大島教授の[暖蘭亭日記][2001年 5月 07日 (月)〜2001年 5月 13日 (日)] [CONTENTS]

2001年 5月 07日 (月) 晴れ、風強し。暑。

 K、遠足にて早く出かけるため、6時半起床。

 朝食、チーズ・トースト、葡萄パン、トマト、オレンジ・ジュース、珈琲。

 家事の後、出かける。まっすぐ新宿。イシザワ眼鏡新宿店にて眼鏡を注文。アカシアにてロール・キャベツで昼食。ハンズを覗くが、全くおもしろくもなんともなく、買う気起きず。ロマンスカーにてまっすぐ帰宅。車中で眠る。帰宅3時。

 夕食、鰹の叩き、トマト、沢庵、キャベツの味噌汁、ご飯、甘夏。

2001年 5月 08日 (火) 曇り後雨。蒸暑し。

 5時前、電気釜の音で目が覚める。うつらうつらしていると目覚ましが鳴る。Kが跳起きて止める。結局眠れず、そのまま起きてしまう。Hも起きてくる。Hの遠足で6時15分学校集合。Kは弁当を作り、Hが出ていってからまた少し寝る。

 朝食、銀むつの西京漬け、キャベツの味噌汁、茹でブロッコリ、ご飯、細切り昆布佃煮、林檎ジュース。

○Stan Rogers FROM COFFEE HOUSE TO CONCERT HALL; Fogarty's Cove & Cole Harbour, 1999, Canada
Stan Rogers  FROM COFFEE HOUSE TO CONCERT HALL  なぜか買ってすぐに聞く気にはなれず、ほうっておいた。それが今朝はふと聞きたくなる。時が熟したのだろう。どちらかというと後半に印象深い歌がならぶ。"At last, I'm ready for Christmas", "Leave her, Johnny, leave her" がハイライト。ラストの Mary McCaslin の "Down the road" は、あの事故の5日前、サンフランシスコの McCabe's でのライヴで、本人のギターだけの伴奏。心にしみる。それにしてもこの人が今生きてあれば、カナダのシーンもまたかなり変わっていたのではないだろうか。今のカナダが決して沈滞しているとは言わないが、やはり核ないしリーダー不在であることは否めない。そのためになかなかカナダには目が向きにくい。むろん詮ないことではあるが、惜しみて余りあるとはこのことだろう。

 朝一番で歯科。右下奥、また少し削ってから型をとる。それだけなので9時半前に終わる。そのまま駅前。銀行にて金をおろし、固定資産税納入。今年から全納の際安くなる制度がなくなる。理由を言わないのに腹が立つ。少しでも税収をあげようということなのだろうが、制度改編の理由は納税者に説明すべきだ。ラオックスにてワコムのFAVOというタブレットを購入。Mのリクエストのため、色もセージ・グリーンにする。帰宅11時過ぎ。

 クラダよりCD9枚とCD付本1冊。Fivetree からショウ・オヴ・ハンズ関係のCD5枚と本1冊。Dirty Linen。

 クラダのは4月29日に注文した以下のもの。
TIPPIN' AWAY. Damien Connolly & Pete Mancuso
PADDY & BRIDGET & THEIR GREAT FRIENDS 2
THE ROAD FROM BALLINAKILL. Mike & Mary Rafferty
GAVIN WHELAN. Gavin Whelan
DOWN THE IVORY STAIRS. Padraic O'Reill
CLARE WOMEN OF MUSIC AND SONG. Various artists
RATTLING BANJOS. 50 IRISH BANJO TUNES. Gerry O'Connor & David McNevin
FIDDLER'S FANCY. 50 IRISH FIDDLE TUNES. Tommy Peoples
THE KILLAVILLE SESSIONS. Ceoltir Coleman
The Clarke Tin Whistle by Bill Ochs
 クレジット・カードがOKにならなかったよ、でもとりあえず送るという手紙がついている。また古いカードでやろうとしたらしい。すぐファックスを送る。

 Fivetree はショウ・オヴ・ハンズの新譜、フィル・ビア・バンドの新譜とフィル・ビアのオフィシャル・ブート、Simon Care & Gareth Turner、The Fisherman's Friends。本は今年のロイヤル・アルバート・ホール・コンサート記念特製写真集。一緒に入っている宣伝チラシによると、新作は秋にDVDが出るらしい。

