大島教授の[暖蘭亭日記][2001年 2月 12日 (月)〜2001年 2月 18日 (日)] [CONTENTS]

2001年 2月 12日 (月) 曇り。

 9時起床。
 朝食、グレープフルーツ・ジュース、ツナ・トースト、じゃが芋と玉葱のバター炒め、コーヒー。

 Mとの約束で、雑木林への入口の立ち木を見に行く。先週の自然観察会でヨコヅナサシガネがいたのが見つかったところ。同じところに同じように三匹、縦に連なってじっと留まっていた。
 帰ってからAmazon.comに行き、チーフテンズのビデオ3本注文。
 Kが西武の通販で足元用の遠赤外線によるヒーターを見つけ、注文。

 昼食、薯蕷入り蕎麦、茶碗蒸し、蜜柑。

 午後、確定申告の準備。

 夕食、ロール・キャベツ、鯵の押し鮨、ご飯。鯵の押し鮨はHのリクエストで生協で注文していたもの。

2001年 2月 13日 (火) 曇り。寒。

 朝食、グレープフルーツ・ジュース、バナナ、ブルーベリィ・ジャム・トースト、コーヒー。

 先日買ってきたプラスティックの籠で米を磨ぐと、米自体は痛みが少ないかもしれないが、一方汚れはなかなか落ちない。考えてみれば当然で、米粒に対してやわらかく接すれば、米粒についている汚れも落ちにくい。竹ならばまた話は違うのかもしれない。おかげでひじょうにたくさん水を使う必要がある。時間もかかる。ので、結局ステンレスの籠にもどす。

○Lia Luachra TRAFFIC; Malgamu/Music Plant; 2000/2001, Ireland
Lia Luachra  シークレット・トラックの一曲めはフィドル・ソロのスロー・エアなのだが、二曲目の意図がわからない。今風の打込みやキーボード・オケにブラスまでそろったクラブ風サウンドに気の抜けた掛け声が入ってきたかと思うと、マンドリンがジグ風のメロディを奏でる。こういうこともできるんだよ、あるいはやりたいんだよ、ということか。確かにマンドリンはちょっとおもしろい。

 ジョン・ヒックスのオリジナル・ソングがいっそブリティッシュ・フォーク風で、インスト曲にもアイリッシュだけでなく、ユダヤ風味やギリシアの曲が入っていて、洗練されてきた。蛇腹もかなりだが、マンドリンが全面的に活躍するのはプランクシティでのアンディ・アーヴァインなど連想させる。とはいえ、むろん懐古趣味ではなく、この四半世紀の痕は明らかだ。ヒックスのヴォーカルはアイリッシュの男性には珍しい押出しの良いもので、ポール・ブレディの後継者と言ってもいいかもしれない。ルナサやキャリコとは別のタイプの若手のバンドとして、ダヌゥなどとも合わせて、この方向性は新たな動きではある。
○La Grande Bleue KOKTEL MUSIKA; Buda Musique, 2000, Mediteranea
La Grande Bleue  フランスの打楽器奏者 Jean-Baptiste Lombard が中心となったバンドというよりはこの人のソロ・アクトと言うべきだろう。地中海の音楽ではあるのだが、おそらくこの人は北の出身ではないか。使っている楽器も曲にもなじみはあっても、感触が違う。地中海は案外乾いているもので、あの風景同様音も対称が際だつところが多い。これは個々の音にもアンサンブルにも適度の湿り気がゆきわたっている。北の感性の代表はジャズで、マイナー・コードと地中海的メジャー系のメロディの対照[10]などは対照そのものを内部に吸収する。ハイライトはソマリアの曲をうたう[12]。バスと普通のクラと男性ヴォーカルの掛合いをバラフォンとウードが縦横に縫う。
○Ernst Reijseger & Tenore e Cuncordu de Orosei COLLA VOCHE; Winter & Winter/Bomba Records, 1999, Sardinia
Ernst Reijseger & Tenore e Cuncordu de Orosei  サルディニアの男性合唱とドイツのチェリスト、スコットランドの打楽器奏者のコラボレーション。人間の声のポリフォニーには魂を揺すぶる力がある。サルディニアの男声ポリフォニーのハミングからモノシラブルに移ってゆくコーラスにはとりわけ、原初の響きが響いていて、体が浮きあがる心地すらする。このドイツのチェリストもトム・コラやトリオロジーのチェリスト同様、従来の枠にはまらない音楽家で、真剣に遊んでいる。チェリストと打楽器の二人がサルディニアの伝統を基盤にさまざまに遊んでいる気色なのだが、見事なのはサルディニアの側が妙に伝統にこだわることなく、自在に遊んでいること。合唱だけでなく、ジューイッシュ・ハープやハーモニカを操る人の柔軟さには嬉しくなる。聞きどころは多く、冒頭の合唱が入ってくるところや10分を越える伝統音楽による即興の[05]、ジューイッシュ・ハープの活躍する[06]、チェロ、合唱、打楽器の三者が丁々発止とわたりあうタイトル・トラックの[07]。チェロ奏者と合唱隊は個々のアルバムもあるらしいが、これを先に聞いてしまうとひょっとすると順番が違うかもしれない。

