大島教授の[暖蘭亭日記][2001年 3月 26日 (月)〜2001年 4月 01日 (日)] [CONTENTS]

2001年 3月 26日 (月) 曇りのち晴れ。午前中、小糠雨。

 昨夜遅くまでKと話込んでいたので、眠い。

 朝食、ロール・パンにハムとイチゴジャム、白菜と人参のスープ、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。

 昼食、秋刀魚開き、キャベツの味噌汁、ご飯、ゆかり、蜜柑。

 昼食後、プランクトンから電話。民音用ナレーションの件で、修正の打合せ。
 午後、チーフテンズゲラ。前半のゲラ、『CDジャーナル』・宛CD送付。

 夕食、Hの奢りで寿司。伊予柑。

 夕食時、ラティーナ・Kさんから電話。後でかけなおす。ディスク・ガイドの原稿依頼。一本はアオラからのハンガリーのブラス・バンド。もう一本は奄美の若干16歳の天才少女シンガー。

 夜、PTA会長のOさんから電話。市の教育委員会とかで編成している市内小中学校のボランティア活動調査研究委員会の委員として出てくれないかという打診。本部経験者がいいというのだが、仕事の内容が雲をつかむようで要領をえないため、もう少し詳しい話を聞かないと返事のしようがないと答える。

 夕食後、ウェブ・サイトのメンテ。メール・マガジンをまぐまぐに申請。

2001年 3月 27日 (火) 晴れ。

 目が覚めるとまだ8時過ぎ。が、今日は比較的寝足りた感じ。やはり睡眠は大事だ。

 朝食、ハム・トースト、バナナ、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。

○Tom & Barbara Brown WHERE UMBER FLOWS; Wild Goose Recordings, 2000, England
Tom & Barbara Brown  WHERE UMBER FLOWS  今や このレーベルは good English music の代名詞になってきた。この夫妻もそろって見事なうたい手で、毅然として気品あるイングリッシュ・シンギングを聞かせてくれる。シャンティ、バラッド、聖歌、それぞれに味わい深く、Chris Bartram, Keith Kendrick, Dave Webber 等のバックも手堅い。ハイライトは夫人による "The unquiet grave" と "Jordan"。

 Kと子供たち、映画を見に出かける。

 宇吉郎の「イグアノドンの唄」はやはり夭逝した長男へのレクイエムだろう。それにしてもこの第六巻に収められた敗戦直後から十年ほどのエッセイを読んでくると、この時期、宇吉郎としては辛い時期だったことがわかる。何より、本来のフィールドである科学の分野でのエッセイに見るべきものがない。アメリカからのものの面白さは、かつての『雪』をはじめとする、科学する歓び、楽しさを活き活きと伝えていたものからはほど遠い。低温研との関係の捻れはやはり相当にこたえていたのだろう。いわば科学のフィールドから追出された、その想いが例えば露伴に向かわせ、「古代東洋への郷愁」のような文章を書かせたと思われる。はっきり言ってこれは駄作だ。むろんこうした文章も書いていたことを知ることは無駄ではないし、他の文章の玩味にも貢献することではある。しかし、これ自体に何らかの価値があろうとは思われない。とりわけ前半、「仙書参同契」の時代背景の説明は素人の遊びでしかない。

 こうした文章や、「日本のこころ」に現われる歴史認識の浅さは、この人の本質的な透徹した知性とは相入れないように思われるのだが、寅彦にしても、そこが一つの限界なのだろうか。では、そうした限界が生まれることになった、その要因を知りたくもなる。もし宇吉郎の評伝に類するものを手がけるとすれば、そこが一つの胆になるはずだ。