 昼食、ハム・トースト、クロワッサンにブルーベリィ・ジャム、朝の残りの味噌汁とブロッコリ、牛乳。

 昼食後、どうにも眠くなり、一時間ほど寝る。
 断続的にワトスン原稿見直し。

 3時すぎ、創元・Yさんから電話。先日読んで梗概を送った ARTEMIS FOWL はすでに版権が売れていた由。そのこと自体は予想通りだが、売れた額が6桁というのには驚く。そんな玉ではないよ。今時ああいうものにそれだけ出せるところはどこだろうという話になる。アカデミー出版はありそうだ。後でソニー・マガジンズというのも思いつく。いずれにしてもいわゆる既存の版元ではあるまい。雑談でみすずが元気だという話とか、アメリカ音楽好きの英国人のやっている音楽がおもしろいとか、ミネソタの田舎での時間の流れ方の違いとか。

 5時、電気屋がメーカーの担当者を連れて台所の換気扇を見にくる。やはり規格としては60センチと75センチしかないそうで、この場合は当然60センチのをつけて、10センチを埋めることになる。幸い、排気管自体はそのまま使えるらしい。手入れの簡単な新しい、排気力の強い機種の方で見積を依頼

 夕食、牛肉と大蒜の芽の中華風炒め、餃子、ご飯。牛肉大蒜はやけに辛く、子どもたちは音を上げる。

 それにしても、霞ヶ関の住人たちは、好き放題やっていたのだとあらためて思知る。昨日は郵政省が出張の領収書の保存期間を勝手に短縮して、情報公開法の直前に破棄していたことが判明したし、今日は大臣の意向を無視して外務省が行なおうとした人事を田中外相が元に引きもどした、と報道されている。もっともこれで外相が変わればまた元の木阿弥になるのだろう。公務員は馘にならないわけだが、少なくとも国家公務員の局長クラス以上は馘にできるようにすべきだ。

2001年 5月 09日 (水) 曇時々小雨。朝のうち一時陽がさしたが、その後は完全に曇ってしまう。

 朝食、銀むつ西京漬け、角切りソーセージ、大根味噌汁、菠薐草お浸し、ご飯。

○Bruce Cockburn THE CHARITY OF NIGHT; Rykodisc, 1996, Canada
Bruce Cockburn  THE CHARITY OF NIGHT  なぜか未聴のままほうってあった。それにしても、スタン・ロジャースに続けて聞くと対照的だ。ロジャースがどこまでも己の声と歌とギターが核であって、ガーネットのフィドルにしても、バンドがつくにしても、それはその核の周りに付け加わってゆくものだ。コバーンにあっては、その声も歌もギターもバンド・サウンドの一部であって、全体として聞かせる。ギター一本で聞かせられないわけではないが、それよりも一度増幅したもので勝負している。その意味でこれは「ロック」だ。コバーンのアルバムとしても質は高いし、「モザンビークの坑夫たち」やラストの「奇妙な流れ」などは耳に残る。しかしそうした「ロック」としての成立ちの弱さが、この人の歌うたい/歌つくりとしての力を削いでいることは否めない。
○Phil Beer Band MANDOROCK; BOOT, 2000, England
Phil Beer Band  MANDOROCK  そしてこれはまた「フォーク」以外の何ものでもない。基本的に自ら楽しむことが目的であり、経済的成功や音楽的な完成度といった「高尚な」ところを目指す "high arts" ではない。今回はスタジオ録音盤だが、30分少々。むろんCD-R。取上げているのはライヴでもやっていたスティーヴ・アールの "Devis right hand"、"Red River Valley"、あるいはウォレン・ジヴォン、ランディ・ニューマン、あるいはロウェル・ジョージといった面々の作品。この人もスタジオに入るよりはステージでやっている方が活き活きしている。聴衆との交歓で表現の幅が引きだされる人なのだろう。それにしてもどの曲もイングリッシュの曲に聞こえるのは見事というしかない。ハイライトは "Red river valley" と"Brother don't you walk away"、それに本人の歌で "Music in the air"。うーん、やはり "Long distance love" は名曲だ。

 昼食、チーズ・トースト、ブルーベリィ・ジャム・トースト、バナナ、昨日の残りの豚肉・大蒜の芽。

 午前中、ワトスン原稿見直し。昼食をはさんで終わらせ、夕刻、決定稿として送る。
 Amazon.comより書籍4冊、CD13枚。本は
Mark Kurlansky The Basque History of the World
Ursula K Le Guin Tales from Earthsea
The Francis Parkman Reader
Gene Wolfe Strange Travelers
 Francis Parkman のものは日記や書簡などからの抜粋もあるのかと期待したのだが、本文はすべて FRANCE AND ENGLAND IN NORTH AMERICA からのもの。ただ、編者の長い序文があるので、これに期待。