 昼食、ロール・キャベツ、ゆかり、ご飯。

 午後12時半からPTA運営委員会打合せ。2時半過ぎに散会。やけに疲れる。
 シュガーケインのアンソロジーCD。fRoots3月号。

○Oller & Co MONDEOLINO; Arion, 1999, France
Oller & Co  ミュゼットの流れを汲むのだろうか。フランスのダイアトニック・アコーディオン奏者。曲により、ギター、クラリネット、フルート、それにアラブ方面の打楽器がつく。クロマティック・アコーディオンも3曲入っている。細かいフレーズをスピードに乗せて弾きまくるのでは当然なく、センスで聞かせる。曲によって笛にリードを任せて伴奏にまわるあたり、なかなかのもの。テクニックに不足があるわけではない。クリスチャン・バッハの曲をダラブッカをバックに弾く曲など、立派にクラシックを脱却している。ハイライトは冒頭の二曲とトラディショナル曲らしいブーリー[08]。それにしてもアリオンは最近こういうディスクも作っているのか。
 夕食、カレー。俺が作ったのだが、ちょっと緩くなってしまった。

 終日文化放送BSのための選曲。夜、iMacの Toast でCDからトラック・リストを作ってゆくのを試す。妙なアラートがうるさい。マニュアルにはどこにもそんなことは書いていない。

