5 江南市縁の七人の戦国武将 −ブログより−
(1) 浅野 長政
江南市縁の七人の戦国武将から、浅野長政を紹介します。
江戸時代の「浅野家」で最も有名なのは、あの忠臣蔵の浅野内匠頭(浅野長矩)ではないでしょうか。
その赤穂の浅野長矩は、浅野長政の三男長重を祖とする、広島浅野家の傍流の一つです。
江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。
天文13年(1544年)出生・丹羽郡宮後村宮後城〔蜂須質屋敷〕(現江南市宮後町)
幼名・長吉、弥兵衛、弾正小弼、従五位下、追賜従三位
『文禄二年甲斐国 22万5千石』賜つ
慶長16年(1611年)67歳 逝去
筆頭五奉行・浅野長政は、宮後城・安井家で生まれました。(他説あり)
安井家は、蜂須賀小六の母の実家です。
この後、織田信長の家臣で、叔父の浅野長勝の娘と結婚し、婿養子となります。
この浅野長勝は、秀吉の妻・ねねの養父。すなわち、ねねと長政は義理の姉・弟(妹・兄説も)なのです。当然のように、秀吉にかわいがられます。
1573年、27歳の時には浅井・朝倉攻めに従軍しています。そこでは近江国内に120石を与えられました。
その10年後には、賤ヶ岳の戦に従軍し、近江・坂本城主として2万石を与えられました。
この「坂本」は、坂本龍馬の祖先の出身地といわれています。
秀吉に命ぜられて太閤検地を実施したのもこのころです。
4年後には、若狭国一国(8万石)城主となります。
1590年、秀吉が全国統一した小田原城攻め、奥州仕置でも陸奥国岩代へ出陣します。さらに、朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)でも軍監として従軍します。
1598年には、五奉行の筆頭になります。五奉行とは、豊臣秀吉が晩年設置した職制で、前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家の5人。いわゆる文治派で、関ヶ原の戦いの遠因になります。
豊臣秀吉死没後は、かねてより友好関係にあった徳川家康に接近。1599年、関ヶ原の戦の直前には、前田利長らとともに家康から暗殺の嫌疑をかけられて甲斐国に謹慎を命じられました。
これは、増田長盛が政敵である長政の失脚を狙ってのものですが、実力者である長政を石田三成ら奉行衆から引き離すための家康の謀略だったという説もあります。家康なら、十分あり得ることでしょう。
隠居し、家督を子の浅野幸長に譲ります。
関ヶ原の戦では東軍に属し、戦後は子の浅野幸長が紀伊国和歌山37万石を拝領し、和歌山城主になります。
長政は、隠居料として常陸真壁に5万石を支給されましたが、1611年、64歳で江戸で亡くなりました。
死没後、常陸真壁の5万石は三男の浅野長重が継承しました。赤穂浪士の主君浅野内匠頭はその子孫です。
一宮の浅野公園は、尾張浅野氏発祥の地です。
浅野長勝やその子長政の屋敷があったと伝えられており、庭園式公園として整備されました。
広さは約9200平方メートル、公園の周りは堀で囲まれ、木々がたくさん植えられています。
(2)蜂須賀 家政
江南市縁の七人の戦国武将を続けて紹介しています。今回は蜂須賀家政です。
江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。
永禄元年(1558年)出生・丹羽郡宮後村宮後城〔蜂須賀屋敷)(現江南市宮後町)
幼名・小六、彦右衛門、蓬庵、従五位下阿波守
『徳島藩祖 25万石』賜う
寛永15年(1638年)81歳 逝去
江南の七夕祭りでは、多くの阿波踊りの連が出ます。この4年間、私も教員チームの一員として参加しました。鳴子踊りに比べて動きは単純。しかし、本場では奥の深い阿波踊りが演じられています。
でも、なぜ江南で阿波踊り?
