(1)常識ぽてち
■チベット自治区
中国には本来の中国と呼べる地域とそうでない自治区があります。自治区を中国ではないというと中国からクレームがきそうですが、漢族による地域を中国とするならば、自治区は漢族とは別の民族で形成されている地域です。もともとは別民族の国だったものを中華人民共和国が吸収し、平和のためその民族に自治を任せようとするものです。
現在中国の自治区は5つあります。
1.内モンゴル自治区(首府:フフホト)
2.広西チワン族自治区(首府:ナンニン)
3.新疆(しんきょう)ウイグル自治区(首府:ウルムチ)
4.チベット自治区(首府:ラサ)
5.寧夏回族(ねいかかいぞく)自治区(首府:インチュワン)
この中で今話題となっているチベット自治区は中華人民共和国の西部にある自治区です。チベット自治区の北には新疆ウイグル自治区があります。東部は青海省と四川省に接しており、南側はインドとブータン、ネパールとの国境に接しています。
チベットは1950年以前は独立した国でした。しかしその後中国の軍事侵攻により中国の配下となりました。その後も多くのチベット人が中国軍によって殺害されたため1959年にチベット人が集まって蜂起、中国政府に抗議する行動に出ましたが、中国人民解放軍はこれを鎮圧。難を逃れたダライラマ14世と8万人のチベット人が北インドに亡命。ここにチベット亡命政府を置きました。
現在中国内のチベット自治区には自治政府はあるものの、国際的にはダライラマ14世率いる北インドの亡命政府がチベット政府と見る動きが優勢です。
ちなみにダライラマ14世はチベット仏教であるラマ教の宗主。ラマとは「師」を意味し、仏・法・僧の三宝に法を伝える「師」を加えて四宝とし、ラマ教はこれを伝える仏教系の宗教です。ダライラマは16世紀からチベットに君臨する宗主で、現在のダライラマは14代目となります。チベット教ではダライラマは生き仏として、また観音菩薩の化身として崇められています。
■新疆ウイグル自治区
前回、チベット自治区について取り上げましたが、チベットと同じく中国の自治区で問題とされるのが新疆ウイグル自治区でしょう。
新疆(しんきょう)ウイグル自治区はチベット自治区の北にあり、東に甘粛省、北東にモンゴル国、そのほかカザフスタン、キルギス、タジキスタン、インド・パキスタンなど多くの国と接している自治区です。多くの国と接しているということはそれだけで侵略と攻防・波乱の人生?を予感させる国であります。
新疆ウイグル自治区は東トルキスタンともいいます。つまり中国というより中央アジアの国トルキスタン。その東部分が現在中国領なので中国領トルキスタンともいいます。新疆とは「新しい地」という意味。もちろん中国にとって新しい領土という意味で使われています。
新疆ウイグル自治区は中国内の省・自治区の中では最大ですが、ほとんど砂漠であるためそれほど重要視されていませんでした。その証に中国では核実験のほとんどを人の少ないこの地域で行ない、地域住民への健康被害が懸念されています。しかしエネルギー資源である石油と天然ガスの埋蔵量が豊富であることが最近になってわかり、中国としては重要な地域になりつつあります。もちろん手放したくないところです。
新疆ウイグル自治区の人口は1900万人ほど。大部分がウイグル族(約45%)、漢族(40%)で占められ、続いてカザフ族が6%、回族が4%と続きます。土着民族保護のための自治区政策なのに、意外と漢族が多いのは、政策的な意図があることを物語っています。
政府中国共産党は自治区に移民を奨励していますが、これは漢族と土着民族の混血を多くし、民族の血を薄めるとともに漢族の血を拡大することで民族間の紛争を抑えようとするのが目的。
同時にウイグル族をはじめとする東トルキスタン民族を追いやり、東トルキスタンで培われてきた文化や言語、宗教も同時に薄めてしまおうとする政策。これは【民族浄化】と呼ばれています。
現在この自治区では、地球温暖化の影響とされる砂漠化の進行や漢族の大量流入、地下資源の開発と中国東部での一方的利用、そして中国共産党主導政府によるウイグル族弾圧が問題となっています。チベット問題が世間を騒がせていますが、いずれこの新疆ウイグル地域問題にも話題になることでしょう。
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(2)社会人の雑学
Q 江戸時代の人は、「何年前」というのをどうやって計算したの?
