2001年 4月 23日 (月) 晴れ。風あり。
朝食、薩摩揚げ、胡瓜塩揉み、ご飯。
○Gordon Tyrrall A DISTANCE FROM THE TOWN; Fellside, 1998, England |
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19世紀前半に主に活動したミッドランズ出身の詩人 John Clare の詞にティロルが曲をつけたものを軸としたアルバム。クレアはフィドラーでもあり、自分で曲も収集していて、ここから数曲を選んでインスト・トラックとして構成もしている。これがすばらしい。ティロル本人はチェロとフルート、他にギターでリズムをつけていて、フィドラーが二人、Brian Peters がコンサティーナとメロディオン、Maggy Boyle がバゥロン。基本的にユニゾンで、アイリッシュの影響は明らかだが、むやみに突走ることはせず、かろやかに大らかに明るいイングリッシュ・チューンを聞かせてくれる。ほのぼのとして味わいがいい。ちょっと考えてしまったのは歌の方だ。もともとこの人はうまい部類ではなく、ハートで聞かせるうたい手だが、今回はオリジナルということもあって、いささか歌い込み不足のところが耳につく。曲そのものも、独自色を出そうとしてか、変に捻ったメロディやフレーズを使っていて、そうなると歌唱力の不足がめだつのだ。本来ならもっとライヴで歌いこんで練ってから録音すべきではあろうが、これはいわばコンセプト・アルバムのため、アルバム先行型になったそのデメリットではないか。とはいえ、ラストの曲などはこの人独特のゆったりとしてテンポで、ていねいにうたっていて、あるいはこちらの聞込み不足かもしれない。またMaggy Boyle 以下の Grace Notes の3人が見事なコーラスを聞かせていて、2曲ほど、ティロルも加わってのアカペラ曲は聞物。こういう人は一回聞いただけでは良さがわからない場合も多い。ところで、インスト曲は、もしこれが19世紀当時の音楽のスタイルをいくらかでも反映しているとすれば、イングランドのダンス・チューンに対するアイリッシュ・チューンの影響は、想像していた以上に古くからあったものと見える。曲自体は古楽にも通じるイングランド色の強いものなので、演奏スタイルとしてのアイルランドの影響はおもしろい。 |
朝刊「発言席」というコラムに寉見芳浩ニューヨーク市立大教授が「政経分離幻想を捨てよ」という題で書いている。
日本ではまだ国民の多くが「政経分離」に毒されて、政治改革なしに経済再興が可能だと思い込んでいる。
(中略)
日本の経済再興には、総理のすげ替えではなく、自公保政権の丸ごと清算が急務である。公的資金注入や合併許可と交換に腐敗経営陣の総入れ替えで金融界を浄化し、これを引金に政・官・産の大改革を進めるのである。
その通りだろう、と同意する。が、残念ながらわれわれはそうはすまい。パラダイムの変換は旧パラダイムの担い手が死んで初めて可能になるというクーンの法則はここでも生きている。金融界を浄化するのは誰がやるか。腐敗経営陣を一掃するとして、代わりの腐敗していない経営陣になりうる人物群が存在するのか。
「『2015年までに国内総生産で日本は中国に抜かれ、米欧に次ぐ世界経済力の三極の地位から脱落する』というブッシュ政権の予想」は当たるだろう。そもそもわが国が中国を経済的に上まわっていたのは、様々な条件で中国のスタートが遅れていたからにすぎない。まっとうに比較すれば、資源の点でも規模の点でも、列島のちっぽけな社会が広大な大陸社会とそのまま競争できるはずはない。また、真向勝負で競争する必要もない。そもそも
もう、一国単位の前世紀的な政治と経済運営では、必要な三大要素(資本・技術・情報)は日本には定着しない。
のだから、国単位でやれ勝ったの負けたの、と一喜一憂してすむおめでたい時代ではないわけだ。わが国は政治と経済の点ではすすんで列島の枠組みを捨て、地球のどこででも活動しようとする姿勢が、おそらく21世紀に生残るための唯一必要な要素だろう。そう、われわれはむしろ自ら進んで「ディアスポラ」すべきなのだ。わが「国」は地球なり。「日本列島」などという狭い地域に限定していてはいけない。