2001年 2月 14日 (水)  曇り。軽く雪。寒。

 朝食、白菜・人参のスープ、グレープフルーツ・ジュース、ハム・トースト、コーヒー、バナナ。

○Various Artists ACCORDEON Vol.2: Musette/Swing/Paris 1925-1942; Fremeaux & Associes, 1993, France
ACCORDEON Vol.2  Vol.1 がどれなのかよくわからないのだが、まあそう重要ではない。タイトル通りのヴィンテージ録音集。名曲名演の宝庫。どれもこれも惚れ惚れする演奏ばかり。しかもいかにも名人芸をどうだすごいだろうという風にはやらない。そこがまたすごい。とんでもない名人芸をいかにもあたりまえにさりげなく聞かせる。さりげなく聞いてしまうが、いや待てよ、今のはなんだ、ともう一度聴直してのけぞるのくり返し。まことにありがたいアンソロジー。アコーディオンをメインにしたものばかりでなく、歌もある。こういうものも「シャンソン」に入るのかもしれないが、実にすばらしい。歌そのものと歌唱にこめられた感情がはんぱでない。少々大袈裟に言うと、こういう録音はどれも命がかかっている。78回転録音は一発勝負ということもあるのかもしれないが、おそらくは音楽そのものが今よりももっと「一発勝負」だったのではないか。こうして商業録音が盛んだったとはいえ、録音そのものはミュージシャンの活動のごく一部だったはずだ。いわば聞き手との命を張ったやりとりのごく断片がここにすくい取られている。ミュゼットのアコーディオン・プレーヤーには女性も活躍していたのは初めて知った。なぜかブックレットには解説の邦訳も載っている。これはまともな訳。
○Ottopasuuna SUOKAASUA; Texicali Rcords, 1995, Finnland
Ottopasuuna  蛇腹、フィドル、リード、ギター、ウィンド/打楽器の五人組。ヴォーカルなしのオール・インスト・アルバム。珍しく蛇腹が活躍する。打楽器はアラブのもの。ヴァルティナ流のアグレッシヴでもなく、タラーリ的なクラシック志向でもない。一番アイルランドやブリテンの同様の編成のバンドに近い。低音をバス・クラリネットが担当している。メンバーをよく見たら蛇腹は Kimmo Pohjonen であった。ソロとは違い、まともな音楽をやっている。曲の大半の作曲も担当していて、こちらも立派なもの。なんでソロがああなるのか。あれもかれの世界なのではあるのかもしれないが。フィリップ・ペイジのライナーによればこれはセカンドで、メンバーが二人替り、サウンド的にもかなり変わっているらしい。打楽器奏者はフィンランドのフォーク界でも珍しい存在だそうだ。今後に大いに期待。

□Nakaya, Ukichirou/中谷宇吉郎 中谷宇吉郎集第三巻:低温室だより; 岩波書店, 2000.12.05, 356pp.
 全体の基調低音は崩壊への道を進む国の状況、それに対して地に足のついた批判を物柔らかにくり返す著者の対比だ。著者の批判はイデオロギー的なものではなく、自らの自然科学の探究に照らしてのものである。したがって批判に無理がない。筋道を立てて考えてみれば当然のことを筋道を立てて説いている。典型は札幌に家を建てる際、寒国向きの日本家屋を考える一文だ。これは後に満洲に舞台を移して『寒い国』に結実する。北海道は明治政府にとっては満洲に相当するものだろう。植民地としての北海道がまがりなりにも「成功」したのは、一つには満洲ほど気候が厳しくなかったことと、統治すべき先住民が圧倒的に少数であったため、と考えられる。先住民の問題はこの際置くとして、気候に対する備えの点で、1940年代に中谷が試みたほどのことすら、明治政府成立後70年あまりの間、試みられた形跡がなかった。同様のことは満洲でくり返される。今回は相手が強大過ぎて、統治能力の欠陥があからさまに露呈してしまった。
 満洲での衣食住の条件整備の無策と「千里眼その他」で指摘されている「日本科学」は同根だ。そしてもちろんそれは現在にまで引き続いている。有明湾干拓事業もその一つではあるだろうし、プルトニウム・リサイクルもその一つだろう。「千里眼」にしても、戦時中の「アルミによる製鉄」にしても、必ずそれに賛成したり、便乗したりする「科学者」がいる。科学者も人間だから、したがって誤りや打算はつきものだから、それに対しても適切な監視システムがなくてはならない。

 昼食、カレーの残り、海苔、ご飯、蜜柑。カレーはHが具をほとんど食べてしまって、人参だけ。

 昼食中、Kさんから電話。ハインラインの原稿の件。全体的にはいいが、細かいところでいくつか気になったとのこと。文章そのものについて意見してくれる人は音楽業界にはいないので、こういう意見は貴重だ。同編集部のYさんが読んで、SFのことはわからないが、何を言いたいかはわかるとのことだったので、一安心。

 文中『異星の客』の邦題を誉めたら、鏡明さんがこの邦題はいかんから「異邦の地の異邦人」というようなものに改めるべきと言っている由。そんなものは長すぎで、帯のコピーにはなるかもしれないが、タイトルではない。

