この点はもう少し他の文章も読んでみないとみえてこない。
面白かったのは荷風の評で、谷崎との三人で座談した時のこと。「革命前夜なら、ラクロ荷風とアベ・プレヴォ潤一郎の対話」。その風姿は「まず何処から見てもバタヤさんである」。「然し、それにもかかわらず何処かに曽て欧米で生活した人士の面影が残っていて、往々パリのラテン区の裏町に住んで、読書三昧に年月を送り暮らす古典学者と云った趣さえなくもない。(中略)声調にも若々しさが漲って、粋者通人の話し振りよりも寧ろ明治時代の学者や老書生の談論に幾 (ちか)いところがあった。戯作文章を持って韜晦していても、本質は山の手育ちの坊ちゃんが老熟した趣がある。知人の一室を借りて全く孤独の生活を送っているところは、昔なら、伴蒿蹊が畸人伝の数頁を進んで割くだろうし、大バルザックにして今あらば舌なめずりをしながら、人間劇叢書中の少なくも一巻は『荷風の生涯とそのアヴァンチュール』として読者幾万の興会を湧せることだろうと思った。」(215-216pp.)
11時、中山さんから電話。7500の時計が狂い、起動音も弱々しいので、電池がなくなりかけているらしいというので、それは危ないから早く変えろと進言。iMac を買うことに落ちつく。また雑談2時間。ディスクユニオンの経営トップが変わり、昔ながらのユニオン・カラーを担っていた中堅社員の首を切っているらしい。これでユニオンも終りだ。今さらヴァージンやHMVの量販店を目指しても余地はない。
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2000年 6月 15日 (木) 晴れ。梅雨の晴れ間。暑し。
朝食、ハム・トースト、バナナ、トマト、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。
○Andy White TEENAGE; Cooking Vinyl/True North, 1996, Ireland |
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なぜかカナダ盤。あるいは英国盤は廃盤か。これを聞くとやはり前作はバックが性格を決めていたのがわかる。こちらの方がアンディ自身の資質に近いだろう。基本的にはやはりフォーキィで、演奏よりも歌、しかも声を荒げたり、身も世も無く嘆いたり、という起伏が少ない。表面的には淡々と、感情を籠めることはほとんどない。その点では伝統音楽の感情表現に近い。感情表現はむしろバックの演奏に現われることが多いが、これも主人公の歌とかけ離れることはない。ドラムスの無神経さが、ここではむしろ、碇ないし重しになっている。それにしてもどこかが決定的に壊れている感じがぬぐえない。むろんそれゆえにアンディ・ホワイトは優れたシンガー・ソング・ライターなのだが。 |
10時前に歯科から電話。キャンセルが多く、今ならできるというので、11時半のアポだがよろこんで出かける。11時帰宅。
Amazon.co.uk から本3冊とCD1枚。早い。
編集者のSさんから電話。急ぎの翻訳を頼みたいとのことで、もちろん承知。原稿は400字詰三〜四枚のものの由だが、聞いたスケジュールはめったにない類。ちょっと雑談。
ダウンロードしてためてあるさまざまなソフトを iMac にコピー。
○Pauline Cato & Tom McConville THE SURPRISE; Tomcat Music, 1999, England (Northumberland)
ノーサンバーランド・パイプの音楽は、この楽器のサウンドの性格もあるのか、いつも愛らしい印象で、今回もそれは変わらない。ただ、この人の音はキャスリン・ティッケルと比べても、さらに可愛らしい感じではある。キャスリン・ティッケルの方が音が太い。ティッケルがさまざまなミュージシャンを集めて、スケールの大きな音楽を聴かせるのに対して、この二人は少数の仲間によるこじんまりした感じ。マッコンヴィルは伝統音楽の人では本来ないと思うのだが、ちょっと無理をしているところがある。ヴォーカルに一番無理が現われていて、もともとそれほど強力なシンガーではないだから、もっと身の丈にあった曲を探した方がいい。潜在的にはなかなかの可能性があると思うが、その可能性を十分に開拓しているとは言えない。クリス・ニューマンがギターでつきあい、さすがの演奏を聞かせる。
昼食は饂飩を茹でて、釜揚げ、胡瓜。
2時に学校。PTAの茶話会。全委員と教職員が一堂に会する。最後の締めの挨拶をさせられる。校長とちょっと話す。終了4時半。後かたづけをして帰宅5時。
ダイソンの掃除機が着く。夕方、開けると、Hがかっこいいーと感嘆。
