2000年 11月 13日 (月) 晴れ後曇り。
朝食、ハム・トースト、プチトマト、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。
昼食、肉饅、餡饅各2個、林檎。
夕食、宮仕え時代の同僚・SさんとSさんの事務所の近くの焼き鳥屋。
○Sean Keane THE MAN THAT I AM; Grapevine, 2000, Ireland |
|
何と、ジム・ルーニィが共同プロデューサーでナンシ様が一曲コーラスで参加。そのナンシ様参加の[02]は名曲。どちらかというとジム・ルーニィのプロデュースが勝っていて、アメリカン風味の曲の方が良い。とりわけ[03]のタウンズ・ヴァン・ザントの曲。キャシィ・マティアのコーラスも良し。ベスト・トラックはラストのビートルズ・ナンバー。この人が born singer であることがよくわかる。この自然な歌唱。うたわれる歌もさぞかし嬉しいだろう。ディック・ゴーハンの "Sail on" をやっているのだが、これはやはり意図が空回りしている歌だ。アーティ・マッグリンのギターが救い。 |
午前中、PTA役員会。
ECMよりCD2枚。シャンカールのやつ。
その他は終日、文化放送BSのための選曲とダビング。MDの1枚目の音がおかしいもの4曲をやり直すと時間が足らなくなり、一曲ずつずれる。それはいいのだが、後から入れたものの順番を入替えて、聴直してみたら順番がめちゃくちゃになっている。仕方がないので、頭からならべなおす。これで予想外に時間をとられ、結局、全部終ったのは4時過ぎ。それから支度をして出かけるが、郵便局の窓口が閉まる時間には間に合わず。
大井町のSさんの事務所。大井町駅前はすっかり様変わりしてしまっていた。Sさんの事務所はほとんどその駅前といっていいところのマンションの一室。Yさんというグラフィック・デザイナーの人が一緒。ビール一杯ご馳走になり、マンションの筋向いの焼き鳥屋に入る。表はなかなかなのだが、料理ははっきり言ってひどい。
会社を辞めた経緯など聞く。結局、アメリカの親会社が別の会社と合併し、両方の日本子会社も合併することになったが、合併先の日本子会社が出版部門をリストラしたかったということらしい。しかもSさん自身は英語ができないから、上層部との直接の意思疎通はできず、そこをつけこまれたのだろう。ある意味、外資系の会社では珍しいことではあるまい。今の会社はもともとSさんを前の会社に引張った日本人で、そこの社長をしていた人間から資金援助を受けて設立したものとのこと。その日本法人を相手に売った金を持っているのだそうだ。Sさん自身は、取次の口座を得て、出版社としてやってゆくつもり。昔からの書き手との繋がりも切れてはいないようだ。
焼き鳥屋の後、その並びの喫茶店兼バーに入って、またおしゃべり。ネット本屋のことなどから、ネットを使った出版の件についていろいろ話す。Amazon.co.jpで本を買ってみて、これは既存の本屋はだめだと実感した由。たまたま荷物を持ってきたペリカン便の人が、SさんにこのAmazon.co.jpてなんだと訊いたのだそうだ。それで話を聞いてみると、ここ二、三日、急にその関係の荷物が増えた由。その件について、上からは何の話もなかったと言っていたらしい。そういう話を聞くと、確かに既存の出版流通は急速に崩れる可能性がある。特に地方だ。そう言う点からは、これからは大手も中小も同じ土俵で商売できる状況が生まれることはまず確実だ。
帰宅零時過ぎ。
ヒデ坊から電話があったらしい。
|
2000年 11月 14日 (火) 曇り。
朝食、ホットドッグ、トマト、バナナ、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。
昼食、鰺の開き、トマト(朝の残り)、ご飯、林檎。
朝食後、郵便局にて文化放送・U氏宛MD投函。リストはメールで送る。O医院に先日の健康診断の結果を聞きに行く。尿酸値高し。薬が出る。肝機能もやや悪く、中性脂肪、コレステロールともに高いので検査となり、血液採取。超音波診断の予約。間食を断ち、毎日体重計に乗り、当面の目標80キロ。とにかく歩け、一日30分から1時間歩けとの御錠。薬を受取り、速歩で帰る。
留守電に Robin Morton から入っている。もう出てしまうのでメールを送るとのこと。
