シーズンオフ企画 現在のところの予定です。
525回1/16 土井謙次 「大衆は何を求めるのか 江戸時代vs令和 -歌川国芳の浮世絵に見るジャーナリズム-」
526回1/30 江南市立布袋小学校長 早川先生 「C'mon,baby アメリカ 」 70年代社会を考察します。
527回2/13 NPO法人古代邇波の里・文化遺産ネットワーク 大塚友恵さん 青塚古墳、東之宮古墳など、郷土の史跡についてなど
528回2/27 岩倉市教育委員会 高橋先生 未定
529回3/12 名古屋市立はとり中学校 佐藤先生 社会科模擬授業
参勤交代による経済的影響を考えるもの 織田信長と豊臣秀吉の租税制度の違い
江戸時代の経済政策 市民革命から租税負担を考えよう
1 美濃見てある記 続編
第5回 昼飯大塚古墳
第6回 お茶屋屋敷跡
第7回 御首神社 第8回 千代保稲荷神社
産土神はうぶすながみと読む、地縁の神様です。
第9回 行基寺 第10回 兜塚と廃線跡
美濃高須藩藩主松平氏菩提寺です。 金生山の石灰石を日本製鉄まで運びました
2 陽南中学校 中間発表会 参加報告
10月19日に訪問した様子を別紙で報告しました。
3 金融経済教育研究会
(1)名古屋市立はとり中学校 佐藤先生の実践報告
これまで、豊富な教材研究で、ダイナミックな単元構成の実践を数多く見てきましたが、全く視点の異なる実践です。
経済の視点で歴史を見る授業です。
これは、社会科の教師にこそ知ってほしい実践なので、その場で、社楽の会での模擬授業をお願いしてしまいました。
その資料の一部を紹介します。
詳しくは、3月12日の第529回社楽の会で体験してください。すごい実践です!
(2)人工知能時代における「学力」と「学ぶ意味」 東洋大学 斎藤里美先生
門弟山小の発表でもあった、次の動画。ここからhttps://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg16432.html
斎藤先生は、「不便が大切な時代」といわれました。原始時代のような、不便を知恵で解消していく過程は、脳が発達するための必須条件なのです。
これからの人間に求められる「学力」とは
たとえば「真」「善」「美」という概念、文化は、一人の力によるものではなく、歴史的かつ集合的に作られてきた。したがって、いわゆる「学力」の形成には、「集合的知性」と呼ばれるものが大きな役割を果たしている。「集合的知性」(協働的に知を創造していく力)こそ、これからの学力の中心概念になっていくのではないか。
「集合的知性」、難しい言葉ですが、この世界では使われ始めています。
(3)金融ジェロントロジー~人生100年時代における金融サービスの在り方~
政府機関の会議でも活躍された野尻哲史さんです。
主旨は、65歳以上の割合が4割に迫る中で、老後をどうしていけばよいのかを考え、若い頃から準備をしてほしいということです。
今の金利では貯金では資産は増えません。年金だけで生活することが難しければ、何らかの対策が必要です。それを、若い世代にどう教えるのか、社会教師の大きな課題なのです。
4 長良西小学校 教育公開 参加報告
10月26日に訪問した様子を別紙で報告しました。
5 長良中学校 中間報告会 参加報告
10月26日に訪問した様子を別紙で報告しました。
6 門弟山小学校研究発表会 参加報告
別紙で報告しました。
7 海民と天皇/内田樹の研究室 2019-10-24 jeudi
新天皇の即位の儀式が行われた。
私は天皇制についてはこれを支持する立場をとっている。
その理路は『街場の天皇論』において述べたので、ここでは繰り返さない。
新天皇について私は「網野史学」の系譜に連なる人だと思っている。異論のある方もいると思うけれど、私はそう思っている。
日本がそのような批評的知性を備えた天皇を「国民統合の象徴」として得たことを私は例外的幸運だと思っている。
即位への祝意を込めて、「街場の天皇論」に書き下ろした一文をブログに採録する。
海民と天皇
■はじめに
天皇論について書き溜めたものを一冊の本にまとめることになって、その「ボーナストラック」として「海民と天皇」という書き下ろし論考を添付することにした。これまで折に触れて書いたり話したりしてきた話なので、「その話はもう何度も聞いた」と閉口する人もいると思うが、ご海容願いたい。さしたる史料的な根拠のない、妄想に類する思弁であるが、私がこの話をなかなか止められないのは、これまで誰からも効果的な反論を受けたことがないからである。どの分野の人と話しても、話をすると「なるほどね。そういうことってあるかも知れない(笑)」でにこやかに終わり、「ふざけたことを言うな」と気色ばむ人にはまだ出会ったことがない。もちろん堅気の歴史学者や宗教学者は「まともに取り合うだけ時間の無駄」だと思って静かにスルーされているのかも知れないが。
とはいえ、一般論として申し上げるならば、思弁、必ずしも軽んずべきではない。フロイトの『快感原則の彼岸』は20世紀で最も引用されたテクストの一つだが、そこで「反復強迫」についての記述を始める時に、フロイトは「次に述べることは思弁である」と断り書きをしている。フロイトの場合は、一つのアイディアを、それがどれほど反社会的・非常識的な結論を導き出すとしても、最後まで論理的に突き詰めてみる構えのことを「思弁」と呼んだのであるが、私の場合の思弁はそれとは違う。私の思弁は一見するとまったく無関係に見えることがらの間に何らかの共通点を発見してしまうことである。そういう学術的方法を意図的に採用しているわけではなくて、気が付くと「発見してしまう」のである。
「あ、これって、あれじゃない。」 (以下略)
【 内田樹の研究室 最近の記事は・・・ 】
China Scare 2019-10-28 lundi
街場の読書論 韓国語版まえがき 2019-10-17 jeudi
「民主主義」解説 2019-10-17 jeudi
嫌韓の構造 2019年10月13日 07:15
合従論再考 2019年10月10日 09:26
守さん10月のご予定です 2019年9月30日 13:34
「日韓関係論」への寄稿のお願い 2019年9月26日 10:22
サンデー毎日「嫌韓言説について」 2019年9月24日 09:39
内閣についての韓国紙からのインタビュー 2019年9月17日 09:01
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