そしてそうした姿勢をわれわれがとる可能性はきわめて低い。残念ながら、現在の平均寿命まで生きたとして、死ぬ時には、列島社会の行く末に不安を抱いて死んでゆくことになるだろう。死そのものはおそらくもっと個人的な事件だから、その時になれば、社会の行く末などどこかへすっとんでいるかもしれないが。
むしろ死ぬ前に、生きているかぎりはこれから来るだろう「最悪」の事態をどのような基本方針、哲学のもとに生きるか、が問題となる。そうした社会の到来を防ぎ、到来したならばそこからの回復に努めることはもちろんだが、日常生活の中で直接それに関わる活動をする機会は多くない。むしろ、人として食い、眠り、表現する活動をくり返す、そこで何を目指すか。
それにしても公明党の節操の無さにはむしろ情けなくなる。もう少し骨がある集団ではないかと思っていたのだが、そうでもないらしい。自公連立に批判的な小泉が自民党総裁になる可能性が大きくなっても、連立そのものを検討する気配はない。何がなんでも与党にいたいらしいが、与党であることのメリットは、今現在の情勢でそれほど大きいのだろうか。万が一、今年後半ないし来年前半に民主党中心の政権ができた場合、公明党はやはりそちらの「与党」に擦寄るのだろうか。すると、公明党の「政策」とは「与党でいること」であって、それ以上でもそれ以下でもない、ことになりはしまいか。
そういえば、昨日散歩していたら、公明党の政治ポスターを掲げている家の隣の家に天理教分教会の看板がかかっていた。
昼食、クサヤ干物、キャベツの味噌汁、胡瓜塩揉み、ご飯。
English Dance & Song, Spring 2001。大島保克事務所から資料。
5時前から40分散歩。森山公園の脇を降り、一丁目の裏へ出て愛名の方へ降り、県道を渡って寺の横を上がる。尾根を一つ越えた向うの道を左に折れてゆくと、予想通り愛名緑地入口の公園に出る。陸橋の方へ登って、陸橋を渡らずそのまままっすぐゆくと、コンクリートの土留めが切れるところからは踏みつけ道が雑木林のなかに延びている。たどってゆくとすぐにかなりの急斜面で降りてゆき、畑に出る。畑の脇の道を降りて、二軒ほどの家がある路地に出る。右へ行くと、森の里へ行くバス道。愛名団地に入り、S氏邸前を通って県道に出る。道を渡ったところにある運送会社らしい敷地の反対側の出口に飲物の自販機があったので、喉を潤す。高知沖の深層水を原料にしたとかいうスポーツ飲料。学童に寄り、おやつ代を渡し、Mをひろって帰宅。お供は Ian Bruce。
○Ian Bruce HODDEN GREY; Greentrax, 1998, Scotland |
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いつどこで買ったか記録していなかった。こちらはティロルとは対照的に、ほとんどトラディショナルで、抜群の歌唱力でじっくり聞かせる。この人はシンガー・ソング・ライターとしてスコットランドでも最高の一人で、以前のアルバムでは自作曲が多かった記憶がある。歌うたいとしては、むしろソフトな語り口で、スコティッシュにしてもディック・ゴーハンに代表されるようなごつごつした耳ざわりではない。その奥にある確固とした芯が弾力性をもって響いてくるのが心地好い。"The jute mill song", "Will ye go tae Flanders", "The forfar sodger" など、おなじみの曲も、新鮮でオリジナルな歌唱だ。ミュージック・ホール・ナンバーらしい曲をア・カペラで聞かせるラスト・トラックが見事。自身のギターはもちろんだが、Catriona Macdonald、Ian Lowthian、Dougie Pincok、Malcolm Stitt のバックのサポートが贅肉のない、巧妙な、冴えた演奏を聞かせているのもすばらしい。この人のアルバムに駄作はないが、これはベスト作かもしれない。 |
夕食、ハム・トースト、ブルーベリィ・ジャム・トースト、バナナ、プチトマト、苺、飲むヨーグルト。
夜、トゥリーナのライナー。前に書いたものを改訂し、送る。
リスペクト・Tさんから電話。タリカの翻訳の件で、いくつか打合せと、疑問点など。さすがに鋭い。編集者として一流だ。
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2001年 4月 24日 (火) 曇。風あり。