Bloodshot Records から OXFORD AMERICAN #34, 2000/07+08。Amazon.comから Johnny Cash の新譜。
○Clive Gregson CAROUSEL OF NOISE; GREGSONGS, 1994, England |
|
イングランドでのソロのライヴやデモを集めたもの。この人のソロ・アクトとしての実力は二度ほど体験できたのでここでの演唱の質の高さは期待通り。しかしこの人の面白さは、期待通りの音楽を期待通りに聴かせてくれることが少しも退屈にならないところだ。とび抜けた曲や演奏があるわけではないのに、聞いている間は実に気持ちよいし、また聞きたくもなる。音楽に血の通っていることはもちろんだが、それだけではあるまい。楽しんでやっているアマチュアの部分と、エンタテイナーとしてのプロの部分のバランスが良いのではなかろうか。客を楽しませるコツを心得ていると言換えてもいい。 |
午後からiBookのパーティションを切り直し、システム入換え。Linuxをインストールするため。
○Show of Hands SHOW OF HANDS; Track Records, 2000, England |
|
ドイツ、オーストラリア、カナダでそれぞれ少しずつ違うトラックで出ていたベスト盤を2枚組にまとめたもの。他では聞けない録音もある由。半分以上はお気に入りのトラックで、演奏も申分なし。とはいえ、全体としてのまとまりは難しく、どちらかと言えばコアなファン向けの企画。あらためてフィル・ビアの歌とフィドルに感じ入る。シンガーとしてのスティーヴ・ナイトリィはちょっと壁に当たっているところもある。 |
夕食、豚肉舞茸、ご飯、蜜柑。
夜8時過ぎ、キング・Iさんから電話。サヴーナ・スティーヴンスンの新譜の売込みが来ているのだが、どういう人か。
9時過ぎ、Iから電話。先日の件、その後雑談2時間。11時過ぎ、入浴。
|
2000年 11月 15日 (水) 第320日。 曇り後晴れ。
朝食、ハム・トースト、バナナ、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。
朝一番で宅配便。『CDジャーナル』からCD返却。新潮社からカレンダー。
○Karin Rehnqvist DAVIDS NIMM; Phono Suecia, 1996, Sweden |
|
スウェーデンのクラシック作曲家の作品集。リエナ・ヴィッレマルクが参加しているので買ったもの。リエナはタイトル曲と一番長い組曲で参加。タイトル曲はソプラノ二人、メゾソプラノ一人のア・カペラ。組曲はソプラノ二人と打楽器のための曲。曲はスウェーデンの伝統的な素材と歌い方を使ったもの。"kulning" と呼ばれる、思いきり高音を延ばすもので、遠方との情報伝達や家畜を呼び集めるために生まれたものらしい。クラシックの伝統的な歌唱法とは全く関係ない歌と歌い方で、リエナの他のうたい手もクラシックの訓練は受けているのであろうが、その片鱗も見せない。とはいえ、面白いとは想うものの、心を動かされる要素は少ない。リエナにしてもこの人の幅の広さ、実験精神の旺盛なことの証しにはなっても、優れた業績の一つに数えられるというわけにはいかない |
朝刊の「旧石器捏造事件」の背景をさぐる連載記事で、韓国紙「朝鮮日報」の東京支局長のコメントが本質をついている。日本のメディアの姿勢について「アジアで最も古い歴史を持っていてほしいという気持ちが、無意識に現れているのではないか」。1997年11月の着任以来、旧石器関係の記事は一度も送ったことはないそうだ。
わが国のマスメディアはこの「大陸コンプレックス」によって、古代史や「旧石器時代」の「発見」を先を争って大々的に報道してきた。しかもそのほとんどは国際的な検証を受けることもない。すなわち「捏造事件」はマスメディアが産出し、マスメディアが暴いた。
昼食、素麺、林檎。
急に英語のハンディな辞典が欲しくなり、Amazon.co.jpに行ってチーフテンズの伝記のCD版と一緒に注文。アメリカと英国のサイトは登録は共通だったが、日本版は別になっていて、新たに登録。ついでにチーフテンズの公式バイオのCD版とペーパーバック版も注文。
夕食、栗おこわ、早良西京漬け、大根とあぶらげの味噌汁、小松菜煮浸し。
夜、メールを片づける。
尿酸値を下げる薬のせいか、夜になると眠くなる。
