(1)メールマガジン「授業成立プロジェクト(JSP)」 -教育リソース号- 第41号
1 「数学的に考える授業」 田中博司
〜坪田耕三先生(筑波大学附属小学校)の追試で学ぶ〜
(1)本時のめあてを伝える
今日の学習のめあてを以下のように書いた。
*********************************
* 考える力を鍛える。[ ]をみつける *
*********************************
[ ]は空欄にしておく。
『今日の学習のめあては、考える力を鍛えることです。そして、あるものをみつけることができるのが目標です。何をみつけるかは、後で言います。』と伝えた。
(2)めだまやきを4回切る
(黒板に大きな丸を書いて、)『めだまやきがあります。4回切ります』と伝えた。約束を2つ伝えた。
・はじからはじまで切る ・直線で切る
その後、切り方の例を板書した。
子どもたちに、ノートに書かせると、いろいろな方法で切った。順々に指名し、黒板に書かせていったら、9つのやり方が出た。『いくつに分けられましたか?』と聞いて、数を数えさせた。
それぞれの丸の分けられた数を数えると、一番多いものは、10個だった。
そこで、『一番多くなるように分けましょう』と伝えた。子どもたちは、しばらく集中して、ノートに向き合った。「11個」という声が上がった。すると、まだできていない子は、11個になるように必死に線を引きだした。
『どうやって引けば11個になるかな?』と聞いてみた。ある子から「できるだけ交差させて線を引く」という声があがった。それをみんなに伝えて、取り組ませた。半分近くの子が11個にすることができた。
(3)目玉焼きを10回切る
次に、板書の4回のところを、10回に書き替え、『10回切ります。一番多くなるように分けましょう。』と伝えた。子どもたちはまたノートに集中した。32個、34個、45個、と声があがった。更に、無理!やりたくねえ!何本切ったか忘れた!星ができた!見づれえ!数えたくねえ!という声があがった。そのつぶやきをひとつひとつ板書していった。そして、『10回切るのは、こんなに大変です。何か別な方法で調べられないかな』と問いかけてみた。なかなか答えがでない…。
(4)変わり方のきまりをみつける
子どもたちから、なかなか答えが出ない。そこで、『何か気がついたことがあったら、手をあげてね』と言って、黒板に、(回数と個数と変化を表す表の一部となるように)回、個、4、11と板書した。次に『1回のときは、何個に分けられる?』と聞き、続けて板書した。2人の子が、きまりに気がつき、手をあげた。更に『2回は?』『0回は?』『「3回は?』と続けて聞きながら、板書を続けた。少しずつ変化のきまりについて、気がついた子がいて、手が上がりだした。変化のきまりについて、説明をした後、『5回のときは、どうなるか』と質問した。多くの子が「16回」と答えた。
『では、10回ではどうなるかな?』
(5)本時のまとめをする
『今日の学習のめあては、きまりをみつけることです』と、言って、最初に板書した、めあての空欄に、“きまり”と書き加えた。次の話をして授業を終えた。
『少ない数で考え、きまりをみつけることで、自分では実際にできないことでも、調べることができることがあります。算数の学習の目的のひとつは、そのように考えられるようにすることです。』(以下略)
☆★☆ コメント ☆★☆
これは誰でも追試出来そうな内容だ。ぜひやってみて欲しい。やってみて見えてくるものがある。
○ ねらいを( )で隠し、知的好奇心を誘発している。
○ 短い的確な発問とわかりやすい条件提示が生きている。
○ 既習知識に関係なく、誰でも取り組める課題である。それが、自然な競争意識を生んでいる。
○ 4回から10回に増やしたことで、できそうでできない困難さを体感させ、つぶやきを板書している。そこに、工夫すること(法則性を見つけること)の必要感を生じさせている。
○ 法則性の発見が比較的容易で、算数(数学)のおもしろさを味わわせるのに適切である。
これらを体感した後は、他の教材や他教科に応用すればよい。
見事に追試するだけで授業力はアップするだろうが、他に応用出来ることで教師力につながる。
(2) 【IT情報】情報モラル研修教材2005 阿部隆幸
社会科の時間。課題と調べる内容が決定し、いざ調べようと子どもたちに調べ方を尋ねると教科書や資料集、事典や図鑑などを飛び越えて、真っ先に出てくる答えが「インターネット」です。信頼性の部分でも「インターネット」の人気は高いです。教科書やテレビの情報よりも「インターネット」の方が正しいと思っている子どもたちがわたしの授業では約半数にのぼりました。
