大島教授の[暖蘭亭日記][2001年 4月 30日 (月)〜2001年 5月 06日 (日)] [CONTENTS]

2001年 4月 30日 (月) 雨。

 9時前起床。
 朝食、ブルーベリィ・ジャム・トースト、バナナ、レタス、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。

○Enzo Favata Jana Project ISLA; Robi Droli, 1995, Italy/Sardinia
Enzo Favata Jana Project  サルディニアのサックス奏者エンゾ・ファヴァタのバンド。リッカルド・テシ参加のプロジェクトの一つ。他にギターと打楽器(メインはタブラ)。サックス奏者はパイプも吹く。曲はファヴァタとギタリストによるオリジナル。とはいえ、おそらく曲そのものは核になるメロディだけで、あとはメンバーによる即興。テシのソロはなかなか聞かせる。曲により、エレナ・レッダも参加。ただし、スキャット。どこまでがサルディニアのトラディショナルかはわからないが、地中海の匂い、ヨーロッパとアラブ・アフリカのどこかにある幻の都市の匂い。メンバー間の自由な交歓が核だが、全員が一度に演奏することは少なく、打楽器をバックにしたソロのやりとり。むしろクールだ。こういう地中海はあまり聞いたことがない。新鮮爽快。イタリアでもこういうものが出てくるのだ。

 朝刊に東大大学院の新領域開発研究科というところのコースの一部の入試でTOEFLとTOEICを英語の試験の代わりに採用するという報道。当然の動きであり、今後拡大してゆくだろう。もちろん、両者の受験料の一部なりと、入試受験料から減額すべきだろうが。

 同じく朝刊に小泉内閣支持率85%で史上最高との報道。まだ何の実績もない内閣を支持するとかしないとか、よく言えると思うが、それがこの国の大多数の人びとの反応様式ではある。日露戦争前夜即時開戦を叫んだり、国際連盟の脱退に快哉を叫んだ、その同じ様式というべきではないだろうか。

 自民党支持率も急上昇して33%になったそうだが、「無党派」の実態とは結局自らの信条や原則は何もなく、自分の利益になりそうにみえる方に着く、寓話の蝙蝠のような人間、ということになるのだろう。

 これで夏に衆参同日選を行なって自民党大勝利となると、橋本派が息を吹返し、結局来年の今ごろはほんとうに不良債権がにっちもさっちも行かなくなり、今度こそどうにもならなくなる、という可能性がますます高くなる。しかし、有権者の大部分はそこまでは考えていないのだろう。
 不気味なのはじりじりと円安が進行していることだ。輸出が延びて景気が良くなるという向きもあろうが、従来ならばこの水準の円安ならば輸出がずいぶん良くなっていた気がするのは素人考えだろうか。

 昼食、皆で、吉本家。葱・味玉ラーメン。

 雨の週末とて、駐車場はどこも満車。中央公園地下に入れる。ここはさすがにがらがら。

2001年 5月 01日 (火) 曇ときどき晴れ。

 朝食、早良西京漬け、ポーク・ウィンナ、大根味噌汁、和布キャベツ、蕪の漬け物、プチトマト。

○Kepa Junkera, Riccardo Tesi, John Kirkpatrick TRANS-EUROPE DIATONIQUE; Silex, 1993, Basque/Italy/England
TRANS-EUROPE DIATONIQUE  まさにヨーロッパの蛇腹三巨人の夢の共演。世代的にもおそらくほぼ均等に三世代にわたるのではないか。基本的に同じ楽器が、弾く人によってこうも違う音を出す。まあ、楽器そのものも微妙に違うのではあろうが、それよりも弾く人の違いの方が大きいはずだ。何よりも三人がそれぞれにたがいを尊敬しながら、楽しく遊んでいる。蛇腹はこういう楽しさを表現する点では一番の楽器かもしれない。[03]のホーンパイプの序奏を聞くと、ジョン・カークパトリックはやはり音楽家として一日の長がある。それにしてもこの変幻極まりないアレンジは、どうやって作っていったのだろう。

 9時過ぎ、駅前に出るが、横浜銀行のATMは長蛇の列にて入金は断念。無印良品にてペンケース(革製)、封筒、付箋、アンデルセンにてパンを購入。文庫を捜して有隣堂をふらりと覗くと結局4冊買ってしまう。宮崎市定『遊心譜』(中公文庫)、鶴見俊輔『戦時期日本の精神史1931〜1945年』『戦後日本の大衆文化史1945〜1980年』(岩波現代文庫)、桑原隲蔵『考史遊記』(岩波文庫)。

 鶴見のものは新聞広告で見て、まず実物を見ようと思っていたのだが、『戦後日本の大衆文化史』の「あとがき」をちらりと見て、即買うことに決めた。そしてよくよく見てみるとこれと『戦時期日本の精神史』が対になる本だったので、ついでに買うことにする。後者の加藤典洋による解説を読むと、やはり買ってよかった。
 一つ重要なのは、連続するこの二つの書物が『精神史 intellectual history』から『大衆文化史 cultural history』へと変化することだ。