ここに、江南市生まれの蜂須賀家政が登場します。
蜂須賀家政は、尾張国の川並衆棟梁、あの蜂須賀小六の嫡男です。1558年に、小六の母の在所である安川氏宅(今の江南市宮後)で生まれました。
家政の母は、宮後八幡社々家三輪若狭の妹まつ(後の大匠院)といわれています。家政は幼児期を宮後で過ごし、三輪氏の檀那寺である曼陀羅寺本誓院へ預けられ、学問を学びました。
当時、彼が使用した机が、今も大切に保管されています。
1565年頃(8歳)頃、父蜂須賀正勝(小六)が木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力となります。
その舞台が小折の生駒屋敷で、吉乃の仲立ちだと言われています。
生駒屋敷には、今では歴史上の人物が、ごろごろと集ってきていたのです。
ここが歴史のロマンですね。
さて、蜂須賀小六はもちろん、家政も秀吉の家臣です。
これが、後々に影響します。
家政は、13歳で姉川の戦で初陣、その10年後には父に従い、秀吉の中国攻めに参陣しています。
1583年(27歳)には賤ヶ岳の戦に参陣し功を挙げ、翌年には、父 蜂須賀正勝が播磨国の龍野城主となる折に、播磨国佐用郡に3千石を与えられました。
その後、蜂須賀正勝が阿波国一国18万石を配されることになりましたが、高齢を理由に家政が拝領しました。そして、渭津を徳島と改名し、徳島城を築城しました。この徳島城の竣工の際、工事に従事した町民たちが家政に酒を振舞われ、二日間に渡り踊り騒いだのが、阿波踊りの始まりだったと言われています。領民も連れて行っているので、もとは、尾張で踊られていた踊りが原型ではなかったかという説もあります。だから、江南でも阿波踊りが踊られるのです。
1586年には、父蜂須賀正勝が大坂で死去しますが、その後、九州攻めや小田原攻めで功を立てます。
朝鮮出兵では、前回登場した浅野長政幸長を助け出すという武功を挙げました。しかし、これにより、石田三成により懲罰を受けました。この事件も、歴史のカギになります。
そして問題の関ヶ原。44歳の時です。
豊臣に大恩のある家政は西軍に味方しなければいけませんが、石田三成は嫌い。どちらが勝っても、家は守りたい。
そこで、家臣を大坂に派遣し、西軍に付いたふりをして、自らは剃髪して高野山に。子の蜂須賀至鎮を東軍につかせます。なぜなら、至鎮は、徳川家康の娘(養女)婿として差し出していたからです。
これで、どちらが勝っても言い訳が出来ます。
結果はご存じ、東軍の勝利。
蜂須賀至鎮が東軍についたおかげで、戦後も蜂須賀家が阿波国を治めることが出来ました。
1614年(58歳)大坂冬の陣でも、やはり大恩のある豊臣氏は裏切れません。大坂方につこうとしますが、子の蜂須賀至鎮の説得により徳川方に味方します。夏の陣の後、淡路国一国を加増され、25万7千石となります。
豊臣氏の滅亡には、家政は複雑な思いだったのでしょう。
子の至鎮は名君といわれましたが、もともと病弱であり、父より早く亡くなってしまいます。
再度、家政が阿波を守ります。
波瀾万丈の人生です。
秀吉にかわいがられ、大きな恩を感じながらも、時代の流れを見ながら行動する。戦国の世で生き残るすべなのでしょう。
家政は、郷土にも大きな恩を感じています。
母の大匠院が信仰し、安産祈願をされた常蓮寺の如意輪観音を思い起こして、堂を寄進しています。
さらに、宮後八幡社を再建、曼陀羅寺正堂を再建しています。
歴史はロマンです。
(3)前野将右衛門長康
江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。
大永8年(1528年)出井・丹羽郡前野村(現江南市前野町)
幼名・小太郎、小右衛門、勝右衛門、将右衛門、従五位下
『豊臣秀次後見役』『但馬守出石城主 10万5千石』賜う
文禄4年(1595年)68歳 逝去
前野長康も時代に翻弄された武将です。
1528年に、木曽川の川並衆、前野家に生まれました。(異説あり。本名は坪内光景。前野氏の養子になる)
1565年頃、蜂須賀正勝らとともに、9歳年下の木下藤吉郎の与力となります。後の秀吉の最古参の家来なのです。
