(1)JMM [Japan Mail Media] No.565 Monday Edition 2010年1月4日発行
■■ 編集長から(寄稿家のみなさんへ)■■
Q:1044への回答ありがとうございました。NHK教育テレビで3夜連続で再放送された「日本と朝鮮半島2000年」は、見応えのある番組でした。唐と新羅との外交から読み解く大化の改新、渤海と日本海沿岸との交流なども興味深い内容でしたが、やはり圧巻は、元寇、倭寇、秀吉の朝鮮出兵、朝鮮通信使と続く中世・近世の激動の歴史でした。新しい研究の成果を踏まえたグローバルな構成で、歴史は時間軸だけではなく空間軸でも相互に影響し合うという、まさにパラダイムの変換を促す内容だったと思います。
Q:1044
日本社会に貧富の格差が広がっているという指摘が目立つようになりました。国家は、貧困に対して、どの程度の、またどういった形での責任を負うべきなのでしょうか。
■ 真壁昭夫 :信州大学経済学部教授
経済が高い成長を達成する局面では、人々に分配されるパイ=経済的なベネフィットが増加しますから、多くの人にその分配が行き渡るはずです。ところが、経済が相対的に成長率の低い安定成長期に入ると、パイ自体が増えませんから、追加的に分配されるベネフィットが減ることになります。そうなると、どうしてもパイの配分が少なくなってしまう人や、配分を受けられない人が出てくる可能性は高まります。
国民全員が経済的に恵まれることは、確かに好ましいことだと思います。また、経済的な格差を是認するつもりはありませんが、わが国の経済がかつてのような高い経済成長を達成できた時期を経て、現在は安定成長期に入っていることを考えると、ある程度の貧富の差ができることは避けられないのではないかと思います。
また、わが国社会の高齢化が、統計的に貧富の差を大きく見せているとの指摘もあります。国際的に貧富の格差を表す指標の中に、OECDによる相対的貧困率という指標があります。相対的貧困とは、国民全体を所得順に並べて、真ん中となる順位の人の半分以下しか所得がない人を貧困層と定義して、その比率を算定するものです。簡単に言うと、平均所得が430万円だとしたら、215万円以下の所得層が全体のどれだけの比率を占めているかを算定するものです(今年10月、構成労働省がその統計を公表しています。
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2009/10/h1020-3.html )。
近年、わが国では、所得が相対的に少ない高齢者世帯数が増加していることもあり、相対的貧困率が上昇しているとの見方もあります。
政府は貧困に対して、どこまで責任を持つべきかという点については、様々な意見があると思います。私は、政府は三つの点で明確な責任を持つことが必要と考えます。一つは、経済の発展を促して、社会全体が享受できるベネフィットを拡大することです。具体的には、国民のベネフットの源泉を提供する企業が収益を上げ易い環境つくりです。企業の自由な活動を促進したり、国際市場で競争する場合、他国企業と比べて不利にならないような状況を提供することです。
現在、わが国の法人税の実効税率は約40%といわれています。一方、IT分野などで、わが国のライバルである韓国の法人税率は約26%だそうです。勿論、表面的な税率だけで、企業の税負担をみることは必ずしも適切ではないかも知れませんが、企業の税負担がそれだけ違うと、設備投資にまわせるキャッシュフローは、当然、差が出ることになるはずです。そうした状況を放置しておくと、わが国の企業の競争力が減殺されて、経済の活力を奪ってしまうことにもなりかねません。
二つ目は、機会の平等化です。国民一人一人が、平等なチャンスを持てる環境を提供することです。特定の人や、特定の条件を持った人だけに、チャンスをつかむ機会が集中することはフェアーではありません。国は、全ての人が、教育や職業等を選ぶ際に自由に機会を選択することができるようにすることが必要です。