朝食、秋刀魚開き、榎と若布の味噌汁、菠薐草お浸し、ご飯、ゆかり、オレンジ・ジュース。
歯科。右下奥土台が入る。96歳の男性が来ていた。やや耳が遠いぐらいで、一人で来ていた。そのまま駅前に出て、信託で年金一括振込。皮膚科でMの薬をもらう。一度家にもどり、銀行の通帳をもって再び駅前。健康保険料の分を振込む。
朝刊に重信房子の公判の様子の報道。起訴された案件のうち、無罪を主張するものは主張し、罪を認めるものははっきり認める。潔い。日本赤軍の過去の誤りを認め、解散を宣言し、今後は合法的活動を行うと言ったそうだ。裁判長による被告人認定質問では、「生きざまとしては日本赤軍兵士であり、世直しを求める市民」。やはり男はだめだ。とすれば赤軍は20年後のこの国の社会を先取りしていたことになるだろうか。自民党も田中真紀子を総裁に選ぶくらいでないと、変ったとは言えないだろう。予備選での小泉の圧勝は変化を求める党員の意志というが、党員自身は変っているだろうか。相変わらず既得権益の護持のために「変化を求めて」いるのではないだろうか。
総裁選後、橋本派がどういう巻返しに出るか。それを小泉がどう防ぐか。そこが見どころになろう。党幹部の人事と組閣で橋本派を完全排除できるか、またした場合、国会運営でどういう影響が出るか。公明・保守は小泉が何をしようと、黙ってついてゆくだろう。
小泉の立場に立って考えられる人事の一部。官房長官・田中真紀子。財務大臣・柳沢現金融庁長官。山崎幹事長、加藤政調会長、江藤総務会長。
昼食、アンデルセンでミックス・サンド(ハム・卵、トマト)、カマンベール・フランス、アーモンド・パイ、バナナ、オレンジ・ジュース。
○Martyn Byrnes MARTIN BYRNES WITH REG HALL, PIANO; Leader, 1969/1999, Ireland |
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ビル・リーダーのフィールド録音シリーズの一枚。50年代ロンドン・アイリッシュ・ミュージック・シーンの黄金時代を担った一人。ゴールウェイ州バリナスロー近くの村の生まれだが、フィドルそのものはマイケル・コールマンやフランク・オヒギンズの影響を受けているそうだ。確かに流麗で正確な装飾音はその流れではあるだろう。ケイリで鍛えられたのだろうか、適度なテンポ感がたまらない。ピーンと張った空気を抵抗もなく切裂いてゆくような、エッジの立ったフィドルでもある。音程を低めにとり、フィドルの音が変わる境界線の下でもかなり弾く。かなり肉は緊まっていて体重は結構ありそうだが、動きは敏捷。レグ・ホールのピアノは水準はクリアしているが、とりたてて言うほどのものではない。 |
夕食、筍ご飯、筍汁、鶏唐揚げ、菠薐草お浸し、筍煮付、蒟蒻煮付。
ご飯を食べたら、やたら眠くなり、風呂はやめにして、早々に寝るつもりでいたが、歯を磨いたら少し目が覚めたので、背骨を伸ばし、その休憩に読書。
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2001年 4月 25日 (水) 雨。寒。
朝食、鯖味噌煮、筍煮付(昨夜の残り)、荒挽きウインナ、ご飯。
○Todd Denman Bill Dennehy ...LIKE MAGIC; Aniar Recrods, 1995, Ireland |
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すばらしいアルバム。001症候群の1枚。パイプとホィッスルのデンマンとフィドルのデネヒィにジェリィ・オゥベアン始め、ギター、キーボード、バゥロン等が参加。ギターをはじめとするリズム・セクションもかなり先鋭的だが、なによりも主人公二人の演奏がみずみずしい。かろやかで華やかで、雪解けの渓流のよう。当然選曲のセンスも見事。ごく最近のアルバムと想ったらもう6年前のもので、これはルナサなどの先取りと言ってもいい。 |
○Sons do Muino NA CHAO DO SOUTA; BOA, 1997?, Spain Galicia |
