研修1日目 2月22日(木)                     社楽の会へ   

15;30
特別講義 「不揃いの木を組む」
                   (株)鵤工舎舎主 小川三夫

 学生時代に修学旅行で奈良へ行った。法隆寺の五重塔を見て、1300年前に建ったと聞いた。「どうやって造ったのか」と思い、この仕事もいいと思った。
 当時は、ロケットが月に行った時代。それはデータを積み重ねてできたことだ。これに対して、法隆寺の塔は信念で造ったと思った。データでなく信念。
それを学びたいと思った。
 高校を卒業する1月前に、弟子入り志願に行った。どこへいったらよいかわからないので、奈良の県庁へ行った。文化財保護課で法隆寺には西岡さんがいるといわれた。行ってみると大工さんが二人いた。西岡さんいるかと言った。西岡はおれだと言ったのが棟梁。
ならかず、常一、なら次郎の3人。
ならかずは80歳以上。もしならかずに声をかけていたら弟子になれなかった。その名前を忘れたから運を得ることができた。
その時は18歳では年齢が高すぎるといわれた。また、今は仕事がないともいわれた。
紹介状を書いてもらい、文部省文化財保護委員会建造物課へ言ったら、のみ・かんなが使えるようになってから来いといわれた。
 そこで、長野県へ行って、仏壇をつくる仕事についた。住み込み修業だ。食べさせてもらって仕事を教えてもらう。家事労働でお返しをする。当時は、環境の違いにひがんだりした。
 1年立経ち、法隆寺へ行った。そこで「島根県の日御碕(ひのみさき)神社へ行け。」と言われた。仕事は図面書きだった。普通3カ月でできるものを、1年半かかった。仕事をしていると中学生が来て、灯台へ行こうと誘われた。そこには女の子がいた。すれ違うときに、スカートの中が見えるような気がしてうれしかった。実際には見えなかったが…。
1年半立ち、図面ができ、文部省に報告した。次は兵庫県の豊岡へ行き仕事をした。
 3ケ月して、西岡さんから手紙が着た。法輪寺へ来てもよいという内容だった。三重塔の再建である。道具を持って来いといわれたので、刃物を研いでい行った。しかし、棟梁には、道具箱を見せなさいといわれた。実際に見てこんなものでは使い物にならないといわれた。
 次に納屋の掃除をしろと言われた。そこには法輪寺の図面がある。また、棟梁の道具があった。見てもよろしいということだった。
棟梁は、弟子にするとかいわない。納屋の掃除をしろと言う言葉で感じ取れという教え方だ。
 次に、新聞・テレビ、建築の本など一切禁止。一年間刃物だけを研げと言われた。ある時けがをして黙っていたら怒られた。報告しても怒られた。夕食になると、自分の前に西岡棟梁。次に自分。その後に家族が座る。ご飯、汁、菜の順番を崩してはいけなかった。食べた気がしなかった
寝る時には、お爺さんが寝ている離れの2階で寝たので、物音一つ立てられなかった。
自分も寝相の悪い嫁さんに、「もう少し、緊張して寝てくれ。」と言ったほどだ。それが徒弟生活というものだ。自分の時間はない。個性というのは師匠をまねて生まれるもの。そうして仕事を覚える。

 木の話をしたい。
木は植林して育てる。苗床で3,4年経って、移し変える。この時、向きを変えてはいけない。ねじれてしまうからだ。山では密植する。それは木同士に生存競争させるため。そうするとまっすぐに育つようになる。無駄がないし扱いやすい。良質材と呼ぶ。
生存競争のない木は、四方から光が当たるので、伸びる必要がない。でぶっとした木になりあつかいにくい。しかし、時々銘木がそだつ。
今の学校は、良質材はできるが、銘木が出ない木がする。
自然の山はいろんな木が生える。人間は扱いやすいように杉だけ植える。だから乱れる。

木の建物の命へ移る。千年の木でつくるのなら、建物を千年持たせろといわれた。肥えた土地の木は千年持たない。岩のような所に生えた木だと千年持つ。木曽の檜は600年すぎると中が空洞になる。屋久島の杉は栄養がないところだから何千年も生きている。
東大寺の大仏殿修理を行った。梁に使う木を運ぶために、人が10万人、牛が4千頭かかった。大変な作業だ。昔は、運ぶ途中で、木が乾燥した。使える木になった。倒してから寝かしておくことが大切。そうしてから建物をつくる。
寝かせる期間が無駄なようだけど大事なこと。あせると、あとからくるいだす。あて がある。それまで日陰にいたのに、前の木が倒れたために急に日が当たった木、それがあて。強いけど使いにくい。あての力を利用して、屋根の構造材にする。使い方で役に立つ木にする。