Kは夜、アメリカの姉妹校からの代表団が来るのを出迎え、その後宴会。夜はハヤシライス。夕食は結局、半分以上、俺とHで作る。
夜、着いたばかりのキャプテン・クックの航海記の序文。これは1906年の Everyman's Library 版の復刻。今簡単に入手できる唯一の航海記だが、原版の編者 Ernest Rhys は第一と第二の航海を三人称で自分で書き、第三航海はクックとその部下の日記の抜粋で一人称にしている。序文はクックの航海の背景にその概略と業績を簡潔に解説している。その後、これも今日着いたばかりの Julian Rathbone の KINGS OF ALBION を全五十章中の六章まで読む。文章はきりりと引締まる一方、読みやすく、これはめっけものかもしれない。すでに長いキャリアをもち、著書も多いようだが、国内ではそれなりに名の通った人だろう。
こういう小説がなぜ紹介されないのか。翻訳されるものといえばアメリカ社会の病理を材料にしたアメリカの現代小説ばかり(その点では映画も同じだ)で、面白いものではあるのだろうが、面白さの質が代わりばえしない。『舞踏会へ行く三人の農夫』がもてはやされるのも、面白さの質が違うからだろう。もっとも違いながら、なおかつアメリカなので、ある意味でアメリカの面白さの裏側ないし別の面(どっちが表でどっちが裏か議論が分れるだろうから)がうけたのかもしれない。こっちの本の面白さの質は全く別のものだ。
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2000年 6月 16日 (金) 晴れ。昨日にも増して暑し。
ブルームの日。
朝食、ハム・トースト、バナナ、トマト、コーヒー、オレンジ・ジュース。
昨日、学校の図書室の椅子を運んだので、腕が痛い。昨夜、やけに足が疲れたと思ったのは単に立っていただけでなく、あの作業のせいもあったか。
新しい掃除機の試用も兼ねて朝、いつもの家事の後、掃除。なかなか吸引力が強い。音はこんなものであろう。特にうるさいこともない。小型の刷毛の着いたアダプタは使い勝手がどうかと思ったが、結構使える。昨日これを見たHが感嘆していたが、確かに色づかいといい、半透明の部品といい、全体のデザインといい、なかなかのもの。
ホースとその他のプラスティック部品のブルーの色合いが違ってしまうのは材質のせいかとも思うが、ここはこだわって欲しかったところだ。アダプタをじゃまにならずにどうまとめるかというテーマの解決は及第点ではあるが、もう一歩踏込んで欲しい。主に床掃除用のパイプを金属にした理由は何だろう。金属のためにやや重くなっていて、はずした時など、床に落しそうだ。電源コードは巻きとりが固く、本体を引張っただけではすぐには延びない。巻きとりは速いが、コンセントとコード出口の双方に黄色く目立つラバーが使ってあるのはうまい。車輪は大きいが、移動はあまり軽くない。ゴミの吸引方法等も含めた全体としては、とりあえず80点。
○Rosemary Woods WALKING TOGETHER; Spring , 1992, Ireland |
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すばらしいアルバム。後のSiobhan Skatesとのアルバムも見事ではあるが、こちらは一人の個性で統一されている点、嬉しいものだ。マクガリグル姉妹("Walking boat song")、アラン・テイラー("Roll on the day")、ジョン・プライン("That's the way the world goes round")、ジョニィ・キャッシュ("I still miss someone")、それにカラム・サンズの名曲 "Every circumstances"、そしてトラディショナルが2曲。全体の残り半分が自作曲。キーラン・ゴスのギター、ジェイムズ・ブレナハセットのベース、ショボーン等によるコーラス。とりわけ、サンズの曲とトラディショナルの "Here's a health to the company" のア・カペラはいい。オリジナル曲の質の高さはジミィ・マカーシィやノエル・ブラジルに肩を並べる。 |
Read Ireland から書籍二冊。MusikFolkからCD6枚。メディアワークスから『スポーン』チェック用原稿。東京エムプラスからDM。ラティーナ7月号。