|
2000年 11月 16日 (木) 曇り。寒し。
朝食、ブルーベリィ・ジャム・トースト、ハム、バナナ、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。
○John Watt HEROES; The Living Tradition, 2000, Scotland |
|
初めて聞く人だと思っていたら、Robin Hall との共作 SHORES OF THE FORTH のアルバムの人であった。これは秀作という記憶がある。24年ぶりのアルバムということになるのだろうが、そういう希少価値とは全く別のところで見事な作品。ほぼ全曲オリジナルで、Tradition Bearers というシリーズ名から連想されるようなごりごりではなく、聞手の思い入れなどするりとひっぱずし、カントリーあり、スイングあり。基本はフォークだが、一番広い意味のフォーク。いい具合に年取って枯れた声は飄々として捉えどころがなく、スコッチには珍しく軽やかに明るい。どこか笑いを絶やさずに、ニコニコしながらうたっているけしき。Rab Noakes 自身のアルバムにいい想い出はないが、これはプロデューサーとしていい仕事だ。あんたの方がコアだろうがという Jack Beck の名前もあるが、バックはとび抜けた存在を感じさせず、息の合ったアンサンブルで主人公を盛りたてる。鄙びたクラリネットがいい。題材には、バッファロー・ビルとか、シッティング・ブルとか意外な人物も出てくる。ぜひ、歌詞を知りたいものだ。 |
○Freddie White MY COUNTRY; Little Don, 1999, Ireland |
|
久しぶりに聞く人。デクラン・シノットが全面的にバックアップ。ドラムスのプログラミングまでやっていて、実質ほとんど二人で作っている。このドラムス・プログラミングはみごと。さすがにデクランで、効果的なアレンジを重ねて、聞応えのある音楽にしたてあげている。ただ、この人はどちらかというと、最後に二曲入っているライヴを聞いても、シリアスなメロディに思わず笑わずにはいられない内容を盛るのが売りなのかもしれない。ライヴは重ねていると思われ、もともとうまかった歌がぐんとうまくなっている。 |
昼食、鰺の開き、トマト、ご飯、林檎。
昼過ぎ、オーマガトキ・S氏より電話。先日依頼のシャロン・シャノンの新譜の歌詞対訳の他に、曲解説の訳も頼むとのこと。
ユニヴァーサル・Sさんから今回期間限定でリリースする『リヴァーダンス』関連のCD2タイトル。ラティーナ12月号。Amazon.comからCD1枚。Darach O Cathain のアルバム。
4時過ぎ、ラティーナ・Hさんから電話とファックス。昨年もやった今年のベスト・アルバム選定の依頼。
朝からiMacに入れておいたLinuxをネットに繋ごうとあれこれやるが、なかなかよくわからない。とうとう、立ちあがらなくなってしまう。やはりUNIXはけっこう厳密で、Macのように適当にいじっていると操作がわかるというのではない。だいたいデスクトップ環境の立上げ方すらわからないのだ。やはり一冊参考書を買うか、明日発売の新ヴァージョンを買うか。しかしこれが結構高い。
夕食、K帰宅7時近くなり、豚肉の付焼き、トマト、ご飯、梨、蜜柑。
ソウル・フラワーの非公式サイト「電脳アジール」の掲示板で HdKさんがRCサクセションのアルバム『シングルマン』との出会いについていい文章を書いている。
|
2000年 11月 17日 (金) 雨。
朝食、葡萄パン、ブルーベリィ・ジャム・トースト、ハム・トースト、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。
○Johnny Cash AMERICAN III: SOLITARY MAN; American Recordings, 2000, USAmerica |
|
この人は歌を裸にする。この人がうたうと、歌の核の部分、本質が剥出しになる。それがもっとも如実に現れているのがU2の "One"。そしてラストのトラディショナル。ということは自分が裸になっているのである。アメリカが成熟するとはこういうことかもしれない。地球上の他の地域では成熟とは言われないだろうが、アメリカではこれこそが成熟となる。アメリカ西部のメサの頂上に立って、ぎらつく太陽にあぶられながら、乾いた風に身をさらしている気分。 |