 CDは
Yiddish-American Klezmer Music Dave Tarras
Klezmer Music Brave Old World
"Smash, Clap!" Naftule's Dream
"So-La-Li" Sabah Habas Mustapha
"Red Dirt Girl" Emmylou Harris
"Password" Geoff Muldaur
"Company You Keep" John Gorka
"Concerts for a Landmine Free World" Prine, et al
"Red Hot + Indigo" Various Artists
"Whole New You" Shawn Colvin
"Scuffletown" Eric Taylor
"Action Packed: Best of the Capitol Years" Richard Thompson
"Blues Boy" Geoff Muldaur
 白石朗さんより訳書。今度は英国産のリーガル・サスペンスだそうだ。

 夕食、串揚げセット(豚肉・烏賊・海老・南瓜)、竹輪、胡瓜味噌添え、ご飯、苺。

 Fivetree に The Joyce Gang のCDの注文をメールで出す。Paul Downes がやっているトリオ。
 夜、『クラン・コラ』2号FCをメーリング・リストにあげる。

○Phil Beer Deb Sandland Gareth Turner BST; BOOT, 2001, England
Phil Beer Deb Sandland Gareth Turner  ビアとターナーに、デブ・サンドランドという女性シンガーが加わったトリオのミキシング・ボードからのライヴ録音。限定百枚のCD-Rだそうだ。ものによってはフィル・ビア・バンドらしきバックも着く。ノーマの「案山子」をやっているが、このサンドランドはもう少し精進が欲しい。ちょっとケイト・ラスビィ的なところもある。あんなに硬くなる必要はない。むしろビアのフィドルやギターとガレスの蛇腹の絡むダンス・チューンの方が聞物。それとやはりビアの歌だ。ここでも "Long distance love" をやっていて、よほど好きなのだろう。そういえば、確か先月の二度目のロイヤル・アルバート・ホールにゲストを呼べるとすれば誰を呼ぶかという質問で、ビアが真先にあげていたのがロウェル・ジョージの名前だった。それにしてもビアはほんとうにセンスがいい。ロック・ギターを弾いてもおおげさにもならず、あまり鋭角的にもならない。ライヴなので歌が生きている。

2001年 5月 10日 (木) 曇後晴れ。

 夕べ寝しなにちょっとぱらぱらと思ってとりあげた立花隆のムック「サイエンスレポート:なになにそれは?」はべらぼうなおもしろさで、目は眠くてしょぼしょぼするのにやめられず、結局巻頭の一本だけ読んでしまう。テーマは例の「旧石器発掘捏造」事件を追いかけたもの。

 朝食、薩摩揚げ、榎・若布の味噌汁、小松菜煮浸し、ご飯。

○Show of Hands COLD FRONTIER; Hands-on Music, 2001, England
Show of Hands  COLD FRONTIER  前作がカヴァー集、その前がトラディショナル曲集だったから、オリジナル作品集としては DARK FIELDS 以来ということになるか。スティーヴの歌つくりにはちょっとマンネリ化の気配もある。特にメロディに印象的なものが少ない気がする。だから "Northwest passage" や "Sally free and easy"、あるいは "Street of Forbes" などの解釈が光る。あるいはフィルのフィドルやマンドリンだ。"Northwest passage" でのフィドルはこの人ならでは。ここでは二番をフィルが歌っていて、こうして並ぶとフィルの歌は明るい。アルバムとしては独特の昏い緊張感に満ちた DARK FIELDS にはおよばない。LIE OF THE LAND とならぶか。それにしても、そう、やはりこの人たちも「フォーク」で、「ロック」との区別は基本がひとり、というところだ。「ロック」は独りではできない。これは致命的だ。

 朝、メールを開けたらダブリンのヒデ坊から原稿が入っていた。またまた読みながら爆笑。

○Paddy Hayes & Johnny Ray RETURN TO KILTY; RTKCD, 1999, Ireland
Paddy Hayes & Johnny Ray  ウェクスフォード出身のアコーディオン奏者がギタリストの相棒と作ったアルバム。ギターはほとんど聞こえず、半分ほどではピアノを弾いている。聞き慣れた、音が一粒ずつきらきらと輝くような演奏ではなく、昔アコーディオンの音だと思っていたぶかぶか音だ。写真によると相当な年配で、78年と80年にオール・アイルランドのタイトルをとっているというが、ちょっと信じられない。これがこの地方の伝統本来の演奏なのかもしれないが、モダンなスタイルを聞き慣れてしまうと、のんびりとぶかぶかやっている田舎のオヤジにしか聞こえない。こういうアルバムもあるのだ、ということ。

 5時のバスで駅前。音友・Kさんと打合せ。ミロード2階の Afternoon Tea の喫茶室にしたら、ここは男が来ない。気にする年ではないが。7時過ぎのざき、さらに8時前Sさん合流。ルナサ新譜のサンプル、チーフテンズ伝記本の見本を受けとる。伝記本の装丁はなかなか。パルコ2前の新中華料理屋で飲食い。10時すぎまで。