ただ、自分で選択した結果については、それぞれの状況によって差が出ることは仕方がありません。そこまで、国が責任を持つ必要はないはずです。例えば、ある機会を選択した人の中で、一生懸命努力した人と、努力を怠った人では、結果に差が出ることはむしろ当然といえるかもしれません。
三つ目は、セーフティーネットを作ることです。国民が安心して生活を営むことができるように、本当に経済的に困った人々を救済する仕組みを作るのです。社会の中で成功した人々と、結果として上手く行かなかった人、あるいは、挑戦することも難しい条件の人がいます。その中で救済が必要な人々に、国が最低限の文化的生活を営むための支援を提供する制度を運営することは必須の要件だと思います。
国が公的存在として、国民に経済的な支援を差し伸べることは意外に難しいことかもしれません。かつて、「ゆりかごから墓場まで」といわれた社会保障が充実した国では、人々の労働意欲が減退したということもあったようです。英国の首相だったサッチャーは、「金持ちを貧乏にしても、貧乏な人が金持ちにはならない」という指摘をしました。基本的には、人々は自助努力の原則に基づいて活動を行うべきだと思います。その中で国は、マクロ経済の成長、機会の平等、セーフティーネットつくりの三つを基本とした政策を実施することで、自助努力と公的支援の均衡点を見出すことが必要だと考えます。
(2)教育情報 Magazine/ある小学校教師の独り言 Vol.260 2009.12/29(TUE)◆
「私の教材開発物語」その3(連載 全3回)
教材開発の楽しさ3 〜ふと,アイデアをひらめいた瞬間〜
岡山県教育委員会津山教育事務所教職員課 高岡昌司
お待たせしました。
高岡さんの連載最終回です。
中身が濃い小論です。じっくりお読みください。
いよいよ最終回です。私の教材開発物語シリーズは当初,計画していた内容と随分違う内容になってしまいました。不思議なもので書いているうちにふと思いつくことがありました。教材開発も同じで,日頃から常に教材になるものはないかと意識をしているとある時パッと閃くことがあります。本シリーズで,教材を過去・現在・未来と分けてみたのもふとしたひらめき,思いつきです。こんな経験は,なにか楽しいものです。
ただ,やはり,何気にぼうっとしているだけではアイデアは閃くものではありません。私の経験によると,ひらめきには,いくつかの視点が必要だと思います。
第3回は,社会科の教材開発を例に,私なりの3つの視点について紹介します。
かなり前のことですが,5年生の運輸の学習と言えば,宅配便の授業が花盛りでした。宅配業界は当時,大変な急成長中,急激な右肩上がりのグラフを示すことが授業の導入の定番でした。しかしながら,このことに対して,兵庫教育大学教授の岩田一彦氏は,「運輸は,生産者と消費者を結ぶことが本質である。」と社会科教育雑誌で主張をされていました。
私は宅配の授業は,確かに調べやすく楽しいが本質からずれているのではないかと思うようになりました。この記事を目にして以来,ずっと,生産者と消費者を結ぶものという視点で周りを見るようになりました。ある日曜日,私は勤務校の近くで,観光バスから降りた一団が地元のナス畑に向かっている場面に遭遇しました。聞くと,生協の産直の取り組みで生産者を訪ね,ナス料理を味わうというツアーでした。私は,“これだ!”と思いました。地元で生産されたナスが産直として関西圏へ運ばれている。その仕組みを教材化しようと閃いたのです。岩田理論を意識したことで新たな運輸の教材として提案できました。
視点その2 現在進行形(未完成・未実施)の事象に目を向ける
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中学年では公共施設の学習があります。一般的には地域の公民館や図書館を事例として取り上げます。もちろんそれもOKですが,私は子どもたちがワクワクドキドキしながら学習するには何か物足りないと思っていました。
そんな時,中央公園の隣の空き地に遊具広場ができるという話を耳にしました。私は“これだ!と思いました。この空き地にどのような物を作ったらいいか,子どもたちに考えさせることで,公共施設の意味や役割を学べると思いました。子どもたちには遊具広場ができることは内緒にして,空き地利用について,役場へ提案しようと呼びかけました。