これはまずいと思い、急遽、情報モラルの授業に取り組むことにしました。そこで大いに参考になったのが、以下のホームページです。授業での進め方が書いてあったり、FLASHなどで子どもたちに正しい情報の見極め方等を知らせるページがあったりと充実しています。
(3)ごまめの歯ぎしり メールマガジン版 河野太郎の副大臣日記
===========================================================
犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法などの一部を改正する法律案の国会審議が始まる。この法律案は名前が長いので、略して「条約刑法」と呼ばれる。
条約刑法は、平成15年に国会で、自民党、公明党、民主党および共産党が賛成して承認した「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」に基づいて刑法や刑事訴訟法その他の法律を改正するための法律である。
この「国際連合条約」とは何かというと、組織的な犯罪の共謀罪や証人などを買収することを処罰する規定を設けたり、贈賄罪に関して自国民の国外犯を処罰する規定を設けたりする法整備を各国がやることを決めたもの。この条約の審査は国会で、自民、公明、民主、共産が賛成し、特に条約に留保事項をつけることもなく承認された。
この条約刑法は、自公民共が賛成して承認した条約に基づいて、条約が批准した各国に求める法整備を一括してやるものだ。
この条約刑法を批判する声の中に、「共謀罪」などという罪を新設するのはけしからんという声がある。
が、日本には、いまでも共謀罪という罪がある。たとえば、刑法、軽犯罪法、爆発物取締罰則、地方公務員法、国家公務員法、スポーツ振興投票の実施に関する法律、モーターボート競走法、小型自動車競争法、競馬法、自転車競技法、破壊活動防止法、自衛隊法、日米相互防衛援助協定などに伴う秘密保護法、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法、に、それぞれ共謀罪又は陰謀罪が設けられている。
だからこの条約刑法が共謀罪という罪を新設するものだという批判には誤解がある。
国際的な刑事ルールを整備していくためには、双罰性、つまりこの罪は自国でも罪になるし相手国でも罪になる、を整備していくことが必要だ。
ある犯罪行為が、A国では罪に問われるがB国では罪に問われないという状況では国際的な刑事協力が難しくなる。だから、世界各国がきちんと組織犯罪に関する行為を同じように処罰することにしま
しょうというのがこの国連条約の狙いである。
☆★☆ コメント ☆★☆
社会科教師は本来法律にも詳しくなければならないが、残念ながらなかなかそうはいかない。日頃からこうした情報に触れることから始めたい。
(4) 社会人の雑学 |●7927部発行
疑問No.504 ┃ 「○○信用金庫」と「△△銀行」、その違いと歴史を教えて!
―――●まいけるさんから●――――――――――――――――――――――
投稿されている漁師さんの質問は、金融機関としての金庫・銀行という言葉の、「金」「銀」の由来についてですが、結論を先に述べれば次のようになります。
(1)「銀行」という言葉は、1870年頃、英語「Bank」の翻訳として登場。
ただし、「銀行」という言葉自身は中国での翻訳語を輸入した。
(2)「金庫」という言葉は、1923年、ドイツ語「Kasse」の翻訳として登場。
ただし、「金庫」という言葉自身は1866年頃より登場している。
(3)翻訳当時の通貨の主流が、銀本位か金本位かで金・銀に分かれた。
[銀行の由来]
明治維新とともに、日本にも西洋式の銀行制度が導入されました。伊藤博文の建議により、1872(明治5)年、アメリカの「National Bank Act(国法銀行法)」を範にした「国立銀行条例」が渋沢栄一によって作られました。このとき、渋沢栄一が「両替屋では下品である」として、「Bank」の訳語を学者たちに相談したところ、「金行」「銀舗」など種々の案がでたが、いずれもおもしろくないというので結局「銀行」に決した、と自身の回顧談で述べています。この逸話を引いて、「銀行という言葉は渋沢栄一が作った」と言われることが多いようです。ちなみに、「行」は中国語で「商店」という意味です。