2001年 5月 11日 (金) 晴れ。

 朝食、えぼだい開き、南瓜煮付け、キャベツの味噌汁、ご飯。

○Various Artists CONCERTS FOR A LANDMINE FREE WORLD; Vanguard, 2001, USAmerica
CONCERTS FOR A LANDMINE FREE WORLD  Emmylou Harris Presents となっていて、実際エミルーがトップ・バッター。ナンシ様とデュエットしたり、パティ・グリフィンのトラックでもコーラスをつけたりしている。アメリカ・ヴェトナム復員軍人会が主催した地雷をなくそうキャンペーンのライヴ集。ハイライトはナンシ様とエミルーのデュエットによるナンシ様の名曲 "It's a hard life" と、そしてやはりギリアン・ウェルチはちょっと別格。この人だけ他の世界にいるようだ。その後がパティ・グリフィンなのでなおさら。ブルース・コバーンもつい先日聞いた CHARITY OF NIGHT から "Miners of Mozanbique" をやっていて、こちらはギター一本でスタジオ盤より数段いい。歌本来の力もわかる。「フォーク」と「ロック」の違いをもう一つ、電気が必要か否か。ラストのスティーヴ・アールはほぼ全員が加わってのフィナーレ。アルバム全体の質としては水準で、とび抜けた歌唱もない。とはいえ、全員がほぼギターないしピアノ(テリィ・アレン)だけのソロ演奏なのは気持ちがいい。
○Nightnoise A DIFFERENT SHORE; Windham Hill Records, 1995, Ireland/Scotland
Walt Michael & Company  LEGACY  今回は各メンバーがほぼ均等に作曲を手がけている。全体としては前作の方がエネルギーがあったように思う。一曲、パイプが入っているが、クレジットにはないので、サンプリングかシンセを使ったのかもしれない。相変わらず、聞流そうと思えば聞流せて、聞込もうとすると案外気の効いたフレーズが出てくる。とはいえ、やはりこの方向から、これ以上のものが出てくるとは思えない。

 昼食、豚肉に味噌漬、南瓜煮付け、沢庵、ご飯。

 NY嬢からサンプル・カセットと資料。何かと思ったらメアリ・コクランのビリィ・ホリディ・ミュージカルのライヴ盤。スリーディーシステムという初めて聞く会社。Nさん自身もニキータ・プロモーションというのを名乗っている。

 Locus 4月号。胡散無産12号。
 久しぶりに Locus をざっと見ていったら、死亡記事のところで Jenna Felice という Tor の若い編集者が亡くなったことが出ている。25歳で喘息の発作だった由。フルの editor になったのが21歳で業界で最年少だった。追悼記事を寄せているのが錚々たる連中で、中でもハーラン・エリスンはさすがの文章。思わず読んでしまう。編集後記でもチャールズ・ブラウンが熱い、と言うもの変だが、心底から嘆いた文章を書いていた。この女性は Century の編集にも関っていたそうで、編集者として相当優秀だったのだろう。

 午後、メール・マガジン『クラン・コラ:アイルランド音楽の森』2号発刊作業。

 3時すぎ、週末で薬がなくなることに気づき、内科に架電。取りにゆくと、診察を受けるようにとのことで待つほどに呼込まれ、肝臓のコレステロールを減らす薬は、今の数値では飲むほどではないので、一旦やめましょうということになる。尿酸値の薬だけもらい、その後散歩。今日は川沿いのコース。そろそろあちこち掘起こしの始まった田畑の間を、スコッチを聞きながら歩くのは気持ちがいい。

○Ed Miller THE EDINBURGH RAMBLER; Greentrax, 1997, Scotland
Ed Miller  THE EDINBURGH RAMBLER  テキサス在住のスコットランド人シンガーの4作めだそうだが、聞くのは初めて。前作を持っていた。原盤はアメリカ製だが、アメリカ的なところはあまりない。歌い方がややナチュラルだが、言葉はしっかりスコッツ。素直な、ストレスのないバリトン。フィドル、マンドリン、アコーディオンなどのサポートもでしゃばらないながらセンスのいいフレーズを聞かせ、選曲も身の丈に合ったものをきっちり選ぶ。そう言われればたしかに身の引締まるような緊張感はない。肩の力が抜けている。曲の中ではブライアン・マクニールの "Muir and the master builder" が雄渾としか言いようがないうたいっぷり。ディック・ゴーハンも最近やっていたはずだが、こちらの方がよほど歌の魂を引きだしている。冒頭はトミィ・サンズ。アラン・リードの曲もこういう人が歌と良さが引きたつ。タイトル曲はマッコールの曲のマンチェスターをエディンバラにうたい変えたもの。声高に名盤・傑作と喚く類ではないが、いつの間にかお気に入りになっているような一枚。

