大島教授の[暖蘭亭日記][2001年 3月 19日 (月)〜2001年 3月 25日 (日)] [CONTENTS]

2001年 3月 19日 (月) 晴れ。

 朝食、苺ジャム・トースト、白菜と人参のスープ、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。

 朝刊の週刊誌の広告で長野県知事田中康夫をこきおろす見出しが目立つ。あれは批判ではない。選挙の際の支持者や側近が辞めるのをとらえ、辞める側の言い分のみとりあげ、田中側の言い分は故意に無視している、少なくとも見出しにはそちらの方は欠片もないのだから、こきおろしだ。マスコミがいつもの「出る杭を打つ」のを始めたのだろう。東京都知事石原慎太郎への迎合と好一対。田中としても真価を問われるのはこれからだ。もっともこういう事態はある程度予測していたのではないか。選挙で担いだ勢力と後になって袂を別つのはある意味で必然的なところもある。ましてやその筆頭が地元の銀行の頭取では、早晩決別するのはむしろ当然だ。とまれ、この人の動向からはやはり目を離せない。
○Karan Casey THE WINDS BEGIN TO SING; Shanachie, Ireland, 2001
Karan Casey  THE WINDS BEGIN TO SING  期待たがわぬ納得の一枚。やはりこの人、今一番旬のうたい手だ。本当にとろけそうな声とうた。この上、何を言うことがあろうか。

 今日の寺田寅彦「相対性原理側面観」(改造、1922.12)も寅彦の頭脳の沈着明晰に感嘆する。アインシュタインが「自分の一般原理を理解しうる人は世界に1ダースとはいないだろう」という言葉に対して
 それゆえに私は彼の言葉から一種の風刺的な意味のニュアンスを感じる。私にはそれが自負の言葉だとはどうしても思われなくて、かえってくすぐったさに悩むあまりの愚痴のように聞きなされる。
(226pp.)
 なんとなれば、
 結局ニュートン自身が彼自身の法則を理解していなかったというパラドックスに逢着する。なんとなればかれの法則がいかなるものかを了解することは、相対性原理というものの出現によって始めて可能になったからである。こういう意味で言えば、ニュートン以来彼の方則を理解し得たと自信していた人はことごとく「理解していなかった」人であって、かえってこの法則に不満を感じ理解の困難に悩んでいたきわめて少数の人たちが実は比較的よく理解していたほうに属していたのかもしれない。アインシュタインに至って始めてこの難点が明らかにされたのだとすれば、彼は少なくもニュートンの方則を理解する事において第一人者であると言わなければならない。これと同じ論法で押して行くと結局アインシュタイン自身もまだ徹底的には相対性原理を理解し得ないのかもしれないという事になる。(225pp.)
 このことをアインシュタイン自身承知しているだろうからだ。

 歯科右下奥続き。もう一度薬を入換え。観音坂からバスに乗り、駅前。吉本家で葱味玉ラーメンで昼食。

 ロマンスカーで新宿。大江戸線で麻布十番。祖父様の墓参り。昨日誰か来たらしく、花は新しかった。折返して新宿。ハンズで歯ブラシを買う。まっすぐ帰宅。5時ちょうど。
 fRoots4月号。表紙はメルセデス・ペオン。Dirty Linen93号(4/5月号)。ラティーナ4月号。
 往復で東晃『雪と氷の科学者・中谷宇吉郎』北海道大学図書刊行会を読了。

□Highashi, Akira/東晃『雪と氷の科学者・中谷宇吉郎』北海道大学図書刊行会,1997.12.25, 249+3pp.
 中谷宇吉郎の直弟子の一人が宇吉郎の科学者としての足跡をたどった評伝。その業績、内容、科学としての評価、科学者間の関係などをリニアにたどる。文化人としての多彩な活動を含む宇吉郎の伝記としては太田文平の『中谷宇吉郎の生涯』(学生社、1977)の右に出るものはないとの評価(iiipp.)。