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パイプ3人に太鼓2人のガリシアのバンド。ゲストとして女性ヴォーカル/パンデイロが3人。ぐっと渋めの、より土着の色彩の濃い音楽で、3本のパイプはむしろブルターニュを連想する。すばらしいのは女性たちの歌で、これを聞くとなるほどメルセデス・ペオンが出てきたのも無理はない。パーカッションなどはむしろモロッコのグナワにも通じよう。ブックレットやジャケット写真でも伝統的衣裳をつけているあたり、この辺が一つのコアなのだろう。 |
民音・Iさんから電話。プログラム原稿についての打合せ。
市教育研究所から次回研究会の案内。MSIから新譜案内。
夕食、鱈子、海苔、キャベツの味噌汁、胡瓜・大根の漬け物、筍煮付、ご飯。
夜、バトルフィールド・バンドのブックレット対訳。
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2001年 4月 26日 (木) 曇。
朝食、鯵の開き、大根味噌汁、茹でブロッコリ、ご飯、ゆかり。
○Bob Fox & Stu Luckley BOX OF GOLD; Fellside, 1997, England |
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デュオとして録音した2枚のアルバムから選んだ曲を一時的に再び組んで、再演するという変わった形の「復刻」。アレンジは変わっているが、歌の骨格は変わっていない。20年振りの再演ではあるが、リード・シンガーのボブ・フォックスの声やスタイルは昔のまま。ということは昔のままと思えるように微妙にかわってはいるのだろう。こちらの耳は変わっているのだから。"The two magicians"、"Bold Reynard the fox" のビートの利いたギターもあの頃のまま。しかし、この14曲は駄曲もないし、弛れた瞬間も一瞬たりとも無い。当時ライヴで錬りあげていった成果なのかもしれない。緊張感に満ちた、尖がった伴奏と、ゆるく、懐の深い余裕のヴォーカル。うーん、やはり良いデュオである。復刻だけではなく、新作を聞きたい。それにしてもこういう形のデュオがもっと聞きたいものだ。イングランドの歌を独自のモダンなアレンジで聞かせるうたい手が、あるいはその録音がなかなか出てこない気がする。あるいは、単に聞いていないだけかもしれない。ここのところ、アイルランドに気を取られていることは確か。このレーベルには時々あるのだが、どうも録音かミックスがおかしいところがある。 |
○Luka Bloom SALTY HEAVEN; Columbia / Sony, 1998, Ireleand |
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最新作の一つ前で、メジャーでの最後のアルバム。この前の ACOUSTIC MOTORBIKE は締まった良いアルバムだったが、それよりは落ちる。 |
昼食、ハム・トースト、茹でブロッコリ、飲むヨーグルト。
音楽出版社から振込通知。魂花時報60号。F&SF5月号。DCカード請求書。
4時過ぎ、ワトスン訳了。くたびれる。
○Ian Bruce FREE AGENT; Iona, 1994, Scotland |
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この人のアルバムとしては一番「ヘヴィ」な音づくりで、一番の凡作。リズム・セクション、とりわけドラムスがしょぼいので、バンドとしての音が締まらない。撃ちこみを使ったのもなど、さらにしょぼい。まるでカラオケだ。うたそのものは悪いわけではないので、プロデュースの仕方によってはもっと良いアルバムになっただろう。なるべくシンプルな編成、なるべくはギター一本の方がうたの良さが引立つ。一曲めは有名な曲でほとんどトラディショナルだが、後は全部自作。これが近作ではほとんどトラディショナルになる心境の変化は、何かあったのか、ちょっと訊いてみたい。 |
夕食、豚肉・ピーマン・筍の中華風炒め、ご飯。
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2001年 4月 27日 (金) 晴れ。
朝食、鯵開き、筍と若布の味噌汁、小松菜煮浸し、ご飯、ゆかり。