 夕食、鰻丼、トマト、沢庵、苺。

2001年 5月 12日 (土) 晴れ。

 7時半前に目が覚め、7時半に目覚ましが鳴る。

 朝食、早良西京漬け、和布と榎の味噌汁、トマト、ご飯。

 子どもたちは子供会のハイキングとておにぎりを作り、水筒をもって勇んで出ていったが、すぐに誰もいないと帰ってくる。実は日付が一日ずれていたのをKが忘れていたのだった。

 Mにせがまれて、先日買った Favo をインストール。キッドピクスでお絵かきをしている。

 Read Ireland より書籍1冊。IRISH FOLK HISTORY というタイトルの本で期待したのだが、160ページたらずの薄い本で、著者というか編者の大著 PASSING THE TIME IN BALLYMENONE から住民の語りの部分を抜粋して編集したもの。ぶつぶつ。

 昼食は、Kと子どもたちが出かけたので、チーズ・デーニッシュ、あんパン、ハム・トースト、ブルーベリィ・ジャム・トースト、ロイヤル・ミルク・ティーですませる。

 立花隆の『サイエンス・レポート』の今年度ノーベル化学賞受賞者の白川英樹氏との対談、前半は話について行けず苦しかったが、最後に来て俄然おもしろくなる。白川さんたちが発見した導電性プラスティックによって、無機物から有機物が生まれ、ひいては生命が発生したのに匹敵するほどの大変革が、人間社会に起きるのではないかという立花の話は、大風呂敷としても大変おもしろい。立花隆の『サイエンス・レポート』
立花 その生命化のの歴史をたどったときに、いちばん大きな飛躍がどこにあったかと言うと、金属原子が有機分子の中に入りこんで、金属錯体が生まれたところにあるんじゃないかと思います。有機分子が集合しただけでは生命は生まれない。主要な生命現象はほとんど生理活性金属錯体によってになわれている。光合成はマグネシウムが中心に入ったクロロフィルという金属錯体が可能にした現象だし、ほとんどのDNAの転写過程においては、Znフィンガーという亜鉛の金属錯体が中心的な役割を果たしているし、生物体内の酸素輸送をになうヘモグロビンは鉄の金属錯体です。あの金属錯体というのは、言ってみれば、有機高分子に、金属原子でドーピングをしてみたら、とてつもない超能力を持った分子が生まれたみたいなものですよね。分子レベルで起きた、ああいうドーピングによる大変化の積み重ねが生命世界を生んだと言ってもいいわけです。そういう大変化が、いま人間が操る人工物質系で起きつつあるといえるんじゃないか。われわれがこれまで人工物質系の常識と考えていたような原則がドーピングによって次々にくつがえって、これから人工物質系において、自然史における、無機物質系から生命物質系への大変化のような大変化が次々に生まれて、人工物質系の様相が一変していくんじゃないかという気がするんです。

白川 ただ有機物の限界というのもあって、熱に弱いのが1つの限界ですよね。(後略)

立花 有機の世界が面白いのは、ものすごく単純な元素、CとHとOと、あとSがちょこっと、Nがちょこっと、何かそういうものだけでできていて、おかげで壊れやすいとか耐久性がないとかいう欠点があるけど、考えてみると、それはある意味で長所なわけです。有機物の世界は消えるからいいんです。文明の現段階のいろいろ困ったことの多くが、人工物質が壊れないことによって起きている側面があるでしょう。消えないプラスチックは廃棄物公害を起こします。しかし、プラスチックを改良して自己分解するプラスチックを作れば公害は消える。いままでの文明というのは無機物主体でずっときたから人間は無機物の発想しかなかなかできないけれど、有機物を有機物としてちゃんと利用する方向に実はいま来ているんじゃないでしょうか。

白川 そうですね、確かに。
(173-174pp.)
 立花によれば、現在の高校学習指導要領はマキシマムの規制で、これ以上教えてはならないということになっているために、化学の分野では量子論を教えていないのだそうだ。つまり19世紀までの化学しか教えていない。導電性プラスティックは当然量子論の世界での話なので、われわれはそんなもの習っておらず、理解する基礎がまったくない。道理で前半の対談についていけないわけだ。