 本文は北大理学部創設と同時に教授に着任したところから死去までを扱う。科学者・宇吉郎の形成過程がほとんどないのはいささか不満。宇吉郎ははじめ原子物理学者として出発し、その方面の訓練を受けていて、北大理学部においてもそちらの研究を望まれていたはずだ。それが雪の研究に転ずるのは、当時の札幌では辺境過ぎて、原子物理学などまともにできる環境では無かったから、というのが本書の記述だが、その方向転換の過程と、雪の研究に原子物理学者としての訓練がどのような影響を与えたか、あるいは与えなかったか。その点に全く触れていないのは、伝記としては不備では無かろうか。

 その点を除けば、科学者・中谷宇吉郎の全貌はほぼ掴める。雪の結晶、凍上、戦時中の着氷と霧消し、敗戦直後の農業物理/国土の科学、電子顕微鏡を使っての雪の結晶、氷の単結晶、グリーンランドの積雪から氷への変化。国際的な雪氷学界との関係。後進の育成。

 著者がこれを書いたのは70代前半だが、叙述はまるで青春に宇吉郎のもとで研究に励んでいたころを思出しているかのように、その年齢を感じさせない。とはいえ、宇吉郎の業績を客観化できるためには、宇吉郎の死んだ年齢を越えることが必要だったのかもしれない。
 科学者としての宇吉郎の業績は、ノーベル賞を授与されるような性格のものではなかったにせよ、重要性とオリジナリティでは他のどんな研究に勝るとも劣らないものだった。そして何よりも科学者としての研究態度、科学とはどう言うものかを身をもって示した点で、並外れた存在であったことは確かだ。

 とはいえ、中谷宇吉郎という人物の全体像は科学者と文化人の双方があいまった、器の大きなものではなかったか。その点を十分にあきらかにするような伝記を読んでみたい。

 厚木市立中央図書館から借りたが、本そのものは県立川崎図書館の蔵書。

 夕食、小松菜・豚肉のみそ煮、ご飯、伊予柑。

 『中谷宇吉郎集 第六巻 アメリカ通信』着。
 東晃の著書で宇吉郎の科学者としての全貌がわかる、と思って着いたばかりのこの第六巻の山下一郎による解説を読んでいたら、戦後、低温研究所から追出されていた、という話が出てきて一驚する。親友だった茅誠司の証言が引用されている。こうした側面は東の著書には全く出てこない。 東の著書巻末の略年譜によると、1949年4月に低温研兼務を辞め理学部専任、とだけある。前年の8月、オスロで開かれた第4回国際雪氷委員会総会への出席が出発3日前に急遽中止になったことも伏線かもしれない。
 「理由は宇吉郎が書いたものによると『手続き上の問題で』とあるが、何者かがGHQに、中谷はアカだ、と讒言したためビザが発給されなかったのだという。」(東、164pp.)
 しかも中谷の後に低温研に招かれたのが、応用電気研究所教授、というのにもひっかかる。あるいは低温研内部だけでなく、北大全体の学内政治上の派閥抗争のようなものだったか。

 もう一つの「事件」、アメリカの陸軍研究所の委託研究が北大内部の「民主勢力」の妨害で北大ではできなくなった件は記しているのだから、低温研との関係も本来ならばとりあげるべきだろう。
 そう思いながら、戦後アメリカから帰国した後の宇吉郎の研究を描いたページをぱらぱらめくっていたら、ふと、宇吉郎は何よりも科学すること、実験をやり、考え、論文にまとめる(必ずしもこの順序とは限るまいが)ことやその周辺のことを楽しむために研究をしていたのではないかと思われた。
 「宇吉郎はなぜこの空像の研究にかくも熱心に取り組んだのだろうか。確かに空像の美しさとその変化に魅せられたのであろうが、著者には別の理由もあったように思われる。」(東、200pp.)
 絵を描くこと、科学すること、エッセイをものすること、すべて同じ、というところまで実際に宇吉郎が到達していたか、あるいはそもそも本人がそれを目指していたかは、わからない。しかし、無意識にせよ、それに近いことを実際にやっていたのではないか。そしてその姿が、ある傾向をもつ研究者たち、科学を「信仰」し、研究を「義務」や「儀式」としかとらえられない人びとの嫉妬を、深いところで買ったのかもしれない。

