第546回 社楽の会報告    第545回   第547回へ   TOPへ
                                                           
報告者  土 井

 2021年4月22日(木)社楽の会を布袋北学供で開催しました 。

 参加者(勤務校)は、土井(名古屋芸術大)、奥村先生、吉田先生(岩倉東小)、坪内先生(江南市教委)、髙木先生(池野小)、田中先生(布袋中)、安形先生(犬山中)、小澤先生(犬北小)、水野先生(犬東中)、伊藤先生(岩北小)の10名でした。

土井の資料を紹介します

1 「深い学び」をどう実現する? -自ら学びを調整する-
2 拙稿紹介『社会科教育 №742』
3 拙稿紹介『社会科教育 №744』
4 拙稿紹介『教室の窓 中部版/小学校版 vol.18』
5 拙稿紹介『あるさか 令和3年第5号』国宝を決めたもの」

 
     

1 「深い学び」をどう実現する? -自ら学びを調整する-
 定義はしっかりしています。
 
「主体的・対話的な学び」を受けて、学びの過程の中で、見方・考え方を働かせながら、
・知識を相互に関連づけて深く理解
・情報を精査して考えを形成
・問題を見いだして解決策を考え
・思いや考えを基に創造
 
 だから、深い学びとは?を議論することは生産的ではありません。どう具体化するかです。
  その中で、GIGAスクールと関連して、「個別最適な学び」も求められました。これは、特に、新しい概念ではありません。
 「指導の個別化」「学習の個性化」は以前にも言われていました。
 指導の個別化は、公文式プリント学習のイメージ。
 学習の個性化は、自由研究のイメージ。
 ここで大切なのは、「自ら学習を調整」することです。
 「子供が自らの学習の状況を把握し,主体的に学習を調整することができるよう促す」と書かれています。ここで言う調整とは、自己の目標を達成させるために学びをコントロールすること、「主体的」という言葉を生かすと、ふり返りを生かして次の見通しを立てることなのです。
 
では何をふり返り、何を見通すのか?
 学習の内容として、ねらいを達成できたか?
 学習の方法として、主体的・対話的な方法で、深い学びが実現できたか?
 すなわち、見方・考え方は正しかったのか?知識は関連づけられたか?情報を生かして新しい考えができたか?新しい問題解決ができたか?新たな想像ができたか? と考えられるのです。
 
 見方とは?  問題解決のために、どこに目を付ける?いうことです。
 考え方とは? 問題解決のために、どうやって考える?いうことです。
 この両者は、それぞれ独立している場合も、混じり合っている場合もあります。
 
 例えば、「身体がだるい」という問題があったとします。
 医者は、「倦怠感」という症状に対して、原因を見立てていきます。
 肉体的なものか、精神的なものか?
 肉体的なものとして、① 熱はないか? ② 筋肉疲労ではないか? ③ 顔や喉、舌などの色 ④ 便や胃腸 ⑤ 脈、心音 ⑥ 血液検査→ウィルスの有無など ⑦ ホルモンバランス ⑧ 睡眠・栄養状態 などをチェックしていきます。 
 肉体的な異常はないのに、睡眠がとれていない事から、精神的なものも疑っていきます。
 最近の環境の変化、ストレスの有無、食生活、適度な運動習慣などをチェックしていき、最終的に、判断します。
 「あなたは二日酔い」です。
 これらが「内科医の特質に応じた見方・考え方」なのです。
 
 それでは改めてふりかえりとは?ごく簡単に言うと次のことです。
 「目をつけて考えた過程を評価する」こと。
 「目の付け所が間違っていた」「昨日、飲んだ量を聞けばよかったな」になるのです。
 
  「令和の日本型学校教育」の構築を目指して(答申) P41には次のようにあります。

学びに向かう力の育成は幼児期から成人までかけて徐々に進んでいくものであるが、初期の試行錯誤段階を経て,様々な学びの進め方や思考ツールなどを知り,経験していくことが重要である。とりわけ小学校中学年以降,学習の目標や教材について理解し,計画を立て,見通しをもって学習し,その過程や達成状況を評価して次につなげるなど,学習の進め方を自ら調整していくことができるよう,発達の段階に配慮しながら指導することが大切である。また,中学校以降において,多様な学習の進め方を実践できる環境を整えるこも重要である。
 
