大島教授の[暖蘭亭日記][2001年 1月 15日 (月)〜2001年 1月 21日 (日)] [CONTENTS]

2001年 1月 15日 (月) 晴れ。目覚ましが鳴る前に目が覚める。

 朝食、フレンチ・トースト、ブルーベリィ・ジャム・トースト、グレープフルーツ・ジュース、コーヒー。

 朝、食器を洗おうとするとお湯が出ない。どうやら凍結したらしい。口火は点いたので付けっぱなしにする。営繕の問合せ先に架電。夕方、電話があり、症状を説明すると、水が外に漏れていなければまず内部で継目などが破裂しているおそれはない。

 午前中、PTA本部打合せ。
 昼過ぎ帰ってお湯を確かめると、今度はちゃんと出る。湯になって少しして、焦げ茶に濁った湯が一時的に出る。その後は問題なし。

 昼食、昨日のおでんの残り、ご飯、ゆかり、蜜柑。

 昼食後、文化放送BSのためのダビング続き。終ってから一通り曲順だけ確認。ペリカンに架電してとりにきてもらう。

○Iona HEAVEN'S BRIGHT SUN; Alliance Music/Music Plant, 1997/2000, Ireland
IonaIona  二枚組のライヴ。ギターははったりにしか聞こえない。シンガーはほんとうに一級品。バンドの他のメンバーもまずまずで、元凶はリーダーらしくプロデュースや曲作りも兼ねるこのギターだ。せっかくのシンガーの資質を、ギタリストがぶち壊している。勘違いではなく、少々のナルの要素はあるにしても、おそらくは本気でこういうものが良いと思いこんでいるのだろう。信じたものを懸命に追求していることはわかる。しかし一方でそうした生真面目さ自体が音楽をつまらなくしていることにはどうやら気がついていない。

 夕食、鰹の叩き、菠薐草おひたし、大根味噌汁、ご飯、蜜柑。
 夜、日記の整理。

2001年 1月 16日 (火) 晴れ。

 朝食、ハム・トースト、バナナ、グレープフルーツ・ジュース、コーヒー。

 歯科。右上一番奥。ずっと昔、おそらく遥か昔飯田橋の歯科で金属を入れてもらったところが虫歯になっている。神経は抜かれているので痛みはなかったが、歯ブラシをすると響く。麻酔をかけ、周りを削ったかして、うまく金属がはずれた。レントゲン2回。虫歯を削って、ストッピング。

 急患が入ったかで、30分ほど待たされる。その間『アエラ』2001年1月22日号を読む。速水由紀子という人の宮台真司についての記事はちょっと読みごたえがある。これによると宮台という人は実に真剣に人生と格闘しているらしい。読んでいて痛々しくなるほどで、実在の人間というよりは小説の主人公、あるいはむしろシリアス志向のテレビ・ドラマ(そんなものがあれば)の登場人物に近い。麻布中・高でSFマニアだったというから、あるいは巽さんと交叉している可能性もある。一つひっかかったのは、末尾近く、自分を欺いて傷つくことを防ごうとする防衛機能の罠を撃破り、自らの実像とむかいあうことに努めている、というくだり。ひとことで言えば実存主義ではないか。いまどき、実存主義そのままに生きることができるならば、まことにうらやましい状況にある人だ。

 終ったのが10時半。駅前に出て11時。まっすぐ新宿。

 タワーとヴァージンをはしごしてCDを漁る。タワーで5枚 Spaccanapoli, La Grande Bleue, Mutenrohi, それに先日ファーマーズ・マーケットの新譜を出した Winter & Winter をボンバというレーベルが出しているものの一枚 Ernst Reijseger & Tenore e Cuncordu de Orosei。サルディニアのコーラス・グループとチェロの共演の由。ロキア・トラオーレもあったのだが、CD代を削る必要もあるので、当面ヨーロッパに買うものは絞る。と言いつつ、ふと見るとその近くに Lili Boniche のオランピアでのライヴがあるのを見つけてしまう。値段が安いので買う。ヴァージンでは Network のアンソロジーでロシアのロマを集めたものが出ていた。それとSharon Shannonが来るのでアコーディオン特集をやるのに備え、第二次大戦前のパリのミュゼットのアンソロジー。ハンカチを忘れたので、無印良品で一枚綿のハンド・タオルを購入。