 東の著書の表紙には宇吉郎が晩年に描いた「雪花図説」が使われている。山下がこの図を初めて見た時のことを書いている。その迫力に思わず一歩下がったという。宇吉郎の画集はどこかで見なければならない。

2001年 3月 20日 (火) 晴れ。

 朝食、苺ジャム・トースト、炒り卵、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。

 午前中、学童保育保護者会総会。

 昼食、サラダ油で焼いた餅、小松菜豚肉みそ煮(昨夜の残り)、バナナ、牛乳。

 昼食後、大分アイルランド研究会報用原稿を仕上げて送る。

※今日の引用
 今では「ふさわしく」あること、しかるべきところに収まっている(たとえば、まさに本拠地にあるというような)ことは重要ではなく、望ましくないとさえ思えるようになってきた。あるべきところから外れ、さ迷いつづけるのがよい。決して家など所有せず、どのような場所にあっても(特にわたしが骨を埋めようとしているニューヨークのような都市では)決して過度にくつろぐようなことのないほうがよいのだ。
エドワード・W・サイード/中野真紀子=訳『遠い場所の記憶』
○Jungfruburen TVA FISK OCH EN FLASK; Weskpark, 2000, Sweden
Jungfruburen  TVA FISK OCH EN FLASK  こりゃあ、いい。ヘドニンガルナもガルマルナもへでもない。基礎体力が違う。あの二つは、伝統音楽を比較的最近に発見したロッカーたちが、伝統音楽どっぷりのメンバーを押したてて、いわばその力を借りて演っている。まあ、ジョン・カークパトリックを看板にしてアシュレィ・ハッチングスがやった MORRIS ON と同じ図式だ。こちらはどうやら伝統音楽が始めにあり、そのエネルギーをそのまま出したらアグレッシヴになってしまったけしき。それに抽斗も一つではなさそうだ。結構きちんとした訓練を受けているのかもしれない。それにしても、芯は一本通りながらもふくらみのある、こういう凛とした女性ヴォーカルはスウェーデンではある。

 さっそく宇吉郎にもどる。1949年に戦後初めて海外に出て、アメリカに行く、その紀行。シアトルに行くのに太平洋を一度に渡れないので、先ずアンカレッジを経由する。それも途中一度アリューシャンの島に降りて給油しなければならない。アンカレッジに降りてから急に地元の気象台を訪ねたいと思い、移民官に相談するとフェアバンクスへ行けとのことで行ってしまう。このあたりのフットワークの軽さと、こういう相談に応じる移民官がいたというのも、のんびりしたものだ。フェアバンクスに飛んでも行当りばったりにアラスカ大学を訪ねる。そこらの学生を捕まえて雪か氷に関心のある教授のところへ連れていってくれ、と頼んで連れていかれた先が、研究者として同じ書物に論文を書く仲間だったというのも宇吉郎の研究者としての大きさだろう。

 戦後海外に出られるようになるとすぐ出ていくことができたのも、戦前からの実績があったからこそだ。この辺が学内の嫉妬を買った原因かもしれない。しかし、矢野徹さんがアッカーマンの招待でアメリカに渡るのもたしか1950年頃のことではなかったか。アメリカ自体、そういう大らかさがあった時代なのかもしれない。レニー・ブルースやプレスリーが撃破ってゆくがんじがらめの体制がある一方で、こうした大らかさもあった時代、と言うのはどうだろう。あるいはこの大らかさの元は、自分たちの体制への揺るぎない自信であって、外国人に対する理解や共感があってのことではないのかもしれないが。