Read Ireland からの本は A COMPACT HISTORY OF IRELAND で、ちょっと期待していたのだが、思いの他小さな本。マスマーケットのサイズで100頁ない。著者は Sarah Healy という人だが、さる高名な著者のペンネームだそうだ。なぜペンネームにしたのかには興味がわく。もう一冊は THE STORY OF IRISH DANCE で、こちらは Helen Brennan という、『リヴァーダンス』の顧問でもある人の本。目次を見るかぎり、「当り」のようだ。
昼食はご飯を炊き、昨日のハヤシライスの残りと海苔とゆかりですませる。
昼食をはさんで、レニー・ブルース。
午後2時半過ぎ、光化学スモッグ注意報発令の放送。3時半、解除。
○David Poe DAVID POE; Epic/Sony, 1997, USA
をを、T・ボーン・バーネットのプロデュース、ギターはマーク・リボーと来た。リボーは他人の伴奏だといいと中山さんが言っていたが、今回はアコースティック・ギターで聞かせる聞かせる。デヴィッド・ポオはカントリーやフォーク・ベースのシンガー・ソング・ライターではなく、ジャズ・ベースの人らしい。来日した時、リアム・オ・メーンリのゲストに引張り出されても、ディランの曲を知らない様子だった。どこか「壊れた」感じで、鋭利ではないのだが、じわじわと異常なセンスが染みてくる。作家のポオとどこか繋がるようなところもある。ひょっとして血筋かもしれない。すぐ隣にいてもこの人だけ別の時間の流れに乗っている。
午後からあちこちにメール書き。『CDジャーナル』・Sさんから原稿確認のファックス。
夕食は鮪の赤身、豆腐の味噌汁、トマト、ご飯。
夕食後、ザ・ディグのMさんからCDのジャケを送ってくれとの電話。明日必着にしてくれというがすでに八時。明日投函日曜着で勘弁してもらう。クロネコヤマトに架電してみるが、引取に来るのは明日になるとのことでやはり明日は間に合わない。
みすずから『出版ダイジェスト』。『サン=テグジュペリ・コレクション』がトップだが、よくよく見てみたら『城砦』は今回入っていない。楽しみにしていたのに、裏切られた気分。『戦時の記録』がその代わりになるか。
今回は面白そうな本が目白押し。このところ、みすずはノっている。良い編集がいるのだろう。キース・トマスの『歴史と文学』。『出淵博著作集 1』はイェイツ論考集。アンドリュース『イカロスの飛行』。この三冊はまず読みたいところ。興味津々だが読み切る自信がないのが『高木惣吉 日記と情報』。定価48,000円では図書館に頼むしかないが、海軍側から太平洋戦争終結工作に携った直接の当事者の、1937年から45年までの日記と情報記録。ノーマ・フィールドの本も今読むと面白そうだ。それにテッサ・モーリス・スズキの『辺境から眺める』は、まさに俺のために書かれたような本。
八社共同復刊企画「書物復権」にトレヴェリアンの『イギリス社会史』が入っている。この訳書は品切れしていたのか。
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2000年 6月 17日 (土) 曇。
朝食、クロワッサンとロールパンにブルーベリィ・ジャムを塗って食べる。トマト。コーヒー、オレンジ・ジュース。
一昨日着いた Sarah Flannery の IN CODE の序文の一節にこういう趣旨の文章がある。
新しいアイデアを読む時には、時としてある行や段落を読直したりする必要がある。一度読んだだけでは忘れてしまったり、はっきりわからないこともあるからだ。そういう時にはためらわず読直されることを薦める。そして読直してわからなくても絶望しないで読みつづけてみていただきたい。細かい部分が全部わからなくとも、全体像は掴めるからだ。
そうすると、小説というのは一度読んでわかったという気になることを前提にしている。しかし必ずしも一度読んだだけでわかる気になる必要はない。書かれた文字の最大の効用はそこにあるのだから。
『寺田寅彦全集』第一巻「花物語」。寅彦初期の一連の創作ものの中で、おそらくこれがベストだろう。花をモチーフにすることで、描かれた日常的情景がそこに焦点を結び、情景全体のイメージが鮮やかになる。描かれた情景はおそらく、著者自身の体験をわずかに潤色したものだろう。他のエッセイや写生文と基本的な手法は同じだ。一つひとつの話は小さなものだが、こうして複数集まることで、もう一つ別のイメージが沸く。漱石の「夢十夜」に効果が似ていなくもない。あるいはあれに触発されたものか。中であえてこれ一つといえば「七 常山の花」。ここに出てくる親子は話者が捕まえた見事な兜虫を救おうとした自然の化身と見てもおかしくはない。
それにしてもここに描かれた情景の、その中の話者の体験の豊かなことよ。