 『中谷宇吉郎集』第三巻の最後のエッセイ「南画を描く話」のなかに興味深い一節がある。水墨画のような簡単な絵や新聞の写真のような粗い点で描かれたごく小さな人の顔がそれと判別できるのは、見るものの頭の作用を利用するからだろうという。
 「要するに人間というものは誰でも、すべての物について、単にいくつかの要素を抽象した像だけを頭の中にもっているものらしい。それでそういう像を頭の中に再現してやれば、それで満足するのではないかと思ってみた。そうすると、観者を共同製作者とする為の一つの技術は、観者の頭の中にあるたくさんの線の中の一本をピンと鳴らしてやればそれで良いので、後は共鳴現象に似た作用で、観者が初めからもっている像が再現され、それが立派な絵に見えるものらしい。」――322pp.
 ホーガンが『仮想空間計画』の中で使った「夢」の現象、人はごく簡単な絵を自分で保管して完全なイメージにする能力があるという話もこれと同じだ。
 そしておそらく同様のことは、文章についても言える。小説はその典型で、文章によって人物や情景を読者の頭の中に生みだすには、この作用を利用するほかない。そしてフィクションだけでなく、エッセイや報告文のような場合でも、その作用は同じだろう。
 画家が一本の線で物を特徴づけることができるように、作家は一文で趣旨を読者に納得させる。はずだ。

 それにしても著者が名墨を入手するために書き、成功したその基となった「一世一代の名文」というのは読んでみたいものだ。

 Ar Bed Keltiek からCD四枚。

2001年 2月 15日 (木) 晴れ。やや雲あり。寒。

 朝食、秋刀魚の開き、豚汁(昨夜の残り)、薩摩芋の水煮、プチトマト、蒟蒻と蓮根の煮付け、ゆかり、ご飯。

 H、スケート教室で弁当持ちで早く出るため、K6時起き。その明かりで眼が覚める。
 歯科。右上奥に土台が入る。

○Brian Peters THE BEAST IN THE BOX; Pugwash Music, 1998, England
Brian Peters  コンスタントに質の高いアルバムを出してくれている。今回はインストに比重がかかっていて、歌もイングランドよりもアメリカン・トラディショナルに関心が向いている。とはいえ、うたの白眉はロビン・ウィリアムスンの名曲「オクトーバー・ソング」。イングランドのミュージシャンもひと頃のイングランドごちごちとはだいぶ様相が変わってきていて、ここでもスウェーデンの曲をとりあげたり、オリジナルではあちらこちら遊んでみたり、幅が広がってきた。とはいえ、そういう中に[02]のようなイングランドでしかありえないような曲が闊達に演奏されるのを聞くと、何とも言えずうれしくなってくる。ジョン・カークパトリックの息子のように、妙にケルトには色目を使わず、あくまでも根っこのところはしっかりおさえておいて欲しい。
○New Victory Band ONE MORE DANCE & THEN; Backshift Music, 2000, England
New Victory Band  1978年のトピック盤に1980年ベルギーでのライヴ録音を加えたCD復刻。こうしてあらためて聞いてみると、Old Swan とならぶみごとなバンドだった。アルビオンに触発されたイングリッシュ・カントリー・ダンス・リヴァイヴァルを支えた一方の雄だろう。面白いのはコー、アダムズ、ワトスン、ワーズワース の四組の夫婦がメンバーだったこと。ヴォーカルはヘレン・ワトスン、スージィ・アダムス、ピート・コーが交互にとっているようだ。歌はどうやらかつてのミュージック・ホールのものばかり。ライナーによれば大戦間時代に "Victory Band" なる複数のバンドからなるものがあり、SP録音を残している由。かれらのSP盤はたいていA面が当時の流行歌で裏面が著作権の切れたクラシックかトラディショナル曲のねじくれたなアレンジだった。インストのフロントはピート・コーのメロディオンで、クリスのハマー・ダルシマーがサブ。[14]以降のライヴはあまり音質が良いとは言えないが、もちろんそんなことはどうでも良い。どうやらケイリのライヴらしい。このライヴを聞いていると、イングランドのトラディショナル・シーン全体にとってカントリー・ダンス・リヴァイヴァルはひじょうに大きな推進力を発揮したのではないかと想像する。歌だけであったならば、今日の隆盛はなかったかもしれない。ファン層拡大の面だけでなく、例えばラッパ類の採用をはじめとするアレンジ面や歌を聞かせる場の確保という点でもずいぶん影響を受けているのではないだろうか。