子どもたちは普段利用する公園の隣ということで大いに盛り上がりました。公園の利用者や既存の設備などをもとに,町にとってこれから必要なものを議論しました。実際の提案では,役場の方から予算の面から厳しい現状を教えていただいたり,幼児の為の遊具やお年寄りの散歩コースなどはアイデアとして取り入れたいという前向きな意見をいただいたりすることができました。
年度が替わって空き地に遊具広場が設置されたことを子どもたちは大変喜んでいました。
既存の事象だけでなく,現在進行形や未完成の事象には夢があり,子どもたちの社会参画
(提案)への意欲を高めました。
食材は同じでも,料理法を変えることで,味やその食材への認識等,新たな面を見出します。私は以前,地元のケーブルテレビを取り上げて,3年生のくらしのうつりかわり単元と5年生の情報通信単元で教材化しました。
3年生では,ケーブルテレビが電話やテレビの融合したもので道具のうつりかわりとして発展してきたこと,5年生では,地域のネットワークとして地域の情報化を考える具体的な事例として教材開発を行いました。どちらもケーブルテレビの番組づくりを中心活動としました。3年生ではくらしの変化を考え,5年生では地域にとって必要な情報とは何かを議論しました。
同じ教材でも切り口を変えることで,教材の新たな魅力を感じることができました。教材開発というとこれまで扱ったことがない何か新しいものというイメージがありますが,同じ教材でもアプローチの仕方をかえることで,“これだ!”という再発見ができました。
教材研究の楽しさの最終回では,私がアイデアを閃いた事例を概略的に紹介させていただきました。いずれも教師が本気になったものは,子どもも本気になることができるということを学びました。ただ,社会科教師の悪い癖は,教材研究に熱心になるあまり,調べたことやわかったことをすべて子どもに教えたいと欲張ります。その結果,教師がしゃべりすぎる授業や,子どもの思いから外れた授業になりやすい傾向があります。私自身の自戒を込めて感じたことです。
教材開発は,教師にとってこの上ない醍醐味です。子どもたちにとって価値ある教材がひとつでも多く生まれることを願っています。ともにがんばりましょう。
※5年情報単元ケーブルテレビの実践は「学び合い,分かり合う授業づくり」(明治図書)に,また,6年裁判員制度,中学年火事の実践が「授業づくりネットワーク(2009年9月号,12月号)」(学事出版)に掲載していただいています。
(3)知らなきゃ損する!面白法律講座 2009年 12月28日 第514号
法律クイズ 第188回 【問題】
「『又は』と『若しくは』の違い」
醤油ラーメン・味噌ラーメン・うどんの3つが、どれも蕎麦ではないことを法律上正しい文章であらわしているものはどちらでしょうか?
1. 醤油ラーメン 若しくは 味噌ラーメン 又は うどん は、蕎麦ではない。
2. 醤油ラーメン 又は 味噌ラーメン 若しくは うどん は、蕎麦ではない。
■ 法律クイズ 第188回 【解答】
「『又は』と『若しくは』の違い」
1. 醤油ラーメン 若しくは 味噌ラーメン 又は うどん は、 蕎麦ではない。
「又は」と「若しくは」は、どちらも選択の働きをする接続詞です。ただし、法律上の文章において、両者は明確に区別されて用いられています。
「又は」は、大きい選択の段落に用い、「若しくは」は、それより下位の小さい選択に用いる用語です。
よって、醤油ラーメンと味噌ラーメンとうどんを選択的に結合する時は、「醤油ラーメン 若しくは 味噌ラーメン 又は うどん」が正しい使い方です。
実際に、両者が用いられている例としては、以下の憲法38条2項があるので、確認してください。
・強制、拷問「若しくは」脅迫による自白「又は」不当に長く抑留「若しくは」拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。