 午前中、メール・マガジンの準備作業の続き。ミホール氏からメールで、誌名のゲール語発音表記が少し違っていたとのことで、すぐに訂正、タイトル変更も申請しなおす。

 昼食は皆でミロード上の杵屋。天ぷら饂飩定食。

 午後、チーフテンズゲラ。

○Noborikawa Seijinn/登川誠仁 美ら弾き(ちゅらびき):沖縄島唄6; Victor, 1975/1991.07, Okinawa
登川誠仁  美ら弾き  登川誠仁のファースト・アルバムにあたるはず。録音は1975年8月。共演・バックが嘉手苅林昌、照屋林助、知名定繁、知名定男という、豪華というか、奇蹟というか、まあ、しかしこの人にあってはこれが普通なのかもしれない。タイトル通り、華麗きわまる三線。沖縄の歌はもともとパワーあふれるものではないが、この人の場合、どことなく繊細な細やかさを感じる。とりわけ、嘉手苅が返しで入る歌ではその感じが強い。カチャーシーにのせてのこの二人の打々発止は、沖縄といわず、地球上の音楽の中で最高の瞬間をもたらす。ソウル・フラワーがよくやる「ヒヤミカチ節」はスタジオ録音でちょっと納まりかえっているところもあるにしても、曲自体の美しさはよくわかる。ラストのトラックは遊びをとったものだそうだが、最高の打楽器インプロヴィゼーション。嘉手苅がリード・ヴォーカルで、誠小がこれまた華麗な太鼓を叩く[05]は、惜しいことに録音が捉えきれていない。とてつもなく難しいことはわかるが。
 夕食、豚肉タレ漬け、無視キャベツ、大根味噌汁、ご飯、伊予柑。

2001年 3月 28日 (水) 晴れ。

 眼が覚めると8時45分。久しぶりにたっぷり寝た。さすがに体の調子もいい。宅急便で起こされる。ラティーナからレヴュー用のカセット。

 朝食、苺ジャム・トースト、炒り卵、バナナ、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。

 今日の宇吉郎では「温泉2」までだが、ここまで来るとようやくかつてのちょっととぼけた、力が抜けているようでさり気なく本質をついてくる文章が復活している。
 以上の話は、まじめな話か、ふざけているのか、ちょっとわからないであろう。冗談と思われる方には、これは、一つの笑話である。ひょっとすると本当かもしれないと思われる方はひとつ関心をもっておいていただきたい。
『中谷宇吉郎集第六巻』255pp.
 という文章が出てくる当たり、気持ちに余裕がある。
 その一つ前「身辺雑記」は、「古代東洋への郷愁」についてのいわば「弁明」の文章で、おそらく著者はああいう文章を書いたことについて自分でも少々面はゆかったのではないだろうか。あるいは面はゆいというよりも、あとで考えてみて、なぜ自分があそこまで露伴の説く神仙思想に入れこんだか、不思議になったのかもしれない。それが小宮豊隆に煽られたせいだ、という弁解となり、湯川秀樹も中学時代から老壮思想に親しんでいたという手紙の紹介という形になったと思われる。
 戦争末期の「悪夢のような日々」から敗戦のショック、さらに長男の死去、戦争後の混乱という中で、今まで自分を支えてきた考え方の根底を揺さぶられた。そして新たな基礎を求めて必死にあがいたその軌跡、ととらえられないこともない。

 この国の「固有」と著者が信じている価値観への「郷愁」も、あるいはそこから生まれているとも思われる。例えば、「身辺雑記」の中の
 「科学は良識の精髄である」というのは、私が戦争中からいい出した言葉で、東条首相のスローガン「科学の力をもって、不可能を可能ならしめよ」に対抗するスローガンである。科学は可能を可能ならしめるものであって、不可能を可能ならしめるものならば、それは魔術である。戦争中及び戦後の日本は、可能を可能ならしめればそれで十分であって、それさえ出来れば、今日のような惨めな国の姿にはならなかったであろうと思う。
(同書、237pp.)
 という文章も、この国の「惨めな姿」の到来を防ぐために何の貢献もできなかった自らの無力への苦い悔恨が滲む。

 昼前、MSI・S嬢より電話。バトルフィールド・バンドの新譜を McAlias と一緒に5月に出すので、バトルフィールド・バンドの歌詞対訳を頼むとのこと。

 昼食、焼き米粉、伊予柑。

 昼食をはさんで、チーフテンズゲラ。

 3時過ぎ、医者。先日の血液検査の結果。今日は老先生の方。尿酸値、コレステロール、中性脂肪は若干改善しているが、その他は悪くなっている。尿酸値、中性脂肪改善のための薬が出る。帰って体重をはかると80キロを切っている。何が悪いのだか。