朝一番で NewNOTEPAD Pro β5.1 をダウンロード。試す。今度はOK。
○Andy M Stewart DONEGAL RAIN; Green Linnet, 1997, Scotland |
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相変わらず水準の高いアルバム。今回はトラディショナル曲が多い。リズム・セクションがついたバンド形式のトラックよりもシンプルな編成の方がやはり良い。この人の声の質もあるようにおもう。ドラムスと合わない。白眉はジェリィ・オゥベアンのギターだけのつく有名な "Queen amangst the heather" で、テンポを思切りおとし、歌にギターが寄添う形で、歌のうまさが引立つ。まあ、うまさがどうこうというよりも、歌詞とメロディが溶合うその瞬間ないし空間の一点がまざまざと眼前に浮かびあがる。背筋が寒くなる。オリジナル曲では "When you took your love (from me)" が良い。ジェリィ・オゥベアンのプロデュースは手堅いが、かつてのマーナス・ラニィほどには波長は合っていないようだ。 |
○Eric Bogle ENDANGERED SPECIES; Acmec Records/Greentrax, 1999/ 2000, Australia/Scotland |
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何とイアン・ブレイクがプロデュースで、演奏面でも多彩な楽器で支え、この人のアルバムとしては出色の出来栄え。シンガーとして足らない部分も見事にカヴァーして、そうなればもともとの曲の良さが映える。やり方次第ではこういうアルバムもできるのだというお手本。珍しくインストルメンタルもあり、起伏に富んだ構成で聞かせる。[11]は一種のスタトレ讃歌。この人もトレッキアンであったのか。デッドヘッドとトレッキアンはほとんど現代のフリーメイソンではないかとすら思えてくる。とはいうもののハイライトは冒頭 "Our national pride" とほとんど自身のギターだけでうたわれる "Jimmy Dancer"。前者はスポンサーの金によってオリンピックでオーストラリアの選手が得た金メダルと、オーストラリアに多い山火事/野火との戦いで命を落とした、5人のボランティア消防隊員を比べ、どちらが本当の「英雄」であり、どちらに本当に同国人としての誇りを感じるかをうたう。「喚声をあげる群衆が拳を突き上げて勝利の雄叫びを揚げるところに真の『誇り』など無い、永年にわたって黙って勇気を示す姿にこそ、われわれは誇りを感じる」。後者はオーストラリア英語の rhyming slang で "cancer" のことで、どうやらこれは自分の体験を歌っているらしい。やはりこの人は歌つくりとしては不世出の人ではある。 |
午前中、『CDジャーナル』の原稿を書いて送る。
昼食、焼き餃子、朝の味噌汁の残り、小松菜煮浸し(残り)、ご飯、ゆかり。
午後、PTA総会。いつも通りのしゃんしゃん総会。二つほど質問が出るのも例年通り。めでたくこれにて退任。
夕食、チーズ・トースト、ハーブ・チキン、甘夏、牛乳。
昼から断続的にバトルフィールド・バンド HAPPY DAZE のブックレット対訳。10時すぎにようやく終えて、送る。
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2001年 4月 28日 (土) 晴れ。
9時起床。朝食、クロワッサン(ブルーベリィ・ジャム・トースト)、ロール・パン、レタス、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。
医者に架電して薬をもらいに行く。汗をかく。
MOJO。
昼食、焼きそば、カマンベール・チーズ・アイスクリーム。
New York Review of Books に定期購読申込みのファックスを送る。
夕飯、麻婆同府、かき卵スープ、ご飯、苺。
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2001年 4月 29日 (日) 晴れ後曇り少し雨。