 これは、思想の歴史と文化の歴史ということであると同時に、知識人の歴史と大衆の歴史ということでもある。(中略)著者が言うには、この二つを複眼的に見る一つの身体がなければ、近現代の日本の歴史はたどれない。しかしその複眼があれば、逆に一八六七年以降の近代の歴史は、単に近代史にとどまらず、この列島の古代からの「一筆に」描かれた歴史の繋がりのうちに、見えてくるはずである。
加藤典洋による解説より。同書、292-293pp.
 すなわち、戦後にあってこの列島の「精神」すなわち「文化」を形成していたのは「知識人」ではなく「大衆」だった、ということになる。この点から見ると、「戦後民主主義を標榜した知識人」が「日本」を堕落させたとする人びとの主張にはあまり意味がなくなる。

 一方で、高度経済成長を支えたのも、55年体制を支持したのも、そして今回、小泉内閣に史上最高の支持率を与えているのも、根本的には同じ現象、大衆文化の一側面と見ることもできる。そうすると、小泉内閣そのものの誕生が、大衆による55年体制の最終的な否定、農村重視・計画経済・上流下流理論の絶対視を特徴とする戦後のシステムへの訣別ということになるだろうか。現在の野党が「無党派」層の受皿にならないことははっきりしている以上、小泉流の「改革」がほんとうの意味での社会変化に結びつく可能性は否定できない。

 それにしてもその小泉が「否定」したはずの森内閣とまったく同じポストにつきながら、前内閣での自らの「業績」への反省・自己評価すらせず、そしらぬ顔で「改革」を口にする、扇保守党党首の姿は全くもって鼻持ちならない。もっとも小泉自身が、その森内閣を支えた派閥の長であったわけだから、本来小泉が「改革」を口にする資格はないはずではある。

 それにしても全くなんとかの一つ覚えで「雇用確保」しか掲げえない労働組合の頭の硬さ。ほとんど喜劇ですらある。それは結局資本主義システムへの寄生虫でしかないとは、寄生虫自身はついに気がつかないのか。しかも先日の連合独自のものと、今日の二つと、三つに分裂してのメーデー「中央大会」という体たらく。

 桑原の著作に接するのは初めてで、これは1907年から2年間中国留学した際、各地を旅行した日録。文中・巻末に著者が写した写真が豊富に収録されていて、これだけでも買う価値はある。あるいは今ではもう見ることもできないものも多いのではないか。

 宮崎のものは最後の著書となったエッセイ集。目次をぱらぱら見ていたら「和漢辞典 なぜないか」というタイトルが目に入り、さっそく一読。江戸後期から明治初めにかけて作られた三種類の書物を題材に、和漢辞典の試みを紹介している。特に明治に入って作られた2冊の書物は海外の文物の翻訳のための一種の虎の巻として作られているのには、やはり人間考えることは皆同じと思知らされる。畢竟和漢辞典が今日まで存在しないのは、その必要性を感じるのが翻訳を業とする者に限られるからだろう。

 表4見返しの文庫収録著作リストを見たら、この前に出た『東洋的古代』を買っていなかった。

 昼食、ハム・トースト、ブルーベリィ・ジャム・トースト、アンデルセンのチーズ・パン、アップル・パイ、牛乳、珈琲。

 昼食後、Eoin Colfer ARTEMIS FOWL 読了。読了直前、創元・Yさんから電話で、また長話。

 話題の一つは版面の読みやすさについて。読みにくいというのは活字の大きさの問題ではないが、読者は読みにくいことの原因を活字の大きさに還元する傾向がある。それはおそらく実際の活字のサイズではなく、DTPで使用できる書体に事実上制限があり、ほとんど唯一使用可能な書体リュウミンLKLが、特に縦組みの場合読みにくいことから来ているのではないか。この書体はもともと横組みのために作られているらしいが、コストの安いDTPで使用でき、外字などもそろっているのはこの書体だけなのだそうだ。

 雑誌などは書体には注意を払わないだろうが、書籍の場合には書体はむしろ死活問題にもなりうる。『寺田寅彦全集』が、8ポぐらいのサイズ二段組みでありながら、少しも読みにくいとは感じず、むしろ読みやすいと感じる。

 版面が読みやすいかいなかは、活字のサイズだけではなく、字間、行間、書体デザイン、周囲の余白、そしてこのすべてのバランスが関ってくるはずだが、そういうことを研究して成果を発表している人はいないのだろうか。主観的な「センス」が関ってくるから、「客観的研究」は難しいだろうが、統計的手法を使っても何らかの基本ラインぐらいは出せるのなはないか。
 考えてみると、英米の書籍では、活字の書体、サイズ、場合によってはその書体の設計者の名前まで書いてあるものが結構ある。わが国の出版物では、用紙はあっても、書体についての情報がある本は、例外的な存在だ。


□Artemis Fowl by Eoin Colfer, Viking, 2001, 280pp.
 「ハリー・ポッター」殺しの謳い文句も華々しく、装丁も金ぴかで、まあこの装丁は話の道具立てになっているフェアリーたちが各自持っているという「本」を摸したものではあるのだろうが、はっきり言って安っぽい。そしてこの装丁のように「ハリー・ポッター」にはとうていおよばない。おそらくは作家が自分から進んで書いたというよりは、版元なりエージェントなりからの何らかの「仕掛け」があったのではないか。これは作家の四作目のようだが、従来の作品にはファンタジィ的要素は薄いらしい。ちょうどわが国のスニーカーとか電撃あたりのいわゆるジュヴナイル・ファンタジィを読んでいる感覚。話の作りもそっくり。世界設定が甘く、キャラクターに頼り、しかもそのキャラクターがステレオタイプをちょっと捻ったものというのも共通。まあ話の運びはなかなかで、文章もすっきりしていて、読んでいるあいだはそこそこおもしろく、一気に読めるが、それだけ。当然次作が用意されているのだろうが、あまり読みたいという感じはない。