 アマゾン・ジャパンより書籍2冊、カセット1本。カセットは『金持ち父さん、貧乏父さん』の原書のカセット版。Kの教材用。書籍はhtmlの解説本とみすずから出ている大西巨人のエッセイ集成の第一巻。ざっと見て、これはやはり4冊とも買わねばならない。

 夕食、豚汁、鮪刺し身、小松菜煮浸し、ご飯。

 夜、メール・マガジン用原稿。

 着いたばかりの大西巨人文選1冒頭の一篇「独立喪失の屈辱」と巻末の柄谷行人との対談を読む。「独立喪失の屈辱」は1946年4月に発表されている。この時、巨人27歳。九州で創刊した『文化展望』創刊号の、おそらくは創刊の辞にあたる宣言ではなかろうか。
 対談では柄谷の言葉に膝を打つ。
 他人のことを攻撃するならば、きちんと調べなければならないのは当然ですよ。実は、それで僕は論争が嫌なんです。僕がやっつけたいと思うような相手はくだらないやつである。しかるに、やっつけようと思うと、くだらないやつのくだらない本を丁寧に読まなければならない。
(『新生』452pp.)
 もう一つ引用について。
大西 (前略)(亡くなった大井廣介という人が)私の書くものは引用が多い、それを引用の形にせずに、自分が咀嚼した形で書いたらと言うから、私はそれは不賛成であると言った。第一に、誰それがこれを言ってるんで、自分でないということをはっきりさせるという意味で、引用したほうがいい。第二に、自分が言うよりも、先人がちゃんとしたことを言っているという場合は、それを引いたほうがはっきりしていい。(後略)
柄谷 (前略)しかし、引用にも何通りかあると思う。自分の意見を権威によって補強するための引用と、引用によって、例えばカントなりトルストイなりが新しく見えてくるような意外性をもった引用と。僕は後の方を好んでいるのですが、大西さんの引用はそういうものとも違いますね。(後略)
(同書、453pp.)
 これまた、深く頷く言葉なり。
 大西巨人の強靱な言葉・文章に久しぶりに接して、溜飲の下がる想い。『神聖喜劇』を読返したくなる。大前田軍曹が罪を得て雨の中連行されてゆくのを、主人公が独り見送るシーンが、何故かおもい浮かぶ。

2001年 3月 29日 (木) 雨。寒。

 朝食、ハム・トースト、バナナ、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。

 午前中、車の定期点検。

 昼食、ハンバーグ、豚汁(昨夜の残り)、ご飯、伊予柑。

 昼食をはさんでチーフテンズゲラ。一応上げる。
 MSIから資料。

 夕方、メール・マガジン原稿。プランクシティのサードをCDで聞返すが、マスタリングの失敗か、音が悪い。ドーナルのバゥロンがよく聞こえない。

 夕食、豚肉・ピーマン・筍の中華風炒め、小松菜煮浸し(昨日の残り)、ご飯、ゆかり。

 K、夜、学童保護者会の新旧役員の集まり。

2001年 3月 30日 (金) 曇ときどき晴れ。午前中、一時豪雨。

 朝食、ハム・トースト、バナナ、プチトマト、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。

 『中谷宇吉郎集』第六巻読了。

○Nakaya Ukichirou/中谷宇吉郎 中谷宇吉郎集 第六巻 アメリカ通信; 岩波書店, 2001.03.05, 361pp.
 敗戦と戦争の後遺症に苦しむ著者の姿が浮かびあがる一巻。選集であるから、あるいは実像とは若干ずれるかもしれないが、しかしこの時期、科学的エッセイの影が薄いことは否めないだろう。そういう文章を書くほうに頭が働かなかったわけだ。代りに露伴とその神仙思想にはまり込んでもいる。戦時中から敗戦後にかけての精神的危機を脱するために必要なことだったのかもしれない。1950年前後3年ほどのわが国社会の疲弊をここに見ることも可能ではあるだろう。当時わが国の最も優れた知性の一人であった宇吉郎でさえ、こうした「手続き」を必要としたと見ることができる。あるいは、そうした宇吉郎であったからこそ、この「手続き」の必要性を感得し、それを実際に踏むことが可能になったのかもしれない。そうして冷静さをとりもどし、「亡び行く国土」や「もく星号の謎」のような文章を書けるようになった。

