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報告者  土 井

 2017年1月26日(木)布袋北学習等供用施設にて社楽の会を開催しました 。

 参加者(勤務校)は、土井(布袋小)、奥村先生(岩東小)、高橋先生(岩南中)、川地先生、天野拓先生、天野厚先生(大口中)、高木潔先生(犬山北小)、旭先生、伊藤先生(古西小)、白澤先生(扶桑北中)、早川先生(大口町教委)、勝村先生(犬山市教委)、嶋田さん、中嶋さんの14名でした。

土井の資料を紹介します

1 中嶋英貴氏による「(建築)技術から歴史を学ぶ」
2 布袋地区での戦争体験聞き取り集学校日誌に見る戦争の記録
3 
第百九十三回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説
4 教師力アップセミナー 小野田正利先生
 
     
恒例 シーズンオフ企画 

1 中嶋英貴氏による「(建築)技術から歴史を学ぶ」
 文化財などの伝統的建築物は、日本人の知恵と技が集積しています。しかも、地方の風土、気候、産物、地質、産業などと密接に関係しています。そのあたりの話を伺います。

 
  
2 布袋地区での戦争体験聞き取り集
 6年生が東京大空襲について学んでいますが、『空襲の記録●名古屋を中心に』によると、布袋地区でも28人が空襲で亡くなっています。
 平成7年に、布袋中学校で選択社会科を選んだ2人の3年生が聞き取り調査をした記録が残っていますので、次に紹介します。
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A氏(77歳),B氏(69歳)
 昭和20年7月12日夜11時頃,五明の武田助産院付近の7,8件が焼夷弾で燃えた。近くにあった草むらに火がつき,近所に広がったようだ。各務原,小牧空港に爆弾を落とした帰りに余っていた爆弾を落としたと聞いている。昭和20年頃,名古屋から歩いて今市場に疎開してきた。とにかく恐かった。はやく戦争が終わって名古屋に帰りたかった。
 
C氏(69歳)
空襲の様子  昭和20年7月13日及び7月28日の二回に分けて一宮市がB29によって空襲されました。 特に,2回目の空襲は布袋の五明,小折に死者・負傷者が出ました。五明では数多くのやけどを負った人,亡くなった人も2人ほど出ました。小折は,私の家のすぐ裏の家ではお父さんが出征されていて留守の所,おばあさん,奥さん,子供二人がみなさんといっしょに防空壕へいたのに,自分の家の畑が現在の関西電力の鉄塔の下にあるので,そちらの方が安全だと思い,一家四人と隣の家に手伝いに来ていた娘さんも連れだって,そこで四人が即死状態で奥さんだけが火傷を負い家に帰っていた。みなさんが,行方がわからないので探していたところ,自宅の入り口付近で,黄燐焼夷弾の黄燐を体中に浴びうずくまり苦しんでおられる所を発見されましたが,火傷がひどく翌日なくなったということです。 ちょうどそんな頃,家のおじいちゃんの友達から聞いたそうですが,一宮から火に追われて東へ東へと逃げてきた人が8kmもある小折まで逃げてこられたそうです。28日午後10時から翌朝午前2時頃までの出来事でした。
当時の社会状況 特に戦争が烈しくなって昼夜を分けず空襲があり,大きい町が次から次へと焼けていきました。それでも絶対に負けることはないと勝利を信じ,中学生も学業もそこそこに軍需工場へ勤労奉仕にゆきました。そうした人たちも次から次へと空襲されなくなった方もたくさん出ました。また,物価統制令が敷かれ,勝手に品物を動かすことのできませんでした。
戦時中の食糧事情について 食料も少なく,何よりも増産しなければならないということで,今の小学校の校庭も皆畑となり,サツマイモ等が作られました。一般の人たちの毎日の食べる物は代用食が多く,「すいとん」,豆かす入りのご飯,雑穀入りのご飯,それも不足がちで田舎の人たちはともかく,街の人たちはずいぶん苦労して食料を手に入れていました。  家のおじいちゃんの話では,軍需工場へ行っている人たちの寮の食事は,朝は小麦の粒の雑すい,夜はジャガイモの小さいのが皮付きのまま10個ぐらい,味噌汁の実はゴボウの葉,フキの葉まで食べたそうです。  
疎開について  都会では行われていましたが,布袋付近では山奥に親戚のある人が荷物を預けた程度で学童の疎開はなかったように思います。
過去を振り返って 昭和20年8月15日,戦争は終わり,日本は滅亡をまぬがれた。そして,終戦後の混乱のなかを,国民の懸命の働きと努力によって世界でも有数の経済大国となったが,その陰に戦争のために多くの犠牲者のあったことを忘れてはならない。  学業を捨て学徒出陣し,特攻隊となって国のために米国の軍艦に体当たりして若い命を捧げた人達の運命も,歴史を閉じる為のやむを得ない事だったかもしれない。それだけに,なおさらにこのことは何時の時代までも伝えて,日本国民として決して忘れてはならないのです。  
 