 夜、寅彦全集第三巻読了。

2001年 3月 21日 (水) 晴れ。

 朝食、ハム・トースト、プチトマト、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。
○Peter Nardini IS THERE ANYBODY OUT THERE?; Temple, 1985/2000, Scotland
Peter Nardini  IS THERE ANYBODY OUT THERE?  スコットランドの遅れてきたディランズ・チルドレンと言うところだが、オリジナルの発表年代から考えると、パンクがきっかけではあるだろう。うたう題材はスコットランドやノーザン・アイルランドなどのローカルなもので、ディランのフォームの有効性ないし普遍性の現れと言えないこともない。あるいはこれをフォークのスタイルと言うべきかもしれない。ラップをおもわせるしゃべりもある。音楽から言葉があふれてしまう。こういう歌を聞いていると、例えば日本のうたで阪神大震災や昨日6周年だった地下鉄サリン事件、あるいは今回のえひめ丸撃沈事件をうたった歌が一体どれくらいあるだろう。阪神大震災は「満月の夕」を生んだが、オウムに関しては何かあるだろうか。くるりとかあの辺はそういう歌をうたっているのかどうか。後ろ4曲はCD再発にあたっての新録で、ジョン・マカスカーなども入っている。

 今日の宇吉郎は「コロラド通信」。デンバー郊外に入植した日本人の農場を訪ねたリポート。この人は第2次大戦中にも財産没収の憂き目には会わなかったらしい。あれはカリフォルニア州に限られたことだったのだろうか。アメリカでの規模の大きさに呆れているが、見るべきところはしっかり見ている。結局農業の胆は土を愛するかどうか、の一点であることを主張する。
 興味深いのはこの前田氏の家族、特に三人の娘さんたちが学校から帰ってきて農場で働くことを紹介したすぐあとに続く文章。
 こういうとすぐ「封建的な親」という非難が出るかもしれないが、アメリカでは親を助けて働くことは、封建的ということになっていない。この子供たちは、いわゆる二世で、純粋な米国人なのである。日本語も少しは分るが、初めからアメリカ人としての教育を受けているので、日常生活は全部英語である。
中谷宇吉郎集第六巻 038pp.
 つまりこの時期、親を助けて働くことが日本では「封建的」とされていたらしい。この原稿が書かれたのは1949年。とするとこれがいわゆる「戦後教育」ということだろうか。あるいは「戦後民主主義」と呼ばれるものの側面の一つだろうか。とすればこれが一部の人びとの主張や指導によるものとは考えにくい。ここで宇吉郎が読者として想定しているのが、特定の「民主主義」勢力とは考えにくいからだ。本文の元になった原稿が掲載されたのは読売新聞や北海道新聞である。するとこうした文章は、当時の「世間一般」の考え方ないし思想的雰囲気を念頭に置いたものだろう。

 親を助けて家業で働くことを「封建的」とみなす雰囲気の中で成人した人びとが現在社会の指導層を形成しているわけだ。別に共産党の指導部だけではなく、実業家、官僚、政治家、みな同じだ。

 もう一つ気がついたのはコロラドでは冬、土地が凍ること。こういうことを考えたことは全くなかったので、意表を突かれた。当然コロラドから北、ワイオミング、モンタナ、両ダコタ、ネブラスカ、みな冬には土地は凍るだろう。アイダホ、オレゴン、ワシントンも同じだ。カナダが寒いことは何となく感得していたが、アメリカの北部も寒いことに気がつかなかった。

 昼食、Hと一緒にハンバーグ、キャベツ味噌汁、胡瓜の漬け物、ご飯。

 昼食をはさんでワトスン。昼食後、眠くなり、思わず寝てしまう。
 午後の後半、『CDジャーナル』の原稿を書き、夜、送る。

 夕食、豚肉・舞茸の中華風炒め、ご飯。

 夕食を食べようとしていたら、Nさんから電話。学童保護者会役員選出の件。案の定、抽選で当たったにもかかわらず受けないという人が二人いて、どう処置すべきかという相談。あとで再び電話。今度はKが出る。

