《 生駒 親正 》
江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。
大永6年(1526年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町)
幼名・近正、正成、甚助、七郎左衛門、従五位下
『雅楽頭親正初代高松城主 17万石』賜う
慶長8年(1603年)78歳 逝去
この生駒親正も信長、秀吉に仕え、それ故に関ヶ原で苦悩した武将です。
1526年、美濃国の武士、生駒親重の子として生まれます。その後、父とともに織田信長に従い、稲葉山城攻め、長篠の戦いなどで活躍します。
本能寺の変後は、秀吉の家臣となり、山崎の戦、賤ヶ岳の戦に参陣し、功を挙げます。
60歳にして、近江国高島郡に2万石を拝領し大名になります。その後、加増されながら、伊勢国神戸城主、播磨国赤穂、さらに讃岐国一国17万6千石と出世します。
高松城を建て、小田原城攻め、文禄の役に参陣します。
そして、三中老のひとりなります。
三中老(小年寄)とは、後の五大老・五奉行と呼ばれた側近に加え、その仲裁役のような存在でした。
生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の3名が任命されています。
ただ、3名が揃って活動した形跡は見あたりません。
ご存じのように、堀尾吉晴は今の大口町の生まれです。
五大老・五奉行の争いが一因になった関ヶ原の戦。どちらに付けばよいか苦悩します。
岐国という地理上、そして秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが自らは病気を装い本戦には参加しません。さらに子の生駒一正は東軍につかせます。
結果はもちろん東軍の勝利。生駒家は安堵されます。
高松に居城を築城し、高松市の基礎を築いた親正は、1603年、江戸開府の翌日に78歳で亡くなりました。
ちなみに、信長の室となった吉乃は、親正の娘だったという説や、兄嫁だったという説があります。
秀吉恩顧の武将は、関ヶ原ではたいへん苦悩したのです。
《 織田 信忠 》
江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。
弘治3年(1557年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町〕
幼名・奇妙丸、菅九郎、秋田城介
『従三位左近衛中将 岐阜城主』賜う
天正10年(1582年)26歳 逝去
信忠は、信雄・徳姫(見星院)同様、信長と生駒吉乃との間の子であり、信長の嫡男です。
15歳で浅井長政を攻め、その後長島一向一揆攻め、長篠の戦いに従軍します。18歳で信長より家督を譲られ、尾張、美濃を領し岐阜城主となります。25歳では武田勝頼を攻め、先鋒として功をあげました。
しかし、本能寺の変では、二条御所にこもって明智光秀軍と戦い、自刃しました。
歴史に「もし」は禁句と言われていますが、私はそうは思いません。いろいろな状況を総合的に考えるトレーニングができると考えています。もちろん正解はありませんが・・・
もし、信忠が二条城を脱出していたら・・・・
天才の2世の割には優秀だといわれた信忠のことです。あと取りとして、他の家臣団に命じて光秀を討伐したでしょう。秀吉といえども、信忠には逆らえません。
織田家とその家臣団による天下統一の可能性は高かったと思います。
そして父の出生地である那古野城に幕府を開くのです。名古屋幕府です。
名古屋時代の繁栄は続き、今も日本の首都は名古屋になっているのです。
などと、勝手な想像は楽しいですね。
《 織田 信雄 》
最後は、織田信雄です。
一昨年、NHK「江〜姫たちの戦国」では、山崎裕太が演じていましたね。番組HPには次のように書かれていました。
信長の次男。本能寺の変の後、明智軍を攻めようと進軍するが、兵数が心もとないと撤退。清洲会議で織田家後継者の道を完全に断たれるが、のちに家康と組み、秀吉に対抗する。
江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。
永禄元年(1558年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町)
幼名・茶筅丸、伊勢北畠具房養子具豊、信意、信雄、侍従中将、中納言内大臣
『正二位清洲城主 100万石』賜う
寛永7年(1630年)72歳 逝去
この信雄も、他の尾張の武将と同様、豊臣と徳川の争いに翻弄されます。
信雄は、信長の第2子。もちろん吉乃の子です。信長は伊勢平定のため、信雄を北畠具房の養子としました。
長島一向一揆や雑賀衆、伊賀攻めに、弟の信孝と共に参戦します。本能寺の変の後には、尾張、伊勢、伊賀の100万石を得て、織田姓に戻ります。
賤ヶ岳の戦いでは秀吉に味方し、柴田勝家に付いた弟信孝を攻めて岐阜城を包囲、野間大坊に送り自害させています。兄弟といえども厳しい世界です。
この後、秀吉からの大坂城への招待を拒否し、対立します。信長の後継者を自認する信雄にとって、秀吉のとった行動は許せないものでした。
秀吉が信雄を攻撃するのに対し、信雄は徳川家康と同盟を結びます、というより助けを求めます。これが小牧・長久手の戦いとなります。
家康が清洲城に到着した日、織田氏の家臣・池田恒興が羽柴軍に寝返り犬山城を占拠します。
池田恒興は、姫路城を造った池田輝政の父です。
生駒屋敷(小折城)にいた信雄を訪ねた家康は、二人で富士塚古墳に登って、秀吉側の動きを偵察したと言われています。
結果的に、領地を一部減らして秀吉と和睦。長女(小姫)を秀吉の養女に出し、その小姫は徳川秀忠に嫁ぎます。豊臣と徳川の間の微妙な位置関係に立ちます。
その後も、豊臣と徳川の間を立ち回り、子孫を存続させています。
優秀といわれた兄・信忠は早く命を落とし、それほどではなく、一部では「暗愚の将」とさえ言われた信雄の家系が続いていくのは皮肉です。
叔父有楽に茶を学び、茶道、和歌、歌舞に巧みな風流人でもあったそうです。
《 織田 有楽斎 》
犬山ホテルの敷地内にある茶室「如庵」。現在、国宝に指定されています。その如庵を建てたのが、織田 有楽斎、織田 長益です。
東京の「有楽町」の名の起源である織田 有楽斎。(異説あり)
織田信長の実の末弟(13歳下)で、甥の信雄も慕っていました。
信雄の兄、信忠に、二条城で自害をすすめた人物といわれています。自らは、二条城を脱出しました。これも異説ありですが・・・。
小牧・長久手の戦いでは、秀吉と家康の仲介役も務めています。信長の実弟だからこそできることです。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、西軍の有力武将・蒲生真令を倒す活躍を見せますが、悲しいかな、淀君は姪っ子。豊臣にも力を貸します。
大阪の陣では豊臣に付いていましたが、最後は離れます。その後は京都に隠れ、茶道に専念し、趣味に生きました。
京都建仁寺の正伝院を再興し、そこに建てた茶室が「如庵」なのです。
この織田 長益も、今回のテーマである、豊臣と徳川の間に揺れた一人といえるでしょう。
その結果、子孫は続きました。
「勝(か)ち馬(うま)に乗る」といいますが、戦国武将が有利な方につくのは、生き残る術なのです。