2006.5.26

  1. はじめに
  2. 水田稲作のもたらす自然観
  3. 日本人の自然観と感性
  4. 「鎖国」によって得たもの
  5. 近代化と日本人の自然観

2.日本人の自然観と感性

動物のみならず、植物等の生物をはじめ、岩石、土壌、水蒸気・雨・海等の水圏、大気といった現在われわれが「自然」とよんでいるものと、それら相互の働きによって起こることに対して、人類が最初に抱いたものは、畏怖・感謝・尊崇といった感情だと思われる。猪、鹿などが狩猟対象となる場合の、動物の霊を慰めるための民族儀礼は各地に伝えられている。また神への生贄として動物が使われる場合もありる。これに伴って神が食べたものの残りを人が食べる儀式もあり、生贄となった動物の頭骨を祀る、ということが行われている。

「人を殺してはいけない」ことを仏教では「殺生戒」とよぶが、多くの国と地域では「人間も他の生物も同じ生き物なのだから、自分が生きるために他の生き物を殺して食べてはいけない」と理解されている。わが国でも仏教伝来以後、動物を食べることへの畏怖が仏教の「殺生戒」と結びつき、自分が生きるために他の生き物を殺して食べることへの原罪意識となってきた。中世以降につくられた謡曲の善知鳥(うとう)では「鳥を殺生して、地獄で鳥に襲われ、さらに生まれ変わってもその責め苦を受ける」と描かれている。

こうした殺生の意識は、人間以外の生物への先験的な畏怖・感謝・尊崇に基づいているが、人間もその他の動物も同じ生物であり、「いのち」の尊さは変わらない。あるいは「いのち」として循環または交換可能だという、仏教の「輪廻」思想に裏打ちされている。

「人を殺してはいけない」という戒律は仏教以外のキリスト教、イスラム教、ユダヤ教等でも同じなのだが、有畜農業との結びつきの深いキリスト教では、菜食主義が運動として組織されたのが1847年と、近代的な自然保護思想、動物博愛思想の時代にまで下る。またイスラム教の食べ物に関する戒律で興味深いのは、「豚」「肉食動物」「突き出た耳のない動物」という、対象となる生き物の種類と同時に「アラー以外の名のもとに殺された生き物」が禁じられており、この戒律が人間と人間以外の生き物との先験的な関係によるものではなく、信仰に基づいて区分されていることがわかる。日本人が思い浮かべる「殺生」の考え方は、信仰によって区分されるものではなく、人間と自然との初原的な関係に基づいており、それを仏教の「殺生戒」で裏打ちしたもの、ということができよう。

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