 夜、Beaters の日記整理。

2001年 3月 22日 (木) 曇。

 朝食、秋刀魚干物、白菜味噌汁、茹でグリーン・アスパラ、ご飯、ゆかり。

○Various Artists EIST ARIS; Dara/Music Plant, 2000/2001, Ireland
EIST ARIS  ゲール語による歌のアンソロジー第2弾。ということは前作の評判や売行きが良かったのだろう。確かに優れたオムニバスだったし、今回も再録も含め、全体の質は高い。ぴか一はやはりポール・ブレディのゲール語による「ポンチャートレインの湖」であるところは動くまい。人間的にはいろいろ問題もあるのだろうが、とにかく歌のうまさではちょっと肩を並べられる人はいない。ポピュラー音楽界全体を見渡してもおそらくはヴァン・モリスンぐらいか。今回はスコットランドからカレン・マシスンが2曲入っていて、どちらも良いが、マイケル・マクゴールドリックの FUSED からの[07]がなかなか。アルバムで聴いた時には、カラン・ケイシィの歌が圧倒的で影が薄かったが、こうして別の環境で聞くと、まったく悪くない。もっともインストのアレンジの秀逸さもあるかもしれない。こういうものを聞いてしまうとチーフテンズがいかにも野暮に響く。同時代性は明らかに失っている。パディ・モローニはひょっとするとその点に気がついているのかもしれない。意外な収穫ではクラナド。FUAIM からの由だが、全然記憶にない。マイレート&トゥリーナにメアリ・ブラックが加わったトラックも聞物の一つで、ここのメアリの歌唱は彼女の全録音の中でもベストの一つ。トゥリーナとのコーラスに涙。それにしてもチーフテンズのトラックの後にドーナルがマイレート&トゥリーナとやった曲を続けて配するのは、編集側にある意図を感じないでもない。

 昼食、ささみチーズフライ、海老カツ、茹でグリーン・アスパラ、白菜味噌汁、細切り昆布の佃煮、ご飯。

 Hは12時半過ぎに帰宅。
 昼食を挟んでワトスン。

○Hege Rimestad WHITE ARROW; Grappa/Northside, 1997/1998, Norway
Hege Rimestad  WHITE ARROW  マリ・ボイネ・バンドのフィドラーのソロ。バンドのメンバーがマリも含めて参加。基本的に本人のオリジナル曲集ということを除けば、フィドラーのソロというよりも、ほとんどマリのアルバムのインスト版の趣。まあ、悪いわけではない。マリが中心にいる時とは当然焦点がずれるから、別の面白さが出る。アルバムとしての完成度は実際かなり高い。ただ、ちょっと臍が無いところも無きにしも非ず。散漫ではないが、この人自体の存在感が少々希薄なのと、全体を貫く芯が弱い。掴みどころが無い、と言おうか。ほんのもう一皮剥けて欲しい。

2001年 3月 23日 (金) 曇。

 朝食、苺ジャム・トースト、プチトマト、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。

○Simon Thoumire Three MARCH, STRATHPEY & SURREAL; Green Linnet, 1996, Scotland
Simon Thoumire Three  MARCH, STRATHPEY & SURREAL  サイモン・トゥーミアと読むそうだ。確かこの人BBCのヤング・トラディション賞受賞者だった。コンサティーナだが、スコットランドのコンサティーナは今まであまりいなかった、というかこういうアイリッシュ的な演奏をコンサティーナでする人はいなかったと思う。イングランドも同じだが、歌の伴奏や、モリス・チューンで、ジグやリールを細かい装飾音まできちんと演奏できる人は他に記憶が無い。ギターとベースの2人はどうやらジャズ畑の人らしい。リールのメドレーの途中で急にジャズになったり、またリールにもどったりするが、全然わざとらしさがない。ジャズと伝統音楽の交配としては、ブリテンではもっとも成功している。北欧の最高の成果に比肩できる。むろんコンサティーナ音楽としても最前衛だ。基本的に本人のオリジナル。もっとこの人、追いかけなければ。

 朝一番でウェブ・サイトのメンテナンス。リンク・クラブのサイトでサイト作成のページのマニュアルを熟読し、現象を勘案した結果、データを置くフォルダに日本語名を使っている部分があるのが怪しくなり、これをアルファベットに変えるとあっさり解決。さらにいくつか修正を加え、終日断続的にサイト関連の手入れ。今日は仕事できず。
 修了式にて、子どもたちはあっという間に帰ってくる。