 昼食、鰹角煮、薩摩芋水煮、プチトマト、白菜・人参のスープ(昨日の残り)、ご飯。

○Alain Pennec TURBULENCES; Keltia, 1999, Breton
Alain Pennec  あらためて聴直してみたら、なんと傑作ではないか。アコーディオン、ハープ、チャップマン・スティック、パーカッションの四人組。蛇腹やハープのソロもあれば、フル・バンドでスコティッシュのパイプ・チューンを堂々たるロックでやったりする。スティックでやっているのかこの曲ではハイランド・パイプも入る。やはりここでも鍵を握るのはリズム隊で、ドラムスも各種打楽器も操るこの男はかなりのもの。基本はむろんジャズ。東欧ロマ風の本人のオリジナル曲もあり、ロマ風蛇腹の代表として入れても良さそうだ。こういう異国風味もブレトン特有の煽るリピートも洒落たミュゼット風の曲も、どれもこれも聞物で、とび抜けたトラックがない替り、全体の質がひじょうに高い。知性と野性のバランスの妙。

 文化放送BSの選曲をCD-Rに焼く。一枚めはトラブルもなく終了したが、聴直してみたら2曲、ノイズが入っていた。一曲は盤面が汚れていたためらしい。二枚目は八割方入ったところでいきなりCD-Rがレコーダから出てしまう。終了処理ができていないので、当然プレーヤーにはかからない。どうやらぎりぎりいっぱい入れすぎたらしい。一曲削ってやりなおし。

2001年 2月 16日 (金) 晴れ。風は強いが、歩くと汗ばむ。

 朝食、ハム・トースト、バナナ、オレンジ・ジュース、コーヒー。
 昼食、麹町・モンドールでチキン鉄板焼き定食。
 夕食、キムチ鍋、蜆の酒蒸し、ご飯。

 家事を済ませた後、CD-Rでノイズが入っていたりしたものをMDにとりなおす。

 10時半のバスで出かけ、まっすぐ四谷の文化放送。Uさん宛CD-R三枚とMDを届ける。そのまま麹町まで歩き、ひさしぶりに「モンドール」。まだ1時前だったが、俺が入った後二人入ってきただけ。出ようとする時にまた二人入る。やはり以前と比べると客足は落ちているのだろう。新宿通り沿いにもいろいろな形の食事を売る店が軒を連ねている。たいていがすばやく食べられるものかテイクアウト。モンドールのようにじっくり腰を落ちつけて、ふうふう言いながら食べるところではない。こころなし、味も少し落ちている。というか、モヤシの味つけが薄くなっている。たぶん、親父さんが年を重ねたせいでは無かろうか。しかしあの夫婦は20年前と全然様子が変らない。

 四ッ谷駅まで歩き、新宿へ出てロマンスカー。駅前で図書館に行き、『火の記憶』を延長し、連絡のあった2冊借出し。飯島耕一の著作集も、アナトーリィ・キムの『リス』も、『辻まこと全集』もみな書棚にある。なかなかのものだ。ソフマップでCD-Rのブランク・ディスクを買う。帰宅3時。

 リスペクトからCDと資料。『ラティーナ』三月号。インタヴュー記事が松山さんのスティーヴ・クーニィ、白石さんのスワップ、俺のマーティン・ヘィズ&デニス・カヒルとそろう。岸和田仁氏の『火の記憶』の書評は少々あっけらかんとしすぎている印象。今日は往復ずっと読みつづけていたが、内容はおそろしく重い。それにしてもアフリカでは長いことヨーロッパ人を拒みつづけていたマラリアのような独自の風土病がアメリカ大陸には無かったらしい。逆にヨーロッパ人が持込んだはしかや風邪で、原住民がばたばたと死んでいった。一攫千金を夢みて渡ったスペイン人たちも多数が死んだわけだが、それでもアメリカの自然はその征服を止めることはできなかった。