 昼食、新宿・アカシアにて、ロール・キャベツとKRB(ケチャップ抜き)。

 往復で Nuala O'Faolain の ARE YOU SOMEBODY? を読みつづける。『武器よ、さらば』を読んでいて、作品に完全に入りこんでしまい、手が震えた、と書いている文章にでくわす。小説を読むことで、そこまでの感興を覚えた記憶がない。

 アルタの地下から地下道へ出たところで、制服姿の初老の警備員が通路に座りこんでいるホームレスをどかそうと声をかけているのを見る。今日はホームレスの人びとの姿がずいぶん目に入った。それもなんの防護もなく、段ボールもなく、外の道路や地下通路の傍らにうずくまり、横たわっている。警備員の様子から推測するに、ホームレスたちが一つの場所に居座らないように追いたてているのではないか。この冬のまっただ中にだ。警備員自身はおのれの職務に忠実であろうとしているのかもしれないが、どうにも虎の威を借る狐、いや狐というよりは鼠に見える。来年の今頃、あんたがそこで追いたてられる側になっていないという保証はどこにもあるまいに。そういう想像力すら働かないのか。それとも働くが故にその姿を消しさりたい想いに駆立てられているのか。

 厚木に帰り、バオバブでコーヒー豆を買い、図書館で池内紀の著書3冊、『シレジアの白鳥』村松書館1978年、『本を焚く』冬樹社1990年、『見知らぬオトカム』みすず書房1997年、を借り、ガレアーノ『火の記憶』をリクエスト。池内紀は小説が4冊ほどあったが、まずはエッセイ&ノンフィクションからにしよう。小説を読む気にはあいかわらずなれない。帰りのバスで『シレジアの白鳥』を読みはじめる。

 『本を焚く』は「焚く」と書いて「やく」と読ませる。巻頭に秦の始皇帝の「焚書」と1933年4月のヒトラーによる言論統制のシンボルとしての行為について同列に並べることを批判した魯迅の言葉についての短文が掲げられている。「焚書」というとオノ・ヨーコとジョン・レノンの言葉を思出す。ヨーコが自著のあとがきに「この本は読んだら焼いてください」と書いたのに対し、ジョンが続けて「この本はぼくが焼いた中で一番いい本だった」という。このジョンの言葉には、『シレジアの白鳥』の二番目の話に出てくるガレッティ先生の失言の谺が聞える。

 そのガレッティ先生はショウペンハウアーが半年間だけ学んだゴータ市の学校の先生であったが、この時代の学校についての言及もこの本の中にある。
 「おおむね豪壮を旨として建てられた建物が、プロシャ式兵営を思わせ、それは終生、こころ好からぬ記憶を反芻するためにもっけのよすがに過ぎないのである。グスタフ・フライタークは執念深く記している。『ドイツ民族があるかぎり、ドイツの教師のタネはつきない。ちいさな弁髪を首すじにたらし、猫背で眇の陰気なあの男たち』と。」(『シレジアの白鳥』22pp.)
 ARE YOU SOMEBODY? に出てくるアイルランドの教会経営の学校の様子。そしてもちろん、イングランドのあのパブリック・スクール。
 学校というものは本来抑圧的で、権威主義の塊であり、教師はなべて人間として最低の部類なのである。学校でもユニークな個性を持った教師が活動できるのは、まだ制度が固まっていない、幼年期においてのみなのではないか。

 帰宅3時。下の停留所から歩いて7055歩。
 SETI@home の通販ショップからマグとペンが届いていた。さっそくマグでコーヒーを飲む。大ぶりでよろしい。蓋はポリマーだそうだが、色も感触もゴム。

 帰宅後、紀伊国屋で買った『噂の真相』2月号に読みふけってしまう。なんといっても田中康夫の「東京ペログリ日記」だ。今回は投開票日から知事としての人気が始まった時期。例の企業局長の「名刺事件」についての『毎日』の報道ぶりに憤慨しているのが特におもしろい。

