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報告者  土 井

 2013年5月16日(木)布袋北学習等供用施設にて社楽の会を開催しました 。

 参加者(勤務校)は、土井(尾張教育事務所)、天野先生(大南小)、坪内茂先生、大野先生(犬山中)、早川先生、馬場先生(宮中)、松田先生、寺谷先生(曽野小)、尾関先生、奥村先生(岩東小)、小澤先生(扶北中)、高木先生、田中先生(犬南中)、岩井先生(岩北小)、阿部先生(西部中)、高橋先生(岩南中)、野口先生(犬北小)、坪内利先生(岩倉中)、池邑さんの19名です。


土井が提案した資料を紹介します。 

1  平成25年度第1回教師力アップセミナー   
「なごや街なか」こだわりナビ
  国際協力レポーター2013
  お役立ち資料
 江南市縁の七人の戦国武将 2   −ブログより− 
 研究会紹介
 
 平成25年度第1回教師力アップセミナー
   「共感・感動で心をはぐくむ」
         〜読み物資料を活用した深みのある道徳の授業の秘訣〜
貝塚市立木島小学校 川崎 雅也
  ポイントを口頭で説明します。
  別紙で指導略案、分析図を紹介します。

 
 


 
 「なごや街なか」こだわりナビ
 名古屋の歴史や文化を紹介するサイトです。
 たいへんよくできており、私もこの地図を見ながら名古屋の街を歩いています。
 
ここから
http://www.nagoya-tmo.jp/machinavi2.html
 







3 国際協力レポーター2013
 これは、以前私が中国へ行ったものと同じ企画で名前を変えたものです。
 
ここから
http://www.jica.go.jp/hiroba/menu/reporter/index.html
 
ルワンダとヨルダンのレポーターを募集中!
興味のある方はぜひ!
 
 
 
 
  
  

 お役立ち資料
(1)小学校保健教育参考資料「生きる力」を育む小学校保健教育の手引き
 文部科学省が、学習指導要領の改訂等を踏まえ、学校における保健教育の基本的な考え方を示すとともに、学級担任等が授業を行う際に参考となる体育科、特別活動、総合的な学習の時間の事例や相互に関連するためのポイント等を掲載した『「生きる力」を育む小学校保健教育の手引き』を作成しました。
 
 
 
 
(2)学校において予防すべき感染症の解説
 学校における感染症対策は、平成11年に発行した「学校において予防すべき伝染病の解説」において示していたところであるが、この間の医療の進歩や、疾病の流行状況の変化等を踏まえ、今般、新たに、教職員や医療関係者を対象とした、感染症対策にかかる指導参考資料を作成した。
 
 
 
(3)平成24年度特別支援教育に関する調査の結果について
 平成24年度特別支援教育に関する調査の結果について(通知)
 平成24年度特別支援教育体制整備状況調査結果について(別紙1)
 平成24年度通級による指導実施状況調査結果について(別紙2)
 平成24年度特別支援学校等の医療的ケアに関する調査結果について(別紙3)
 
(4)前方後円墳/前方後円墳研究会・編集
 大学の先生方による前方後円墳研究会による編集です。ひと味違う情報に出会えます。
 
(5)アレルギー疾患に関する調査研究報告書
 
(6)横山利弘先生を囲む道徳教育研究会
 
(7)速く走るには? 股関節と体幹を動かして
 
(8)改訂版「心のノート」を生かした道徳教育の展開
 
(9) 学校体育実技指導資料第2集「柔道指導の手引(三訂版)」
 
(10)愛知県環境学習等行動計画/愛知県
 
(11)松岡正剛の千夜千冊
    http://1000ya.isis.ne.jp/top/ 
  これはすごいサイトです。
  ジャンルは幅広く、1500夜を突破しました。
 
(12)学校体育実技指導資料第2集「柔道指導の手引(三訂版)」
 今後の柔道の安全かつ円滑な実施のため、安全指導の配慮についてはもとより、より柔道の指導が充実できるよう具体的な指導方法等を示すものとして、改訂しました。
 ビジュアルで、写真による技図鑑です。
 
(13)若手教員研修のしおり 子どもと生きる
 若い教師のために、教師の仕事を網羅的に解説したもので、140ページを超える大作です。
 「教師の仕事とは?」を考える参考になります。
 
 
 江南市縁の七人の戦国武将 2  −ブログより−

《 生駒 親正 》
 江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。
 
大永6年(1526年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町)
幼名・近正、正成、甚助、七郎左衛門、従五位下
『雅楽頭親正初代高松城主 17万石』賜う
慶長8年(1603年)78歳 逝去
 