授業改善に当たっても,学習の進め方(学習計画,学習方法,自己評価等)を自ら調整する力を身に付けさせることを一つの柱として行うことが考えられる。また,学校の授業以外の場における学習の習慣や進め方についても視野に入れ,指導を行うことが重要である。
 
 ずばり書かれています。          ※「授業改善」とは「授業研究」と同意 

 「学習の力を自ら調整」するとは、「学習の目標や教材について理解し,計画を立て,見通しをもって学習し,その過程や達成状況を評価して次につなげる」ことなのです。

 簡単に言えば、見方・考え方などの見通しを振り返って評価し、次に生かすことなのです。
 
2 拙稿紹介『社会科教育 №742』 別紙で紹介しました。
  子どもの主体的な学びを生む授業づくりの進め方
学習内容・学習方法の見通し&振り返りを軸として
 
3 拙稿紹介『社会科教育 №744』 別紙で紹介しました。
  子どもの意欲が違う!魅力的な教材づくりの秘訣
   学級開きこそ、学ぶ意義を語りたい-学びに向かう力、人間性を鍛えるために-
 
 
4 拙稿紹介『教室の窓 中部版/小学校版 vol.18』 別紙で紹介しました。
 
5 拙稿紹介『あるさか 令和3年第5号』国宝を決めたもの」全文を紹介します。
 
高知城の棟札に懸賞金!
 ネットを眺めていたら、次の記事が目に飛び込んできた。
 高知城は国宝をめざすために、棟札などの建立時期を明確にできるものを発見した人に懸賞金を出すというのである。それも500万円!国宝に指定されるためには、正確な建立時期の証拠が必要だ。その証拠を募集しているのである。
 地元の誇るべき城が国宝になるのは、そこで暮らす人々には大きな願いであろう。この記事から、高知市民の思いが伝わってくる。同様に、福井県坂井市の丸岡城でも「一般社団法人 丸岡城天守を国宝にする市民の会が」つくられている。
 
 これらのニュースを聞いたとき、私はある教え子の話を思い出した。
 
 私は、かつて丹葉地区の小中学校で教員をしていた。平成元年に、初任の布袋小学校から布袋中学校へ異動をした。その年は、1年生の社会科授業を担当。脱線話に華を咲かせた。私は学生時代にヒッチハイクや国鉄のワイド周遊券で日本一周の旅をしたので、その時のエピソードを交えながら、地理や歴史の学習につなげていった。
 それに刺激を受けたのか、今回の主役であるN氏は、一年生の夏休みに、一人で電車で東北地方をまわるなどの冒険旅行をした。それを許した保護者の度量とともに、彼の行動力に驚いた。そのきっかけを作った自分に、些かの責任を感じていた。一回りたくましくなって帰ってきた彼の姿を見てほっとしたことを覚えている。その他、各務原市の炉畑遺跡など、紹介するとすぐに自転車で見に行くフットワークの軽さには感心していた。
 
 そのN氏は、現在家業を継ぎ、文化財を修復する左官などの仕事をしている。全国各地の国宝や重要文化財・社寺仏閣・民家等の貴重な古建築、文化財を、できるだけ当時の姿に近づけるように修復をしている。実は、これができるのは全国でも数人しかいない。著名なものでは、備中松山城や建中寺、ハリストス正教会など、近いところでは、明治村内の旧三重県庁舎、名古屋城本丸御殿も手がけた。
 
 以下は、そのN氏から聞いた話である。
 
5つめの国宝天守、松江城
 
 日本には、江戸時代から続く天守を持つ城が12現存している。その中で国宝に指定されていたのは、姫路城、犬山城、彦根城、松本城の4つであったが、2015年(平成27年)7月に島根県の松江城が5つめの国宝に指定された。
 松江城は、それまで正確に建てられた日付がわかっていなかった。記録では建築年の書かれた祈祷札の存在は知られていたものの、その札の行方がわからなくなっていた。その祈祷札を探すために懸賞金をかけて全国から情報を求めたのは、冒頭に述べた高知城と同様である。幸い、その祈祷札は松江神社で見つかったが、それが松江城のものであるという決定的な証拠がない。どうしたのか?
 