 とすれば、当時わが国に生きていた大多数の人びとは、そうした手続きの必要性も見えず、また見えたとしても適当な手続きをみつけることができず、ただ戦争と敗戦によって負った心の傷を抱えたまま、ずるずると生きていった、そういうこともありえる。その大多数の人びとのなかに、当時のわが国の指導層、政治家、国家官僚、企業経営者も含まれる。

 おそらく戦争の、そして敗戦の最大の害悪はここにあるのではなかろうか。「亡び行く国土」で宇吉郎が指摘している、戦争によって国土管理がおろそかにされた結果としての国土の荒廃を合わせてみると、戦争と敗戦が直接に生んだ惨禍だけでなく、後遺症もまた実に莫大なものになる。そして間接的な後遺症の方が、実は根が深いこともありうる。いつか山中恒が指摘していた、現在にいたるまで続く戦時教育の後遺症も加えれば、間接的な害悪は直接的な害悪を遥かに上まわることになろう。

 冷静さをとりもどした宇吉郎が科学者として発言しようとした時、自らの科学的業績そのものよりも、社会において科学のはたす役割の比重が大きくなってゆくのは、戦争と敗戦がもたらしたわが国社会のひずみがそれだけ大きいものであったことの反証ともいえよう。

 午前中歯科。右下奥。根の治療の完了。レントゲン。

 昼食、Kが帰りに生協で買ってきた刺身(鯵・帆立て・ハマチ・鮪)と菠薐草お浸し、キャベツの味噌汁、ご飯。

 2時、家を出る。ロマンスカー。高田馬場で翻訳の打合せ。5時過ぎに新宿へもどる。ヴァージンを覗くが、ラティーナ用の奄美の女の子のCDはまだ出ていないようなので何も買わず。「王ろじ」のとんかつで夕食。

 さくらやと紀伊国屋を覗くが Jedit の本は影も形もない。そのままリキッドルーム。ソウル・フラワー・ユニオンのライヴ。ロビーでMさんに会う。ユニオンの単独ライヴを見るのは初めてなのだそうだ。終ってから訊いたら、すっごく楽しくてCD買っちゃったとのこと。音友・Sさんをみつける。終演後、ロビーでチーフテンズのゲラを渡す。

 ライヴそのものは初っぱなから全開で、相変わらず、中川さんのギターとドラムスの音が大きすぎるほかは、楽しいライヴ。ロックン・ロールのオンパレード。ハイライトは中間で奥野さんのピアノとリズム・セクション二人による「グリーンスリーヴス」を元にしたジャズ的即興から「平和に生きる権利」へのつなぎ。この奥野さんのピアノはすばらしかった。