道具について
宮大工と言われる。普通の人は家大工。宮大工は大きな木を使うので、木の癖をうまく組まないといけない。
一発で入ったくぎはすぐ抜ける。何回もたたいた釘は抜けにくい。金槌は、体によって決まる。体格が違えばみな違う。
 日光東照宮へ行った。構造の美から、細工の美に移った。
手道具を使える子は電動工具も使える。だから、手道具も使わせないといけない。電動道具だけではダメだ。
工作技術で物をつくったら、出来上がればそれでよしとなる。執念でつくるものは、出来上がったものに不満を残す。だからやる気が出る。執念で物づくりをする子を学校でも育ててほしい。ただ、それは教えることはできない。感じ取るものだ。
日常生活が厳しいほど、執念の物づくりに気づく。甘い生活をしていては気づかない。
今は、いい建物ができにくい。

急ぐことは、目や耳で学べるが、手と体で覚えるものは長い時間がかかる。頭の中で理解して、子どもたちに表現させようとする。学校の先生はそこで失敗をする。技術は時間がかかる。簡単に職人は育たない。
守り伝えてきたものは、文字や数字ではなく、体の記憶。だから法隆寺が今もある。代々の宮大工が伝えてきた。
五重塔の軒が深いので下がろうとする。つっかえ棒をつけると簡単だが、姿が変わるので使えない。文字や数字で伝える人は姿を簡単に変える。阪神淡路大震災により、瓦の屋根が減った。しかし、瓦の屋根が軽いのは、以前に大きな台風が来たからだ。だから重い屋根にした。これは文字や数字で伝えているから。体での判断が大事。
次の世代のために、嘘偽りのあるものを残してはいけない。建物を、何百年の後に解体修理した時に、平成の大工は頑張ったと読み取ってくれると思う。
昭和の大修理のときに、西岡棟梁は1300年前の大工と対話をした。本物は力がる。
考えられるすべての物を精いっぱいやれば、後の時代にでも技術をよみがえらせてくれると思う。

 弟子たちの話をしよう。
鵤工舎をつくった。今は30人ぐらいの弟子がいる。新入りは先輩のために、飯炊きと掃除ぐらいをやる。中には風呂に入らない子もいる。洗濯ですすがない子もいる。街から来た子と田舎の子がすぐわかる。
街の子は、冷蔵庫をすぐ開け閉めする。田舎の子は漬け物と味噌汁から始まる。龍神村から来た子は、オムライスのつくり方を覚えた。それまでは食べたことがなかった。飯をつくらせると、姿勢がわかる。
掃除は次のことを考えていないとできない。整理整頓は、頭の中を整理整頓しなければできない。13人の食事を30分で作る。そのために昼と夜の下ごしらえをするが、11時半までに終わらないと務まらない。
今年来た子が、夜の2時半でもキャベツを切っていた。かわいそうだけど、やはり途中で帰ってしまった。段取りが悪かったからだ。
飯づくり、掃除をさせると、どんな道に進むかわかる。ちょっとしたアドバイスはする。
うまくなるころに新しい子が来て、またまずい食事をつくる。いつまでたってもおいしいものを食べられない。

源ちゃんという子がいた。通知票が1。しかし、能力が高くやる気満々の子でも、通知票1の源ちゃんに勝てない。工舎の希望者は多い。母親はこの子は器用だからと言うが、それは頭の中の器用だ。直角を定規で考えようとする。しかし、頭の器用な子は器用におぼれて、なかなかものになりにくい。不器用な子は、執念がある。直角を実物大で考える。
長い目で見ると、10年立てばやる気のある子が伸びる。
大学生と中学生が希望して来た。私は中学生を採用したがなぜだと思うか?。中学生をとらなかったら、ほかに飯が食べられない。大学生は能力があるのでほかでも食べていける。そうすると本当に苦しいときに、ほかを見てしまう。それはかわいそうだ。中学生はほかを見られないからがんばる。

教わるということは甘えにつながるから教えない。いつも掃除ばかりしている子は、先輩のを見てやりたいと思う。やらせてくれと言ったときにだけやらせる。かんなを貸してやると、うれしそうに削る。そうすると、それ以後の刃物研ぎも力が入る。本当にやりたいと思ったときまでは、道具を与えてはいけない。
うちは何も教えないからはじめは伸びないように思う。しかし、10年経つと一緒。そこからの伸びは違う。企業は教えるから、初めは伸びる。しかし伸び悩む。
教えなくても、学ぼうとする雰囲気があればい。その中にいれば自然と育つ。