 夕食前、のざきのウェブ・サイト用原稿をまとめて送る。

 夕食、釜揚げ饂飩、茹で卵、甘夏、トマト。

Artemis Fowl by Eoin Colfer, Viking, 2001, 280pp.
梗概
 タイトルは主人公の名前。アルテミス・ファウルは12歳にしてファウル家の嗣子、神童である。ファウル家はすでに数百年続く名家だが、その家業はありとあらゆる非合法活動で、組織犯罪貴族とでもいうべき存在。もちろん、一度も捕まったことはないし、脱税をみつかったこともない。
 アルテミスの父親はソ連崩壊後のロシアで一山当てようとして全財産をつぎ込むが、売るための商品を運ぶ船に乗っていてロシア・マフィアのミサイルで撃沈され、「行方不明」。それをきっかけに母親も精神に異常をきたし、館の最上階に閉じこもったまま、出てこない。ふだんは幻視幻聴に脅え、息子を見分けることもできない。

 アルテミスの相棒はバトラー家のバトラー。こちらも代々続く家で、伝統的にファウル家の嫡子のボディガードを務める。バトラー家のものは小学校を卒業するとイスラエルの特務機関に送られ、戦闘・諜報に関するあらゆる訓練を受ける。したがってバトラーはゴルゴ13級の強力無比のプロである。

 バトラーはアルテミスが生まれた時から主従関係にある。が、基本的には二人の関係は雇用主と被雇用者で、絶対服従・反抗不能というわけではない。もっともバトラーのアルテミスに対する信頼は信仰に近い。

 バトラーにはハイティーンの妹ジュリエットがおり、今は病んだアルテミスの母親に使えている。ジュリエットももちろん、バトラーとしての訓練を受けている。が、少々頭は鈍い。

 物語はホー・チ・ミン市かつてのサイゴンのスラムから始まる。インターネット上でコンタクトをつけた情報提供者の案内で、アルテミスとバトラーの二人はアル中のスプライトを発見する。スプライトはフェアリーの一種で緑色の肌を持ち、空を飛べる種族。アルコールで魔法の大部分を失い、今はしがない占いでやっとのことで生きていた。アルテミスはこのスプライトを脅し、フェアリーが各自必ず持っている「本」を借りだし、内容をデジタル・カメラですべて撮る。フェアリーの秘密を暴き、彼らが持っているはずの黄金を奪うためだ。それによって父親の失敗で傾いた一家の財政状態を旧にもどし、自らの犯罪帝国を作るのがアルテミスの目標である。

 ダブリン郊外の館にもどったアルテミスは、Macと自ら開発したソフト、それにエジプトの象形文字とを用いて、フェアリーの「本」が書かれている言語「グノーム語」の解読に成功する。そうして手に入れたフェアリーの秘密を武器に、まずはフェアリーを一人、捕獲する罠をしかける。

 この罠にかかることになるのが、LEP Low Element Police の偵察部隊初の女性警部ホリィ・ショートである。おりしもホリィは司令官ルートの機嫌をそこね、もう少しで閑職に異動になるところを、最後のチャンスをもぎとったところ。そのチャンスとはイタリアに逃出したトロルの発見と偵察である。問題はホリィがもう長い間「儀式」を行なっておらず、魔法が消えかけていることだ。チャンスを得るため、そのことについては嘘をつく。

 トロルは身長5メートル、長く鋭い爪と牙を備え、きわめて低い知能しか持たない、凶暴かつ強力この上ない危険な生物だ。厚い石の壁も一撃で粉砕する。好物は生きた肉。

 ホリィはトロルを追ってマグマの噴出を使ってとびあがるポッドに乗り、地上に出る。フェアリーは人類(泥人とかれらは呼ぶ)の進出に伴い、地下深くに後退を余儀なくされ、そこに独自の社会を築ている。トロルも同じマグマの噴出路に迷いこみ、偶然の要素が重なってかりかりに焼けずに地上にほうりだされた。

 この21世紀初頭、フェアリーたちは魔法にだけ頼ってはおらず、泥人たちよりはるかに進んだテクノロジーを持っている。ホリィはエルフで、身長は1メートル足らず。動力で羽ばたく翼をつけて舞上がり、トロルを追う。ちょうど満員のレストランの壁の一隅を突破ったところで追いつくが、回収部隊が間に合いそうにないとみてとるや、自ら突込む。

 フェアリーたちには厳密なルールがあり、人間の建物には招かれないかぎり、入れない。この場合、助けを求める叫びも招待と解釈される。ホリィは誰か女性の声を口実とする。ここでホリィの魔法はついに切れ、彼女は自分の姿を見えなくすることができず、トロルの反撃を食う。間一髪、ヘルメットに備えられた超強力ビーム・ライトをトロルの眼に浴びせて、トロルの意識を失わせる。トロルは極端に光に弱い。もちろん一部始終を人間たちに見られてしまい、到着した回収部隊はその場にいた全員の記憶消去をするはめになる。