辰野隆のエッセイから『寺田寅彦全集』をまた読みはじめる。1960年発行の新書判サイズ、上製と並製の中間の製本で、全17巻のもの。岩波はこの頃このサイズで『漱石全集』、『鴎外選集』、『石川淳選集』などを出している。コンパクトで洒落た造本なので好きなのだが、最近は全くやらない。最新の『荷風全集』などA5判だ。あれはおまけに新字新かなという愚行をやらかしているから、『断腸亭日乗』にしてもまた本文が変わっているらしいが、まるで読む気にもならない。大判の本ほど徹底した全集にはできないのかもしれないが、あのサイズを家の中に揃えるのは大ごとだ。筑摩が文庫版でいろいろ出しているが、どうも安っぽい。全集と謳う以上、気品と本を持つ歓びは味わいたい。
全集ではないが、新しい Everyman's Library の造本はなかなか良い。もっとも今まで出ているラインナップを見ると、旧版よりも現代の本に偏る傾向はあるようだ。それでもあの値段からすれば、造本といい、内容といい、結構なものではある。日本語でもあのようなシリーズは一つぐらい欲しい。かつての筑摩叢書は近いところがあったが、文庫に切替えてしまったのは、コスト計算の上からと想像はつくものの、不満である。まるで出ないよりは出る方がいいが、一方でただ出せばいいというものでもない。
日米欧の特許庁の会合で、人間のゲノムに関する特許で、塩基配列だけでは特許は与えず、個々の遺伝子の機能を解明した場合に限ることが決まる、という報道。当然といえば当然だが、遺伝子そのものに特許を認めることはどうも釈然としないとしない。論理で言えば、人間の遺伝子も自然現象の一部である以上、特許を認めるのは正当なのだが、自分の体の中にあるものに対して、いわば他人が所有権を主張するような感じがぬぐえない。特許が適応されるのは体の外にある遺伝子に対してであることは理屈ではわかる。が、ならば、強制的に体の外に出してしまってから適応することもありえないことではない。例えば遺伝子を体外にとりだした時、その遺伝子に対する「所有権」は元の人間がどこまで主張できるのか。情報解析に使われたもともとの遺伝子、それだって誰かの遺伝子なわけで、解析した情報に特許が認められた時、元の遺伝子の「所有者」はその特許に対して何らかの権利を主張できるのだろうか。
○Various Artists FESTIVAL INTERCELTIQUE DE LORIENT: 25 ans; Virgin, 1995, International |
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ケルト各国からの出演者は必ずしも統一的傾向があるわけでもなく、すべてが伝統音楽ですらない。これはこれで健全な行き方だ。ウェールズの合唱にはちょっとのけぞったし、ブレトンの「ロック・バンド」は素人らしさが剥出し。どこか臆面なく感じる。ところでウェールズでは合唱だが、ブレトンでは器楽の合奏になるのは大陸ケルトの共通点といえるかもしれない。アイルランドのユニゾンのセッションは個の集まりで、はじめから多人数の集団を前提にしてはいない。Gille Servat は男性版クラナドの趣だが、ヴォーカルに芯があるのでまだ聞ける。トリは特製バンドらしいが、Marc Steckar なる人物を中心としたものらしい。ボンバルドでブルースを吹きまくる。サックス的な使い方なのだが、何せボンバルドなので、妙にずれるのが面白い。全体としては期待したほど質が高いものではなく、収録時間も短い。記録というよりはカタログ。 |
午前中、PTA運営委員会。議題の他にも結構いろいろと話が出て面白かった。
昼食、K、仕事につき、釜揚げ饂飩。
ヴィデオアーツから先日ライナーを書いたヴィルジニア・ホドリゲスのサンプル、サンプル・カセット2本。MOJO(表紙はジャニス)、Mark V Ziesingから何か買ってくれとの催促。Asimov'sから定期購読更新通知。
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2000年 6月 18日 (日) 晴れ。
8時過ぎ起床。珍しく寝足りた気分。
朝食はブルーベリィ・ジャムを塗ったトースト、昨夜の残りの小松菜の煮浸し、コーヒー、グレープ・ジュース。
○Taj Mahal & the Phantom Blues Band LIVE IN LA; Video Arts, sample cassette, 2000
収録時間が短いのがほとんど唯一の不満。ハイライトは[08]のジャマイカの歌。まことに豊かな音楽。なのだが、どこか一点突抜けていないのがもどかしい。聞込み不足かもしれないが、SENOR BLUES を聞いたときのような、突上げてくるような歓びが薄い。期待のしすぎか。