これが、法令により「銀行」が定訳となった最初ですが、使用例はこれより少し遡ります。新聞記者・福地源一郎の「会社弁」(1971年刊)は、西洋の会社のしくみについての解説書ですが、この中に「Bank」の訳語として「銀行」が使われています。ただし、序文は渋沢栄一が書いているので、上述の相談された学者の一人は、あるいは福地源一郎だったかもしれません。
さて、ここで奇妙なことに気づきます。国立銀行条例が定める国立銀行は、金貨を担保とした兌換紙幣を発行するよう定められています。つまり「金本位制」なのです。「金行」こそふさわしいはずなのに、「銀」とはおかしな話です。日本銀行のホームページのQ&Aでは「語呂のよい」ことが理由とされて「銀行」に決定した、と解説しています。
実は、西洋式の銀行は、当時既に日本国内にあったのです。イギリス系の外国銀行である「Oriental Banking Co.(オリエンタル・バンク)」が1861年に横浜支店を開設し、外国商人とだけでなく、幕府や諸藩、維新後は明治政府とも取引がありました。当初は「両替商」と言ったり、「バンク」という言葉がそのまま使われていたようですが、1870年には「東洋銀行」と訳されています。
この銀行はこれより25年前にすでに中国へ進出していました。アヘン戦争が終わった後の1845年に「麗如銀行」という中国名で、中国初の西洋式銀行として香港本店を開業しています。また、今日もある香港上海銀行(中国名「匯豊銀行」)は1865年に創立されています。ロプシャイド編「英華字典」(1866〜1869)にも「Bank=銀行」と記されています。
つまり、実は「Bank=銀行」という訳語は、すでに中国語が先行して訳しており、渋沢栄一らは、日本語として新しい言葉を作ることを諦め、すでに日本国内の一部で使われていた中国語訳をそのまま取り入れたということになります。
明治維新当時、欧米の新文物を取り入れるのに翻訳主義がとられ、万単位の膨大な和製漢語が作られました。その後、中国で洋務運動や孫文の革命運動が広まり、その過程で、多くの和製漢語がそのまま中国語に取り入れられていきます。「中華人民共和国」という名称からして、「人民」も「共和国」も出自は和製漢語です。「銀行」も維新期の和製漢語と誤解されることが多いのですが、実は、中国語での訳語が先行し、それがそのまま日本語に定着した言葉だったのです。
[銀の由来]
では、中国語としての「銀行」は、なぜ「銀」なのでしょうか。
中国は、古くより国土が広大な割には、金銀資源に恵まれませんでした。金貨や銀貨は作られず、貨幣代わりに使われても地金のままで、貨幣として流通したのは、主として銅銭でした。宋の時代には、銅すら産出しない今の四川省のあたりでは鉄銭を使っていましたが、重くて仕方ないからと、世界ではじめて紙幣が登場し、元・明代に広く使われました。
各種の貨幣が流通し,また金銀の地金が通貨として用いられたため,通貨自体を営業対象とする商人も古くから存在し,両替なども行われました。宋代には金銀商店が集まった町を「銀行」と呼び、そこで銀の相場がたっていました。
ところが、ヨーロッパ諸国が大航海時代になり、新大陸から多量の銀(スペイン銀と呼ばれました)を持ち込むようになりました。ヨーロッパでは銀の価格が著しく下がって価格革命が起こり、清朝は茶の輸出の代金として多量の銀を得て、大繁栄します。秤量貨幣として銀は広く流通し、清朝は税額を銀立てで決めるようになり、清朝の銀による税収は、明代の10倍に膨らんだと言われています。中国は高額決済は銀で行い、少額には銅銭を使うという、銀銭複本位制となったのです。
19世紀の中国では「Money=銀」であり、中国の伝統的な金融機関は「銀号、銭荘」などと呼ばれていました。一方で外国商会のことを「洋行」と訳していたことなどから、「Bank=銀行」という翻訳が成立したのだと思われます。
[信用金庫の由来]
信用金庫は、1951(昭和26)年に制定された信用金庫法に基づいて設立された、中小商工業者向けの金融機関です。
銀行は、株式会社であり、株主の利益が優先され、主な取引先は大企業であるのに対し、信用金庫は、一定の営業地域内の人だけが利用者・会員となれる非営利の金融機関で、主な取引先は中小企業や個人である、という違いがあります。
しかしながら、「金庫」という言葉が金融機関を表す目的で使用された最初の例は、1923(大正12)年の「産業組合中央金庫」(現在の「農林中央金庫」)です。