 白川氏も指摘しているが、現在の学校教育では科学全体を、化学も物理もできあがってしまったものとして教えている。しかし、実際には科学の最先端はわからないことだらけなのであり、それをそのままに教えるべきだ、と主張する。半世紀前に寅彦や宇吉郎が言っていたことの谺だ。科学とは本質からして、永遠に完成などしないものであることは自明の理とおもう。

 教育においても師弟、すなわち上下関係が生まれるのは、これは一体何なのだろうか。寅彦と宇吉郎のような関係は美しいかもしれないが、あの美しさはどちらかの側が何らかの形で譲歩して初めて生まれるものではなかろうか。あるいは寅彦という存在がわが国にあって例外的な性格を備えていたのかもしれない。宇吉郎描くところの、長岡半太郎の「趣味」としての地球物理学を寅彦が頭からやっつける場面を思出す。おそらくは長岡のような絶対権力者としての「師」が典型的なのだろう。

 われわれは全く対等の人間関係をどこかで徹底的に嫌っているのかもしれない。あるいは江戸期の社会体制のもとで醸成せられたものだけではなく、江戸期にそういう作用があったとすればむしろそれは以前からあったものを完成しただけなのではないか。それ以前から、あるいは「日本人」が成立した当初から「日本人」の遺伝子のなかに書き込まれていた性格である可能性はないか。

 もしくはそうした情報を生物個体としての遺伝子か、あるいは社会集団としての遺伝子かのどちらかまたは両方に備えていたものが生残ることで「日本人」になってきた、ということだろうか。

 それがすなわち「タテ社会の構造」だろうか。社会というよりも、個人間の関係のあり方、なのではあるが。多分、明治以降の社会史・文化史を記述する際の鍵となる命題はこれかもしれない。個人間の関係のあり方の変遷。

 もう一つ、副次的におもしろかったのが、導電性プラスティックは当然電池に応用できるわけだが、意欲的に電池の研究をしていたドイツの研究者が自国の保守性を嘆いていたという話。
白川 (前略)鉛電池という十分に完成された電池があるのに、なんで危険性をおかしてまで将来どういうことが起きるか分からないものに置き換えようとするのかっていう意見が大きいんだそうです。
(170pp.)
 すでにあるもので満足してしまい、新たな可能性を試そうとしないこうした保守性と、ドイツの伝統音楽の現状を重ねあわせると、伝統音楽が盛んになる一つの要素として、新たなものをどんどん試してとりこんでゆく性格が浮かび上がってくる気がする。アイルランドは明らかにこの後者の性格だ。なぜなら、アイルランドでは永年、現状を守ることは英国の支配を認めることだったからだ。現状を変えようとする志向性が強くならざるをえなかった。一方イングランドは、現状を守ろうとする性格が強い。かれらは一応「勝者」だったからだ(「支配の代償」?)。イングランドでも伝統音楽は一度死んでいる。

 むろん現状変更への志向は伝統音楽隆盛の必要ないし十分条件とはならないだろう。おそらくは触媒として作用するのではないだろうか。しかし、この触媒がないか、極端に少ない場合には、伝統音楽は近代化、すなわち、都市への人口移動、自給自足から賃金労働と消費活動への移行、それに伴う農村的共同体の崩壊といった現象のインパクトに耐えられず、消滅するか、音楽産業にとりこまれてしまう。

 わが国の伝統音楽についてもこれはあてはまるように思われる。われわれは基本的にいま通用しているものはできるだけ残そうとする志向性が強い。

 民音のためのマイレート&トゥリーナの楽曲解説を書く。一曲、"Johnny Seoighe" がどうしても見つからず、ネット検索にかけたら、Amazon.comでヒットする。見てみると Windham Hill から出ている CELTIC CHRISTMAS 2 にしっかりマイレットの歌で入っているではないか。このシリーズは完全に見逃していた。全部オリジナル録音らしい。しかたがないので即注文。24時間以内の出荷というから、何とか間に合うだろうと期待。
 ところでAmazon.comはこと本に関するかぎり、アマゾン・ジャパンで洋書もだいたい手に入るようで、こうなると送料がなくなるから安い。CDは今回久しぶりに比べてみると、CDNow が結構安くなっていて、Amazon.comに勝っている。本と一緒に買うのでなければこちらの方が有利かもしれない。