○Modena City Ramblers RIPORTANDO TUTTO A CASA; Black Out/Phonogram, 1994 |
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三枚目ぐらいになるか。のっけから "Gillie Mor" が聞えてきておおっという感じだが、後のアルバムに比べるとケルト的要素はかなり濃い。おなじみのメロディも随所に聞えてくる。もちろんスピードはゆるいが、熱さの点ではひけをとらない。一曲、アフリカ〜アラブを取入れたものがあって、外向的な性格も見える。ケルト的要素を「借り物」と見なければ、これは立派に自分たちの音楽を自信をもってやっている好盤。 |
○Various Artists NORTHUMBERLAND RANT: Traditional Music from the Edge of England; Smithonian Folkways, 1999, England (Northumberland) |
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現在のノーサンバーランドの伝統音楽の一応「フィールド録音」。とはいえ、キャスリン・ティッケル、ポーリーン・ケイト、ハイ・レヴェル・ランターズ等、他の商業録音でもおなじみのミュージシャンも含む。収穫はやはりノーサンバーランドの外では無名の年長者たちで、パイプの Billy Pig, Chris Ormston, Jack Armstrong, Anthony Robb、それにフィドルの Willie Taylor がとりわけすばらしい。この人はリズム感が見事で、何ということはないジグを味わい深く、なおかつごく自然なノリで聞かせる。もっと聞きたい。レパートリィ的には特にこれまでのイメージをひっくり返されるような曲はない。速くてもジグ止まり、リールもあるが、テンポはジグと変らない。むしろエアに聞くべきものが多い。ノーサンブリアン・スモール・パイプはどうもあまり速い曲には向かないのか、エアからジグのメドレーがいい。 |
昼前、メール・チェック。堂本暁子参議院議員のメール・マガジンがようやく届きはじめる。外国語とのつきあい方の話が面白い。幼い頃アメリカで過ごしたことがあり、発音が良いので、ちょっと話すと向こうはネイティヴと思いこんで超高速で話しかけられて閉口した、それでますます英語が嫌いになった、というのは体験がある。
昼食は紫蘇巻豚カツ、ピーマン、椎茸のフライ、ゆかり、ご飯。
昼食後、ケパ・フンケラのインタヴューを聞返しながら、要点をメモ。
KはMとMの友だちのバレー教室の発表会を見に出かける。Hは友だちと遊ぶ。
三時過ぎに家を出る。海老名でHをKに引渡し、こちらは下北沢経由で吉祥寺。
電車の扉の上に東海林さだおの絵と文章を使った広告が出ているが、この文章の各段落の冒頭が一字下げをしていない。縦書きにもかかわらずだ。最近この段落冒頭の一字下げをしない例が目につく。気持ち悪くてしかたがない。ワープロやパソコンで文章からの習慣だろうが、文章の編集(こういう告知文でも文章を扱う作業は編集だ)担当は気がつかないのだろうか。それともひょっとしてこの方がかっこいいと思っているのだろうか。しかしこれはかっこいい悪いの問題ではないだろう。
なぜ、段落冒頭を一字下げるか。もちろんそこから新たな段落が始まることを読み手に知らせるためだ。前の行が途中で終っていれば、次は新たな段落が始まるとわかるだろうというのはあまい。字詰いっぱいで前の段落が終ることもありうる。その場合、一字下げがなければ、新たな段落になる手がかりはない。文章による情報伝達の基本ルールであって、むやみに変えていいものではないはずだ。句点と読点の役割と位置を混同することに等しい。「用語の乱れ」などとは次元が違う。
もちろん、こういう基本ルールを無視した広告の薦める商品などに何の魅力も感じない。これで少なくとも一人に対しては逆効果になったわけだ。一方で段落冒頭の一字下げをしないことで効果が上がっているのだろうか。
スター・パインズ・カフェで中山ラビのライヴ。吉祥寺に着いたのは6時半で、会場に行くとかなり並んでいる。軽く食事しようとその辺を捜し、「ラーメン屋」というちょっといい加減な店に入る。本来は名前とは裏腹にちゃんぽんや皿饂飩の店だったらしい。ラーメンのスープはまずまずだが、麺が今ひとつなのと、具のモヤシがいただけない。味つきらしい茹で卵が甘いのに閉口。
7時に会場にもどるとまだ整理番号順の入場をしている。すぐにかものはしが出てきて、金を払ってチケットをもらう。中に入り、バーボンのロックを飲みながら待つ。鈴木コージさんが来ていた。他にはエフさんがかなり前に入って、一階の椅子席正面にいた。