1583年、賤ヶ岳の戦後、播磨国三木郡1万3千石を拝領し、三木城代になります。
その後、小牧・長久手の戦、阿波国木津城攻めなどで貢献し、但馬国出石に5万3千石に加増転封となり、有子山城主になります。
この後も、小田原城攻め、文禄の役に参陣するなど、常に豊臣秀吉を支えます。これらの功により、但馬国出石、11万石に加増されます。
聚楽第造営の奉行、後陽成天皇行幸の饗応役も務めています。
その後、関白豊臣秀次付家老となります。まさに、最も信頼されていた家臣と言えるでしょう。
そして事件が起きます。
1595年、長康68歳の時、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられました。秀次は、秀吉の姉・智子の子です。
実子・鶴松が亡くなった秀吉は、子供をあきらめたのか、秀次に関白職と聚楽第を譲りました。しかし、秀頼が生まれると秀頼を後継者にするため、「秀次に謀反の疑いあり」としたのです。
これが秀次事件です。高野山で切腹させられ、秀次の家族及び女人ら39名も三条河原で処刑されるました。このとき、長康、そして子の景定も秀次の弁明を行ったことから罪を問われ切腹させられたのです。
秀次謀反の史料的裏付けははっきりしていませんが、根本原因に秀頼が生まれたことにあることは間違いありません。これに伴い、淀君、石田三成?が何らかの動きをしたのかもしれません。
もっとも、秀頼の本当の父は、秀吉だったのかどうかも疑問の声が出ています。180cmを越える長身と美形の秀頼は、秀吉と似ていないという理由です。
本当の父は、大野治長説、名古屋山三郎説、石田三成説といろいろです。
いずれにしろ、秀次事件が豊臣家臣団の亀裂を決定的にし、これが関ヶ原の戦いの一因となったのです。
『武功夜話』は、前野家文書の一つです。特に、『武功夜話』のうち、五宗記は長康の日記でありますが、長康は、いわゆる自害させられた側の歴史となるので、人目に触れないよう伝えられたといわれています。その内容は、いろいろな出来事がリアルにいきいきと書かれています。
6 研究会紹介
(1)第21回授業実践フォーラム
期日:平成25年6月1日(土)・2日(日)
テーマ:今,子どもたちに付けるべき力とは
参加費:3000円
6月1日(土)
・課題講演:福澤光祐(国立教委育政策研究所教育課程研究センター課長)
・基調講演:梶田叡一(人間教育研究協議会代表)
6月2日(日)
・授業ビデオ公開&シンポジウム
・授業実践特別講座
・授業実践講座
(2)研究発表会
6月22日(土) 岐阜大学教育学部附属小学校 中間研究会
6月23日(日) 岐阜大学教育学部附属中学校 中間研究会
6月29日(土) 岐阜市立加納小学校
(3)平成25年度おもしろ学校
第1回 国語
いつも国語の世界を興味深く広げてくださる三浦光俊先生がお送りするテーマは「想像を広げて詩の世界を味わおう」です。
◎たった一行しかない詩からどれだけのことが読み取れるか挑戦です。
... 一瞬で違う世界にワープできる詩、日常の時間や理(ことわり)を超える世界に連れて行ってくれる詩との出会いを楽しみにしていてください
日時 :平成25年5月24日(金) 18:30より受付開始
19:00より柴田校長の挨拶に続いて授業に入ります
21:00からは場所を変えて「給食の時間」もあります(費用別途)
同じ学びを通じてより懇親を広げる場をつくり、食を通じてより豊かな人格や友情 を育みたいと思います
会場 :ウインクあいち 903号室
定員 :国語の授業 75名
給食の時間 40名程度
※どちらも予約先着順で募集を打ち切らせていただきます
参加費 :志友会会員の方は無料です
一般の方は1授業2千円(年間一括払いなら8回分で8千円です)
申し込み:おもしろ学校運営委員会 TEL 052-453-0037
FAX 052-485-8739
mail shiyuukan@gmail.com
名古屋市中村区椿町21−2 第2太閤ビル7階 志友館内
土井は、9月におもしろ学校で授業を行います。