 夕食、鰻丼、白菜味噌汁、菜の花芥子和え、搾菜。

 池内紀「鉄仮面の秘密」、おもしろい。それにしても何らかのネタ本はあるのだろうが、よくもこれだけ調べたものだ。

2001年 1月 17日 (水)  晴れ。外のバケツには薄い氷。昨日よりは寒く、一昨日よりは暖かい。

 朝食、ハム・トースト、バナナ、グレープフルーツ・ジュース、コーヒー。

 池内紀の「影絵の世界」(『シレジアの白鳥』所収)はルネサンス以降のヨーロッパの書簡文学をルネサンスと18世紀に力点を置いて描いたもの。なるほど、ジャーナリズムはまず書簡の形で現れたわけだ。『美術家列伝』のヴァザーリとならぶ強請の天才ピエトロ・アレティーノのミケランジェロに対する恫喝書簡は見事。ちょっと著者の「創作」ないし「アレンジ」の気配もないことはない。ジャーナリズムの本質が権力の変形の一つであり、具体的には「強請」であることを喝破している。ジャーナリズムは「反権力」「反権威」「批判」を看板に掲げてはいる。が、実際には正面切って権力を持てない勢力が、「正統的な」権力を持つものを「批判」することで自らの側に権力を引寄せようという努力になる。すなわちまず「正統的な」権力がなければジャーナリズムは成立しない。ひとことで言えばジャーナリズムは権力に寄生して初めて生存可能となる。

 権力は必ずしも政治的なものに限られる必要はない。経済的な権力、文化的な権力、権力にも様々な形がある。権力の一つの要件は現象を生みだす力だ。何ごとかを生じさせる、あるいは形あるもの、例えば「商品」を送りだす。身近なところで言えば、音楽を生みだす側が権力者で、これに寄生するのが音楽ジャーナリズムである。

 ジャーナリズムは情報の伝達とともに「批評」を行うことで自らのレゾン・デートルを獲得する。はずだが、往々にして「批評」は単なるごますりに終わる。おそらく20世紀は、批評者としてのジャーナリズムが権力者側に「買収」されるプロセスではなかったか。マスメディアの成熟とは、もともとジャーナリズムが備えていた権力への渇望が極限まで満たされたことを意味する。いわば個人技だったジャーナリズムや批評が、システムを備えた組織によって行われるようになった。結果はマフィアのボスが自ら大統領になったようなものだ。

 21世紀はジャーナリズムがもう一度個人の手にとりもどされる過程になることを願う。ネットはその一つのきっかけにはなるだろうし、当初大きな武器になるではあろうが、それだけでは危ない。

 ビクターから注文しておいた沖縄関係のCD4枚。

○Esma CHAJE SHUKARIJE/届かぬ想い; World Connection/Ahora=Beans, 2000, Macedonia/Roma
Esma  あらためてフル・アルバムで聞くと偉大さがよくわかる。中盤[08][09]あたりで急に「ロマ離れ」した感じがあり、よくよく見てみたらフランク・ロンドンが絡んでいた。ロンドンもえらいが、典型的なコンテクストから離れてもロマとしての響きや自分のスタイルがまるで揺るがないエスマは、やはり本物だ。各地域に一人はいるうたの女神の一人であることは、この一枚聞くだけでも間違いない。ロンドンの刺激か、バンドも溌剌とした演奏で、二、三曲あるインストも聞応え十分。他に録音があるか、確認してみよう。
○John Carty YEH, THAT'S ALL IT IS; Shanachie, 2000, Ireland
John Carty  ロンドン生まれの人のフィドル・アルバム。At the Racket のメンバー。バンジョーも達者で、フルートも一級の由。ブライアン・マグラアとアーティ・マッグリンがサポート。ライナーによるとフィドルとしてはかなり特異なテクニックを使っているらしいが、こちとらそんなことはわからない。確かに装飾音をつなげたまま、つまり弦から弓を放さずにこねくり回す、としか言いようがないのだが、こういう手法は他では聴いた覚えはないし、実にスリリングではある。たとえば[03]のオリジナルで、その辺を聞かせどころとする曲にしたててもいる。そういう手先の技が映えるのは基本の音がしっかりしているからで、低めにふくらむ骨太のたっぷりしたボディがまず気持ちいい。バンジョーの曲をテナー・ギターでやったりもしているが、これを聞いているとギターの単音弾きによるダンス・チューン演奏はバンジョーのテクニックを応用しているのだろう。アーティ・マッグリンのサポートがさすが。IRTRAD-L でフィリップが絶賛していたが、確かに良いアルバム。