 こうしたものを読むと、キリスト教、とりわけカトリックが行ってきた事跡には何ともやりきれなくなる。ヨーロッパにおいてもフランスの宗教戦争はどちらかと言えばカトリックが仕掛けたものだ。古い勢力が既得権益を守ろうとしたわけだから。カトリックの視野の狭さ、独善、権力との癒着、カネに対する執着が残してきた血と涙の軌跡は、たとえ数百年経っていたとしても、過去のものとして冷静に受止めるということにはためらいが残る。

 それにカトリックの行為の中で認めがたいものはなにも過去のものとは限らない。近年脚光を浴びたファシスト党政権との関係、フランコとの関係、あるいはアイルランドの人びとや文化に対する抑圧的態度。

 話はまた別になるが、新大陸を「征服」したスペイン人たちを後援したのがカール五世であり、その動機としてオスマンに対抗するための資金確保があったというのは新鮮な「発見」。江村洋の本に描かれたカール五世にこうした側面があったか、思出せないが、ヨーロッパ最強の君主はそれ故にまた致命的な弱点を持っていたわけだ。

 それにしても原住民を踏みにじりながら、その女性たちと交わり、自分の子どもが「メスティソ」になることを意に介しなかったスペインの「征服者」たちの感性は興味深い。それがラテン気質と言ってしまっては身も蓋もないが、後にやってくるアングロ・サクソンがこの点では頑な姿勢を崩さなかったのとは対照的。少なくともアングロ・サクソンたちは「インディアン」たちと交わり、混血児を大量に残すことはしなかった。

 そう、やはり話は「呪われた大陸」アメリカにそもそもの始めから組込まれた「運命」に関わる。血腥い形で征服されたインカやアステカにしても、その前の先住民たちを征服・収奪することで成立していたのだから。そして新たな征服者たちにしても、生き長らえてその果実を味わえたものはほとんどいない。

 歩きまわってくたびれ、何をする気力もなかったが、何とか文化放送BSのコメントを書上げ、夜、メールで送る。

 一緒に Tarika についてのメールもリスペクトに送ったら、10時半頃電話。相談して歌詞の英訳の部分は大意にまとめることにする。中野で中川さんたちと一緒に登川誠仁さんの新譜のミックスをやっているそうな。5月発売とのことで楽しみではある。

 夕食のキムチ鍋を見たHははじめ、辛そうで嫌だと言っていたのだが、一口食べたとたんとろけそうな顔になる。吹出す。蜆の酒蒸しも二人ともむしゃむしゃ食べる。

 リンク・クラブからのメールで英国の Axiom のCD兼MP3プレーヤーが出ているのでリンクをたどり、国内代理店のサイトを見てみる。厚さはちょっとあるが、重さが200グラムというのは軽い方だ。Axiom はあの同軸スピーカーのメーカーである。英国では携帯用CDプレーヤーでシェア1位の由。国内産プレーヤーのようにフィルターがかけてないので原音に忠実ということだが、これはもとの録音やミックスの良し悪しがもろに出るということだ。むろん、その方が好ましい。考えてみればポータブルでは海外産はほとんどないに等しかった。値段も2万ぐらいなので、食指が動く。

2001年 2月 17日 (土) 晴れ。

 朝食、クロワッサン2個、1個はブルーベリィ・ジャム、1個はストロベリー・ジャムをつける。ミカンジュース、コーヒー。ミカンジュースはやまゆりのビン入りのもので、ほんとうに蜜柑を絞っただけのものだが、実に美味。