A 僕なりの推測です。恐らく干支(えと)を用いたのではないでしょうか。子、丑、寅、……の十
二支の方だけではなくて、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、……の十干とセットのほうです。ちなみに、甲子園は「甲子(きのえね)」という干支の年にできたからそう名づけられました。
今は、年賀状でおなじみの十二支はともかく、十干の方は影が薄いですが、西暦が採用される前は便利だったと思います。
たとえば、今年(2008年)の干支は「戊子(つちのえね)」ですが、10年前の1998年……戊寅(つちのえとら)20年前の1988年……戊辰(つちのえたつ)と、いずれも最初に十干の「戊」がつきます。だから、「戊」のつく年なら、10×n年前(nは整数)とすぐ分かります。
あとは、「甲子」のように「甲」がつく年なら、「戊」の4つ前ですから、(10×n+4)年前、「壬申(みずのえさる)」のように「壬」のつく年なら、「戊」の4つ後ですから、(10×n−4)年前といった具合です。
nの部分はどうするか? それは、十干の相棒の十二支で考えるのです。
例)キャンディーズが解散したのは何年前?
西暦なら、今年の2008年から、3人が普通の女の子に戻ると宣言したのが1978年だから「2008−1978」で30年前とするところですが、干支なら、さしずめ次のように。
――あれは確か、怪物と呼ばれた耳のでっかいピッチャーがタイガースにドラフトされユニフォームに袖を通すことなくトレードされた空白の1日事件があったのと同じ年じゃったなぁ。そうじゃ、戊午(つちのえうま)じゃ。
藤原道長が威子を後一条の皇后とし皇后・皇太后・太皇太后を全て自分の娘で占めた得意で「この世をば」の歌を詠んだ年や。
不平等条約を押し付けられた年、第一次世界大戦で景気がよくなったと思っとったのに米騒動でわやになった年なんかと同じ干支じゃ。
おっと脱線してしもうたわい。戊午ということは「午(うま)」じゃな。今の「子(ね)」から六つあとじゃから干支の相手としては三つ分前じゃな。ということは三十年も前のことか……。
面倒な感じがしますが、それは我々が西暦や算用数字に慣れているからでしょう。昭和でさえ、敗戦後しばらくまでは通知表が「甲、乙、丙、丁」と表示されていたことからすると、甲が1番目、乙が2番目、丙が3番目、丁が4番目、……というのは、江戸時代の人には生活のごく当たり前の知識として、考えなくてもパッと使えるものだったはずです。我々が、3の二つ後は5とすぐ分かるように……。
また、江戸時代は縦書きの漢数字で多変数の方程式や行列式に相当するものを扱った関孝和を輩出した時代です。一般の人の計算能力もバカにできないものがあったに違いありません。
ちなみに……、十干は日本史、中国史、朝鮮史を学ぶときに、ちょっと便利なことがあります。十個だから、次のように常に西暦の下一桁と一致するのです。
十干 甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸
西暦下一桁 4、5、6、7、8、9、0、1、2、3
たとえば、甲子園は、1924年(大正13年)にできました。「甲」だから4です。672年の「壬申の乱」は、「壬」で2。
「戊辰戦争は、大政奉還の1867年か明治元年の1868年かどっちだったっけ?」と迷っても、戊が8であることを思い出せば、すぐに1868年が正解と分かります。
朝鮮出兵とまとめられる1592年〜の文禄の役と1597年〜の慶長の役、朝鮮・中国で「壬辰倭乱」と呼ばれるのはどっち? となれば、壬は2ですから文禄の役と断定できるわけです(慶長の役の方は、丁酉倭乱で「丁」の7)。
さらに、ちなみに、明治時代に一世一元の制が定められる前の元号は、天皇践祚(せんそ:新しい天皇の即位)以外にも、甲子改元(こうしかいげん:干支が最初に戻ったときに元号を変えること)、辛酉革命(しんゆうかくめい:辛酉という干支の際に天命が改まるとされていた)などの際に改められるのがほぼ定例となっていました。