明治維新後、上からの産業革命が展開され、日本国内の資本主義は急速に発展していきました。この過程で、小農民が次々と没落していくという事態を招きました。これを憂慮した政府は、ドイツ系の農村信用組合を移植しようと考え、1900年「産業組合法」を成立させ、信用・販売・購買・生産(利用)の各種事業を営む産業組合を全国各地に作っていくことを企図しました。第一次世界大戦後の不況でさらに農業経営が困難に直面すると、政府は産業組合の育成・復旧を強力に推し進めることとし、各種の全国組織を作りました。その一つとして、1923年、「産業組合中央金庫」が設立されたのです。
一方、都市部の中小商工業者や勤労者も、財閥などの大資本の発展のあおりを受けて苦しんでいることに配慮し、1917年、産業組合法が改正され、市街地信用組合が認められることとなりました。これが信用金庫の直接の前身です。戦後、1949年に中小企業等協同組合法が作られ、今日に続く「信用組合(信用協同組合)」に改組されましたが、この制度は、組合員以外の利用に厳しい制限が加えられたものでした。大規模な組合の中には、組合員以外との取引が大きな比重を占めているものが多かったことから、その点に配慮した信用金庫法が1951年に制定され、信用組合の一部が今日の「信用金庫」に転換していったのです。
さて、この「信用金庫」の名称の由来については、当時、単独法として名称を検討する際、「信用銀行」や「庶民銀行」などいろいろな意見がでましたが、最終的には“「銀行」という名称は使わない”という結論に至りました。一方、当時の政府系金融機関は、「庶民金庫」「恩給金庫」「復興金融金庫」という名称で非営利性の金融機関として機能していたことから、「金庫」という語を名称の中に盛り込もうということになり、その結果「信用金庫」という新名称が誕生しました。ちなみに、英語に翻訳するときは「Bank」で、銀行と同じです。
[金庫の由来]
産業組合がモデルとしたのは、ドイツの農村信用組合であることは先に述べました。当時、ヨーロッパでは、空想的社会主義思想が広まっており、その具体的な実践事例として、協同組合事業が展開されていました。
産業組合中央金庫で初めて使われた「金庫」は、ドイツ語の「Kasseカッセ」およびフランス語の「caisseケス」に由来します。「現金(独Kassa=英Cash)を取り扱う箱」という意味で、独話辞典を引くと、「(1)金庫;金銭登録機・レジ (2)会計・切符売り場」と訳されています。英語に訳すと、金庫の意味では「Safe」、金銭登録機・レジの意味では「Cashier」となります。
ドイツ語の「Kasse」は今日でも特別な範囲または種類の金融を営む金融機関の名称として用いられることがあり、共済金庫(Unterstutzungskasse)・疾病金庫(Krankenkasse=日本の健康保険に相当)などと使われます。産業組合を日本に導入した当時の日本の官僚たちは、ドイツ語の「Kasse」をそのまま直訳した「金庫」という名をもって、銀行とは異なる金融機関の名称としたのです。
ここで、「直訳」と言ったのは、お金を保管する箱としての「金庫(Safe)」は、金融機関名としての「金庫(Bank)」より早くに日本に輸入され、翻訳されていた事実をふまえています。
現在の金属製の金庫(Safe)の原型となるものがつくられたのは1820年代のフランスが最初です。日本では1869年に鍛冶屋の竹内弥兵衛(やへえ)が外国式金庫(Safe)の製造を開始しました。当時は「金張箱」「ドル箱」と呼ばれていたようです。いつ頃から「金庫」と呼ばれるようになったのかを語源辞典で
調べると、1900年発行の「風俗画報209号」に「大倉金庫店 店主・萩原彌吉」との記載があったとされており、また、現在の姫路屋金庫店は、1916年に「山崎金庫店」として開業している事実からも、「金庫(Safe)」は「金庫(Bank)」より早くに使用例があることは間違いありません。
これらのことから、「産業組合中央金庫」という名が考えられたころには、すでに「金庫」という語は日本国内で広く受け入れられていたと思われます。
(以下略)
☆★☆ コメント ☆★☆
この後まだ続いている。自分の知らない、そして知りたかったことがこの説明で理解出来た。
こうした「教えて!」「教えましょう!」というやりとりが日常的にネット上でできることはすばらしい。IT社会の日なたの部分である。
(5) 教育情報 Magazine/ある小学校教師の独り言 Vol68 2006.5/11(THU)◆
[1]講義の記録 Part4(最終回) 「日本教育新聞社主催 教育セミナー四国」より
◇講義5 「確かな学力」を育てる授業づくり・学校づくり
講師:加藤 明(ノートルダム女子大学教授:中教審専門委員)
1 「確かな学力」を育てる教育課程の構造
(1)「生きる力」の育成