 魔法が消えたことがばれたホリィはルートの命で「儀式」をしに出発する。「儀式」は満月の夜に、「古里 the old country」すなわちアイルランドで、曲がりくねった流れの辺りにある古いオークを捜す。そこで拾った団栗を、樹からできるかぎり遠い地面に埋める。それだけである。それによって埋めた地点から魔法が体に注ぎこまれて回復する。

 ちょうどその晩満月で、ホリィは最新式のニュートリノを使う翼を借り、アイルランドに飛ぶ。彼女が「儀式」に選んだ、選んだ古いオークで待構えていたのが、アルテミスとバトラーである。団栗を一つ拾ったところを襲われたホリィは、最後の手段「催眠」もミラーシェードではね返され、麻酔カプセルを撃ちこまれて囚われとなる。

 ホリィの反応が消えたことで、当然LEP本部でアラートが発せられる。発したのはLEP本部のテクノロジー・ウイザードのケンタウロス、フォーリィである。ルート司令を怒鳴りつけられる唯一の人物で、コンピュータ、マグマ・シャフト・システム、武器等々、過去数百年のフェアリーの技術革新をほとんど一人で担ってきた。

 ホリィが行方不明となった状況の最後のモニター映像を見てことの重大性に気がついたルートは自ら現場エージェントに復帰して、ホリィの位置発信機を追う。が、発信機は気がついたアルテミスが、細工をし、折りからダブリン港に碇泊していた日本の捕鯨船の船倉に移されていた。そこに誘いこまれたルートにアルテミスは遠隔操作で名乗りを上げ、ホリィを捉えたことを告げて、挑戦状代わりに捕鯨船もろとも爆破する。ルートは間一髪で逃れる。

 ファウルの館はすぐにフェアリー部隊の包囲するところとなる。魔法によって体をきわめて高い周波数で振動させるのがフェアリーたちが姿を消す原理だが、アルテミスはホリィのヘルメットからはずしたヴァイザーのフィルターをバトラーに与え、回収部隊の先遣隊(エリート・チームの第一隊)を一掃してみせる。ルートはやむなく交渉に出向く。アルテミスが要求した身代金は純金1トン。

 フェアリーたちの秘密をすべて知っているらしいアルテミスに対し、ルートは奥の手を出す。ファウルの館の敷地全体の時間を止めたのだ。フェアリーたちがこれまで人類にその存在を隠しとおしてこれたのは、これのおかげだった。部分的な空間内の時間を止める。その間に必要な処置をほどこし、場合によっては「生物爆弾」で皆殺しにする。これは極めて半減期の短い(十数秒)物質を使った核爆弾である。もとは魔法でやっていたが、これもフォーリィが工夫して機械を使ってできるようにし、おかげで最大8時間の停止が可能になった。

 一方、目が覚めたホリィは幸運にもブーツの中に入っていた団栗を使って「儀式」をしようとする。ホリィの部屋は急遽地下に作られた独房で、床はコンクリートだったがまだ新しく、重い鋼鉄のベッドを持ちあげては落とすことを体がぼろぼろになりながらくり返し、ついにほんのわずかながら地面を出すことに成功する。「儀式」によってホリィは魔法を回復し、ジュリエットに催眠術をかけて脱出する。ただし、館から出てはいけないというアルテミスの命にはフェアリーの法として従わなければならない。

 ルートは病的窃盗症のドワーフ、マルチ・ディガムを一時的に釈放し、地下から館の中に潜入させる。ドワーフは地中を掘りすすむために最適化した体とシステムを持つ。顎をはずした口から土を呑みこみ、あっという間に消化・吸収して残りの土を排泄する。水中を泳ぐ魚のスピードで地中を動ける。マルチは拡張されたワイン・セラーを通じて館の潜入に成功する。

 ホリィの生死を確認しに行く途中で隠された金庫を見つけ、その窃盗症から、金庫を破る。入っていたのはアルテミスがヴェトナムのスプライトから手に入れた「本」のコピーだった。捉えに来たバトラーには猛烈な「屁」を浴びせてノックアウトし、無事逃げおおせる。

 その間、ルートの警察学校の同級生で野心家のカジョンは評議会にドワーフの件をたれ込み、現場司令としての権限をルートから一時的にとりあげることに成功する。カジョンは先にホリィの活躍で初めて生きたまま捉えることに成功したトロルを館の中に放つ。

 ホリィの催眠術で骨抜きにされたジュリエットを独房から運びだしたバトラーは、ちょうど玄関ホールに入ってきたトロルに真向から立向かおうとしてぼろぼろにされる。ホリィはジュリエットを食べようとしたトロルの気をそらすため足から体当たりして重傷を負う。稼いだ時間を活かすため、ホリィは運良く傍に倒れていたバトラーの致命傷を魔法で治す。よみがえったバトラーは玄関ホールにあった中世の鎧を着てトロルに立向かい、今度は首尾よく倒す。止どめを刺そうとするが、ホリィがそれを止める。

 身代金を渡し、ホリィをとりもどしてから「生物爆弾」ですべての人間を消すことに決めたルートは評議会と掛けあい、身代金を届ける。アルテミスはその半分と引換にホリィに「願い」をする。黄金とホリィを送りだしたアルテミスはバトラー、ジュリエットとともに睡眠薬入りのシャンパンを飲んで眠る。

