大島教授の[暖蘭亭日記][2000年 10月 02日 (月)〜2000年 10月 08日 (日)] [CONTENTS]

2000年 10月 02日 (月) 曇り。

 朝食、ブルーベリィ・ジャム・トースト、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。

 昼食、運動会の代休で家にいるHのリクエストでハンバーグ、トマト、キャベツの味噌汁、ご飯、梨。

 午後、BBEdit のチュートリアルをプリント・アウトして目を通す。Tex-Edit はこれの機能限定版と言ってもいいくらいなものだ。しかしなぜMacのテキスト・エディタはカーソル移動機能が貧弱なのだろう。Apple のガイドラインが標準として矢印キーを使うことを推奨しているからだろうか。それにしては iBook の矢印キーは押しにくい。

 夕食、鯵の刺身、胡瓜の塩揉み、半片風の蒲鉾、ご飯、昆布の佃似。鰺刺と蒲鉾はKたちが買ってきたもの。

 10時過ぎ、ファイブ・ディーのTさんから電話。アンディのCDの通販での買い方につき、「魂花時報」に載せてくれとのゲイリーからの要請があり、それについてヒデ坊に訊いたらこちらに回されたとのこと。とりあえずダディ・オーに連絡をとることを薦める。

 ソウル・フラワーの非公式サイトの掲示板で中村一義というミュージシャンが、ソウル・フラワーとも縁のある『スヌーザー』という雑誌と絶縁宣言をしたことが話題になっている。この人の名前は聞いたことがあるが音はまだ聞いていない。面白そうだったので、件の発言を本人のウェブ・サイトで読み、それに対するくるりの岸田氏の反応をこれも本人のサイトの掲示板で読み、さらに中村発言に対する小野島大さんの見解をこれまた本人のサイトの日記で読む。小野島氏の見解は元の発言についてはさらりと流し、むしろその発言に対する周囲の反応について危惧を述べている。この部分は頷けるし、元の発言について触れた部分も常識的なもの。

 岸田氏の発言は、趣旨がよくわからない。中村氏に同情しているように見える。目を引いたのはどうやらこの人は数万人に届けるために音楽を作り、演奏しているらしい。「数万」という言葉にそれほど意味をこめているようにも見えないが、それにしてもかなりの数の「不特定多数」を相手にしているつもりのようだ。ナイーヴといえばこれほどナイーヴな態度もない。

 で、その中村氏の発言も良くも悪しくも実にナイーヴ。無邪気といえばこれほど無邪気なものもない。記事の書き手と雑誌の編集方針を混同しているのはわが国の通例としても、聞手(該当記事の書き手も含む)の一部との関係を絶つというのだが、その理由が今ひとつよくわからない。理由として読取れたのは、まず自分の作品から自分が込めたつもりの意図を聞取ってくれないこと、聞取らないだけでなく、込めたつもりのない意図を聞取っていること、それによって自分の作品が「玩具にされた」と感じたこと、記事を掲載した雑誌の編集者はそのことをどうやら自覚せず、おのれの雑誌の記事がやっていることをネタに他人を非難していること等である。表現者として、受取手が自分の意図とは別の反応を見せたならば、まず自らの表現の拙さを疑うべきではないか。

 しかし一番の問題は、相手との絶縁を相手にはどうやら知らせずに、公の場で宣言してしまったことだろう。絶縁を決意したとして、それをわざわざ公に宣言しなければならない理由が、あの発言を読むかぎり、分明でない。その後の発言では、自分の発言が引起こした反応にむしろうろたえているようでもある。元の発言では、熟慮の上での宣言と言っているのだが、そうした反応が起きるとは予想していなかったようでもある。

 中村氏はソウル・フラワーの公式サイトのデザイナーであるKさんがファンだと言っていたのと、その後何かで一緒にやっているミュージシャンのメンツを見て、いささか興味が湧いていた。音楽家が音楽以外でいう言葉は額面通りに受取れないことが多いが、それにしてもここまで無邪気な発言を聞くと、いささか興醒めする。