○Various Artists FROM FASCHING WITH LOVE: Swedish jazz live!; Phono Suecia, 1996, Sweden |
|
"Fasching" というスウェーデンのジャズ・クラブが1992年に開店15周年になったのを祝って作られたコンピレーション。ほとんどはアメリカ流の主流のジャズにあって光っているのが Enteli とアーレ・メラーのもうひとつのユニット Murbracken の2曲。光っているというよりも、この2曲、とりわけエンテリのトラックが他を圧倒していて、これ以外は全部ゴミに聞える。ゴミというのは強すぎるかもしれないが、とにかく他は全部何の色もない、無味乾燥な演奏に聞こえてしまうのだ。エンテリの曲はアーレ・メラーの作品だが、この人の書いた曲の中でも出色。とにかく楽しい。メラーの笛がフィーチュアされて始まり、しばらくは全くのフォーク・ミュージックの世界。そこにタブラが入り、サックスが入ってきた瞬間、世界がパアッと開ける。後はもう、ほとんど渋さ知らズだ。観客も大騒ぎ。これぞ音楽。これぞ極楽。掉尾を飾るのはメラーの笛を中心としたトリオで、こちらは愛らしい小品の趣。エンテリはとにかくもっと聞きたい。 |
○Walt Michael & Company LEGACY: Live in Scotland; The Tradition Beareres, 2000, USAmerica |
|
どうやらこのシリーズはスコットランドのミュージシャンに限るものではないらしい。これはアパラチア出身のハマー・ダルシマー奏者を中心とし、フィドル、マンドリン、ギター、ベースが加わったカルテットで、やっている音楽はいわゆるオールド・タイムだ。そのスコットランドでのライヴ。それにしてもどうしても緩く聞える。うたも悪くないし、タイトル・ソングは名曲とも思うが、ひきこまれる魅力はない。キャロランや、シェトランド・チューンをとりあげてもいるのだが、どこか一番肝心のところをはずしていないか。少し時間をあけて聴直してみると、案外よく聞こえるかもしれない。 |
朝、歯科。左親知らずの虫歯の処置とその手前に金属の土台を入れる。下のクリエイトと本屋に寄って買物。運動もかねる。帰って体重を測ると81キロ。ほんの少しの運動で一、二キロ簡単に変わってしまうのは、いかに脂肪が多いかということか。
昼食、鰺の開き、和布キャベツ、白菜の味噌汁、ご飯。尿酸値を押える薬の副作用で、食事のたびに腹が下る。昨日あたりからそれがひどくなってきて、ちとめんどい。
注文しておいた『東北学』第3号届く。赤坂憲雄・編集の年二回刊の雑誌。A5判400頁を越える大冊。発行は東北芸術工科大学・東北文化研究センター。発売は作品社。総特集で日本列島の狩猟文化の系譜。稲作「伝説」で埋もれた狩猟に関する文化を歴史、民俗、考古の三方面から掘起こす試み。東北学だが対象となった地域は奄美・沖縄も含む。目次を見ているだけでわくわくしてくる。書評に取上げられたタイトルが面白そうだったので、とりあえずこれから読む。鯨井千佐登『境界紀行:近代日本の生活文化と権力』(辺境社・発行、勁草書房・発売)。書評者は菊池勇夫。宮城学院女子大の教授で日本近世史専攻。ここでの「境界」とはくにざかいだけでなく、この世とあの世の境、中世と近世の境も含むらしい。これは読まねばならない。それにしても執筆者の中心は同世代だ。赤坂氏からして二つだけ年上。「花の28年組」ではないか。
読者からの投書欄に第二号に載った高橋克彦の対談の内容についての反論。和田喜八郎が「発見」したとされる『東日流外三郡誌』の内容を高橋氏が事実と信じていることは誤りであることを指摘する。その投書そのものよりもそれに対する赤坂氏のコメントの中に、青森ではこの「偽書」が「正史」として扱われていると青森在住の知人から聞いたとある方が興味深い。結局この書物は「東北の文化の劣等感(中央の文化と比較しての)を払拭する手段」として使われてきた、というのが当初の執筆者と赤坂氏の共通の結論で、それはそれでいいのだが、赤坂氏はこの本にまつわる件はあまりにローカル(青森と岩手の一部)なので関心が湧かない、と言う。が、同様のことが各地でなされていると推測できる。伊勢神宮外宮の「偽書」の成立とその役割は『中世神話』(岩波新書)で読んだ。「文化の遅れた後進地域とみなされてきた東北ゆえのルサンチマン(恨みつらみ)をバネとした地域ナショナリズムの暴走」(赤坂)は、例えば「歴史教科書を作る会」のような修正主義としても現れているのではないか。「地域ナショナリズム」は青森一県でも「日本全国」でも成立する。中国と比,べれば「文化の遅れた後進地域とみなされてきたわが国」と、列島を見ている人間は数多い。