 ルートは「生物爆弾」を館に送りこんで爆発させる。が、確認のため、館に入ろうとしたフェアリー部隊は肉体的に入ることができない。アルテミスが生きているかぎり、館に入れないことを、言渡されていたからだった。フェアリーの法では、これ以上相手に干渉はできなくなった。

 アルテミスは意識を失うことで「時間停止空間」から外に出たのだった。狂った母親に睡眠薬を飲ませ、眠った母親の姿が時間停止後消えたことから、このことを確認していた。

 そしてホリィに託した「願い」はかなえられ、母親は正気をとりもどす。が、同時にアルテミスはまた、通常の12歳の少年の地位にもどらねばならなかった。

 かくて、アルテミス・ファウルとフェアリー世界との最初の接触の幕は一応閉じる。この物語はLEPアカデミーの研究者が、記録と将来の参考のために事実を集め、足らないところは推定してまとめたものである。それによると、これから数十年間、アルテミスとフェアリー世界はくり返し接触し、苛烈な闘争をすることになる。ホリィ・ショート警部はその戦いにおいて、アルテミス・ファウル専門家として活躍する。
 これは著者の第4作。キャラクターはいずれもきちんと立ってはいるが、少々ステレオ・タイプ。アルテミスはふだんは強面の天才犯罪少年だが、狂った母親の前などでは年齢相応に迷ったりもする。大男バトラーも典型的なボディガード。キャラクター的におもしろいのはむしろジュリエットとそれにケンタウロスのフォーリィ。ちょい役でなかなか渋いのがドワーフのマルチ。ホリィは典型的な「戦う美少女」。ルートも頑固で、短気、しかしいざとなると腹がすわり、決断力に富む頼りになる現場指揮官。

 アイデアとしてはハイテクを駆使した「ダイ・ハード」なフェアリー、しかもアイルランドのフェアリーの伝統は守っている、と言うところはおもしろい。設定が首尾一貫しないところもあるが、こういうものはあまり深く追求すべきではなかろう。

 叙述はスピーディで、台詞回しも軽快、簡潔なアクション描写、適度なユーモア、直線的なストーリー・ラインで、一気に読める。哲学に基づいた世界設定と倫理的なテーマで迫るものではなく、コマかい齟齬は気にせずに、スピードに乗ってノンストップで読みおえて、ああおもしろかった、というエンタテインメント。読んでいる間は実際気にはならない

 わが国のジュヴナイル・ファンタジーのアイルランド版といっていい。ただ、わが国のこの手の小説には多かれ少なかれ見うられる、読者に「媚た」あるいは「オタク」的なウケ狙いの姿勢はない。あくまでもからりとした、「健康な」エンタテインメント。

2001年 5月 02日 (水) 曇りのち雨。

 朝食、早良西京漬け、莢豌豆味噌汁、蕪漬物、菠薐草お浸し、ご飯。

 午前中、愛甲石田駅前のながお眼科。眼鏡の処方箋を作ってもらう。駐車場がすでに一杯で、ぐるぐる回ってしまう。愛甲石田の駅前は時間貸しの駐車場が皆無。

 まず機械で視力を計り、眼圧の検査。緑内障のチェックのためらしい。30分ほど待ってから眼鏡の調整。こればかりは昔と変らない。40ぐらいの男性がてきぱきと進める。仕事等で読書きが多ければ室内用の中近二焦点レンズがいいでしょうとのことで、そういう処方になる。最終的に決まったレンズをかけてしばらく待ちながら本を読んでいたが、活字が大きく見える。ただし、車の運転などでは別に作った方がいいとのこと。最後に院長本人が診察。50代半ばとおぼしき女性。また機械で中を覗いたり、何やら光を当てて斜めから別の機械で見たりする。会計2400円也。待合室に貼ってあったポスターでは眼鏡やコンタクト・レンズ代は「医療費」になって、控除の対象になるのだそうだ。

 まっすぐ帰って11時半。

 昼食、胡桃パン、薩摩芋と鳥そぼろの煮付け、アイスクリーム、珈琲。

 アマゾン・ジャパンから書籍一冊。K経由で頼んでおいた村上陽一郎の新刊『文化としての科学/技術:双書科学/技術のゆくえ』岩波書店と『Jeditスーパーマニュアル』ラトルズが着く。
 午後は、リッカルド・テシのレコードを聞く。奥からデビュー作と ANITA ANITA を探しだし、松山さんから借りた Ritmia のアルバムとともに聞く。

○Ritmia, PERHAPS THE SEA; Shanachie, 1989, Italy/Sardinia
 リッカルド・テシ、ギター/ヴォーカルのアルベルト・バイラ、リード/打楽器のダニエル・クレイグヘッド、ギターのエンリコ・フロニギアのカルテット。テシの参加したプロジェクトでも一番面白いかもしれない。クレイグヘッドは多分英国人だろうと思うが、80年代テシと共演するのが目につく。サックスの腕もだんだん上がって、これは一つの頂点だろうが、この後、姿をが見えなくなるのは惜しい。打楽器もこの人とテシが担当していて、マグレブをとりこみながらも、そこからは一段飛翔した「地中海」風とでも呼びたくなる演奏。このアルバム全体が汎地中海音楽音楽志向ではある。テシはここでもむしろ背後で支える感じだ。と言って、ドーナルのように時に全く隠れてしまうこともないが、これは蛇腹という楽器の性格のせいかもしれない。とにかくあの音は目立つのだ。他のアルバムを聞いても、テシはむしろより大きな構図で音楽を作ろうとしているように思える。自らのルーツ回帰のはずのバンディタリアーナでも、背景は広い。2人の持続音と2人の非持続音の組合せも、初めから意識したのか、後から利用したのか、いずれにしてもうまく機能している。