 ワトスン原稿のミスタイプのリストを作成して、著者宛送る。著者から要請があったもの。

 夕食、親子丼、和布キャベツ、沢庵、グレープフルーツ。

○Divane SLOBO HORO; RockAdillo, 2000, Finland
Divane  SLOBO HORO  ロック・バンドだ。素材はバルカンやロマ風のものだし、サックスやクラリネット、アコーディオンもいるのだが、ドラムスとギターが完全にロック。シンガーも悪くないが、何しろギターが「ロック」していて、しゃしゃり出てもいるので、本来の力が出ていない。声の質感などから時としてU2がバルカンをやっているような感じにもなる。ジャズ的な解釈が全盛の現在では、ある意味でこうした「古典的」スタイルのロックでやるというのもアンチ・テーゼになりうるかもしれない。それにはもう少しジャズ的なセンスあるいは素材への沈潜が必要ではないか。フィンランドの連中がバルカンの素材をロックでやるということで、ここでの「ロック」はコスモポリタンなスタイル言語の性格をまとってはいるが、やはり古色蒼然とした色合いは否めない。

2001年 5月 13日 (日) 晴れ。

 6時に一度目が覚める。カーテンの裾が開いていて明るかったためらしい。7時半目覚ましが鳴る。Mは元気にとび起きるが、Hは腹が痛い、だるいと言ってごろごろしている。結局Mだけ子供会のハイキング。

 朝食、あんパン、ブルーベリィ・ジャム・トースト、和布キャベツ、グレープフルーツ・ジュース、珈琲。

 Hは10時頃、直ったといって起きだし、ホット・ミルクにひたしたトーストを食べる。

 朝刊「文化という劇場」のコラムに内藤麻理子の署名で『感読 田口ランディ』(レビュージャパン発行、ブッキング発売)が紹介されている。普通の読者が書評を投稿するウェブ・サイト「レビュージャパン http://www.review-japan.com」から、田口ランディの作品を対象に投稿された書評を一冊にまとめたものだそうだ。本にも作家にも興味はないが、筆者が書いている「感読」という名前に対する関心と危惧にはうなずく。アマチュアの書評でも束ねれば価値が生ずる可能性と隠れた才能の発掘はネットの面白さである。一方で何の蓄積もないままに、薄っぺらな「感性」を標榜する「感性第一主義」に通じる危うさ。おのれの「感性」を他人が共有できるものにまで錬りあげ、それを共有できるように表現する精進を怠れば、その「感性」はどこにも出ていきようがない。あるいは出ていくことは出ていっても、どこにも受信されず、空しく空中に雲散霧消するだけだ。表現は他人に受止められて初めて表現たりうる。ネットとはこうした意思疎通すなわちコミュニケーションの基本を確認させるところでもある。この日記も「感読」あるいは「感聴」に終わっていることも多い。他山の石とすべし。

 やはり朝刊の報道で、除草剤耐性の遺伝子組換え大豆ではかえって農薬の使用量は多くなり、単位面積あたりの収穫量も減るとの調査結果が公表されている。対象となったのはモンサント社がグリホサートという除草剤に耐性を発揮する遺伝子を組込んだ大豆。調査したのはアメリカ・アイダホ州の民間研究機関「ノースウエスト科学・環境政策センター(NSEPC)」。一種類の農薬への依存性を高めるようなバイオ技術は大きな問題を生む、と同センターは指摘している。ワシントン発共同通信。

 午前中、茂木に架電。マイレットのうたう "Johnny Seoighe" の入っているアルバムを持っていないか訊ねる。なんと白石さんが解説を書き、茂木が歌詞対訳をして以前ファンハウスから出ていた由。解説と歌詞対訳をメールで送ってもらうことにする。

 ROUGH GUIDE TO WORLD MUSIC Vol.1 の「アルバニア」の項の試訳に手をつける。

 昼食、早良西京漬け、キャベツの味噌汁、南瓜に漬け、ご飯、細切り昆布佃煮。Hは目玉焼きをお菜にあとは同じ。

 午後、茂木からメールで送ってもらったデータをもとに民音用楽曲解説を書上げ、送付。
 K経由で注文した書籍・雑誌4冊引取。書籍は『中谷宇吉郎集 第八巻 極北の氷』岩波書店と池内紀訳の『カフカ小説全集3 城』白水社。

 『宇吉郎集』の月報に編集委員の樋口敬二が書いている「刊行を終えて」によると、まだまだ他にたくさんの作品があるらしい。単行本未収録作品も少なくないとのことで、ぜひ、続篇なり何なりでまとめて欲しいものだ。この第八巻巻末には大森一彦編の著書目録がついていて、それによると主な随筆集だけで12冊、その他書下しも含めた著書はかなりの数だ。とても8冊で網羅できるような量ではない。この月報でごく一端を甥の人が紹介している書簡もある。しかし、ひょっとするともはや岩波にもこうした人のきっちりした全集を作る力はないのかもしれない。

 ブラウンを読んだという石川県在住の人からのメールで、クリスティ・ムーアの自伝を訳したのだが出版できないだろうかという相談。先を越された、とまず思ってしまうのはこの商売の業であろう。しかしこういう相談が一番困る。まあ、正直に返事するしかあるまい。

