2006.5.26

  1. はじめに
  2. 水田稲作のもたらす自然観
  3. 日本人の自然観と感性
  4. 「鎖国」によって得たもの
  5. 近代化と日本人の自然観



大栗安の棚田


平野部の水田(井伊谷)

1. 水田稲作のもたらす自然観

日本の森は現在ではさまざまな形で人間の手が入り、そのために姿をかえているが、縄文時代まで、日本列島は若狭湾と伊勢湾を結ぶ線あたりから西と東では姿の違う2種類の森におおわれていた。東日本はミズナラ、ブナなど、秋には葉が落ちて地面にまで明るい日が差し込み、クリ、クルミなどが豊かな落葉広葉樹の森であり、西日本はシイ、カシなどのつややかな分厚い葉が常に生い茂って、太陽の光を通さない暗い森であった。つややかな葉の様子から照葉樹林ともよばれる西日本の森のなかは、日が差さないため常にじめじめとして、人間にとって快適なものではなかった。現在でも神社などの周りに残された「鎮守の森」には、そうした「入ってはいけない森」の姿が伝えられている。その頃の日本の人口分布は東日本の落葉広葉樹帯で高かったことを国立民族博物館の小山修三氏が描いている。落葉広葉樹林帯にある三内円山遺跡ではクリだけがかたまって生えていたらしい場所があることも明らかにされている。

現在のわれわれの行うキノコ狩り、山菜とり、潮干狩りなどは、この頃の人間と自然との関係を伝えるものということができるだろう。キノコやアサリが沢山採れるところはたやすく人に教えないというのも、我々の自然との付き合い方の一つである。キノコや山菜が次の年にもたくさんとれるように、人間から自然への働きかけがあったことも想像できる。三内円山遺跡では大勢の人の食料としてクリの実を確実に手に入れるために、一定の場所にクリの木が生える様に人間が工夫したと考えられている。クリ、クルミなどの木の実、アワ、ヒエ、ソバといった雑穀とともに米もこの頃から食べられていた。

この時代の自然の姿全体を変えることなく、人間にもっとも都合のよいところから実りを得るという生活が大きくかわったのが、水田の登場によってであった。

最初の水田は、「入ってはいけない森」であった照葉樹林を切り開いて作られた棚田ではなかったかと考えられている。天龍の大栗安地区や引佐の渋川地区にはそうした棚田を見ることができる。やがて水田は棚田のように山間地の小規模のものから、下流の平野に拡がる低湿地で大きな面積にわたって給排水施設を整備し、大規模な水田をつくる、というものに変わって行った。大陸との交流のなかから、国づくりの基礎となる大規模な水田をつくる技術がもたらされたことも考えられる。

下流の平野における稲耕作が、採取生活の延長・改良として発達した畑作、それと同じように数家族で経営出来る棚田と大きく違うことは、森を開墾して水田を造成し、川の水を安全に水田まで引いて安定して利用できるようなものにするために、莫大なエネルギーを必要とすること、一年を通じて四季折々の管理が必要であり、しかもそれを連続して行うために同じく大量のエネルギーを使わなくてはならないことだった。その代わりに、投入したエネルギーに対してそれまでよりはるかに生産性の高い収穫を安定して得ることができるようになった。

現代に至るまで欧米等の畑作・牧畜文明では、水害は「防ぐ」ものとされているのに対し、東アジアの水田稲作地帯では、水害は「治める」ものとされてきた。主な農作物の違いからくる農業土木のあり方の違いが、われわれ日本人の「水をみるまなざし」にも、川の水は洪水を恐れるだけでなく、川を手なづけて、治めるべきものだ、という水田稲作地帯特有の考え方を育んでいる。

また季節に応じて自ら移動する動物を相手に発達した牧畜文明に対して、水田という動かすことのできない環境のなかで、四季を通したきめ細かな管理をすることが収穫の増加につながるため、季節を敏感・ち密に感じ取る能力も育まれてきている。

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