 ただし見方を変えれば、あまりにも無邪気だからこそ良い音楽を生出せるとも言える。とりあえず本人の音楽を聞いてみようとは思う。いつになるかわからぬが。
 小野島氏の危惧については、あるミュージシャンのファンがそのミュージシャンの言動を絶対視するのはジャーナリズムが対処しなければならないリスクの一つだろう。対処といっても基本的には無視するぐらいしか対策はないと思う。

 朝刊のオリンピック総括記事によると、レスリングなどかつて「お家芸」といわれた種目の不振は、従来選手を支えていた企業スポーツが崩壊したためである由。オリンピックでメダルが取れなくてもかまわないが、あるいは同様のことは他の分野にもおよんでいる可能性もある。もっとも影響が大きそうなのは美術だが、演劇や音楽にも様々な形で影響があるだろう。音楽イベントに冠スポンサーをつけられなくなっているのは象徴かもしれない。

 では将来大企業によるスポーツや文化活動への支援をとりもどそうとすべきだろうか。おそらくその方向ではうまくいくまい。企業そのものが転換期にあって存続が危ういといわれる時、スポーツ支援の(経済的余裕はともかく)精神的余裕はないだろう。また、企業自体、磐石なものではないこともわかっている。文化活動にしてもスポーツにしても、独立採算をめざすのが最善だろう。企業からの支援を受けるにしても、単一の企業ないし企業グループに丸抱えされるのではなく、寄付金のプールを作る方が良い。その際、体協のような団体でなく、個人でも作るべし。調整団体抜きに、個人やチームが直接受取れるシステムでないとこれまたうまく行くまい。

 戦後のわが国の社会は企業を中心に動いてきたことが、オリンピックに現われるスポーツの現状によっても傍証された形だ。そして政治においても、文化においても、そのシステムが崩壊している。

 自民党は議席の目減りを防ぐために選挙制度の変更という手段をとっているが、それが自殺行為であることにはどうやら気がついていない。もっとも気がつくほど「気持ちの余裕」がないのだろう。自民党が政権の座にあるのは、人口分布を反映しない衆議院の選挙制度のおかげであることを有権者は気がついていないと、自民党の人びとは思っている。この時期に国勢調査が行われたのは、自民党にとっては最悪のタイミングだろう。

 本来政党は政策をかかげて、その支持を訴えることで選挙に勝つのが筋だが、第二次大戦後、特に保守合同以後の自民党はそれとは別のシステムで政権を維持してきた。だから今になって政策を示せといわれても、どう示すべきか、否、何を示すべきか、政策そのものが何なのかも理解できない。税金を公共事業の形で企業に還元し、企業を通じて自分たちの支持者に還元するシステム以外の方法がわからないのだ。金の流れを一本の川と見て、その上流とされるところに金をつぎ込む。すると金の流れは細くなりながらも結局は末端の納税者に還元されると考えている。実際には金の流れはすでに別の筋に移っており、また、一本ではなくなっているにもかかわらず。

 金の流れが移っているから何もしなくともそちらに金は出てゆくのに加え、従来通りの支出も行おうとするから余計な金がかかり、しかも従来の川筋に流す金は砂漠に水が吸込まれるように消えてしまう。したがって全体の支出は増え、それを補うために借金も増える。

 しかし、自民党ととしては従来金をつぎ込んできた企業群に頼る他、選挙に勝つ方法を知らない。新たな注ぎこみ先を作ろうと「IT革命」と称した計画を作ってはいるが、ソフトウェアとハードウェアの区別がつかないから、見当違いの方向に注ぎこもうとするばかり。情報産業では、ハードは確かに必要だが、それはインフラに過ぎず、勝負はソフトで決まる。

 従来のインフラは一度整備すればそれが基礎となり、ある程度の期間変更の必要はない。水道を引いてしまえば、水道管の交換は必要になっても、システムそのものを変更する必要はない。
 情報産業のインフラはどんどん変化している。ハードとソフトが入り乱れ、相互作用を繰返しながら、劇的に変化しつづけている。それが情報産業の活性化を生んでいる。せっかく敷設した水道システムが翌年には、いや半年後には無用の長物になる可能性もあるのだ。