大口中学校の修学旅行先は松江城
 
 松江城が国宝になった決め手を述べる前に、大口町について触れておきたい(私はよく脱線をする)。
 松江市と大口町は積年の交流を経て、平成27年8月に『姉妹都市提携』を結んだ。その理由は、もちろん初代松江藩主、堀尾忠氏の父・吉晴公が今の大口町出身であったからだ(初代藩主を吉晴とする説もある)。松江城は、末次城のあった亀田山に堀尾吉晴・忠氏が築城した。
 大口中学校は、昨年までは修学旅行として東京方面へ出かけていた。しかし2020年はコロナ禍のまっただ中。密な東京はできれば避けたい。そこで、修学旅行を松江方面に変更したのである。松江城の他にも、出雲大社や古代出雲歴史博物館、宍道湖、水木しげるロードなど見所は多く、姉妹都市ならではの現地からの歓迎も受けている。大口中学校のHPからは、現地での心温まる交流の様子が詳細に紹介されている。
 https://www.schoolweb.ne.jp/weblog/index.php?id=2320049  出典 大口中学校HPより
 
松江城国宝の決め手は、釘穴!
 
 話を戻そう。松江神社で見つかった祈祷札が松江城のものとわかったのはなぜか?
 
 その決め手は釘穴だった。地階の2本通し柱の釘穴と、祈祷札の釘穴の位置が見事に一致したのである。まさに、国宝を決定づける釘穴だった!歴史を決めるのは古文書だと思っていた私は、そのシンプルさに驚かされた。
 
 昨年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、コロナでの中断はあったが、それ以後おおいに盛り上がった。特に第34話での比叡山の焼き討ちでは、明智光秀を自戒の念に苦しませた。
 
 この比叡山焼き討ちであるが、近年の研究では、そこまで大きなものではなかったことがわかってきている。時代考証を担当した小和田哲男先生は、YouTubeで「戦国・小和田チャンネル」を開いている。「麒麟がくる」放映日の翌日には、前日の内容について毎回解説してくださった。そこでも、比叡山の焼き討ちは、実は一部の限定的なものだったと語っており、それを「考古学の成果」と表現された。これは、滋賀県教育委員会が行った調査によるもので、大規模な火事があった時に見られる、焦土の跡や人骨など物的証拠が見つからなかったことによる。当時の文献資料は焼き討ちを直接見た人が書いたわけでなく、噂話を誇張したのではないかという。
「麒麟がくる」第33回「比叡山に棲む魔物」https://www.youtube.com/watch?v=OnrvMvr9YbU 
 
 N氏は言う。
「文献・記録の中には疑わしいものもある。歴史は、文献・記録以外でも、当時の人が残したものでも語られている。例えば当時の壁土、そしてその中にある竹などで編んである格子、麻紐などから色々な情報が読み取れる。文化財の修復の手法は考古学と同じ。残っているものから当時の様子を推理し、それが何を訴えているのかを読み取って修復に生かしている。」
 
 「歴史考古学」というジャンルがある。文献・記録でなく、遺跡・遺物を研究の対象とする歴史学のことである。?文献・記録の多くは勝者の歴史であり、敗者の歴史は曲げられていく。新井白石は徳川綱吉を、松平定信は田村意次を酷評した。これらの例を見るまでもなく、文献・記録から執筆者・編纂者による主観を取り除くことは容易ではない。文献・記録を全否定するつもりはないが、歴史考古学を組み合わせて、より確かな歴史に近付いてくれればと思う。
 松山城の国宝の決め手が、その象徴なのである。
 こうした、ある意味最先端の情報を教えてくれるN氏のような教え子と歴史について語り合うことは、社会科教師としての幸せである。