(1) Japan On the Globe(635) ■ 国際派日本人養成講座 ■
国柄探訪:アイヌとの同化・融和・共生の歴史
「もののわかった人は、私たちアイヌを本当の日本人として尊敬してくれました」
■1.「先住民族の権利に関する国際連合宣言」
平成20(2008)年6月6日、衆参両議院において、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で可決された。それは次のような文章から始まる。
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昨年9月、国連において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が我が国も賛成する中で採択された。これはアイヌ民族の長年の悲願を映したものであり、同時に、その趣旨を体して具体的な行動をとることが、国連人権条約監視機関から我が国に求められている。
我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながら差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない。
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この「国際連合宣言」では、第28条で、先住民族が奪われた土地や資源に関して「原状回復」またはそれに見合った公正な補償を与えることを定めている。
これによれば、アメリカ開拓民に追われたインディアン、オーストラリア開拓民に虐殺されたアボリジニは、天文学的な補償を受ける権利を有するわけで、当然ながら、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどは反対した。
我が国の国会決議には、これらの白人開拓民と同様の差別行為や収奪行為を、日本人がアイヌ人に対してなしたという前提がある。実際に、この決議のあと、旭川アイヌ協議会は「政府と天皇の謝罪」「土地、資源などを奪ったことへの5兆円賠償」などを要求する申し入れ書を内閣官房アイヌ政策推進室に提出している。
今回は「多数のアイヌの人々が・・・差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史事実」が本当にあったのか、史実を辿ってみたい。
■2.「血の繋がったいとこ同士」
かつての人類学では、毛深いなどの身体的特徴から、アイヌ人を白人種とする説もあったが、現代では遺伝子分析などの科学的な手法によって、アイヌ人も沖縄人も和人と同じ起源であることが明らかになっている。
それによると、かつて日本列島には古モンゴロイドに属する縄文人が住んでいたが、アジア大陸内部で寒冷適応した新モンゴロイドが朝鮮半島や南西諸島を経て日本列島に入り、縄文人と混血しながら弥生文化を発展させ、和人に小進化した。
一方、日本列島東部に居住していた縄文人は、新モンゴロイドと混血することなく、その多くの特徴を残している。これがアイヌ人である。[1,p107]
言語的にも、かつてはアイヌ語は現代日本語とはまったく別の言語であるという説が広まっていたが、コンピュータ解析によって、アイヌ語は日本語に最も近い言語であるという報告がなされている。
梅原猛らの研究によっても『古事記』や『日本書紀』『万葉集』などに見られる古い和語にアイヌ語によって説明解釈できる言葉が多くあることが明らかにされている。したがって、アイヌ語も日本語も同じく縄文語を起源としつつ、その後、分化したものと考えられる。
すなわち、アイヌ人と和人はもとは同じ縄文人を起源としているが、その歴史の過程でやや異なる発展をしてきた。それは「血の繋がったいとこ同士」とでも言うべき関係で、決してアメリカ開拓民とインディアンのような「赤の他人」の関係ではない。
■3.アイヌ人と和人の混住と経済的結びつき
アイヌ人と和人は、古くから混住し、盛んに交易を行いながら、共生してきた。『宋書』『旧唐書』(倭国日本伝)など中国の5世紀から7世紀の歴史書は、古くからアイヌ人と和人が混住してきたことを伝えている。『日本書紀』の斉明天皇3(657)年の記載からは、7世紀中ごろには現在の北海
道後志(しりべし、小樽などを含む南西部)に行政府がおかれ、盛んに交易していたことが窺える。
函館市の船霊神社の創立は保延元(1135)年であり、その他にも7,8百年以上の歴史のある神社が北海道沿岸部には複数ある。仏寺も永享5(1434)年、函館市に隣接する北斗市に海渡山阿吽(あうん)寺が移入建立されたのが最初である。
康正2(1456)年、現在の函館市にあたる場所で、アイヌの青年が和人の鍛冶屋に短刀を作ってもらったが、値段や切れ味の問題で言い争いになり、鍛冶屋はアイヌの若者を刺し殺してしまった。これをきっかけに東部の首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、戦端が開かれた。これがコシャマインの乱である。
この背景の一つには、和人とアイヌ人が大規模に混住し、経済的にも密接な繋がりを持っていたということがある。アイヌ青年と和人の鍛冶屋が取引を巡って争いになったということ自体が、日常的なつながりがあった事を示している。
また当時、和人の方でも複数の勢力に分裂して、交易利権を争っていた。乱の後、松前港の利益は東西二人の大酋長に分配され、和人側は武田信広を始祖とする蠣崎氏が、分裂していた和人勢力を統一したが、支配地は三分の一に減ってしまったという。
■4.松前藩の経済的支配
アイヌとの交易を一本化した蠣崎氏は、徳川家康から一万石の大名に格付けされ、姓を松前に改め、北海道での貿易の独占権を与えられた。一万石といっても、米は取れないので、家臣には知行地のかわりに、アイヌとの交易地を与えた。松前藩はアイヌを支配したわけではなく、交易を通じて共存していた。アイヌからの毛皮や熊の胆などを、米、酒、茶、菓子、衣服、日本刀、陶磁器などの内地商品と交換していた。
和人の経済的影響力が強まるなかで、和人と融和し、その文化を積極的に取り入れ、改革しようとする沙流川流域(さるがわ、道央南部)の大酋長オニビシと、これに反対する東方の大酋長カモクタインの部族間抗争が起こった。カモクタインの後継者シャクシャインがオニビシを倒し、さらに松前藩に弓を引いたのが、寛文9(1669)年の「シャクシャインの蜂起」である。
この戦いにシャクシャイン側が破れ、松前藩の支配が確立して、各地に場所請負制が敷かれた。そして松前藩やその家来たちが商人に請負人として経営を委託した。請負人はアイヌ人に対して過酷な搾取を行ったが、藩主やその家来は、彼らから多くの借財があって、口を出せなかった。
■5.幕府のアイヌ保護政策
江戸幕府は寛政11(1799)年、場所請負人の横暴を断ち、過酷なアイヌ使役を緩和しようと、アイヌとの直接交易を開始した。さらに文化4(1807)年、蝦夷地全域を直轄地とし、その後、松前藩への復領、再度の直轄と揺れ動いたが、アイヌ保護政策は一貫していた。直轄地とした際に、幕府は次のような申渡しを請負人とアイヌ双方に出している。[1,p43]
労働政策: アイヌへの適正な賃金支払いと過酷な使役禁止のために、役人に監督させた。
人口維持政策: 若い男女に結婚を奨励し、そのために酋長が多くの妾をもつことを制限した。また幼児の保護を行い、医療施設を設置し、種痘を実施した。老幼不具者の困窮を救い、家屋の改善を図って、不衛生な生活を改めさせた。
同化政策: 請負人によって禁じられていた日本語の使用を許可し、望む者には文字を習わせた。入れ墨や耳輪を禁じ、髭を剃らせ髪を結わせるなどの教導に努めた。
特にアイヌ習俗を改めることについては、「古来からの風習を改めるのであるから、にわかに信服するはずもなく、まず衣食住の生活に便利なることを明らかにし、内地から移住した農民共の生活を標準に、追々馴染ませるように仕向け、御趣意柄を会得したアイヌから漸次に改俗させるよう取計らうこと」とし、強制しない方針を明らかにしている。