D氏 59歳
 戦争の思い出 終戦時小学校4年生  昭和19年(小学校3年生)の時,戦争で使う戦車,銃のための原料「鉄」が不足してきたため,全国からくず鉄,鉄製品のあらゆる物の供出を行った。  各家庭では,敵が空中から攻撃してくるから,その時の避難する場所として,庭に防空壕(土の中で火災や爆弾を防ぐ)も作った。また,敵が日本へ上陸してきたときの対応として,婦人・子供達が竹槍で相手を殺す練習をした。  
 昭和20年の春ごろから,低空で飛行機(小型機)が飛んでくるようになり,朝学校への通学途中に飛行機から機関銃でねらわれることがあった。その場合は,畑の中へ身を隠し,飛行機の音や機関銃の音が聞こえなくなってから学校へ行った。 学校で勉強中に敵機襲来(サイレンが鳴る)の合図が出た場合は,生徒は頭に防空頭巾をつけて鞄を持ってすぐ家に帰りました。警報解除のサイレンが鳴った場合は,また学校へ出かけていき勉強をしました。昼の間は,高いところを飛ぶ飛行機(B29爆撃機)が主に軍需産業(飛行機や戦争機器の製造工場)を目標に爆弾を投下しました。私たちの目で爆弾が落ちで行くのが見えました。私の近くで焼夷弾が落ち,恐ろしい体験をしました。それは,夜間に電球を点灯したために,敵機がその電球を目標に焼夷弾を投下して,家が3,4軒燃え上がり,私たちは防空壕へ逃げふるえていました。夜でしたから,家の燃えるのが近くに感じられ本当に恐ろしい体験をしました。戦争の終わり頃に今市場に爆弾が落ちた記憶は,思い出すたびに身震いします。
 
E氏  64歳  F氏 59歳
 遠くの堤防から見ていると,爆弾が落ちるたびに街が真昼のように明るい。布袋は街だったので,遠くから買い物に来る人がたくさんいた。(5,6時間歩く)雨の降るような音がする。すごい砂埃で前が見えない。家の中がまるで地震にあったときのようにぐちゃぐちゃ。飛行機がすぐ下まで降りてきて,人をねらう。サイレンが鳴ると竹薮に逃げて,止まると家に戻るの繰り返し。死体が木などにたくさん引っかかっているので,子供も降ろすのを手伝った。学校に着ていく物がないので,あるものをまとう。生きていく希望もなく,地獄のような生活だった。
 疎開について ここにいても死ぬだけだといって,曾おばあちゃんがおばあちゃんを犬山の山の奥へ疎開させた。歩いていった。少しの間お世話になったけど,「どうせ死ぬならいっしょがいい」といって,家に帰った。その後,戦争が終わったときは,もうたとえようのないぐらいすごい喜びだった。
G氏  75歳
 昭和20年6月,五明でも13から15軒焼かれました。布袋新町3丁目にも3,4ヶ所焼夷弾が落とされ,死者も出ました。雨の夜,一宮方面の県道南側が多く焼かれています。
 布袋新町の大部分の人が,木賀の神社,または,栄町地蔵山にのがれました。また,現在西部ゴムが艦載機で低空飛行にて,終戦少し前に死者が出ました。五明町では,一家全員5名がなくなられました。
 疎開について  昭和19年から20年,市の人たちが田舎に行きました。五明道音寺にも,小学生がたくさん来ていらしました。私も,実家が新町でしたので,名古屋から帰りました。皆がリヤカーで運びましたので,リヤカーの列が連なりました。
 