 そういう時、政府にできることは、インフラのインフラの整備、インフラを作る際の基本的なルールを整備することでしかない。インフラである以上、それが崩壊することで社会が蒙る損害は大きくなるリスクは常にあるのだから、その損害をできるかぎり小さくする方策だ。

 しかもそう言うルールはすでに実際の必要からある程度できている。ハードウェアしか知らない官僚組織が、ハードウェアを対象にして作ったルールとは全く別のものだ。
 そういう柔軟性を自民党は備えているだろうか。今のところいないとしか言えない。公明党の視野は狭すぎる。保守党は自民の派閥の一つ。

 野党の中に備えているところはあるだろうか。これもまた見えない。備えている可能性があるとすれば、民主党と共産党だろう。民主党は社会主義者から旧自民党員だったメンバーまでの幅の広さがあり、それをコントロールできれば意外な柔軟性を発揮できるだろう。共産党は絶対少数派であるが故に、政権に関ろうとすれば少なくとも対外的には柔軟にならざるをえない。どちらも利点となる同じ要素が裏目に出る危険もあるが、それはどんなことでも同様だ。

 そして何よりわれわれ有権者に、そういう柔軟性はあるだろうか。自民党にいまだに政権の座にあることを許し、官僚組織を育て、維持してきたのがわれわれであるところを見れば、これまた備えていないと見る方が妥当だろう。
 生半可な希望は身を誤る危険性の方が大きい。ここは一度絶望することも道かもしれない。身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ。
 どんな形かは想像もつかない。しかし、おそらくは遠からず、身を捨てる時が来るだろう。覚悟して備えていれば、その時はわかるだろう。そしてその時、ためらわずに身を捨てられるだけの訓練を積むことは必要だ。十分積めるか否かは問うところではない。

 宮崎市定の『論語の新しい読み方』(岩波現代文庫)は、『論語』の新鮮な解釈が楽しいが、中の一篇「中国古代における天と命と天命の思想:孔子から孟子に至る革命思想の発展」(1963) は、中国思想史の試みとしてスリルに富む。井筒俊彦の『イスラーム思想史』もそうだが、思想史には独特のスリルがある。もちろんこの二人のような優れた学者、本来の意味での大学者の手になるものに限られるだろうが、思想の生成、衝突、変遷は、ひどく人間的なドラマだ。言わば「普遍」を相手にした様々な、しかもその多くは衆に優れた能力を持つ人びとによる格闘の記録。思想こそは究極の格闘技かもしれない。肉体による格闘は尾を引かない。ある程度明確な決着もつき、そこで一度終止する。

 精神による格闘は明確な決着がつくことは稀だし、ついたとしてもそこで終らない。決着は当事者が生きている間につくことはまずないし、負けた側もそこで舞台から完全に降りてしまうこともない。一度表面的には姿を消しても、想わぬところに想わぬ形で再浮上することも少なくない。むしろ思想の格闘は直接の勝負よりも後世への影響の方が大きいこともままある。

 それにしても漢文の読解は難しく、まただからこそ面白いものらしい。漢文はできるかぎり少ない字数でできるかぎり多くの内容を伝えようとしているようだ。漢字を書くことはそれだけで大きなエネルギーを使うことだから、これは理解できる。いかに紙を発明した本家本元といえども、文房四宝と称されるほど筆記のための条件を揃えることはむずかしかったはずだ。これが表音文字なら省略は難しいが、表意文字ならばある程度可能だ。そこで当然後世の人間が解釈する際に、多様な解釈が可能となる。
 おまけにそこに故意または偶然の筆記ミス、誤字脱字が加わる。文献はそこから離れるわけにはいかないが、しかしその正確さは疑ってかからねばならない。因果なことではある。が、だからこそその作業は面白いものになる。