 夕食、豚肉と舞茸の中華風炒め、蕪漬物、ご飯、メロン。

 夜はKと教育談義。

2001年 5月 03日 (木) 曇。

 9時過ぎ起床。
 K、新iBook購入を宣言。家で個人用に使うのだそうだ。

 朝食、ブルーベリィ・ジャム・トースト、茹で荒挽きウインナ、トマト、オレンジ・ジュース、珈琲。
 昼食、チャーハン、肉まん、甘夏。

 午後、リッカルド・テシ、ライナーに呻吟。
 ワトスンに問合せのメールを出す。

 夕食、筍ご飯、筍と和布の吸い物、鶏唐揚げ、隠元胡麻和え。

 夕食をはさんでSETI@Homeの work unit が一つ終わって次のをダウンロードしたのだが、始まったばかりのものの解析があっという間に終わってしまった。以前、メーリング・リストで出ていたものはこの現象だったのか。解析中のイメージでも、いつもと違って手前が極端にへこんだ感じになっていた。とまれ、つないでみるとふつうに送られ、次のものが来た。

 トリニティーからパディ・グラッキン&ミホール・オ・ドーナルとトゥリーナのライナー、歌詞対訳等のゲラがファックスで来る。すぐに見てパディ&ミホールの方だけ返送したら、折返しまた訂正したものが来る。チェックし、一緒に来た訂正の入ったトゥリーナの方も見直し。今日はここまで。

○Nightnoise AT THE END OF THE EVENING; Windham Hill Records, 1988, Ireland/USAmerica
Nightnoise  AT THE END OF THE EVENING  たしかに毒にも薬にもならぬ音楽。しかし人間たまにはこういうぬるいこともやらねば、つらくなるだろう。それでも時にトゥリーナの "At the race" のように、「地」が出ることもある。あるいは音楽そのものは、結構高度で複雑なことをやっているのかもしれない。

2001年 5月 04日 (金) 晴れ。

 なぜか6時にぽかりと目が覚める。するとHが起きてきて、ごそごそやりはじめ、それからもう眠れない。

 朝食、胡桃パン、チーズパン、プチトマト、オレンジ・ジュース、珈琲。

 K、クラブ(男子ソフト・テニス部)の試合につきあうため、8時半前に出てゆく。すぐ下の市営テニス・コート。3時前帰宅。
 午前中、リッカルド・テシ、ライナー続き。昼食後、書上げる。

 昼食、鱈子、キャベツの味噌汁、海苔、ご飯、甘夏。

 アマゾンよりチーフテンズ AN IRISH EVENING のビデオ。RootsWorld より定期購読特典の Green Linnet の25周年記念アンソロジーと Wicklow のサンプラー。『春秋』5月号。

○Nightnoise THE PARTING TIDE/ひき汐; BMG Victor, 1990/1995, Ireland/USAmerica
Nightnoise  THE PARTING TIDE  ミホールとトゥリーナにとって、作曲というのもこのバンドでの活動のメリットの一つだったのかもしれない。全9曲中5曲をトゥリーナが書いている。うち3曲は歌だ。ラストのミホールの曲はずいぶん古楽趣味が入った曲。曲自体は悪くないのだが、アルバム全体にシンセサイザーの靄がかかっているのがいただけない。ナイトノイズのトゥリーナのヴォーカルを集めたベスト盤でも作ると面白いかもしれない。これは味の素のイヴェントで来日した時に出た国内盤らしい。前作の邦題は『夜も果てて』だったようだ。
○Nightnoise SHADOW OF TIME; Windham Hill Records, 1993, Ireland/USAmerica
Nightnoise  SHADOW OF TIME  フィドルがジョン・カニンガムに交替。レーベルもBMG傘下に入った。そのせいかどうか、音楽の質も変わった感じだ。どことなく深みが出てきた。あるいは芯が一本通ったというか、妙なシンセサイザーの幕もない。これならば悪くない。それなりに聞けるものだ。

 聞きながらうつらうつら。

 夕食、豚肉と搾菜・筍の中華風炒め、ご飯。

 薫、ダウン。ちょっと陽に当たるとだめである。
 トリニティーからトゥリーナのブックレットのゲラ、ファックス。夕食後、すぐ見て返送。

2001年 5月 05日 (土) 晴れ後曇り。

 9時過ぎ起床。Kダウン。

 朝食、チーズ・デーニッシュ、あんパン、トマト、オレンジ・ジュース、珈琲。

 なんだかんだで11時前のバスで三人で出かける。雅藤で苺のショート・ケーキを買い、川崎の実家。Hの誕生日祝い。Hのリクエストで寿司をとり、鳥の手羽、ポテトとプチトマト、ブロッコリのサラダ、鮒の唐揚げ。鮒の唐揚げは信州から送ってきたものの由。上品な甘味があって美味。枸杞酒を飲む。3時過ぎにケーキ。その後、おふくろとばあさまとおしゃべり。