○Rachele Colombo & Corrado Corradi ARCHEDORA; CNI, 2000, Italy
Rachele Colombo & Corrado Corradi  女性シンガー・ソング・ライターと蛇腹奏者のデュオ。北の方らしく、ミュゼットやシャンソンにも通じる。知的で洗練された都会の音楽だが、ポップスとは言いたくない。フォークというにもためらわれる。むろんロックのがさつさはかけらもない。そう、Snakefarm にたたずまいが似ている。蛇腹は技術よりもセンスで聞かせる。サポートも含め、全体にテクニックには頼っていない。中ではチェロがこの二人の資質によく応えている。アメリカやイギリスのシンガー・ソング・ライターの在り方に近い。イタリアのルーツというといつも何かすごいことを期待してしまうが、これはそうした期待が過剰なものであることを、さりげなく示す。

 夕食、チキン・クリーム・シチュー、トースト、オレンジ・ジュース。
 制度の改革・革命もしくは打破・建設は、直接には政治の問題である。そのたたかいにも、文学はそれを成就せしめる条件の形成に重要な役割を果たすべきであるが、文学のさらに重要なたたかいは、“意識および無意識の打破”である。特に制度の打破・変革後における(旧来の)意識および無意識の破砕である。制度の改革・革命は、その以前における意識および無意識の打破、少なくとも意識の打破を一応前提条件として持つようにみえるとは言え、現実の政治という物は、実にしばしば事柄の形式的な処理、事態の表層的な移動に留まりがちであるから、文学・人間は、それにのみ信頼して安んじているわけにはいかないのだ。しかも、この現実政治の形式性・表層性こそ、狡猾な反動家の有利な武器である。制度の変革がその背後に意識の打破を前提として持つように見えるそのことを為政者が悪用する時、またはその裏返しとして、制度が旧態のまま余命を保っていることはすなわちその背後における意識が不変不動であることの証明であり得るかのごとくに為政者が執り成す時、人民の足下には、最も危険な陥穽が、暗黒の口を開いている。
(中略)
 文学者の戦争責任は、新日本文学会や『近代文学』同人やの手によって激しく追及せられているようであるが、それとは別に、あるいはそれと同時に、明治以降の文学が、前述の封建制打破・近代確立に、ついに無力であって、怠慢であって、失敗であったことにおいて、既成の文学者たちは、総体としてその責任の重大を肝に銘じなければならない。そういう方向に努力してその犠牲となった先人たちの苦闘、あるいは中道にして弾圧に倒れた人人の尊い遺産など、全体として相当の功績を内包しつつも、明治以降の文学が、今日総決算の場においては不成績に終わったことについて、僕ら若い世代は、これを批判、問責、反省し、ついにこれと訣別して、新文学への道を行くべきである。僕らの「あけぼのの道」を開かねばならぬ。
(中略)むしろ僕は、いちおう徳永が「本来の作家」らしくもある、ということに感心しているのでもあり、またその徳永が「民主主義的文学創造活動によって」などと書かねばならない、という世の中を悲しんでいるのでもある。ただし、そういう世の中は、どんな形でか、いつまでも続く。文学・反逆精神の存在理由は、そこにある。
大西巨人「『あけぼのの道』を開け」『文選1:新生』18-23pps.
 1946年6月に書かれ、9月に発表された文章だが、古びていないどころか、まさに今の状況にぴたりとあてはまる。総理大臣小泉純一郎の登場によって、政治の意識・無意識が打破・変革されたかのような錯覚がうまれているのだから。

 一方、明治以降の文学の責任とともに、現在はこれに戦後半世紀の文学の責任も蓄積されている。
 同時に、ぼくらが文学を読む理由がここにある。
 反逆精神をもって意識を変革するため。
 文学は小説のみとはかぎらない。しかし、小説が現在の文学の中でもっとも強力な道具であることもまた否定はできない(それは何故か)。読書は楽しみのためだが、ほんとうに楽しむためには、意識の変革が伴わねばならない。そして意識の変革が伴うためには、おそらくは小説世界にのめり込んではいけないのだろう。

 ただし、「全ての」文学が反逆精神を持って書かれているとはかぎらない。
 否、ここで大西が言っていることは、ほんとうに優れた文学は、すべからく何らかの点で反逆精神を備えている、ということだ。

 逃避は反逆たりうるか。
 なりうるだろう。時には「逃げる」こと、「逃げて」生きのびることも立派な反逆たりえる。
 それにしても今「打破」という言葉は使うのにおおいにためらいが残る言葉になってしまった。「打破」しただけでは「打破」にならないことを知ってしまっている。

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