 昼食、餅(サラダ焼き、海苔巻)、肉饅、餡饅、バナナ、牛乳、蜜柑。

 音友よりチーフテンズ、ゲラ後半着。
 午後、Hは友だちの家に遊びに行ったので、Mを連れて図書館。宇吉郎の伝記を返し、稲守道三郎の中勘助回想エッセイ集を借りる。3冊ほど、リクエストを出す。

 夕食、釜揚げ饂飩、茹でブロッコリ、伊予柑、蜜柑。

 入浴。Mは一人で髪を洗えるようになった。Kは9時過ぎ帰宅して、学童保護者会の件であちこち電話している。

2001年 3月 24日 (土) 晴れ。

 眼が覚めると8時45分。朝食、チーズ・デーニッシュ、アンパン、茹でブロッコリ、オレンジ・ジュース、珈琲。

 MacOS X着。

○Keith Hinchliffe ISLANDS: Guitar Interpretations of Celtic Music; KH, 1999, Britain/Ireland
 イングランドのギタリストのギター・ソロによるケルト系音楽の曲集。1stはキャロラン・チューンを集めたものだったと記憶する。まったくのソロで、多重録音もない。それはいいのだが、ほんとうに心から感動できる音楽はない。演奏者自体がほんとうに楽しんでいるとしてもその感情が伝わってこない。テクニック的には文句はないし、むしろかなり上手の方ではあろうから、ギターをやる人間にはそれなりに訴える部分もあるかもしれない。一つ感じるのは、ギターという楽器の特性を明確に認識し、それを活かす方向が聞こえないことだ。あるいは認識そのものがずれているのかもしれない。そこから解釈の角度にもずれを生じている。原曲の掘下げ、楽器に適用する際の実験が不足している。この人はディック・ゴーハンの COPPERS & BRASS を聞いているのだろうか。録音レヴェルがやけに高い。初めて気がついたがキャロランとニール・ゴゥは同じ17世紀の人だった。

 今日の宇吉郎の中で「日本のこころ」の一節。
 建国以来二千年、日本の国は、世界からすっかり隔絶されていた。もっとも中国や韓国とは、いろいろな交渉があったが、それはいわば身内の中での交渉である。広い地球の上では、いろいろの変化があり、興亡も栄枯も非常に目まぐるしかった。特に近世のいわゆる植民地獲得時代では、世界中がその荒波の影響を受けた。その時代における徳川三百年の鎖国は、世界の中で、一つの特異な文化をこの国に作り上げた。
『中谷宇吉郎集』第六巻、126pp.
 寅彦にもやはりあったが、寅彦や宇吉郎のような冷静な人までが自国の歴史についてこうした狭い認識を持つようになるというのが「歴史教育」の恐ろしいところなのかもしれない。もっとも鎖国についての認識はおそらく友人でもあった和辻哲郎の『鎖国』の影響と思われる。しかし鎖国する前は列島はいわば世界に向かって開け放たれていたのだし、鎖国したとて、政策と実態がどこまで一致していたか、常識から考えても疑問が生じる。ましてや徳川の幕藩体制は連邦体制でもなかったはずで、領国内の「仕置き」は基本的に幕府も容喙していなかったのではなかったか。外交や国防は別、との議論もあるだろうが、では幕府に「外交」や「国防」に相当する考えがあったのかどうか。黒船が来て初めてそうした考え方が生まれたのではなかろうか。

 多少とも歴史に興味を持つ人間ならば、当時であっても二千年間日本が「孤立」していたとは考えられないはずだと思うが、「常識」としてはそういう通念がまかり通っていたわけだ。そしてまたこの通念がいかに強力なものであったか、という一つの証左にもなろう。いや、過去形ではあるまい。網野善彦の奮闘があるにしても、この通念はまだまだ根強いのではないかと思われる。