余談だが、今回の「前期旧石器捏造事件」は、教科書が実は必ずしも「正しい」とは言えないことをはからずも暴露してしまった。
この事件の背景をさぐる新聞の連載記事の今朝のもので、民間の研究家たちの発掘作業が、「学界」から正当に評価されてこなかったことも遠因の一つとある。先日飯田が言っていたことだろう。学者どもは自分では何も掘らず、あるいは掘れず、他人の業績にケチをつけたり、ハクをつけたりするだけという構図。列島に旧石器(後期)時代があったことを証明した岩宿遺跡も、実際に発掘した民間人の業績は危うく学者たちに盗まれるところだった由。この民間人、相沢という人はうまいことを言っている。
「岩宿遺跡という未熟児を生んだので、学者のところへ持っていって育ててもらおうとしたら、学者たちはそれが自分の子だと言出した」
ひとことで言えば、わが国の考古学界は腐っている。
新聞といえば、今朝の経済欄コラム「経済観測」は、今回の自民党の「内紛」騒ぎの解説として一番明解。竹下派〜橋本派が首相を出せないために、他の派閥で言うことを聞くやつを首相にして、自分たちは公共事業のばら撒き権を握る。それで田舎の票を確保する。だから、橋本派は人数だけは最大。それを見た加藤はこのまま行けばせっかく首相になっても橋本派の操り人形になるだけなのだから、そんなのは嫌だ、公共事業のばら撒きはもうやめようと言出した。であれば加藤としては除名覚悟だろう。例え来週月曜の内閣不信任案が否決されたとしても、そのままですむはずはない。
あるいはひょっとすると、もう一段奥があるのかもしれない。実はYKKがやはり密かにつるんでいて、不信任案可決後、内閣は総辞職し、そこで今度は森、加藤、山崎の三派で新たな首相を決める。民主党の一部と自由党が同調する。いずれにしても自民党は分裂である。
(知)の署名のこの人は(三連星)氏の後継者にふさわしい。
一方の森はAPECの首脳会議の場で、電気が通っていないタイの農村部などではIT革命など望めないという当事者の指摘に対して、携帯電話を持っていけばいいとのたまわったという報道。本当にこの人は大学まで出ているのか。それともどこか頭の血管が二、三本、切れているのではないか。笑う気も失せる。
昼食後、昼寝一時間。Hが帰ってきて起こされる。
その後、レニー・ブルース。
夕食、酸い餃子、和布キャベツ(Kが新たに作った)、白菜の味噌汁(昼の残り)、ご飯、葡萄。
夜、日記の整理。
|
2000年 11月 18日 (土) 晴れ。
朝食、秋刀魚開き、大根味噌汁、プチトマト、ご飯、ゆかり。
午前中PTA運営委員会。
昼食、釜揚げ饂飩、茹で卵、蜜柑、梨。
『CDジャーナル』、『グラモフォン・ジャパン』。Jさんがやっているミュージシャン伝記シリーズの二冊め、セルジュ・ゲンズブール。茂木の訳。ヴィデオアーツから移転通知。Amazon.co.uk から歳暮。積上げた木のブロックを下から取ってゆくゲーム。早速子どもたちが遊んでいる。
skkのMac版がないかとskkのサイトからリンクをたどってゆくと、何とGNU Emacs for MacOS などというものがあるのを発見。日本語サイト (http://emacs.netunify.com/1) に行き、説明を読んで、本体 (18MB) とフォント・セットをダウンロード。これで動くというskkとapelもダウンロード。本体とフォント・セットはsmiファイルで、デスクトップにマウントしてから中身をHDの指定の箇所にコピーする。こうすると Emacs フォルダのサイズは55MB。skkもインストール。そこまではいいのだが、skk-autoloads.el ファイルを作る段になり、GNU Emacsの中でディレクトリ移動する、そのパス指定がわからない。skkのソースのトップディレクトリに行け、と言うのだが、どう指定してみても "No Match" と言われる。絶対パスでやっても駄目。