 それにしても書かれたものを絶対と信じこむ性癖は抜きがたいとみえる。つまるところ、書かれたものぐらい間違いはないと信じなければやっておられぬ、そこぐらいは信じたい、ということだろうか。人間のやったことだから当然間違いはあるはずなのだが、人間はやはり人間のやったことを間違いがないと信じたいものなのだろう。変幻常ならぬ世界に対するに、どこかに足がかり、これだけは動かないというところを確保したい欲求の現れか。

 しかし、アインシュタインが一般相対性原理を発見してしまった世界に棲むわれわれは、全ては相対的で、絶対はないことを知ってしまった。それ故にこそ絶対的なことを信じたい欲求を募らせる人もいる。むしろ、世界の相対性に敏感な人ほどそういう傾向が強いかもしれない。

 あるいは、相対的世界の中で生きていけるだけの精神の強靱さを身につけてきているのかもしれず、むしろそうであって欲しい。世界や宇宙を前にすれば物理的に人間は矮小な存在だが、相対的であれば、一個の人間が全宇宙にも相当できるのだ。自らの相対性、自らの住む世界の相対性の上に立ち、世界の変化に対応し、また世界を変化させる。人間の知性に意義があるとすれば、それを可能にすることだろう。

 素裸のまま、流転する万物に相対する。いや、自らも万物の一つなのだから、流転するおのれに従い、またおのれを流転させる。

2000年 10月 03日 (火) Live: リアム・オ・メーンリ&スティーヴ・クーニィ
曇りのち晴れ。朝のうち、雨残る。10時半頃から陽が出る。


 朝食、秋刀魚開き、キャベツ味噌汁、胡瓜味噌添え、ご飯、昆布佃煮。

 歯科。前回作った金属の冠の底の一部に尖った段差があることに気がついたのでそこを削ってもう一度作りなおす、とのこと。歯を削り、型をとりなおす。型は下の歯全部、上の該当部分、それに噛合せ。

 給食がないので、Hは帰ってきて一緒に食べる。おかずは今朝KがMの弁当と一緒に作っていったもの。こちらは海老カツ、胡瓜味噌添え、Hから譲られた鮭のフライ半分、ご飯、梨。

 昨夜は夜中何度か目が覚める。起きあがるほどではない。確定申告の準備を全くしていない夢を見る。海外から来たミュージシャンをタッドなどと食事に連れてゆく夢の中。連れていった先は変わった所で、有名な店で昼飯でも予約が必要。地下に降りる感じなのだが、そこは屋外で、岩場にできた大きな穴の中に竃のような岩が盛上っていて、その上に鍋のようなものが載っている。そこで目が覚める。

 オフィス・サウンドポットから中村明一さんの尺八リサイタルの招待。今度は津軽のもので、津軽三味線の人もゲストの由。面白そうだ。Amazon.co.uk からCD1枚。Night Ark のもの。おそらくは三枚め。

 宮崎市定『論語の新しい読み方』岩波現代文庫、読了。大変面白い。『論語』の読み方ばかりでなく、書物の出現の時代背景、学問のあり方にまでおよぶ。

 つくつく法師を聞く。ずいぶんと遅い奴だ。そう言えば、昨夜から家の中のどこかで虫が鳴いている。

 5時過ぎに出かける。まっすぐ明治神宮前に出てアストロ・ホール。リアム・オ・メーンリ&スティーヴ・クーニィのライヴ。ニーヴはすでに離日している。開演15分ぐらい前に着く。今日はCDの屋台は中の後ろ右手、サウンド・ボードの前にMSI・Sさんが店出している。ちょいと話す。

 前回よりも椅子席を少なくしているらしく、後ろは結構余裕がある。久しぶりにAさんが来ている。ヴィデオアーツ・Kさん等々。白石さんもいるが、あとで聞くと何と大阪で合流し、そのまま来たらしい。五郎さん、鈴木亜紀ちゃん、かものはし、英輔さん、ピーターさん等々ひととおり揃っている。タッドは始まってから来る。ヒートウェイヴのベースの山川さんも来ている。山口さんの姿が見えないと思ったら、しっかりステージに出てきた。