○Various Artists TRAVELLIN' COMPANION 2: a Musical Journey to Italy; WeltWunder Records, 2000, Italy
a Musical Journey to Italy  ドイツの WeltWunder の国別アンソロジー/サンプラー第2弾。CNI関連のものが多い。他のイタリアもののアンソロジーと比べて特筆すべきところがあるわけではないが、90年代後半以降のイタリアの活況があらためてわかる。ナポリの Tammurriata di Scafati はあの Scappanapoli の母体になったバンドらしい。これは聞物。こうしてみるとモデナ・シティ・ランブラーズも少しも目立たない。まったく、ヨーロッパじゅうが爆発している。とはいえ、このシリーズの第1弾ポーランドのもののように、全く未知の世界が開けるスリルはないのはしかたがないか。解説が全部英語なのはありがたい。

 午前中PTA運営委員会と子ども110番の家運営委員会。

 昼食、ゆうべの残りのキムチ鍋、釜揚げ饂飩。キムチ鍋は白菜にキムチの味がしみこんでかえって美味。

 タッドから訳書。60年代ディランの曲を個別に解説した本。帯のピーターさんの推薦文が良い。
 Gospel Communications からジュリィ・ミラーのビデオ。

○Tarika SOUL MAKASSAR; Sakar, 2001, Madagaskar
Tarika  リスペクトから国内盤用にブックレットの対訳を頼まれ、送られてきたCD-R。前作 D は大好きだが、これもまた見事なアルバム。マダガスカルの住民の源流の一つはインドネシアはスラウェシ島なのだそうで、バンドのリーダー、ハニトラがスラウェシを訪れてその絆を身をもって確認したその成果が形になったのだそうだ。あいかわらずラディカルな詞を親しみやすいメロディと軽快なリズムに乗せているが、今回は前作に比べると歌に比重がかかっている。スラウェシの音楽そのものは聞いたことがないが、これは聞きたくなってきた。イアン・アンダースンのライナーも思いきり力が入っていて、これはちょっと微笑ましい。

 3時半、ミュージック・プラントのウェブ・サイトで時間を確認すると6時開演とのことであわてて家を出る。まっすぐ渋谷。On Air West でアイオナのライヴ。5時少し過ぎに着く。Celtic Online の藤田氏がいる。内田哲雄さんは今日はスタッフ。内田さんが、デンオンの安いDVDプレーヤーでパルが見られるという。単純に普通のテレビにつないで見られるのだそうだ。定価で36,000円の由。これは買いだ。2階に上がる。内田さんはビデオを回していた。途中休憩が入って3時間近いライヴで尻が痛くなる。客はずいぶんうけていた。

 後半にやったレパートリィで一番長いという22分の曲には退屈したが、後半は調子も出てきて、とりわけ最後のインストからリールのメドレー、アンコール3曲は楽しんだ。アンコールの2曲目でジョアンナが歌ったゲール語の歌はよかった。後で聞くとモイア・ブレナンからならったそうな。タッドが一緒になる。

 楽屋に寄る。トロイがカードの手品を見せてくれる。プロ級の腕。
 10時半からバンドと一緒に食事にいかないかとのざきに誘われるが、このところあまり調子もよくないので辞退して、タッドと近くのとんかつ屋で食事して帰宅。深夜バス最終に間に合い、帰宅0時。帰ってから明日の資源回収に出すために段ボールや新聞を束ねる。

 アマゾン・ジャパンから網野善彦『歴史を考えるヒント』。

2001年 2月 18日 (日) 晴れたり曇ったり。

 7時半に目覚まし。
 朝食、ロール・パン、白菜・人参のスープ、やまゆりのミカンジュース、コーヒー。

 子供会の資源回収。
 ARENA 2.0 FC と NewNOTEPAD Pro βが出ていたのでダウンロード。NewNOTEPADはさっそく試用するが、ページを移動しようとするとタイプ2エラーで落ちる。サポート掲示板に報告を書きこむ。夕方もう一度覗くと、同様の報告が他にもいくつか上がっていた。作者の環境では再現しないとのことだが、これだけ上がるとやはりバグだろう。報告している人が俺も含め、新版への期待を表明しているのが面白い。