 5時近くなったのであわてて辞去。大西巨人『神聖喜劇』文春文庫版第一巻だけ持って帰る。光文社版単行本の第二巻がどこにも見当たらない。

 相模大野でKの実家一家と会食。Hはオムライス、Mはハンバーグにパン、俺はハヤシライス。子どもたちははじめセカンド・ディッシュも欲しがったが、さすがに腹がそんなに減っていなかったらしく、一つ食べおわってまだお腹が空いていたら追加で頼むと言いだす。8時に大野の駅で別れる。帰宅9時少し前。

 すぐにメールをチェックしたら、ニフティがトラブルでメールのダウンロードができない。

 帰宅して『神聖喜劇』の冒頭やら偶然に開いた数頁を拾読みしているうちに、巨人の強靭な文章に久しぶりに接して、興奮を感じる。この文章自身、その興奮の余波が現れている。この大長編を読みはじめずに興奮を確認したい欲求のままに、買っておいたエッセイ集第一巻『新生』の一篇「映画への郷愁」を読む。

 寅彦もそうだが、巨人もまたここに吐露されたように「映画」に没頭していた事実に接して、彼我の違いに思いを馳せざるをえない。映画が決して嫌いではないし、一時期映画をかなり熱心に見たことはあるが、この二人のように映画を愛し、様々な側面からその魅力を述べるに至るほど、映画への魅力を感じてはいない。ひとことで言えば、映画を見たいという欲求が起きないのだ。

 その理由はこれまた単純なものではないだろうが、主なものの一つとなりうると思われるのは、映像に接する経験の違いだ。寅彦にとっても巨人にとっても、映画は動画に接する初めての体験であり、そのすべてだった。巨人がここで述べている体験にはTVは入っていない。

 こちらは物心着いた時TVが家にあった最初の世代だ。ある時期以降、TVをも見なくなるが、ヴィジュアルなメディア全体への関心が薄れたわけではない。明らかに薄れているのは動画への関心だ。人間一生の間に摂取できる情報量にあらかじめ決められたある限界があり、動画に関するこの限界をすでに満たしている、と言うのは、話としてはおもしろいが、やはり単なる言葉遊びだろう。

 こう書いてきて思当ることがある。『ソラリス』の映画化を見た体験だ。映像化によって文章が持っていた想像力への刺激、イメージの喚起が限定される体験。文章か映像(動画)かの選択の場合、答は決まっている。

 しかし、文章によってイメージが喚起される場合、その基になるイメージそのものの原型の供給は、実景のみでは足らないことは明らかだ。各種メディアに記録された動画は素材として栄養として必要だ。しかし、それは現在において、必ずしも映画とは限らない。そしてTVの映像は奥行においても、視角においても、まことに浅く狭く薄い。映像を捉えるプロセスの安易さがそのまま記録された映像の薄っぺらな性格に通じてしまう。

2001年 5月 06日 (日) 晴れ。

 8時過ぎ起床。Kはだいぶ回復。

 朝食、チーズ・デーニッシュ、葡萄パン、ブルーベリィ・ジャム・トーストをつけたクロワッサン、オレンジ・ジュース、トマト、珈琲。

 朝食の際、すでに回っていた台所の換気扇のスイッチを押してしまい、また弱・中のスイッチが押込まれたままで止まらなくなる。食後、また開けてみるが、もどらない。仕方なくいつもの電気屋エーデンに架電。11時頃見にくるが、スイッチそのものの交換は無理で、換気扇全体を交換しなくてはならないようだ。が、ちょうどいい横幅のものが持ってきたナショナルのカタログでは載っていない。もしないとなると、台所全部をリフォームしなければならなくなる。一応他のメーカーも含め、当たってもらうことにする。その後、別の応急電気屋に架電。折返し担当者から電話をもらうが、やはりスイッチそのものの交換は部品がないので無理。換気扇全体の交換となり、その場合工事費を含め、12〜3万ぐらい。もう一度電話することにする。

 ニフティのメール・サーバが直ったようでメール・チェックをして、返事を書き、送る。

 新聞書評欄、三浦雅士氏のスーザン・ソンタグの長編『火山に恋して』(富山太佳夫訳、みすず書房)の書評。

 だが、もっとも素晴らしいのは、王侯貴族の時代からブルジョワジーの時代へと移るその変化のさまが匂うように漂ってくること。小説中でカヴァリエーレと呼ばれているハミルトン公使は、バロックの時代に属している。蒐集家であること自体がバロックの象徴なのだ。だが、ネルソンとエマはロマン主義の時代に属している。フーコーの『言葉と物』が小説になったようなものだ。

 これぞ小説でしか伝えられない、小説の醍醐味ではなかろうか。「時代の変化のさまを匂うように漂わせる」。キャラクターやストーリーではないのだ。同じ朝刊に幻冬舎の新刊の広告が出ていて、大手書店の現場担当者とおぼしき人たちの「感動」のコメントがならんでいた。宣伝手法としてはおもしろいが、あまりに「感動」をならべられ、揚げ句の果てラストでは「滂沱の涙」を流したと言われると、眉に唾をつけたくなる。「感動」そのものを否定はしないし、おそらくそれだけの力も当該作品には備わっているのだろうが、しかしそんなに小説は「感動」するものか、ただ一度読んだだけで「感動」するものか、あるいはしていいのか、という疑問までいかない、ひっかかりが残る。