 まずリアムが出てきて、いきなり「カハーン」をバゥロンの伴奏で始める。スティーヴが出てきて二人で「シーベグ、シーモア」。スティーヴは結構出たり入ったりを繰返す。山口さんとリアムだけのときもある。鼓童の人が韓国のチャンゴらしき太鼓を下げて共演。チャンゴとは違って両手のばちで叩く。テクニックはチャンゴと同様のようだ。ダンス・チューンのリズムを叩くのだが、微妙に和太鼓のリズムが入っていて、そのずれが気持ちよい。スティーヴ、山口さんも加わってトリオでホットハウス・フラワーズの曲など。ギター二人のカッティング合戦が実にいい。山口さんは本当に相手を盛りたてるのが上手い。

 アンコールは一曲二人でやってから山口さんと鼓童の人を呼びだし、リアムがホィッスルでダンス・チューンをやる。あとで聞くと、山口さんたちは何の曲かも知らなかったそうな。が、そんなことは全然関係ない。アンコールを求める拍手は止まず、リアムが一人出てきてシャン・ノースを一曲。気を鎮めて幕。やはりエネルギーを注ぎこまれるライヴだった。

 終演後、近くの和食屋に移動して打上げ。山口さんと少し話すが、どうやら今回アイルランドに行ってみて、しばらく行く気をなくしたらしい。あの国は腐りはじめていると言う。

 MSI・Sさんたちは明日、スティーヴたちを歌舞伎に連れてゆくのだとはりきっていて、1時に歌舞伎座に来いと言うことになる。一応承諾するが、ラティーナの原稿もあるし、午前中は耳鼻科の予約もある。

 11時半になったので一人脱けだす。終電で帰宅1時。

2000年 10月 04日 (水) 曇り。朝のうち雨。

 朝食、ハム・トースト、バナナ、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。

 スティーヴとリアムの歌舞伎に行こうかどうか迷うが、もろもろの事情を勘案して今日は医者と仕事にふりあてることにする。

 耳鼻科。割合空いている。システムが少し変わっていて、久しぶりに行って初診同様だが、事前の問診はなくなった。看護婦の数も減っているようだ。耳垢を吸取り、中を覗く。耳の周りでどこが痛むか確認。左の耳の耳垢も吸取る。鼻、喉と見て、右だけ空気を通す。はじめ通ったと思ったら、しばらくしてもう一段抜ける。診断は耳管機能が低下しているためだろうとのことで、薬三種類。吸引と、右のみマッサージと電気。帰宅11時過ぎ。耳鼻科には初めて歩いてゆく。10分ほどで着いてしまう。

 11時半過ぎ、プランクトンから電話。リアムとスティーヴの歌舞伎は本人たちの希望で夜になったとの連絡。行けない旨伝える。

 昼食、秋刀魚の開き、和布ご飯、キャベツ味噌汁、トマト、梨。
 K7時過ぎ帰宅。夕食、早良西京漬け、和布キャベツ、ご飯、梨。

 今日もつくつく法師を聞く。
 夜は入浴をはさんで、ひたすら平安さんとボブのインタヴューのテープ起こし。0時半までやってダウン。

2000年 10月 05日 (木) 曇り。

 朝食、ハム・トースト、プチトマト、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。

 朝一で平安&ブロッツマンのインタヴュー起こし。ようやく終る。50枚強。一通り終ってから入っている二人の即興演奏がとてもいい。ボブが平安さんの復弦三コースの三線を弾いて、平安さんがギターを弾いているのだが、ボブは沖縄はもちろん、ハワイ、アラブ、ブルース、あらゆるフレーズが跳びだす。平安さんによれば、ボブはこの楽器をおそらく生まれて初めて弾くはずだと言う。スライド・ギターをやっているから、あれはフレットレスだし、この人は耳がいいから弾けるんだろうとのこと。ボブは復弦が弾きやすいと言う。

