研修2日目 2月23日(金)                            社楽の会へ   

13:00〜15:30
教育法規1
 日本女子大学助教授 坂田 仰(たかし)
 
はじめに
 昭和58年に教壇に立つ。この年は、少年非行第3の波のピーク。
 第1の波が終戦時。戦後の荒廃期の青少年が荒れた。第2が高度経済成長期の1960年代。高度経済成長のひずみになった青少年が荒れた。そして第3。前との違いは、学校現場が非行の舞台になった。第1,第2は学校の外で暴れた。
 和歌山で生まれたのんびり育ったが、大阪で赴任して見たものは、カルチャーショックだった。してはいけない体罰もあった。裁判所もそれを後押しをしていた。
 80年代前半に水戸で判決が出された。(http://www.aba.ne.jp/~sugita/180j.htm )再生会議では、授業を妨害する子に毅然とした態度を示すように求めた。やや危ういものを感じる。かつてとは背景が違う。
 過去の学校は、無条件の信頼の対象とされてきた。
 私も先生に殴られたと祖母に言いつけたら、逆に祖母にも殴られた。先生が理由もなく殴るはずがないという理由だった。それぐらい信頼の対象であった。
 今は、信頼にも対象にもなるし、批判の対象にもなりうる。
 今日は、学校と教師を法令の観点から見てみたい。
 
 間もなく(27日)最高裁が判決を出す。君が代伴奏訴訟。
  http://blog.livedoor.jp/suruke/archives/51346807.html 
保護者はさっそくチェックをする。我が子の学校はどうか問い合わせる。それに対して説明できるか。説明責任は学校経営の大事な要素である。

2 「開かれた学校づくり」と「学校の説明責任(アカウンタビリティ)」
 学校は、今まで以上に応援団を増やす必要がある。そのためには、学校を開く。学校、家庭、地域のトライアングルができているか。そこから応援団を増やしたい。
 地域や保護者の学校経営の参画がポイントになる。
 「教職員は、市民の視線とは違うのではないか?」と振り返る、そういう目が必要。教員の一人よがりを排除することが大切になる。
 そのための説明責任がアカウンタビリティ。病院の先生の態度はここ10年ですごく変わった。インフォームドコンセプトと言い、十分な情報を与えたうえで、納得と合意の治療をする。かつては違った。
 胃がんでは胃を切除する。今では必ず本人に説明し、自分でどうするか選ばせる。田野病院の意見も聞くセカンドオピニオンもある。
 にもかかわらず、学校は説明しないのはおかしい。地域に向かって語る必要がある。経営ビジョンを掲げて、説明することが応援団を増やす。
 国旗・国家の問題でも先生だけで議論している。地域も議論に参加させるべきだ。
 裁判所も同じ。裁判員制度によって、オープンになろうとしている。
 
 もう一つのテーマが、「先生個人の価値観を教育現場に持ち込むのは許すな。」教育は組織で行うもの。点としてではなく、面として教育にあたらなければならない。
 それが校長の理念。その校長でも超えられないのが法規。それがコンプライアンス(法令遵守)。
 学校に味方をつける、そのために説明が必要となる。その根拠が教育法規である。

 かつてアンケートを取った。「教育に対するイメージ」、「法に対するイメージ」を聞いた。教育には、「人間的、やさしさ、感情的」がベストスリー、一方、法には、「冷酷、理屈、機械的」だった。しかし、これは誤解である。
 教員は、なぜ教壇に立てるのか?それは法がその権限を与えているからだ。

 公教育としての学校と塾は違う。
 公教育の自由は制限がある。なぜ教員は他人の子どもの人生を左右できるのか?法が権限を与えているから。
 価値観が多様化し、教員の行動が法に照らして判断されるようになってきた。法化現象という。
 昭和40年代は、学校関係の裁判は少なかった。事故はあっても、裁判まで行かない。話し合って決着がついていた。今は、いきなりフォーマルな形で意義申し立てをする。
 2つめ。それでも解決しない場合は、裁判所の判断を仰ごうとする。判例集をみると、1980年代を境に飛躍的に伸びている。気をつけなければならないことは、裁判ではまず学校が負けるということだ。
 1960年代からアメリカも教育訴訟が爆発的に増えた。大きな事故が起こると、まず先にマスコミ、保険会社、弁護士たちがやってくる。校門を超えて裁判が入ってくる。
 これも、統一的な価値観が多様化したことによる。日本は30年遅れてアメリカの後を追っている。日本は、「価値観の多様化」を中教審でも答申の最初に言っている。いやがおうでも、教育訴訟に出会う。