素直が一番だ。なぜか、お互いが疲れないからだ。今の学校は中途半端。だから素直になろうという前に終わってしまう。
何もなくて、一つ一つ覚えていったような子はいい。知識があってもいいが、それでも素直にものにあたれる子がいい。
大部屋での生活に苦労する。アパートは?と言う子は認めない。大部屋での生活でいろんなことがわかる。自己中心で生活ができないことに気づく。同じ空気を吸って、同じことをやっていれば自然とやさしさが育つ。荷物を運ぶ時、力のある子が自然と重い方を持つ。おかわりする時、仲間の食事の量も考える。やさしさと思いやりがなければ、集団生活ができないことに気づく。
ゴリラと言う子がいた。「う、あ」しかいわない。頑張ったので、現場棟梁になれと言った。若い子に教えてやれと言ったら、「言わない。」と言った。そして続けた。「失敗しそうなときだけ言う。後は任せる。」それが鵤工舎。黙って見守る。
今の親は、子がわかっていることを言うからぶつかる。
 私も、1年間だけ刃物研ぎをしていた。3カ月経った時、西岡棟梁が来て見本を見せてくれた。見本を見せてくれたのは、後にも先にもこの1回だけ。後は何も教えてくれなかった。私は、師匠の削ったかんなくずをみて、研いでは削り、研いでは削るを繰り返した。なかなかできない。今思うと、研ぐことによって、大工の精神が養われたと思う。かんなくずを顕微鏡で確かめればよいかもしれないが、一回顕微鏡を使うと、それ以後毎回使わないといけない。棟梁は、目で見てちょっとした違いに気づく。“勘”と言った。
 畳1枚のテーブルを平らにすると、たいてい真ん中が浮いて見える。目で見て、平らに見えるようにならなければいけない。ギリシア建築は、実は美しく見えるように矯正してある。それだけの目があるからできたのだ。
西岡棟梁は自分自身が厳しく生きた人だ。本当のやさしさがある。厳しさのないやさしさは甘えにつながる。

 口伝と建築を重ねあわせて話をしてみる。
建築は、はじめに場所の設定をする。 東西南北に守り神がいる場所(四神相応の土地)とは、東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武。東に川があり、南に開けた沼や土地があり、西に大きな道があって、北に丘。法隆寺がそう。1m表土をとると、堅い層がある。よく見抜いたものだ。

 山の環境によって木が決まる。木は山をみて買えと言う。檜は、伐採した木は200年強くなる。それから1000年ぐらいかけて弱くなる。古代の工人は檜の強さを知っていた。
柱をどこに立てるか?礎石の上に立てるだけ。はしごをかけて上に立てればよい。地震がきても、横に移動する。
 木組は、寸法で組まずに、木の癖で組めという。塔はできたばかりはぐらぐらだ。
スライドをみよう。

 法輪寺に通うとき、毎日法隆寺の五重塔を見た。西岡棟梁は、安定して動きがあるだろうと言った。微妙に二層と四層が小さい?
 薬師寺の尺度は、当時は一尺が29.6ミリ。今と違う。天平尺という。
薬師寺は柱はまっすぐではない。美的に矯正してある。東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武のレリーフがある。
 木は生育のままに使えと言う。古代の工人は、南向きの木は南向きの柱にする。育ったように日を当てる。木の組は工人の心組。工人の心組は、工人の思いやり。百の工人には百の思いあり、一つにまとめる棟梁の器量なり

塔の中は木と格闘の跡がある。今は規格品しか使わない。昔は、芯からの距離できまるので、どんな木でもできる。昔は、山で木を切って運ぶ知恵があれば、現場でできたと同じ。技術も大事だが、時には、技術以上のことをやらねばならないときもある。仕事に対する精神、心。昔の塔は、不ぞろいの木が支えあって、一つの塔をつくっている。

☆★☆ コメント ☆★☆
 前にテレビで見たことがあるが、一言一言に含蓄があった。今の建物は規格品でつくるが、かつては確かに規格品の木材はない。不ぞろいでも支え合って一つの塔を作るというのはまさに学級経営の神髄だ。よい話だった。

《参考》小川三夫記念講演 「木のいのち 木のこころ」
     
  http://www.asahi-net.or.jp/~de3m-ozw/0toukai/ishioka/ishi02.htm