 昼までかかって『ラティーナ』用原稿をまとめ、メールで送付。
 昼食、帆立てを解凍して刺身にし、はりはり漬けと海苔、ご飯。

 Jedit4 が出たとのニュースですぐにまつもとのサイトに行き、ダウンロード。ヴァージョン・アップの登録もすませる。昼食後ざっと見るが、変更点のファイルを眺めたところではあまり面白いところはない。ツールにソートが入ったことぐらいか。これはこれで嬉しいし、ツールの中身もキーワードの場所を指定できるのは○。だが、やはり重くなって、不安定なところもちらほら。全角英数入力がひっかかったり、キーバインドが利かなかったり。キーバインドはキー定義ファイルを改めて指定すると一応直ったようだ。英数入力はあるいは CarbonLib あたりが不安定なのかもしれない。
 コントロール・バーのモジュールを少し入替える。入替えてコンフリクト・キャッチャーで指定しなおすと、再起動する時ひっかかる。展開しているとまずだめ。

○大島保克 我が島ぬうた; Victor Entertainment, 2000
 先日大阪の「つづら折り」に行った際、大島さんのマネージャー(奥さんの由)からいただいたカセット。完全なソロで、伴奏は自身の三線のみ。無伴奏の部分もある。何とも気持ちよく引締まったアルバム。何よりもうたい手の声と真向から対峙できるのは嬉しい。トラディショナルはやはりここに向かう志向を備えるのかもしれない。懐かしきトレイラーやトピックの70年代はじめの盤を想いだす。イランのアーヴァーズのように声を震わせるのは伝統的な唱法なのかは知らないが、どこか知らないところへ連れてゆかれる。こういうものを聞くと聞いている間は他に何も要らないのだが、聞きおわるともっといろんな素材が入ったごった煮が食べたくなる。

 夕食、茄子豚、かき卵スープ、ご飯。

○Night Ark PETALS ON YOUR PATH; Emarcy, 1999
Night Ark  2ndないし3rdだろうが、こちらの方が前作よりも遥かに良い。メンバーは同じで、たがいにわかってきて遊び方が板についている。ジャズ的な展開への遠慮が消えている。パーカッションの爆発具合がいい。リーダーの曲も楽器の特性をより活かす方向に向かっているし、演奏も同様。

 カトリオナ・マクドナルドの他の録音を探したら、EVOLVING TRADITION の二枚に出ていた。『1』の方ではイアン・ロゥシアンとともにBBCに出た時の録音。1991年のBBC Young Tradition Award 受賞者。これはシェトランド・リール五曲のメドレー。アクセントを思いきり利かせたボウイングだが、最初のアタックの他はスイートで清らか。相棒のロゥシアンの蛇腹はむしろベース・ラインだが、蛇腹のドライヴにはどんなベースもかなわない。

 『2』ではアンビョルグ・リーンとスウェーデンのギタリスト/マンドリン奏者ロジャー・トルロス(?)のトリオ。とするとアンビョルグ・リーンのアルバムのための録音かもしれない。クリスマスにトルコに旅行したことに霊感を受けて作曲されたものの由。基本的にスウェーデンのメロディ。演奏はかなり「ハード」。カトリオナは低音部。ノルウェイやスウェーデンのメロディの跳ねるようなスイング感が気持ちよい。

 昼間、大島保克のテープを聞きながらうとうとしたが、ひどく眠い。

2000年 10月 06日 (金) 晴れ後曇り。

 朝食、ハム・トースト、プチトマト、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。

 午前中、カトリオナ・マクドナルドの情報をネットで浚う。
 昼食、駅前に出て吉本家で葱味玉ラーメン。水道の工事で断水のため。

 有隣堂で『アメリカ口語教本』(研究社)上級編と、厚木、丹沢、大山の広域地図を買う。『アメリカ口語教本』は古いものではあるが、何だかんだ言ってこれに勝る独習書はあるまい。というより、他のものはどれもTOEFLにしてもTOEICにしても、テストで点数を稼ぐためのもので、英語そのものを身につけようという意欲に応えるものではない。さもなければいかに手間隙かけずに「英会話ができる」ようにしようというもの。暗記をするな、という本があったので少しは面白いことが書いてあるかとぱらぱらめくると、日本語をパラフレーズして一番肝心なことだけを、中学卒業程度の英語で言え、という趣旨。英語を使う初心者にはそれなりにあてはまることではあるし、英語能力とコミュニケーション能力は別だという主張にも頷けるものはある。要は、とにかく英語でコミュニケーションしてみましょ、ということで、こちらの求めるものではない。