急がば回れで、GNU Emacsのチュートリアルを一通りやってみる。が、もっと基本的な機能の紹介で、ディレクトリ指定のやり方はわからない。別にダウンロードした入門用の説明書にも書いていない。古いLinux for PPC の本にUnixのディレクトリの書き方が書いてあるのを見つけたが、一体どこか「ホーム・ディレクトリ」になるのかがわからない。
GNU Emacsはチュートリアルだけやってみても、今までMacで触ってきたエディタとはまったく別物であることは実感される。コマンド・ラインを打込んで操るのは、タイプが面倒であるのとミス・タイプはまぬがれないことを除けば、いろいろと細かい操縦ができる。数字を引数につけて、同じ文字を一度に何度も入力できる、なんていうのには感激すらしてしまう。
modifier key がMacOS上では esc に割当てられているのだが、これがiBookの場合、小さくて押しにくいことおびただしい。GNU Emacsは自由なカスタマイズが売りでもあるから、このキーバインドぐらい変更できるだろうが。
チュートリアルをやっている時、C-k と C-y の動作がおかしい。チュートリアル通りにならない。
skkはEmacsと深く結びついているらしい。GNU Emacs for MacOS は今のところコンテクスト・メニューには対応しないので、やはり日常業務は無理だ。果たしてskkはMacOS Xに移植されるだろうか。
夕食、鯵の刺身、隠元胡麻和え、ご飯、蜜柑。
|
2000年 11月 19日 (日) 2000年 11月 19日 (日)
晴れ。寒し。
朝食、アンパン、チーズ・クロワッサン、グレープフルーツ・ジュース。
Kダウンにより、子供会の廃品回収当番に出る。子どもたちも出る。
「前期旧石器捏造事件」に関して、藤村氏が副理事長を務めていた研究所に遺跡を抱える自治体から計2,000万円を越える助成金が出ていたとの報道。ようやく事件の背景の全体像が見えた気がする。遺跡発掘はそのほとんどが開発にしたがって行われる。山野を開発し、宅地造成などする時に出てくるわけだ。当然発掘は急がねばならず、開発がすんでしまえば後からの検証など不可能だ。発掘費用そのものも開発業者が一部負担している由。
開発に追われる発掘。現場に行かず、民間人の「実績」の上に乗っかり、これを「横取り」することをもっぱらとする学界、遺跡の「商品化」に血道を上げる自治体。自治体からの補助金に頼り、補助金確保を最優先する発掘主体。となると、今回の事件は起きるべくして起きたわけだ。
このところ読んでいる『中谷宇吉郎集』第一巻収録の「先生を囲る話」は見事な文章だ。直接見聞した寺田寅彦の言動のスケッチなのだが、寅彦の人となりが生き生きと手に取るようにわかる。そしてその人となりの器の大きさに、どこか目の眩む思いをする。こういう師を得た宇吉郎は幸運だったとうらやましくもなる。同時にこういう弟子を得た寅彦もまた幸運だったといえる。もちろんわれわれは程度の差はあれ「美化」された部分だけを見ているのだから、実際の関係がどうであったか、わかるはずもない。しかし重要なことは実際がどうであったかでなく、当事者たちがどう感じていたかではないだろうか。その点で、漱石、寅彦、宇吉郎と続く師弟の系譜は、理想に近い。
寅彦の器の大きさが、受けた教育、と言うよりは学校教育で接した教師たちの感化にその一部を負っていることは確かなようにも思われる。ここに点描される中学時代の教師たち自身、それぞれ個性的で、それぞれに器が大きい。漢文は今国語の担当だが、全国の中・高校の国語の教師で、四書の一つでも全文暗記している人間が何人いるだろうか(そういう意味では、一冊でも本を暗記したことなど我ながらあるだろうか)。
寅彦自身、師範学校を出た教師たちに教わる今の生徒たちを気の毒がっている。
※今日の引用
少し話が内輪話のようになるが、ある晩先生がひどく懐古的な話をされたので、私もつい高等学校の入学試験に落第して、一年家で商売の手伝いをしたことがあるという話をした。そしたら先生が、「それは良いことをした。そういう経験は世の中を知る上において滅多にない良い経験だ。一年位大学を遅く出るということは一生のことを考えて見るとちっとも損にはならない」と妙に力瘤を入れて落第を礼賛された。
『中谷宇吉郎集』第一巻「先生を囲る話 三〇 落第」168pp.
夕食、おでん、ご飯、ゆかり。
入浴後、レニー・ブルース。
|