 学校の責任範囲が拡大している。間接責任も裁判になる。
 例えば、かつてはいじめは、いじめられた方がいじめた方を訴えていた。今は、学校の責任も追及している。発見できなかった責任を問われる。今後は学校だけ訴えられるかもしれない。根拠は国家賠償法である。http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO125.html 

 それでは、なぜそうなったか。弁護士が考えるからだ。有名な教育裁判を10件ピックアップすると、ある弁護士の名前が共通する。教育訴訟をメインに活躍しているから。それで儲けている。
 受けて立つ方の弁護士は、教育が専門ではない。だから圧倒的に不利。訴える方は手慣れている。今後は、教育訴訟に学校は備えるべき。そのためには教育判例を読むこと。
 教育判例研究の意義;それが危機管理になるからである。
 教育訴訟を見る二つの目(ヤヌス的方関係)
  ※ ヤヌスはローマ神話の出入り口と扉の神。前後2つの顔を持つのが特徴
 1 対教員 → 勤務関係、懲戒、不適確教員、
 2 対児童・生徒 → 生徒指導、事故
   
 学校教育・教員の法的関係
 公立学校のヤヌス
(1)教育機関;非権力性
 社会的存在としての学校
 日本教育法学会;教師の位置づけをあいまいにとらえる。私事の延長と考える。
      そうとらえると契約になる。訴えられる可能性がある。
 全国学力テスト 訴訟が起きないとも限らない。

(2)教員は行政機関;権力があるという考え方がある。
 法的存在としての学校であり、公的存在である。それぞれがそういう発想を持つ。経営の視点である。
 
 毛語録事件判決が広島高等裁判所(昭和60年5月31日)にあった。教師の教育の自由と言って争う感覚があった。
 なぜ教員は他人の子供を教育できるのか。学校が組織として教育活動を行っている法的存在だからである。これを毎年はじめに確認すべきである。
 教育基本法
  旧 10条
「教育は,不当な支配に服することなく,国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」  
  新 16条
教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、」
 これで大きく変わった。根拠が変わった。
 
 教育権とは、教育内容の決定権である。
 @ 国家の教育権説 民主的ルートを経て教育内容を決定する。
 A 国民の教育権説 教員、保護者、地域住民が自立的に決定。
 この二つが対立している。
 教員は国家のエージェントか真理のエージェントか?
 日本では、4つの裁判での判例がある。

 @ 旭川学力テスト事件 (折衷説)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%AD%E5%B7%9D%E5%AD%A6%E5%8A%9B%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 教員の教育の自由の合理的制限
  教師は、学習指導要領と言う台本を使って演出する自由がある。    
 台本の決定権は国にある。
 
 A 伝習館訴訟 教科書の使用義務を認めた 
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/50/rn1980-542.html 

 B 福岡君が代訴訟 
   卒業式等における国家斉唱指導の必要性を肯定
 
 C 国家斉唱義務不存在確認等請求訴訟 都教委指導…思想・良心の自由を侵害 
   上級審で覆されるのではないか

 25日に君が代伴奏裁判の最高裁判決が出る。高等弁論が行われていないので原告敗訴だろう。
 思想良心の自由があるのになぜか?
 1 国旗・国家法があるから。
 2 いやならどうぞおやめくださいというしかない。

 オウムの信者の警察官が麻原を逮捕するのを拒否したら許されるか?許されない。それでは、なぜ教師が法律に従わない自由を認めらるのか。職務として、遂行するべき。組織としての判断が大切。納得と合意は大切だが、法律は順守しなければならない。

 
教員と地域住民の意識のずれ
 住民訴訟の増加 納税者として裁判を起こす例が増えた。
 @ 旅行命令簿非公開取消請求訴訟 (最高裁 平成15年)
 A 研修不承認訴訟(名古屋地裁 平成14年)
    自立的研修権の否定;研修に対する校長の実質的判断権を付与
 B 教研集会罷免参加給与返還訴訟(横浜地裁 平成15年)
    職務専念義務免除研修の限界
    →教研集会は労働運動の一環であり、研修を承認することは原理的に不能。
 今後、夏休みの研修承認簿は公開請求される。
 教員と地域住民の意識のずれが限界まで来ている。
 