 昼食、鰹角煮、薩摩揚げ、大根味噌汁、ご飯、蜜柑。

 Amazon.comよりCD4枚。昨年末に注文したアメリカ関係。書籍一冊。エドゥアルド・ガレアーノの MEMORY OF FIRE の第一巻。待っていたもの。英訳者は著者より36歳年長のロンドン生まれで、マッカーシズムで追放の憂き目にあっている。原書1982年、英訳1985年。ペーパーバック1998年。この当時訳者はメキシコで健在。邦訳2000年。

 メール・チェックするとWXGのメーリング・リストで、英語版の CarbonLib を日本語版にインストールする方法が出ている。早速 TomeViewer と CarbonLib 1.2 (E) をダウンロード。インストールする。Jedit で試してみるが、あまり変化はない。少し安定感は増したか。9.1 の方が効果ははっきりするのかもしれず。キーボードの発送が無期延期になったので、こちらもしびれを切らし、アップデート・ディスクを申込むことにする。

 夕食、水餃子、和布キャベツ、ご飯、搾菜、蜜柑。

 夕食後、Esma のアルバムをネット探索。判明した一枚をAmazon.comで買うのもちょっと嫌だったので TowerUK で買おうとしたが、他に買いたいものがない。やむを得ず、Amazon.comで溜まっていた中から3枚ほど選んで一緒に注文。

 夜、Jedit を試してみるが、英数全角入力や、そのあと拡張変換(英和辞書)をすると凍ってしまう現象は変わっていなかった。やはり仮想メモリ周りなのだろう。
 夜、チーフテンズ2ページ。

2001年 1月 18日 (木) 晴れ。

 目覚ましが鳴る前に目が覚める。尿意のためらしい。

 朝食、帆立てと椎茸の混ぜご飯、小松菜と薩摩揚げの煮浸し、白菜味噌汁、ご飯。

□池内紀「鏡と書簡と回想録」
 バロックに続くロココ時代の時代相の検討。はじめの方でロココを女性的なものとして描く、つまりジェンダーで文化を語っているのは、今から見ると危うい。もっとも前半のやけにすかした、詩的言語を装った空虚な言回しが目立つ部分は、題材を文体で現そうとした試みと見えなくもない。この文章の胆はカザノヴァに言及した部分。
 「この肉体は、もはやその人の意図(生きる)に耐えない。そこで彼は書くことにより、おのが人生を今一度生きた」(『シレジアの白鳥』71pp.)

 「彼が強烈な時代の表現者となり得たのは、その傭兵隊長の本性が嗅ぎとった、時代のフォルムを、そっくりわがものとしていたからだ。いうまでもなく、それに逆らって生きるためである」(同上、73pp.)
○Spaccanapoli ANEME PREZE/Lost Souls; RealWorld, 2000, Italy
Spaccanapoli  やはりイタリアはどちらかというと南の方が面白いように感じてしまう。猥雑で、奔放で、しかも細やかな神経が隅々まで行届いている。北の端正さもそれはそれでいいのだが。タッドの話では、このバンドもリアルワールドから録音を出すに当たって元のバンドに路線対立が起こり、分裂してできたものだそうだ。それはそれで興味深いが、これだけでも十分に耳を傾けるに値する。何よりもこの女性シンガーはたいしたものだ。「突破」したシンガーからは「狂気」が漏れるが、この人もデーモンを感じる。密度の濃い、しかも良く伸びる声。マーラを想いおこす。底力のある同時に切れ味鋭い打楽器、起伏の大きなメロディーが爽快。元のバンドもぜひ、聞いてみたい。