 終演後、一応残ってヒデ坊に挨拶。おそろしく元気。一週間前に帰ってきて、今度またアフリカに一緒に行くのだそうだ。

 三連荘の初日なので、早々に帰る。帰宅11時半。
 往復読みかけの『寺田寅彦全集』第四巻を読み、日記の巻で該当箇所の近辺を読んだりして、就寝1時。

2001年 3月 31日 (土) 曇時々雨。

 9時過ぎ起床。K、新聞の教員異動特集を寝床の中で読み、大声で独り言。

 朝食、クロワッサンに苺ジャム、葡萄パン、バナナ、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。

 PTA会長Oさんと電話で連絡。市の小中ボランティア活動研究委員会の委員の件は引受ける。

 昼食、釜揚げ饂飩、茹で卵、菠薐草お浸し、プチトマト。

 アオラからCD-ROM2枚、ヴィデオアーツからCD1枚。アオラはリッカルド・テシの2枚。ヴィデオアーツはバーバ・マールの新譜。

 4時頃家を出る。まっすぐTLG。シャロン・シャノンのバンドでの東京公演。

2001年 4月 01日 (日) 晴れ。

 Kたちと一緒に駅まで出て別れる。

 昼食、ミロード上で舌麦トロ定食。そのまま新橋。しかし新橋では日曜で、酒屋は休み。やむなく地下鉄で銀座へ出て、三越の地下を見る。あまり品数はなかったが、黒糖酒があったのでそれと甘栗を買い、TLGへ。会場1時間前で、まだ扉は閉まっていたが、プランクトンのI君が出てきて入れてくれる。松山さんがいる。楽屋へ行くと、シャロンとジム、それにトムでない方のスタッフがいる。シャロンに酒を差入れ、甘栗を割って食べさせる。気に入ったようだ。ちょうどのざきが他のメンバーを連れてきたところで、リハーサルが始まる。リハそのものは一曲だけさっとやってOK。その後、会場付きの音響スタッフが、スピーカーから大きな音を出したりして試している。飲食のウエーター、ウエートレスたちは何やら飾りつけなどに忙しい。客席で松山さんとだべりながら、開場を待つ。

 今日も白石さんがいの一番に入ってきて、真ん前に座る。シャロンも気がついて、一曲曲を捧げていた。長嶺さんが来たので、リッカルド・テシの件で相談。五郎さんが戸田さんと来る。ライヴの後のシャロンと乾杯イヴェントで、DIAMOND MOUNTAIN SESSIONS に入っている "On the banks of sweet Ponchartrain" を日本語に訳してうたい、シャロンたちからも喝采を浴びていた。アコーディオンの女性がすばらしかった。

 昼間インタヴューしてもらったCOCOさん一家がいたので挨拶。やはり、シャロンは何も考えていなかったそうだ。

 栩木さんが来られていたので、茂木も交えて、あれこれ話す。メール・マガジンのことを相談したら、快く受けていただけた。 シャロンたちの演奏そのものは、昨晩とくらべても一層すばらしい。曲目はほぼ同じ。多少順序が変わっていたか。中でも圧巻はシャロンとジムの二人による「フィル・カニンガム・セット」で、今日のはほとんど入神の演奏。全体により大らかに、躍動感が増していた。今日はバンジョーも大丈夫で、メアリもしっかり弾いている。ベースのローンまでも踊っていた。最後はやはり会場総立ち。

 30分間を置いて、シャロンと乾杯。シャロンたちはカウンター前の座席の左側一番奥(ボックス席の前)の一画に陣取る。残った客は、ほぼ、前半分に収まるぐらいで、ちょうどいい数。タッドの司会で、まずネオ・ちんどんのバンド、かぼちゃ商会が演奏。その後、一回目のプレゼント・タイムで、女性陣のうち、シャロン以外の三人をタッドがステージに呼び、順に会場の客とじゃんけんをしてもらう。最後に勝ち残った人がプレゼントをもらう形。

 その後が五郎さんのバンド。フィドルのホンジさんが結局間に合わず、何でも今日知りあったというギタリストの人に臨時に入ってもらったそうだが、良い感じで合っていた。

 そしてシャロン本人がじゃんけんしてプレゼント・タイム2回め。成行きで、ツア・マネ兼サウンド・マンのトムまでステージに引張り出されて喝采を浴びていた。

 イベントそのものが終った後も、客席のシャロンたちの周りに人垣ができ、列を作って即席のサイン会。30分ほど、にぎやかに続く。最後にKさんがミュージシャンたちを楽屋に追い立てる。そのまま、のざきが率いてホテルに送るのにつきあう。ホテルはメリディアンの方。なかなかゆったりとした作り。家族連れの客が多いようだった。そのまま帰るつもりが、ロビーでミュージシャンたちと別れた後、みんなでご飯を食べに合流しようということになる。夕食を食べそこない、シャロンと乾杯の間、楽屋でバナナや甘栗を頬張っていただけだったので、ありがたく、TLGの入っているビルの中の日本料理屋で蕎麦、親子丼など食べる。まずはすばらしい公演だった。この分なら、順調にバンドが行けば、再来年、また来れるだろう。

 小田原行き終電で帰宅〇時半。

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