 もうずいぶん前だが、目黒考二さんが「小説を読むのに、感情移入しちゃいけないんだよ」とつぶやくように言っていた言葉が思い浮かぶ。その時は反発を感じたものだが、この頃、小説から距離を置くようになって、ようやくその言葉の意味を自分なりに納得できる形で咀嚼するようになった。

 感情移入する対象はおそらく登場人物、すなわちキャラクターだろう。キャラクターと自らを重ね合わせて読むことほど危うい読み方は確かにない。それこそ虚構と現実の区別がつかなくなる怖れがある。映画やコミックを始めとする視角メディアと張合うことにもなる。文章が伝えるもの、文章によって初めて伝えることができるものは感情移入できるキャラクターではなかろう。

 小説におけるキャラクターの役割にあらためて目が開いたのはなんといっても『火星』三部作を手がけたことが大きい。最初に読んだ時にはなんとまあ嫌な連中ばかりかと思ったものの、翻訳をやるとなれば嫌でも読込まざるをえず、そうなると、通り一遍の読書では見えなかった部分も見えてくる。感情移入できるキャラクターは一人もいないが、そのために小説全体の構造に目が向く。そうするとはじめはなんともやりきれない人間ばかりに見えた登場人物たちのいわば背中や脇腹がわかるようになる。考えてみれば、この世の人間たちは皆、なんともやりきれない人間ばかりなのであり、その人びとにも背中や脇腹はちゃんとついているものだ。例えば『グイン・サーガ』のキャラクターたちのような、いかにもお噺の登場人物然としたキャラクターたちこそは、まさに宝塚の世界でしかあり得ない、「夢の」キャラクター、ヴァーチャルですらない、蜃気楼だろう。むろん、それゆえにこそ彼女たち・彼らは美しい。

 しかし小説が小説として十全に機能するためには、「時代の変化のさまを匂うように漂わせる」ためには、蜃気楼では不可能だろう。ネルスン、エマ・ハミルトン、ハミルトン公使、ウイリアム・ベックフォード、サド公爵、モーツァルト、ナポリ王妃マリ・カロリーネとその警察長官スカルピア。実在にして実在にあらざる人びと。そう、大前田文七や東堂太郎もまた実在にして実在にあらざる人びとに違いない。

 ひょっとすると小説に「感動」を求める読者は、視角メディアによって想像力を衰弱させたあげく、「時代の変化のさまを匂うように漂わせる」、その匂いを嗅ぎとるだけの体力も気力も失ってしまっているのかもしれない。

 同じ朝刊に社会経済生産性本部がまとめた、新入社員の意識調査で、終身雇用や年功序列を求めるものの割合が1998年以来増えているとの報道があった。調査対象は3〜4月に同本部主催の新人研修を受けた963人が対称で、回答率100%。いったいそうまでして「安定」を手に入れたとして、その安定を何に使おうというのだろうか。ただひたすら安定でありさえすれば、それで人生の目的は達せられたのだろうか。それとも、この人びとの人生の目的は、まず安定があり、その上でのみ達せられる性格のものなのだろうか。そして、この調査対象の性別比はどのくらいだったのだろうか。

 しかし、敗戦後の半世紀で、終身雇用や年功序列がほんとうに守られ、「安定」した生活を手に入れた人びとの数はどれくらいか、何か統計的データはないものだろうか。いわゆる一部上場企業や公務員以外で、そうした「恩恵」にあずかった人の数や人口あるいは就労人口に対する比率を知りたいものだ。

 むろん、この調査対象の人々は、すでにある程度「持てる」人々だろう。しかも、年齢からするに、自分の力で手に入れたものではあるまい。
 そうして、「安定」を求める志向の裏には、想像力の貧困化と価値基準の喪失、世界を見、その中にいる自分の位置をはかる能力の衰退と尺度の崩落がある。社会が流動化している時に、旧制度を墨守することですでに手に入れたものを守ろうとするのは自殺行為に等しいことは、歴史を少し学べば、容易に感得できるはずだ。そう、おそらくこうした人びとは、受験に必要な知識のみを身につけていて、歴史の姿を学ぶことも、想像力を養う教養を蓄積することも、怠ってきたのだろう。どちらも一朝一夕には身にはつかない。

 むろん、自分自身も含めてだが、そこで問題になるのは、ではどうすれば想像力を鍛えることができるか。強靭な想像力を養う訓練にはいかなるものがありえるか。すぐ思いつくのはやはりまず「読む」ことだろう。文章の裏まで読込む努力。そして「書く」。

 それにしても最近みすずは元気だ。もう何年も晶文社の本を買っていない。買いたい本が出ない。ウイリアム・モリスの小説全集にも、原書がある以上、食指が動かなかった。

 昼食、豚肉と搾菜の中華風炒め(一昨日の残り)、ご飯、榎・和布・葱の味噌汁、茄子の浅漬け、茹でグリーン・アスパラ、鰹節、ご飯。

 午後、民音のプログラム原稿。ミュージシャンのプロフィール。ナレーション原稿に手を入れる。

 夕食、葱と豚肉と春菊の鍋、茄子の浅漬け、ご飯。

 入浴していたら、何やら大きな音がする。居間の隅に天井と床につっかい棒をする形で立てて置いたポールが1本、Hの荷物をかけていた方がゆるみ、倒れた由。睡眠中であればもろに受けていたはず。危ないところ。

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