 この生駒親正も信長、秀吉に仕え、それ故に関ヶ原で苦悩した武将です。
 1526年、美濃国の武士、生駒親重の子として生まれます。その後、父とともに織田信長に従い、稲葉山城攻め、長篠の戦いなどで活躍します。
本能寺の変後は、秀吉の家臣となり、山崎の戦、賤ヶ岳の戦に参陣し、功を挙げます。
 
 60歳にして、近江国高島郡に2万石を拝領し大名になります。その後、加増されながら、伊勢国神戸城主、播磨国赤穂、さらに讃岐国一国17万6千石と出世します。
高松城を建て、小田原城攻め、文禄の役に参陣します。
 
 そして、三中老のひとりなります。
 三中老(小年寄)とは、後の五大老・五奉行と呼ばれた側近に加え、その仲裁役のような存在でした。
 生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の3名が任命されています。
 ただ、3名が揃って活動した形跡は見あたりません。
 ご存じのように、堀尾吉晴は今の大口町の生まれです。
 五大老・五奉行の争いが一因になった関ヶ原の戦。どちらに付けばよいか苦悩します。
 
 岐国という地理上、そして秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが自らは病気を装い本戦には参加しません。さらに子の生駒一正は東軍につかせます。
 結果はもちろん東軍の勝利。生駒家は安堵されます。
 高松に居城を築城し、高松市の基礎を築いた親正は、1603年、江戸開府の翌日に78歳で亡くなりました。
 ちなみに、信長の室となった吉乃は、親正の娘だったという説や、兄嫁だったという説があります。
 秀吉恩顧の武将は、関ヶ原ではたいへん苦悩したのです。
《 織田 信忠 》
 江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。
 
弘治3年(1557年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町〕
幼名・奇妙丸、菅九郎、秋田城介
『従三位左近衛中将 岐阜城主』賜う
天正10年(1582年)26歳 逝去
 
 信忠は、信雄・徳姫(見星院)同様、信長と生駒吉乃との間の子であり、信長の嫡男です。
 15歳で浅井長政を攻め、その後長島一向一揆攻め、長篠の戦いに従軍します。18歳で信長より家督を譲られ、尾張、美濃を領し岐阜城主となります。25歳では武田勝頼を攻め、先鋒として功をあげました。
 しかし、本能寺の変では、二条御所にこもって明智光秀軍と戦い、自刃しました。
 
 歴史に「もし」は禁句と言われていますが、私はそうは思いません。いろいろな状況を総合的に考えるトレーニングができると考えています。もちろん正解はありませんが・・・
 もし、信忠が二条城を脱出していたら・・・・
 天才の2世の割には優秀だといわれた信忠のことです。あと取りとして、他の家臣団に命じて光秀を討伐したでしょう。秀吉といえども、信忠には逆らえません。
 織田家とその家臣団による天下統一の可能性は高かったと思います。
 そして父の出生地である那古野城に幕府を開くのです。名古屋幕府です。
 名古屋時代の繁栄は続き、今も日本の首都は名古屋になっているのです。
 などと、勝手な想像は楽しいですね。
 
《 織田 信雄 》
 最後は、織田信雄です。
 一昨年、NHK「江〜姫たちの戦国」では、山崎裕太が演じていましたね。番組HPには次のように書かれていました。
 信長の次男。本能寺の変の後、明智軍を攻めようと進軍するが、兵数が心もとないと撤退。清洲会議で織田家後継者の道を完全に断たれるが、のちに家康と組み、秀吉に対抗する。
 
 江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。
 
永禄元年(1558年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町)
幼名・茶筅丸、伊勢北畠具房養子具豊、信意、信雄、侍従中将、中納言内大臣
『正二位清洲城主 100万石』賜う
寛永7年(1630年)72歳 逝去
 