 『ラティーナ』2月号。

 昼食、エボダイ開き、朝の残りの白菜味噌汁、小松菜薩摩揚げの煮浸し、ご飯、ユカリ、海苔。

 昼食後一時間半ほど散歩。愛名緑地の方に以降と坂を登ってゆくと、呼止められる。小学校の主任Tさんが自然観察会の下見の下見で高松山を一周してきたところだとのこと。ちょっと立ち話する。愛名緑地から北へ周るつもりだったが、Tさんに言われて高松山に登る気になり、愛名緑地からとろとろ登る。北東側斜面の階段よりは多少楽。晴れて遠くまで見通しがきく。車の騒音が結構大きく聞こえるのは東名のものだろうか。持っていったのはスコッチ・ガーリックの初老のおばさんのCDで、冬の野山を歩きながら聞くのは気持ちがよい。

○Orain Floraidh THE SONGS OF FLORA MacNEIL; Temple, 2000, Scotland
Orain Floraidh  シンガーについての情報がどこにもないが、ジャケット写真からは60代とおぼしき女性の全編ガーリック歌唱。Maggie MacInnes の母親だそうな。年齢をまったく感じさせないみずみずしさ、しかも永年うたい込んで初めて生まれる成熟の極み。ほとんどがア・カペラだが、歌詞の響きの美しさ、メロディの豊かさにまったく飽きない。独特の悠揚迫らぬリズム、というよりはもっと原初に近いうねりにいつまでも揺られていたい。リズムだけでなく、メロディと言葉の響きが一体になったグルーヴと言ってみよう。とりわけウォーキング・ソング。[06]は至福の名唱。
 
 夕食、ばら肉と大根の煮付け、薩摩芋と鶏挽き肉の煮付け、豚汁、ご飯、ゆかり。時間はかかったが、豚汁は大正解。子どもたちも好物でうまいうまいとおかわりしている。ばら肉と大根もなかなか。特に大根はいくらでも食べられそうだ。薩摩芋は砂糖が多すぎた。

 夜、マーティン・ヘィズ&デニス・カヒルのインタヴュー起こし続き。

2001年 1月 19日 (金) 晴れ後曇り。

 昨夜は11時に床に就いたので、さすがに寝足りた感じ。もっとも寝入りばなにMが夢を見て大きな鳴声をあげたので、一瞬目が覚めた。Kがあわてた声で話しかけたが、本人は全く眠っていたようだ。

 朝食、昨夜の残りの豚バラ大根、豚汁、薩摩芋鶏そぼろ煮、ご飯、ゆかり。

 朝刊の「記者の目」はなかなかに冷静な記事。少年犯罪ばかり注目され、それが教育問題とすり替えられているが、実際に統計をとっている研究者によると、90年代には青少年層の殺人事件が減少し、中高年層の殺人事件が増加しているとの結果が出ている。通常は青少年層の殺人事件の方が多く、これは生物としての習性と一致するそうだ。青少年層は異性の注目を引くために攻撃的になり、そのためには多少のリスクは進んで負う。統計に現れているところからすると日本の青少年層はリスクを負うことを避ける傾向があり、かわって将来に展望が開けない中高年層がリスクを省みずに暴発する。

 午前中、念の為にとiMacの仮想メモリを切ってCD-Rドライヴをつないでみると、あっさりと認識。Toast もあっさり認識。こう言うことであったわけだ。

○Brian McNamara A PIPER'S DREAM; Drumlin Records, 2000, Ireland
Brian McNamara  リートリム南部のマクナマラ一家最年長者のパイプ・ソロ・アルバム。端正だがリアム・オ・フリンほど厳格ではなく、軽快で剽軽ともいいたいくらいの身軽さ。スピードにのって突走ることはせず、ジグやホーンパイプの遅めのテンポで、くるくる周る装飾音やチャンターの音色の転換がきれいに聞こえる。こういうテンポは中毒になる。力量とスタイルと曲とに絶妙なまでには合ったテンポなのだろう。計算してできるものではないが、本能だけで可能なものでもあるまい。そう、このパイプには理知を感じる。知性が野生とバランスをとり、楽器と曲をともに最大限に活かす接点を探当てている。コンサート・ピッチとフラット・ピッチの中間の感じ。