 アメリカのJ-BOYさんから Nicole McKenna のCD。Locus。Irish Music Magazine 10月号。
 ラティーナ・Kさんから電話とファックス。平安&ボブの原稿のゲラ、細かい点の確認など。あちこち手を入れる。

○NICOLE McKENNA; own label, 2000
NICOLE McKENNA  6曲入りミニ・アルバムを経てのフル・アルバム。さすがにちゃんとした印刷にレギュラーCD。全11曲中ミニ・アルバムとは5曲が重なる。録音はどうやら同じらしいが、ミックスはやりなおしたようだ。密度の濃い声で、高音で伸びる時も細くならない。メロディ・メイカーでもある。バックはきっちり支えて出しゃばらず、ギター・ソロなども控えめで効果的。やはり東海岸的なインテリジェンスに裏打ちされた歌であり、演奏。スザンヌ・ヴェガなどよりずっと芯が太く、歌うたいとしても出色。女版ジョー・ヘンリーと呼びたいところだが、あれほどは屈折していまい。自分のやっていることに自信を持っている。相棒にも恵まれたようで、まずはデビュー・アルバムとしては申分なし。順調に延びてほしい。

○Blazin' Fiddles FIRE ON!; BF, 2000
Blazin' Fiddles  スコットランド、シェトランドの六人のフィドラーにギターとピアノが入った八人編成。六本のフィドルがぴたりとユニゾンで迫ると、ちょっと『リヴァーダンス』的なところもある。しかしそこはフィドルで、完全には一致しないし、何より瑞々しい響きが増幅されるのが見事。音が濁らないのは、演奏が良いのか、録り方が良いのか、両方とも良いのか。オリジナルをやる時には作曲者がソロをとることもあり、集団とのバランスもとれている。リズ・ドハティの Fiddlestix よりもこちらの方が選曲も演奏も上と思う。ピアノとギターのリズム・セクションは派手なことはやらないがきっちりと支えている。トリプル・フィドル時代のアルタンもすごかったが、六本そろって走出す時のドライヴはなかなかのもの。[02b]はカパーケリーがデビュー盤でやっていて強烈な印象があるが、やはり名曲中の名曲。[12a]はナリグの曲でクールフィンでやっている曲だが、フィドルとピアノとギターだけでもここまでできるのだ。このトラックは名曲のオンパレード。
http://www.blazin-fiddles.co.uk

 夕食、豚しゃぶ、和布ご飯、胡瓜味噌添え、葱の味噌汁、葡萄。

○Various Artists THE COMPLETE SONGS OF ROBERT BURNS, Vol.4; Linn, 1998
THE COMPLETE SONGS OF ROBERT BURNS  カトリオナ・マクドナルドが参加しているので慌てて聞いたが、これはすばらしい。Vol.1 と Vol.2 はこんなに良かっただろうか。ヴォーカルは文句ないが、伴奏のアレンジはごく普通だった気がする。このアレンジは時に冒険し、時に贅肉をそぎ落とし、自由自在だ。[12]のジェイミィ・マクメネミィのテンポがだんだん速くなるアレンジなど、スリリングの一語。ヴォーカルも各シンガー、ベストの歌唱がならぶ。デイヴィ・スティール、ジェイミィ・マクメネミィ、ジム・マルコム、ミック・ウェスト辺りが何とも心にしみる。今回は男性陣に粒が揃った。

 やはりこれは全部買わねばならないので、Linn Records のサイトに行き、持っていない分四枚を注文。ついでに Ian Bruce のアルバムが一枚出ていたので、それも注文。一枚10ポンドで送料無料というが、本当か。