 この信雄も、他の尾張の武将と同様、豊臣と徳川の争いに翻弄されます。
 信雄は、信長の第2子。もちろん吉乃の子です。信長は伊勢平定のため、信雄を北畠具房の養子としました。
 長島一向一揆や雑賀衆、伊賀攻めに、弟の信孝と共に参戦します。本能寺の変の後には、尾張、伊勢、伊賀の100万石を得て、織田姓に戻ります。
 賤ヶ岳の戦いでは秀吉に味方し、柴田勝家に付いた弟信孝を攻めて岐阜城を包囲、野間大坊に送り自害させています。兄弟といえども厳しい世界です。
 この後、秀吉からの大坂城への招待を拒否し、対立します。信長の後継者を自認する信雄にとって、秀吉のとった行動は許せないものでした。
 秀吉が信雄を攻撃するのに対し、信雄は徳川家康と同盟を結びます、というより助けを求めます。これが小牧・長久手の戦いとなります。
 家康が清洲城に到着した日、織田氏の家臣・池田恒興が羽柴軍に寝返り犬山城を占拠します。
池田恒興は、姫路城を造った池田輝政の父です。
 生駒屋敷(小折城)にいた信雄を訪ねた家康は、二人で富士塚古墳に登って、秀吉側の動きを偵察したと言われています。
 結果的に、領地を一部減らして秀吉と和睦。長女(小姫)を秀吉の養女に出し、その小姫は徳川秀忠に嫁ぎます。豊臣と徳川の間の微妙な位置関係に立ちます。
 その後も、豊臣と徳川の間を立ち回り、子孫を存続させています。
 優秀といわれた兄・信忠は早く命を落とし、それほどではなく、一部では「暗愚の将」とさえ言われた信雄の家系が続いていくのは皮肉です。
 叔父有楽に茶を学び、茶道、和歌、歌舞に巧みな風流人でもあったそうです。
 
《 織田 有楽斎 》
 犬山ホテルの敷地内にある茶室「如庵」。現在、国宝に指定されています。その如庵を建てたのが、織田 有楽斎、織田 長益です。
 東京の「有楽町」の名の起源である織田 有楽斎。(異説あり)
 織田信長の実の末弟(13歳下)で、甥の信雄も慕っていました。
 
 信雄の兄、信忠に、二条城で自害をすすめた人物といわれています。自らは、二条城を脱出しました。これも異説ありですが・・・。
 小牧・長久手の戦いでは、秀吉と家康の仲介役も務めています。信長の実弟だからこそできることです。
 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、西軍の有力武将・蒲生真令を倒す活躍を見せますが、悲しいかな、淀君は姪っ子。豊臣にも力を貸します。
 大阪の陣では豊臣に付いていましたが、最後は離れます。その後は京都に隠れ、茶道に専念し、趣味に生きました。
 京都建仁寺の正伝院を再興し、そこに建てた茶室が「如庵」なのです。
 この織田 長益も、今回のテーマである、豊臣と徳川の間に揺れた一人といえるでしょう。
その結果、子孫は続きました。
 「勝(か)ち馬(うま)に乗る」といいますが、戦国武将が有利な方につくのは、生き残る術なのです。

 研究会紹介

(1)愛知教育大学附属名古屋小学校 第60回 小学校教育研究発表協議会
   2013年 05月 28日 (火) 8:30〜
   「自己を磨き,学び続ける子」の育成【第二年次】―「学び続ける」子に迫る―
 
おまけ
第1回全国お土産総選挙
 先日、第1回全国お土産総選挙という番組がありました。この発想は、日本地理の学習に使えるかもしれません。
 何より、製造工程が紹介されていたので、興味深く見ることができました。(私は、その土産より、それを作る機会を造った人が偉いと思います。)
 結果です。
第20位 かもめの玉子 岩手県
第19位 水まんじゅう 岐阜県 金蝶園総本家 
第18位 栗鹿ノ子 長野県 小布施堂 
第17位 かつ天 徳島県 谷ちくわ商店
第16位 元祖伊藤社長のチーズ饅頭 宮崎県 風月堂
第15位 桔梗信玄餅 山梨県 桔梗屋 
第14位 柿の葉すし 奈良県 柿の葉すし本舗たなか 
第13位 稲庭干饂飩 秋田県 佐藤養助商店 
第12位 海洋深層水入り細切り塩けんぴ 高知県 四万十郷水車亭
第11位 なが餅 三重県 なが餅笹井屋
第10位 バームクーヘン 滋賀県 クラブハリエ 
第9位 おいしさ長もち昔ながらのシウマイ 神奈川県 崎陽軒
第8位 気になるリンゴ 青森県 ラグノオささき 
第7位 さつまあげチーズ入り 鹿児島県 揚立屋
第6位 冷凍生餃子 栃木県 宇都宮みんみん
第5位 とり野菜みそ 石川県 まつや 
第4位 富山ますのすし 富山県 源 
第3位 ゆかり 坂角総本舗 愛知県 
第2位 厚切り芯たん塩仕込み 宮城県 伊達の牛たん本舗  
第1位 生チョコレート オーレ 北海道 ロイズコンフェクト
 
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