なんと予約だけでソルドアウトしたそうで、場内満員。客層は年齢が高く、ラビさんと同年代も少なくなさそうだ。若くて三十代、二十代がチラホラ、主力は四十代というところ。ライヴも最後の方で、ステージ前の若い女の子が二、三人立上がって踊り出すが、まわりの年寄りたちは立上がらない。そういう習慣がないのだろう。
7時半少し回って、まずラビがひとりで出てきてアコースティック・ギター一本で歌いだす。服装は先日と同じ、ホットパンツ。客席から「かっこいいぞ、脚が長い」と声がかかった。「人生で二度、脚が長くなるとは思わなかった」と応える。歌は自分で自分の三回忌を出すというやつ。次にサックスが出てきて、二人で一曲。三曲目でバンドがそろう。癖なのか、曲間のMCはほとんどなし。曲名を言うのも例外的。ギター、ベース、ピアノ、シンセ(アコーディオンと持ちかえ)、それにパーカッション。ギターはエレキとアコーティックを曲によって持ちかえる。サックスははじめ3曲の後引込み、終り近くになってまた出てきた。バンド・メンバーはいずれも一騎当千、というところたが、ギターはかなりの腕で、ソロもまずまず。が、これという特色はない。ベース、ピアノはまずシュアなところ。シンセ&アコーディオンはなかなかで、その気になると結構行ける人ではないか。サックスもまず、ラビの歌に応える鋭さは備える。もう少し厚みが欲しい。問題が山口トモというパーカッションで、こいつは天才といっていい。かものはしのバンドのドラマーだったそうだが、こないだリンドレーと一緒にきたウォーリー・イングラムとタメを張れる。パーカッションだけでなく、「鳴り物」も操り、かれのおかげでサウンドの奥行の次元が違っている。これが普通のドラム・キットだったらつまらなくなっていただろう。
ラビの歌はちょっとバンドの音に埋もれ気味。二、三度、よろめく場面もあった。が、歌そのものの面白さとサウンドの懐かしさ、それにガッツで聞かせてしまう。カリスマまではいかないが、人を引込む声ではある。かものはしによると思いきり70年代の「ロック」的なことをやりたいとの意向でこういう形になったそうだ。理想を言えば、もう少し生音のセット、ダブル・ベースにもっと簡単なパーカッション、アコーディオンかフィドル、といった形で聞きたい。ライヴとしては先日の、エレクトリック・ギターの伴奏と自身のギターの形の方が良かった。とはいえ、ライヴとしては軽く水準以上で、この次も行く気になる。
終ってからかものはしと言葉をかわし、エフさんとその友人と一緒に駅までゆく。そこで別れてまっすぐ帰宅。11時半過ぎ。
Kとちょっとおしゃべり。今後、自宅での研修は認めないという通達が県教委から来たそうで、試験のときなど、午後自宅で採点するなどができなくなりそうだ、とこぼす。県教委がそういう通達を出したのは、県議会で自宅研修と称してサボっている教師がいるのは税金の無駄使いだと追求されたからだそうだ。そういうことを言うのなら、ちゃんと時間外手当を出すべきだろう。一般公務員は出ているのだから。教職員は夏休み等があって、時間が自由になるから違うというのであればフレックス・タイム制にすればいい。仕事もないのにただ決められた時間が来るまで職場にいなければならないなどというのは、愚の骨頂だ。それこそ税金の無駄使い、人材の無駄使いではないか。
それにしても県議会議員というのは何をやっているのか、全く見えない。国会議員はマスコミに出るし、市議会議員はそれほどではないにしても一番身近で、わかるところもあるが、県議会議員はその中間にあってまるでわからない。税金の無駄使いというが、県が破算寸前になるまで黙って指を銜えて見ていたのだろうか。県の財政が破綻寸前にあることが公になったのは国体の後だが、あの無駄使いぶりにはなにも言わなかったのか。
県議も市議も、PTAのように持回りか、さもなければアメリカの陪審員と同じように、国会議員被選挙権のある市民からの抽選にすればいい。報酬はその人の直前の年収をベースにして、生活に支障を来さないようにする。地方議員になったことで不利益を蒙った場合には、その原因となった当事者が処罰される。例えば該当する議員の任期期間分公民権剥奪とか、法人の場合、該当する地方自治体に奉仕活動や寄付をさせる。
あるいは国も地方も議員の報酬は、住民投票で承認されるようにすべきだ。議員たちが自分たちで自分たちの報酬を決めるのは、どう考えてもおかしい。
往復読みつづけていた Jonathan Raban を区切りの良い所まで読んでから就寝。
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