 このエッセイで宇吉郎が指摘している「日本のこころ」、それはまた「江戸のこころ」と言換えてもいいように思うが、確かにその価値は認めるとしても、その価値がまさにここで宇吉郎が触れているように、現代の文明あるいは状況と相容れるものであるかどうかは難しい。どこかで必要であることは感じられるが、どこでどのように必要なのか、そしてそれを活かすためにもまた何が必要か、と考えてみると途方に暮れる。そうした考え方にもひっかかってこない「価値」なのかもしれない。宇吉郎流に言うならば、そうした「分析」では捉えられない何か、自然科学の対象にはできないもの、つまりこのあとの「茶碗の曲線」のモチーフである、分析によって性質が変わってしまうもの、土器の曲線や一本の樹全体の姿や枝振りと同じ類のものなのだろう。

 一歩下がって、その点が曖昧なまま現代文明に「日本のこころ」を活かそうとした場合、そこに付随するマイナスの属性、「甚だしい封建制、我の自覚の徹底的な欠陥など、いろいろ未開民族に特有な属性」(同書、同ページ)を濾過し、プラスの属性だけを「活かす」のはまことに難しい。しかもこの「日本のこころ」の価値の認識が、謬った歴史認識に基づいているとなるとなおさらだ。

 このエッセイ自体、敗戦後の日本人の大多数が、アメリカの生活を理想の生活と思いこんでいることに対するアンチ・テーゼとして書かれている。そのこと自体は妥当な態度だが、批判の基礎となる認識が実態とずれているとなると、ことはいささか滑稽味を帯びる。「目くそ、鼻くそを笑う」というと書き残したものから伺われる宇吉郎の性格や態度にはふさわしくないが、本質は同じだろう。
 宇吉郎をしてそうした羽目に陥らせた「歴史教育」は、やはり批判され、斥けられなければならない。

 もう一つ同じエッセイに、
「敗戦後、外地におけるかつての軍人たちの非行をあばきたてて、日本人の劣等性をいい気持ちそうに触れ廻っていた人たちが、終戦後はかなりあったようである」(同書、123pp.)
という一節もある。

 これもいささかバランスを欠く、と言わざるをえまい。ほんとうに「いい気持ち」で触れ廻っていたのか、という疑問がまず起きるが、事実そうであったとして、その人びとがそうした行為に駆立てられたその背景も考慮してほしいという点がある。つまり、それだけ軍人の横暴が激しく、それによって大いに被害を蒙った人が少なくなかった事実の裏返しではないだろうか。宇吉郎自身もそうした被害を受けていなかったはずはないが、あるいは戦時研究等を見るかぎり、軍事独裁政権の横暴の被害は比較的少なかったとも思われるあたりがまったく影響していないこともないだろう。宇吉郎ほど想像力があり、視野も広く、柔軟な考え方をする人であっても、見えないところは見えないということだろう。

 創元から『レディたちのフィンバーズ・ホテル』献本。アオラからサンプルCD。ハンガリーのジプシー・ブラス・バンドだそうだ。
 昼食を挟んでワトスン。

 昼食、浅蜊炊込みご飯、ささみチーズ・フライ、豆腐と葱の味噌汁、菜の花芥子和え、ご飯。

 午後、MacOS Xをインストール。ところがクリーンナップの段階でHDが空回りする音がする。結局いつまでもからから言っているので、強制再起動。option キーを押して起動しなおし、9.1 を立上げ、ノートンをかける。案の定HDに不良箇所発生で、修復はできた。再度MacOS Xをインストールすると、今度は無事終わる。はじめに登録アシスタントが出てきて、これで登録するとインターネットに繋がって自動的に登録がすむ。iTools の登録はしないでおく。

 MacOS Xの Disk Copy で複数ディスク・イメージのマウントができたので、Jamming を起動。ついでに Diary++ も起動して、今クラシック環境で書いているところ。どうやら問題なく、使えるようだ。Jamming もOK。しかしClassicとMacOS Xの環境に画面上全く差がないのは、ちょっと困る部分もある。ClassicでのWXGの制御パレットが、MacOS Xに行っても消えてくれない。