2000年 10月 07日 (土) 晴れ。

 8時前起床。昨夜、体を捻る体操をしてから寝たところ、朝まで目が覚めず。やはりこちらの方だった。

 朝食、チーズ・クロワッサン、アンパン、炒り卵、レタス、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。

 午前中耳鼻科。空気を通してもらうとやはり調子が良い。面倒な患者が入ったらしく、40分遅れ。
 昼食、ホットドッグ、ハム・トースト、コーヒー。

 Night Arkのベストと手に入った2枚を比べてみると、曲目のダブリがない。オフィシャルのサイトは工事中で、何もわからず。

○Manikasanti BRONZE BLOSSOMS; Victor Entertainment, 2000
Manikasanti  もう一枚もそうだったが、えらく良い。こちらは新しいガムランだそうだが、どこが新しいのかわかるほどガムランは聞いていない。しかしとにかく新鮮ではある。ダンス・チューンでは踊りだしたくなるほど。こういうのはただかけておいて、ぼけえと浸っていたい。これが今年初聞き366枚目。一日一枚の第一目標達成。

 夕食、牛肉金肥等、キャベツ味噌汁、浅蜊ご飯、葡萄。

 カトリオナ・マクドナルドのライナー準備。ついでにいくつか、気になった雑誌の簡易索引を作る。

2000年 10月 08日 (日) 曇り。

 8時45分起床。また、会社時代にもどった夢を見る。やはり組織に属していたいという願望が根強いのか。

 朝食、ハム・トースト、バナナ、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。

 注文していたプリアンプ用真空管着。早速、Audible Illusions Modulus 2 にとりつけ、Micromega をつないで音を出してみるが、左チャンネルがほとんど音が出ないし、音が出る右もノイズが入っている。試してみると、フォノも左が出ないのは同じ。念のため、CDプレーヤーとアンプの接続ケーブルを替えてみるが同じ。ここで昼になったので、今日はここまで。

 昼は皆で吉本家。薬味葱味玉ラーメン。

 仕事部屋のCDプレーヤーを以前使っていてしばらくKの部屋に放置してあったソニーのものにする。このシステムにはこちらの方が合うかもしれない。と思ったら、シャリシャリ系のパーカッションの音がやはり耳につく。

 夕食後、Micromega と聞き比べてみる。試聴に使ったのはカトリオナ・マクドナルドの BOLD の四曲目で、これは始めから終わりまでジェイムズ・マッキントッシュのパーカッションが入っている。しかも小型のノイズ成分の多いもので、特に後半、似たような音の楽器が二つ三つと重なってくるのは相当にクリティカルな録音。これをちゃんと再生できるシステムはかなりなものだろう。

 聞き比べてみると、ソニーの方が分解能は高い気がする。一方全体を音楽として聞かせる能力は Micromega のようだ。ソニーのものは個々の音は確かに聞取れるが、音楽は個々の音の総和ではない。はっきりした音が重なっても必ずしも音楽になるとは限らない。Micromega には音楽としての全体のイメージがまずあって、そこに向けて製品を作りこんでいる感じがある。ソニーは一つひとつの音をはっきりさせることに神経を注ぎ、全体が合さった時、どういう音楽になるかのイメージはない。これはもう文化の差ではなかろうか。

 ソニーで聞くのはどこかはらはらどきどき、音楽を聞くよりはプレーヤーを聞く感じ。Micromega では、安心して音楽を聞ける。

 午後は夕方までかかってカトリオナ・マクドナルドのライナー。久しぶりにノって、分量が多くなる。途中、イアン・ロゥジアンの蛇腹の件で米山に架電。ピアノ・アコのスタンダード・ベースとフリー・ベースの違いを訊ねるが、米山にもわからず。アコーディオンのクラシック音楽の世界での話らしい。例のCDは一月延び。米山もウェブ・サイトを作ったとのこと。「ケルティック・ミュージック・オンライン」の掲示板は見ているようだ。

 夕食、鶏肉とカシューナッツの中華風炒め、かき卵スープ、ご飯、昆布の佃煮。

 夜、中山さんから電話。例によって、長電話。

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