7時半前目が覚める。昨日よりは爽快。
朝食、ハム・トースト、バナナ、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。
朝刊、鈴木道彦訳『失われた時を求めて』完訳に対する鹿島茂の書評。当然井上究一郎訳と比較しているのだが、井上訳は部分の正確さを優先して全体の等価を犠牲にし、鈴木訳は部分の等価は犠牲にして全体の等価を優先している、という。まことに明解。その上で最後まで読ませることが小説として本来の機能を発揮させる提要であるから、として鈴木訳を上に置いている。が、これはむしろ、両者の訳を両方とも読んで、はじめて日本語訳としてこの作品を味わう体験は完成されると見るべきではないか。そして順番としては、やはり井上訳を読んだ後に鈴木訳を読むべきだろう。その意味ではこの両者の訳がこの順番で出たことは、天の配剤というべきか。
井上訳に「誤訳」が百ヶ所以上あると専門家が指摘しているというので、井上訳の価値を否定する文章を最近どこかでみた気がする。が、この言説はいささか当を得ないというべきだろう。「百ヶ所以上」という時、ふつうは千ヶ所とか一万ヶ所という意味ではあるまい。せいぜいが百ヶ所以上せいぜい五百ヶ所以内と見るのが妥当だろう。あれだけの分量のある作品を独りで訳し、しかも難解複雑で鳴る文章を相手にして、「誤訳」が百ヶ所以上五百ヶ所以内というのは、むしろ驚異的に少ない。しかもこの場合、「誤訳」が原文の解釈の差である可能性もあるとすれば、狭義の「誤訳」、すなわち批難さるべき根拠としての誤訳はもっと少なくなる可能性もある。
思うに、井上究一郎はやはり「詩人」であって、「小説家」ではなかったのではないか。プルーストの中の「詩人」に反応せざるをえなかったわけだ。プルーストは詩人であると同時に小説家でもあって、鈴木道彦氏は小説家としての資質を持っているのだろう。と言ってすぐに鈴木氏が小説を書くことで一家をなせるということではない。文章の生理として韻文に反応するか、散文に反応するかの違いということだ。
9時前のバスで皆で出発。まっすぐ新宿。高島屋の玩具売場でおふくろと待合せ。Hの誕生日プレゼント。Mもついでにすぐ横のディズニー・ショップでぬいぐるみを買ってもらう。
昼食中村屋に入り、俺はインドカリー定食。
出てから別れ、一人イシザワ眼鏡を捜すが、なんと日曜休日は休業。紀伊国屋の洋書売場に行くと、まだKと子どもたちがいたので合流。ポスト・ハリー・ポッターの評判が高い Eoin Colfer ARTEMIS FOWL があったので買う。Kは買物に行き、こちらは子どもたちを連れて帰宅。ロマンスカーで帰宅3時。
金が入ったので、さっそくAmazon.comで溜まっていたものの注文を出し、RootsWorld の定期購読を更新し、Fivetree に行ってフィル・ビア関係のCDを注文し、クラダに注文のメールを送る。
○Riccardo Tesi UN BALLO LISCIO (the Italian musette dance); Silex/Auvidis, 1995, Italy |
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19世紀に起源を持つイタリアのポピュラー・ダンス音楽復興の試み。このスタイルは今では古臭い、因習的なイメージが強いそうだが、ここに聞かれる音楽はもちろんモダンで粋、[15]のジャズ的展開のワルツは凡百のジャズなど足下にも及ばない。
ミュゼットというタイトルだが、クレツマーやロマのダンス・チューンにも通じる。このアルバムではクラリネットが活躍しているせいもあるかもしれない。マンドリンの Patrick Vaillant も、テシの目論見通り、クレツマーやロマ、ケルト系にもない、独特の清涼感を加えている。
テシはプロデューサーとして全体のプロジェクトとコンセプトの芯を通すことにもっぱら意を用いている。ここぞというところでは蛇腹を聞かせるのだが、人を驚かすような演奏は控え、他のメンバーを立てることのほうが多い。自分で弾いてもなにげないフレーズをなにげなく弾いて、かえって味わいが深い。 |
夕食、小松菜豚肉、ご飯、甘夏。
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