自ら学び自ら考える力 基礎的・基本的な内容の確実な習得 個性の伸長
(2)実現のための内容
教科 道徳 特別活動 総合的な学習の時間
(3)これらを支える「ヒドゥンカリキュラム」
「学級づくり」そのもの
2 「確かな学力」を育てる授業力とは
(1)基盤としての教材研究力
・教材研究の2つの側面
教科内容研究…教科の論理,教科から見たその単元内容の価値(教えることの価値)等,教師の側から教科内容を分析する。
子ども理解……既習事項の理解,定着及び発達段階,つまずきやすいところ,子どもの興味関心,生活の実態等,子どもの側から教科内容を分析する。
・2つの側面から教材を分析
目標を分析→学習活動の設定→指導展開→評価計画
・弱まる校内研修
「授業が下手」「指導案が下手」…校内研修の厳しさ欠如
総合や生活科の登場で久しく教科(国算社理)研究がなされなかった。
(2)授業設計力
・目標分析から始まり,指導と評価を一体化して単元全体の見通しを立てる。
・目標分析→単元指導計画→診断的評価(テストはさけたい。実施後必要があれば補充指導,または「弱い力」を単元に組み込んで)→指導展開(短いフィードバックサイクルの形成的評価を駆使した単元展開)→形成的テスト(学習後にはこういう力がついていなければならないという視点から作成。誤答分析→補充学習)→発展学習→総括的評価
・少人数指導
診断テストの結果,ついていない力があることが判明→補充のための時間はとれないし,単元の中に組み込んでもうまくいかない→「習熟度別指導」の導入 習熟度に分けるだけの根拠と成果が必要
「思考力」をつける…体験できる,話し合いができる,ともに学ぶことができる,そんな少人数指導授業を。単に「知識・技能」の補いをねらいとした授業…その場しのぎ。将来につながらない。
(3)授業展開力・創造力
・単元展開において求められる指導要素
レディネスチェックとその養成のためのプログラム/目標を評価からとらえ直して導き出した評価規準とその確かめ/効果的な揺さぶり/効果的な体験活動/習熟と定着の場/テストで確認しにくい成果の確かめ(ほめ言葉や励まし)
・臨機応変に指導を創造する力
きめ細かい授業設計及び指導案を立てた上での,あえてそれにとらわれない創造
・指導の成果をふり返る自己評価力
単元構想全体を包括する力量
────────────────────────────────────────
◇講義6 「元気の出る学校づくり」の実践と条件 〜学校組織改革の理念とすすめ方〜
講師:佐古秀一(鳴門教育大学教授)
1 改革の対象としての学校組織
(1)学校改革
・従来の学級経営や教科指導では通用しない子どもの増大や,家庭でのしつけや教育が期待できない子
どもなど,教育の対象者である児童生徒の多様性,複雑性が大きくなりつつある。
・地域との連携強化など学校にとって新たな課題の遂行
(2)3つの視点
学校裁量の拡大(権限の拡大)/地域・家庭との連携強化(参加型経営/学校の組織体制と運営の改善(内部組織の充実・強化)
2 学校組織の特性と問題
(1)個業型組織
・伝統的な「個業組織」…教師が個別に自己完結的に教育活動を遂行
・3つの問題点
事実の共有ができない(認識の個別分散)/課題の共有ができない(意思の個別分散)/
知識の共有ができない(知識の個別分散)
・学校課題の複雑性や多様性に対応できない。
・自分の学級,学年さえしっかりやっておけばよい,という誤認
(2)学校の非教育組織化
・ゆとりのない教育現場…組織的活動が連絡や手順の確認に消費される。
・子どもの実態や課題を組織的に追究するという本来の活動が困難
・自分の学級,学年をしっかりやるだけの時間しかない。
3 元気の出る学校づくり
(1)自立的な教育活動
・組織マネジメント
自己の校務分掌を楽しみながら責任を持ってプランニングする。
自分の分掌に関しては自分がリーダー(おいらが大将)
子どもを,職員をこう動かそう,こう実践しよう,という前向きな取り組みを。
「やらされる仕事」から「おいらが大将」でプランニング→楽しみながら仕事を。
(2)事実の共有
・実践を確かめ合う取り組み
・P―D―C―Aを全員で共有する。
4 学校組織変革の3つのポイント
・子どもの実態,課題,実践の情報の流通と共有を行う場をおく。(教育の事実を知り合う)・実態, 実践の事実を双方向に交換,共有する。(コミュニケーションの質と形態の改善)・実態,課題,実践 の共有を促す役割をもうける。(協働プロセス促進・支援機能の組み込み)
☆★☆ コメント ☆★☆
いつも紹介している参加報告である。感謝しながら読み解きたい。