 今週の書評欄の収穫。
□森まゆみ『森の人 四手井綱英の九十年』晶文社、評者・藤森照信。
□宮下章『鰹節』法政大学出版局、評者・池澤夏樹。
□今村啓爾『富本銭と謎の銀銭』小学館、評者・五味文彦。
□井田徹治『データで検証!地球の資源ウソ・ホント』講談社ブルーバックス。
 中でまずおもしろそうなのは『鰹節』。鰹節のもとはモルジブでそれを日本列島に伝えたのが沖縄・久高島の船乗りだったという。池澤夏樹が歴史という科目が昔からあまり好きでなかったのは、そこで教えられていたのが政治史、政権交替史、争いの歴史ばかりであったからだという。「政治の場では人間性のうち醜悪なる面ばかりが強調される」というわけだ。これも一面的な見方ではあるが、一方で事実ではある。中谷宇吉郎が書いていたような「千里眼」事件など、普通の歴史では出てこない。しかしああいう歴史こそ、学校で教えられるべきだろう。あるいは戦時中の「アルミ製鉄事件」。東条政権の愚かしさを軍事上・経済上のどんな失敗よりもはっきりと見せつけるものになるはずだ。

 一つ面白かったのはアラン・フォルサム/戸田裕之=訳『告解の日』新潮文庫の短評。(昌)の署名で、「著者は、これほどの小説を書いてローマ法王庁から抗議されなかったのだろうか」と言う。小説に何を書かれようと、単なるフィクションなのだから、どんなことを書かれても抗議などするはずがない。むしろ抗議することはそこに書かれたことに何らかの真実があると自ら暴露することにもなる。先日の柳美里の小説に対する高裁判決の問題点はここにある。

○Dona Rosa HISTORIAS DA RUA; JARO, 2000, Portugal
Dona Rosa  ポルトガルの盲目のストリート・シンガーの録音。録音自体はスタジオでされていて、リヴァーヴがかなりかかり、曲によりアコーディオンとブルガリアン・ヴォイスがつく。このプロデュース自体は失敗ではなく、ブルガリアン・ヴォイスの合唱隊を添えたのはみごとではあるが、最後にボーナス・トラックとして入っている路上でのライヴ録音を聞いてしまうと、これで一枚通して欲しかったと思う。かつての David Lannan、里国隆もそうだが、路上のシンガーの声は密度が高い。声自体の量感がずしりとつまっている。低すぎず高すぎず、まっすぐ真ん中を通りぬけてくる。マーガレット・バリィの声も連想する。そう、瞽女の声にも通底する。伴奏は友人がくれたというトライアングル一本。この楽器がこれほど多彩な表情で「メロディ」を奏でているのは初めてだ。本人の声と溶合い、絡みあい、声の力を増幅するというよりは、声が歌をうたう空間を織成してゆく。ジャンル的にはファドということになるのだろうが、そんなことはもちろんどうでもよろしい。唯一無二である。ライナーによると19世紀ポルトガルには放浪の盲目のバラッドうたいの伝統があった由。その伝統の継承者というよりは、本人の資質が特定の環境で噴き出たものではないか。あるいは伝統とは本来そうして噴き出たものの継続なのかもしれない。里国隆と同じく、ブックレットの中にある、広いコンコースの片隅に腰をおろし、トライアングルを支えてうたう姿の写真からたちのぼる霊気に粛然となる。
 ところでこれはこのレーベルのヴォーカル・シリーズの17枚めとブックレットにある。こうなるとシリーズの他のタイトルも気になる。
http://www.jaro.de

 昼食、海苔巻餅、朝のスープの残り、バナナ。
 午後、確定申告の仕上げ。
 夕食、豚肉、豆腐、椎茸、長葱、春菊の鍋、ご飯、厚揚げ。

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