《 織田 信雄 》
最後は、織田信雄です。
3年前のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」では、山崎裕太が演じました。
NHK大河番組HPには次のように書かれていました。
信長の次男。本能寺の変の後、明智軍を攻めようと進軍するが、兵数が心もとないと撤退。清洲会議で織田家後継者の道を完全に断たれるが、のちに家康と組み、秀吉に対抗する。
三谷幸喜の映画「清洲会議」では、妻夫木聡がおおうつけとして演じていました。映画HPでは、信長次男。おおうつけだが自分では頭が良いと思っている。秀吉によって信長後継に擁立される。というキャラクターとして紹介されていました。
江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。
永禄元年(1558年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町)
幼名・茶筅丸、伊勢北畠具房養子具豊、信意、信雄、侍従中将、中納言内大臣
『正二位清洲城主 100万石』賜う
寛永7年(1630年)72歳 逝去
この信雄も、他の尾張の武将と同様、豊臣と徳川の争いに翻弄されます。
信雄は、信長の第2子。もちろん吉乃の子です。信長は伊勢平定のため、信雄を北畠具房の養子としました。
長島一向一揆や雑賀衆、伊賀攻めに、弟の信孝と共に参戦します。
本能寺の変の後には、尾張、伊勢、伊賀の100万石を得て、織田姓に戻ります。
賤ヶ岳の戦いでは秀吉に味方し、柴田勝家に付いた弟信孝を攻めて岐阜城を包囲、野間大坊に送り自害させています。兄弟といえども厳しい世界です。
この後、秀吉からの大坂城の招待を拒否し、対立します。信長の後継者を自認する信雄にとって、秀吉のとった行動は許せないものでした。
秀吉が信雄を攻撃するのに対し、信雄は徳川家康と同盟を結びます、というより助けを求めます。これが小牧・長久手の戦いとなります。
家康が清洲城に到着した日、織田氏の家臣・池田恒興が羽柴軍に寝返り犬山城を占拠します。
池田恒興は、姫路城を造った池田輝政の父です。
生駒屋敷(小折城)にいた信雄を訪ねた家康は、二人で富士塚古墳に登って、秀吉側の動きを偵察したと言われています。
小牧・長久手の戦いのその後は後日詳述します。
結果的に、領地を一部減らして秀吉と和睦。長女(小姫)を秀吉の養女に出し、その小姫は徳川秀忠に嫁ぎます。豊臣と徳川の間の微妙な位置関係に立ちます。
その後も、豊臣と徳川の間を立ち回り、子孫を存続させています。
優秀といわれた兄・信忠は早く命を落とし、それほどではなく、一部では「暗愚の将」とさえ言われた信雄の家系が続いていくのは皮肉です。
叔父有楽に茶を学び、茶道、和歌、歌舞に巧みな風流人でもあったそうです。
《 織田 有楽斎 》
犬山ホテルの敷地内にある茶室「如庵」。現在、国宝に指定されています。その如庵を建てたのが、織田 有楽斎、織田 長益です。
東京の「有楽町」の名の起源である織田 有楽斎。(異説あり)
織田信長の実の末弟で、甥の信雄も慕っていました。信雄の兄、信忠に、二条城で自害をすすめた人物といわれています。自らは、二条城を脱出しました。異説もありますが・・・。
小牧・長久手の戦いでは、秀吉と家康の仲介役も務めています。信長の実弟だからこそできることです。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、西軍の有力武将・蒲生真令を倒す活躍を見せますが、悲しいかな、淀君は姪っ子。豊臣にも力を貸します。大阪の陣では豊臣に付いていましたが、最後は離れます。
今回のテーマである、豊臣と徳川の間に揺れた一人といえるでしょう。その結果、子孫は続きました。
「勝(か)ち馬(うま)に乗る」といいますが、戦国武将が有利な方につくのは、生き残る術なのです。