 昼食、豚ばら大根、豚汁の残り、エボダイ開き、ユカリ、ご飯、林檎。

 昼食後、やたら眠くなり、30分ほど寝る。昼食を挟んでチーフテンズ。

 『CDジャーナル』2月号。国本武春の新譜が出ている。ボンバから国内盤が出ているということで紹介を見送ったファーマーズ・マーケットだが、そのボンバ盤の紹介は無いようだ。昨年の展望で「ワールド・ミュージック」の項は北中さんが書いていて、平安隆&ボブ・ブロッツマンが欧米で評価が高いことに触れているのは、我が事のように嬉しい。
 
○Jacques Pellen CELTIC PROCESSION; Auvidis, 1993/1997, Breton
Jacques Pellen  Celtic jazz との副題は伊達や酔狂では無いようだ。パトリック・モラールのイラーン・パイプのジャズ・パイプがまずすばらしい。この人、本来はハイランド・パイパーではなかったか。実にしなやかなパイプ。ブルターニュ土着の楽器としてはビニュウだけだが、ブルターニュのカラーはしっかりと根底に流れ、しかもそこにとどまらない、いや、それがあるが故に自由に、しかも焦ることなく、のびのびと音楽を展開している。この人のギターもアコースティックで、先頭に立って引張るよりも、骨格を提供し、支える方だ。面白いのは、アメリカのジャズのように、ソロの塊ではなく、基本的には集団の音楽で、その中で各メンバーの交歓が生まれる。[11b]はもしやとおもったら、やはりあの名曲 "The little cascade" だった。ほんの少しゆっくりのテンポが気持ちよい。

 夕食、カレー、蜜柑。

 夜、マーティン・ヘィズ&デニス・カヒルのインタヴュー起こし。マーティンの英語は訛りが強い上に、すぐに抽象的なことを言う傾向があるので、なかなか進まない。己のリスニング能力の貧弱にも困る。

2001年 1月 20日 (土) 曇。朝のうち、時おり薄日差すが、昼までには全く曇り、寒し。夕暮前から雪降りだす。結構真剣に降る。

 朝食、ブルーベリィ・ジャムを塗った健康パン、プチトマト、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。

□池内紀「マザー・グースの王様たち」; 1976.03/現代詩手帖, シレジアの白鳥, 1978.11.01
 「マザー・グース」の成立した18世紀英国の三人の王のスケッチから当時の英国のパトスを探る試み。確かに「マザー・グース」をこういう角度から見るのは新鮮。「マザー・グース」の同時代人たちがグズの国王を少しは役立つと認めたというのは少し違うだろう。市民たちが勃興するには有能な国王では困るのだ。むしろグズで無能な国王が必要だった。しかし「マザー・グース」を生んだ人びとが誰であったかはもう少し検討の余地があるように思われる。18世紀に勃興した英国市民層が「行商人」から「世界市場の商人」になったとしても、それがどの程度の広がりを持っていたのか。この時期、スコットランドでは「クリアランス」が行われており、同様のことはイングランドでも形を変えて行われていたはずだ。「市民」とはすなわち「ロンドン市民」とほぼ同義かもしれない。となると「マザー・グース」はどこで生まれたか。あるいは京都の落首と共通するものだろうか。とすると、それは「市民」よりも「漂白の民」が担い手である可能性もある。