4 学校事故
4−1 学校の責任範囲の拡大
 @ 部活動参加好意同乗事故国賠償訴訟 バレー部 事故に遭って後遺症が残った。校長の黙認は経営責任者としての役割
 実際に守らせる。確認までが責任。
 A 鉄棒転落国倍訴訟 
 外部者の利用可能な状態で放置した責任;門が開いていた。
 校庭開放 教育委員会で統一的な見解を持つべき。
 
 B 理科実験中の事故国賠訴訟
 事故が起こったときの対応がまずかった。養護教諭不在のときに、代替教員の確保。救急救命。救急車を呼ばずに一般車で運んだ。
 
 池田小学校事件
  初期の救急救命があれば何人かは助かった。先生の独立性が強いほど、組織としての動きが弱くなる。救急救命は流行り、廃りではない。
 
4−2 教員の直接指導・立会義務
 @自習中事故国賠訴訟
 懇談会の日程調整のために離席。職員団体との申し合わせで、昼休みには仕事ができない。そこで、授業中に電話をかけた。
 裁判所も、少なくとも小学校低学年のうちはいるべきだ。個別事情による。そこが管理職の判断。
 
 A水泳部飛び込み事故国賠訴訟
 特異な練習形態を放置した。誰が矢面に立たされたか。高校生が指導に来ていた。高校生が受けて立たなくてはいけない。裁判になると、法的地位まで問題になる。
 外部講師を受け入れるに当たっては、事故が起こったときの対応状況まで準備しなくてはいけない。
 
4−3 教員個人の刑事責任の追及
 @部活動熱中症死亡事件
 川崎の中学校。屋外で練習。引率1名。その後に持久走。先生が前を走っていた。
  業務上過失致死罪。一人しかいなかった。校外では複数。一人の時は、後ろを走る。  部活動の法的位置づけは微妙。東京は職務に位置づけている。
 A岐陽高校体罰死事件
 有罪;傷害致死 実刑判決、懲役3年。組織的暴力を非難した。教師は体罰に消極的だったが体制の中で体罰をした。
 
5 個人情報保護
 @ 情報公開   民主主義、国民主権
 A 個人情報保護 プライバシー権、自己情報のコントロール権
相反するベクトル→現場が混乱する。
 
個人情報保護に関する法律  http://www.kantei.go.jp/jp/it/privacy/houseika/hourituan/ 
 この法律は公立学校には適用されない。民間事業者である私立学校は適用される。
 ただし、自治体の個人情報保護条例には適用される。それぞれの自治体の条例を見る必要がある。
 今後の民間業者選びの尺度は次の4点
1 コストパフォーマンス
2 個人情報保護
3 地元企業
4 環境に配慮
 これらを総合的に判断すべきである。
 
私立学校向けガイドライン;公立学校も参考にするとよい。
  http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/16/11/04111602/005.pdf
 個人情報バブルで過剰反応し、教育効果が薄れてしまった。
 教育的営みは情報に左右される。
 教育の非営利団体に特化した法律を出すべきだった。
 入学段階で同意をとって情報を集めることも必要である。
 
まとめ
 リチャードローティ
 個性を開花させる以前に、まずその社会化が行われなければならない。自由のための教育は、自由に対する一定の制約が課された後でなければ始めることができない。
 
 自由は、何をしてもいい自由ではない。それが、公共と言う言葉。
 個人の自由とは、自分の幸福と社会の幸福をバランスよく考えられること。  
 
 むき出しの個性のまえに、共同体としての法の存在を無視した教育は公教育ではない。
 
教育法令理論研究会HP http://www.tcn-catv.ne.jp/~horei/ 
 多くの判例が載っているので見てほしい。
 
 法を意識しなくてもよい学校がよい経営である。

☆★☆ コメント ☆★☆
 最後の「法を意識しなくてもよい学校がよい経営である」で少しほっとしたが、確かに気にしていたらやっていられない。
 これまで無事に終えたからよかったものの、何かあったらただで済まないことが数多くあった。判例を読むことが危機管理の第一歩と言われたが、その意味も良く分かる。もちろん事故が起きるのは不幸なことであるが、未然に防ぐのはもちろんのことだが、常に事故は起こるかもしれないという想定の下で、打てる手だけでも打っておくことが大切なのであり、そうした意識は常に持っていいたい。
 明快で、すばらしい講師だった。