I氏 51歳,J氏 73歳,K氏 70歳
 昭和20年6月~7月末,梅雨で視界が悪いので最も空襲が激しかった。
 20年7月14日,五明の愛知ゴム(現西部ポリマ化成)アメリカ艦載機による機関砲射撃を受け,三人ほどの死傷者。その夜,五明に焼夷弾(油が入っていて落下後ひどく燃える。径70cmほどで16に分裂)が落ち,4軒焼失。岩田八朗,間宮梅吉,岩田忠義,武田幸重。現布袋食糧本社のあるところにも,焼夷弾落下,愛北病院の医師・坂藤一家3人が死亡し被害が大きかった。元,江南保健所(現アコ),布袋新町大仏殿西と小郷部落南の畑の中に50kg爆弾が落下し,直径10メートル程の大穴が残った。疎開について 尾北高校へ名古屋から児童が来た。政木写真館の裏へ,空襲で店を焼かれた名古屋の紙屋家族が避難してきた。20年5月頃  支那事変国債がある。 
 
M氏 78歳
 昭和20年7月頃 江南市今市場町の東部  Aさん…全焼  Bさん…全焼で父親だけ大火傷 Cさん…全焼で両親と子供2人死亡
 様子 雨の降る夜中で,一宮方面より楽田の方へ一機ずつ飛来し,今市場へは油を落とし,Cさん方へはかやぶき屋根の上へ落ちた。次から飛来してきたため,消火が遅れ全焼した。付近の田畑へも落ちた。 疎開は,名古屋方面の人が来ていた。蔵のある家へ荷物を預かった人がいた。 
 
O氏 83歳
中国(支那)に戦争中にアメリカの飛行機が来て何回も空襲を受けたが,名古屋,尾張地区の大空襲の方がすごかったと聞いています。それに,戦後の空襲の後かたづけは大変だったと聞いています。疎開について  私の出征中に,家族は昭和19年から20年にかけて,岡崎,豊田と2ヶ所に疎開していた。私は丈夫でいたが,戦地から手紙が出せないので,家のこともわからず,自分のことも伝えることができず,子供は丈夫でいるか,食べ物はあるかと心配していた。昭和21年に戦地から帰った。みんな丈夫だったのでうれしかった。


3  第百九十三回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説
 六 子どもたちが夢に向かって頑張れる国創り
(個性を大切にする教育再生)
 我が国の未来。それは、子どもたちであります。
 子どもたち一人ひとりの個性を大切にする教育再生を進めます。
 先般成立した教育機会確保法を踏まえ、フリースクールの子どもたちへの支援を拡充し、いじめや発達障害など様々な事情で不登校となっている子どもたちが、自信を持って学んでいける環境を整えます。
 実践的な職業教育を行う専門職大学を創設します。選択肢を広げることで、これまでの単線的、画一的な教育制度を変革します。
 