 動作は実にのんびりしたもので、おそらくはメモリが足らないのだろう。マルチタスクだと思ってどんどんアプリを立上げてゆくと、覿面にのろくなっていく。特にクラシックを立上げるとかなりきつそうだ。Classicに比べるとファイルのコピーや移動が結構めんどい。UNIXはこの辺はコマンドでばんばんやってしまうから、GUIは苦手なのかもしれない。ファインダの窓を二つ開けてやるのがおそらく一番簡単なはずだ。何がどこにあるのか、まだよくわからない部分が多いこともある。Jedit のMacOS X版と Omni Browser をダウンロード。Omni はなかなかすっきりした感じでよろしい。

 夕食、すき焼き、ご飯、蜜柑。

 夕食後はまたウェブ・サイト用ファイルのメンテ。メール・マガジン発行の準備。今日はアップロードはせず。

2001年 3月 25日 (日) 曇りのち雨。外はやや寒。昼過ぎから雨降出す。

 朝食、チーズ・トースト、バナナ、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。

 K出勤。
 午前中チーフテンズゲラ。

 昼食、鱈子、大根味噌汁、プチトマト、ご飯、海苔、ゆかり。

 午後もチーフテンズゲラ続き。前半読了。

 3時半出かける。紀伊国屋の南館を覗くが、htmlの本はあまりにたくさんあって、見る気を失う。Jedit の本は影も形もなし。新宿・アカシアでロール・キャベツ、KRBで夕食。

 ヒートウェイヴ最終公演。新宿リキッド・ルーム。当然のことながら満員。パンフを買う。伴慶充が別人のように冴えたドラムを聞かせ、山口さんの調子は必ずしも絶好調とは言いがたいが、しかしさすがに気合いが入っていて、山川氏のベースも、こちらは快調。曲間のMCはほとんど全くなく、ひたすら次から次へとうたってゆく。快なり。ハイライトは「ゆきてかえらず」。アコースティック・ギターで山口さんがうたいだし、かなりうたったところでベース、ドラムスが入って盛上げ、締めくくりはまた生ギター一本。理想の演奏。

 ヒートウェイヴ初期のメンバーだったらしいベースのワタナベケイイチが加わってアンコール二度。ベース二人入った編成の演奏も聴かせる。ベースが変わるとなるほど、音が変わるものだ。二度目のアンコールは2曲とも新曲。終わっても客の大半は帰ろうとせず、とうとうもう一度出てきて、最後は四人で一曲目をもう一度演奏して幕。活動停止ではあるが解散ということではないらしく、「今後のヒートウェイヴに期待しててください」と山口さんは言っていたから、大いに期待しよう。今日は早く帰りたかったので、早々に帰る。ロマンスカーがちょうどあり、終バスに間に合い、帰宅11時すぎ。

 往復で『寺田寅彦全集第四巻』半分ほど読む。関東大震災後のエッセイ、広島・愛媛で大きな地震があった直後でもあり、興味深い。例えば
 ただもし、百年に一回あるかなしの非常の場合に備えるために、特別に大きな施設を平時に用意するということが、寿命の短い個人や為政者にとって無意味だという人があらば、それはまた全く別の問題になる。そしてこれは実に容易ならぬ問題である。この問題に対する国民や為政家の態度はまたその国家の将来を決定するすべての重大なる問題に対するその態度をうかがわしむる目標である。
「地震雑感」『寺田寅彦全集第四巻』063pp.
 徳川時代に、大火のあとごとに幕府から出したいろいろの禁令や心得が、半分でも今の市民の頭に保存されていたら、去年のあの大火は、おそらくあれほどにならなかったに相違ない。
「鑢屑 十三」『寺田寅彦全集第四巻』070pp.
 もし百年の後のためを考えるなら、去年くらいの地震が、三年か五年に一度ぐらいあったほうがいいかもしれない。そうしたら、家屋は、みんな、いやでも完全な耐震火構造になるだろうし、危険な設備はいっさい影をかくすだろうし、そして市民は、いつでも狼狽しないだけの訓練を持続する事ができるだろう。そうすれば、あのくらいの地震などは、大風の吹いたくらいのものにしか当たるまい。
「鑢屑 十四」『寺田寅彦全集第四巻』071pp.
 Kがまだ起きていて、何だかんだとおしゃべり。就寝1時過ぎ。

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