 「マザー・グース」が「口さがないわらべの言葉を借りたジャーナリズム」の性格も備えるとすれば、なおさらそこには市民よりも「道々の輩」の存在が影を落とす。ヨーロッパにもいわゆるジプシーやトラヴェラーとは違った形での「道々の輩」がいたはずだろう。あるいはジプシー/トラヴェラーの位置や役割は、今日考えられているような社会の外にぶらさがった付帯物、被差別民と言った「軽い」「小さな」ものではなく、もっと社会のシステムの内部に深く組込まれたものではなかったか。
 衝撃とともに深く頷いた一節。
 「子供の目を持たない大人は十分に成長した大人とはいえないのだ」(『シレジアの白鳥』119pp.)
○Sarband DANSE GOTHIQUE: Musicy by Satie & Machaut; JARO, 2000, Germany
Sarband  クラシック音楽は普遍的価値を求めるのだが、その求め方にも二つの様式があるようだ。普遍的価値を「一つの価値」として、すべてを強引にある仮想の価値体系に収束させようとするもの。さまざまなことなる価値観/体系のなかに共通して流れる「なにか」をあぶり出そうとするもの。もちろんこの二つは明確に別れるものではなく、両極端の間に両者の比率は無数のグラデーションを描く。古楽はそうしたクラシック音楽のあり方にいわば直角の展開をしようとするものともいえるだろう。これは上の分け方に従えば一見後者に見える。が、表面多様性を尊重するその底には頑強に一つの価値を求める姿勢が透けてみえる気がする。あるいはそれはクラシック音楽が全体として理想とする仮想の価値体系ではなく、このバンドないしバンドのリーダーである人物が理想とする体系であるのかもしれない。問題はその人物が己の理想を個人的な理想とは考えず、これぞ普遍とみなしているけしきが見えることだ。

 午前中、PTA運営委員会。今日は結構いろいろな話が出たうちで、一つ印象に残ったのは、近くのビデオ屋の会員カードの話。運営委員の一人が先日近所のビデオ屋にいたところ、顔見知りの中学三年の子(性別不明)が、あなたのカードでは延滞料が3万円あると言われて泣いていたという。どうやら学校でカードを紛失ないし盗まれ、誰かがそれを使ってビデオやCDを借りたまま返却していないらしい。しかもそのカードを後で密かに元に戻しておいたので、本人は使われたことに気がつかなかったのだ。そういう実例が多いらしく、最近別の委員がやはり自分のカードが見つからないので連絡したところ、応対した店長が番号を訊いて、そのカードを止める処置をとったという。ビデオ屋の会員証といえど、金が絡むものであれば、銀行のキャッシュカードやクレジット・カードと同様な扱いをしなければならないということだろう。

 それに付随して思うのは、この場合、店側にも落ち度があるのではないか。返却予定日に返却されない場合、確認するのは貸した側の責任と言える。延滞料が3万円にもなるまで放置したことは、賃貸契約から言えば違反ではないとしても、道義的責任はあるだろう。また、多額の支払いが生じる可能性があるカードを、未成年者に発行していたことも発行側の責任が生じると思われる。

 昼食、カレーの残り。

 iMacで仮想メモリを切ってみたら、Nickey も問題なく使える。

 皆がスイミングに行った隙にマーティン・ヘィズ&デニス・カヒルのインタヴュー起こしの続きをやろうとしたら、なぜかMDがブランク・ディスクになってしまっている。聴直しが多いためにトラックマークをつけようと書込み可にしておいたのが裏目。しかし、いったい何故だ。

 アップルの Tech Exchange を当たってみると、iBookのバッテリの使用可能時間が短くなっているのはやはりバッテリの寿命であるらしい。アップルの専門店に行けば山積みで安く売っているという記事もあるので、ちょっと当たってみよう。

 Horon Linux の特別版が収録されているというので、久しぶりに "MacLIFE" を買ってきてもらう。

 夕食、釜揚げ饂飩、巻繊汁、蜜柑、栗の甘露煮。

 今日のような底冷えのする日はこういう食事が何ともうまい。
 夜はKがとっている『イングリッシュ・ジャーナル』の付録のCDを聞きながら、溜まっていたディスクの入力。リスニングの訓練。

2001年 1月 21日 (日) 晴れ。

 夜半に雪は止んでいたらしい。明け方はまだ雲があったが、8時過ぎには日が出て、あとは快晴。5センチほど積もった雪はどんどん溶ける。子供たちは朝食を食べると雪掻きと称して飛出していく。