(誰にでもチャンスのある教育)
 「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」
 明治日本が、学制を定め、国民教育の理想を掲げたのは、今から百四十年余り前のことでした。
 それから七十年余り。日本国憲法が普通教育の無償化を定め、小・中学校九年間の義務教育制度がスタートしました。
 本年は、その憲法施行から七十年の節目であります。
 この七十年間、経済も、社会も、大きく変化しました。子どもたちがそれぞれの夢を追いかけるためには、高等教育もまた、全ての国民に真に開かれたものでなければなりません。学制の序文には、こう記されています。
 「学問は身を立(たつ)るの財本(もとで)ともいふべきもの」
 どんなに貧しい家庭で育っても、夢を叶(かな)えることができる。そのためには、誰もが希望すれば、高校にも、専修学校、大学にも進学できる環境を整えなければなりません。
 高校生への奨学給付金を更に拡充します。本年春から、その成績にかかわらず、必要とする全ての学生が、無利子の奨学金を受けられるようにします。返還についても卒業後の所得に応じて変える制度を導入することで、負担を軽減します。
 更に、返還不要、給付型の奨学金制度を、新しく創設いたします。本年から、児童養護施設や里親の下で育った子どもたちなど、経済的に特に厳しい学生を対象に、先行的にスタートします。来年以降、一学年二万人規模で、月二万円から四万円の奨学金を給付します。
 幼児教育についても、所得の低い世帯では、第三子以降に加え、第二子も無償とするなど、無償化の範囲を更に拡大します。
 全ての子どもたちが、家庭の経済事情にかかわらず、未来に希望を持ち、それぞれの夢に向かって頑張ることができる。そうした日本の未来を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。
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 首相の施政方針演説と所信声明は毎回記録しています。今回は、久しぶりに教育関係が増えました。しかし、フリースクールか奨学金などのお金の話ばかりで、義務教育に関わる内容についての記述はありません。これは、問題があまりないためか、関心が薄いためか、学習指導要領の変わり目で内容が確定されていないためなのか、などが考えられます。
 ともあれ、低所得者層の子どもたちにも、教育を受ける権利を与えてほしいのは誰もが思っている音です。期待します。
 
4 教師力アップセミナー 小野田正利先生
 昨日の教師力アップセミナーは、大阪大学大学院教授 小野田正利先生でした。
 会場は、約150人が参集しての1日講座でした。
 「服はカーテン生地。生地(きじ)代は安い。しかし仕立て代は7万円。テーラーで特別に仕立ててもらった。初めはいやがられたが、3着目となると気安く応じてくれた。今日はなんばグランド花月だと思ってほしい。」
 「顔は車ダン吉とカンニング竹山を足して2で割ったようなもの。語り口は武田鉄矢で、綾小路きみまろのような漫談。」と自己紹介するほど、ザ・関西人。
 「帰りに缶チューハイを飲みながら講演の反省をする。どこが受けて、どこが受けなかったのか。」
 こう書くと、いい加減に思われるかもしれません。
 しかし、内容はいたって正論です。
 「モンスターという言葉を使ってはいけない。 排除の対象として保護者をとらえたら、何の関係改善も生まれない。逃げたら出口は見つからない。しかし、向き合えば出口は見つかる。保護者はモンスターじゃない、人間なんです。」
 「親と教師は敵ではない。しかし、親との関係が厳しくなることがある。世界で初めてこれを問題にした。
 かつて、フランスの教育を研究していた頃、加害者が親で、被害者が親というデータがあった。15年前からいくつかある。校内暴力か?保護者対応問題か?日本なら、加害者は生徒で被害者は生徒か教師だ。しかし、加害者が親なのは、先進諸国ではふつうの現象。日本には、これを問題とする概念がなかった。」
 「一般的にも、クレーム・苦情のトラブルから逃れられる職業はなくなった。
 道の駅。買った人が生産者に電話。「買ったキュウリが曲がっている」
 メーカーではすさまじい状態。日本の社会は、満足基準と期待水準が急上昇している。
 コンビニのレジの台数。始めは1台だったが、今は2台以上、4台のところも。待たせないようにするため。並ぶといらつく。「遅い、何でやねん。」となる。」
 「まずは、目の前のものをたたいて溜飲を下げる。近鉄・東花園駅で人身事故のために電車が止まって、乗客が車掌に詰め寄った。「どう責任とるねん。」 批判にたまりかねて、駅員が飛び降りた。自殺だ。」
 このあとも続きます。
 具体的なクレームと対処法のDVDを30分みて、その解説をしていただきました。また、午後には具体的事例を元にしたワークショップでした。
 《 参 考 》 小野田正利 保護者クレーム問題を語る
 
 当日いただいた資料の中から、エコロジカルマップを別紙で紹介します。
 
《 参 考 》教師力アップセミナー 平成28年度講師一覧 
 
   2月11日(土祝) 10:00~15:00     山田洋一