 朝食、巻繊汁残り、ブルーベリィ・ジャムを塗ったロール・パン、コーヒー、グレープフルーツ・ジュース。

□池内紀「ドイツわらべうた考」1975, 牧神/シレジアの白鳥, 1978.11.01
 ドイツと冠してはいるが、ドイツのわらべうたについて考察した部分は、ドイツで19世紀に大量に現れたわらべうた詞集についての部分で、ほとんどはわらべうた一般についての考察。わらべうたを一般の民謡と区別し、民謡が様々な時代の制約を受けて堕落していくのに対し、わらべうたは子どもたちの「保守性」により、強靱な生命力を維持していると説く。デジタル・ゲームとネットワークの普及により、わらべうたそのものの存続が危うくなっている今の時点から見ると、いささかナイーヴに見えないこともない。ただ、19世紀、やはりわらべうたが滅びようとしているとして懸命になって記録した人びとの努力が、実際にはわらべうたが備える適応能力によって無駄に終ったことは興味深い。わらべうたは果たして[この]時代の変化にも対応し、生きのびることができるだろうか。

 それにしてもわらべうたの生命力へのこの盲目的ともいえる信頼は、どこから生まれているのか。その生命力が、「民謡」のような変身能力からではなく、変化への耐性ともいえる形の一貫性ないし不変性から来ているらしいのは、やはり逆の形ながら書かれた文字への信仰によるのではないかとも思われる。
 とはいうものの、この一篇は、わらべうたへのオマージュとして、口誦文化を文字に定着させようとする努力の愚かしさを容赦なく暴きたてて見事。

 昼食、豚バラ白菜蒸煮、ご飯、蜜柑。

 田無と保谷両市が合併して今日から「西東京市」というのが生まれる。その新市庁開所式で、市長代理が、子どもたちが生まれたことを誇りに思えるような街にしたいと挨拶したという報道。「西東京市」などという名前に誇りなどあるのだろうか。

 Amazon.co.jpから先日注文したもののうち、『ムーミン』の文庫着。注文から三日目。これでは普通の書店は勝負にならない。と思わせるための分割出荷だろう。

 昼食前から始まった「都道府県対抗駅伝・男子編」の中継をゴールまで見る。会場は広島。1区のラスト・スパートの掛合いは見物だった。それにしても駅伝はちゃんと実業団も活動しているのだから、ラグビーとか野球とかあるいは体操やバレーボール、アイス・ホッケーとかが衰退したのは、単に企業がスポーツから手を引いたというだけではないのだろう。

 午後、チーフテンズ。ちょっとふんばる。

 夕食、かやくご飯、昼間の豚バラ白菜蒸煮の残り、厚揚げ、蛸、蜜柑。

○ZEELLIA; Chuckweed Productions, 1998, Ukraina/Canada
ZEELLIA  恐るべきコーラス・グループ。カナダ在住のウクライナ人女性によるグループとのことだが、ハーモニーの組立てが「西」ではない。異様な美しさだ。どこか「ずれている」と感じるのだが、ハーモニーそのものとしては確かに合っている。そして東欧によくあるように、フレーズの末尾が急に下がって終ったり、いきなり一人がとんでもない高音に金切り声をあげてみたり、コーラスの形そのものも「西側」の整った、大人しいものではない。ここにはどこか原初の響き、ワイルドでなおかつ崇高な響きがある。曲によって付くフィドル、アコーディオン、クラリネットなどのバックも、伴奏やバックというよりはこのコーラスにあるいは拮抗し、あるいは持上げ、あるいはぶつかってゆく。これがウクライナの「普通」の音楽とすれば、ここにもまたとんでもなく豊饒なものがあるはずだ。ベラルーシといい、スラヴ系の音楽にはどこか異次元の趣がそなわる。グループの名前は「薬草」の意。

 夜、入浴後、『CDジャーナル』の記事を一本書く。Spaccanapoli の Real World 盤。
 11時過ぎ、仕事部屋でこげ臭い匂いがするのだが、原因不明。

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