(1)Japan On the Globe(602)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
国柄探訪: 外国人の見た「大いなる和の国」
「私たちは日本にくると、全体が一つの大きな家族のような場所に来たと感じるの」
☆★☆ コメント ☆★☆
気に入っているMMの一つです。日本人が見てもどうってことのない光景から、日本人の本質に迫るような見方をしています。ご覧ください。(以下引用)
■1.スクランブル交差点での傘の群舞■
高層ビルのレストランで、アメリカから来た老夫妻との食事を終えて、廊下に出ると、雨が降り出していた。廊下から外を見下ろすと、そこはハチ公広場前の大きなスクランブル交差点で、信号が青になると色とりどりの雨傘がひしめいていた。老夫妻は足をとめ、じっと窓から見下ろした。
私たち、こうするのが大好きなの。日本のことが一番よくわかるから。雨の日、そしてことに渋谷のような大きな交差点。ほろ、あちこちの方向へ動く傘をよく見てごらんなさい。ぶつかったり、押し合ったりしないでしょ? バレエの舞台の群舞みたいに、規則正しくゆずり合って滑って行く。演出家がいるかのように。これだけの数の傘が集まれば、こんな光景はよそでは決して見られない。
この言葉に、海外に合計15年も住んでいた文筆家の加藤恭子氏は次のような感想を持った。
内なる「外の眼」(JOG注: 海外生活体験を持つ日本人の眼)を意識している私も、ここまでは気づかなかった。
いつもせかせかと急いでいる私は、「傘の群舞」に眼をとめたことすらなかったのだ。真の「外の眼」のみが指摘できる特徴だったのだろう。[1,p240]
日本人には「せかせかとした雑踏」としか見えないスクランブル交差点で入り乱れる傘の群れを、この老夫妻は「規則正しくゆずり合って滑って行く」日本人の姿として捉えていたのである。
加藤氏が編集した『私は日本のここが好き! 外国人54人が語る』[1]には、こうした「外の眼」から見た日本人の様々な姿が描かれている。そこには我々自身も気づかない自分自身の姿がある。
■2.お互いに「すみません」■
「スクランブル交差点での傘の群舞」とは、一人ひとりの行きたい方向はそれぞれだが、互いに他の人のことを思いやって、 全体として一つの秩序を生み出している日本社会の見事な象徴である。そこには一人ひとりの自由と、共同体としての秩序が共存している。
我が国ははるか太古の時代に「大和の国」、すなわち「大いなる和の国」と自称した。アメリカから来た老夫妻が見た「スクランブル交差点での傘の群舞」は、まさにこの国柄が現代にも息づいていることを窺わせる。
「大いなる和の国」が成り立つのは、一人ひとりがすれ違う相手のことを思いやる心を持っているからである。この思いやりは、日本に来た多くの外国人が感じとっている。
中国から来て日本滞在20年、今では帰化して大学で中国語を教えている姚南(ようなん)さんはこう語っている。
これは民族性の違いだと思いますが、日本では一歩譲ることによって様々な衝突を避けることができます。例えば自転車同士がぶつかったときなど、中国ならすぐ相手の責任を求めますが、日本ではどちらが悪いという事実関係より、まず、お互いに「すみません」と謝ります。その光景は見ていてとても勉強になります。
ある日、混んだ電車に乗っていたときのことです。立っていた私は、揺られた拍子に後ろに立っていた女性の尖った靴先を、自分のヒールで踏んでしまったのです。すぐ「ごめんなさい」と謝ると、その人は微笑んで「靴先は空いているから大丈夫ですよ」と言ってくれました。
日本人は他人の生活に干渉しません。うわべの付き合いのように見える関係は、多くの中国人が偽善と感じるものですが、私は、自分の主張を人に強制して受け入れてもらう必要はなく、干渉せず、お互いに好意を持って付き合い、人が困ったときに助けてあげれば良いと思います。[1,p31]
お互いの自由な生活を尊重しつつ、困った時には助けてあげるのが、「大いなる和の国」の流儀である。
■3.周りの方の「がんばれー」光線■
この流儀は、もちろん海外から来た人々にも発揮される。北アフリカのチュニジアから来た学生のアシュラフ・ヘンタティさんは、まだ滞在1年未満だが、こんな体験をしている。
僕はまだ日本に慣れていなくて、日常生活でも、日本語でも、悪戦苦闘の日々なのですが、いろんな場面で、皆さんが「がんばって」「がんばってください」「がんばってね」と声を掛けて下さいます。
実は初め驚いたのです。よその国では、そういう経験があまりないからです。日本では乗り物などでマゴマゴとまどっていたりすると、周りの方の「がんばれー」光線を感じます。身も知らぬ僕のためにハラハラと心配してくれているのですよね。例えば、これがフランスなどですと、むしろ冷たい視線を受けてしまいます。自分の権利やふるまいには自信や主張を強く持っていますが、他人にはかなり冷たいところのある国ですから。
逆に日本は、僕のようにあまり深いつきあいのない外国人であっても、そんな風に誰もが励ましのエールをくれます。温かいなあと感じます。「がんばって」と身近な皆さんに言われて、それがプレッシャーだった時もあるのです。こんなにがんばっているのに、自分はそんなにがんばっていないように見えるのだろうか、と。今は、その言葉が励ましの意味だけでなく、むしろ「見守っていますよ」という温かい気持ちの代わりの言葉なのだと解って来ました。 [1,p167]
「スクランブル交差点での傘の群舞」の中で、一人マゴマゴしている外国人がいれば、「がんばって」と声をかけるのが、「大いなる和の国」を成り立たせている思いやりの心である。
(中 略)
■8.「日本は他の世界と共有するものをたくさん持っている」■
世界の多くの国民国家は、多かれ少なかれ、こうした家族的側面を持っている。北欧諸国やタイなどはその模範的な存在である。その中でも、我が国はもっとも理想に近い国民国家と言えよう。
スイスから来て滞在10年のビジネスマン、ウルフガング・アンベールドローさんは、こうアドバイスしている。
今日のグローバル社会において、日本は、他の世界と共有するものをたくさん持っているという事実にもっと気がつくべきだと思います。[1,p222]
ここで紹介した人々が共感した「大いなる和の国」の光景は、まさに「幸福な国民国家のあり方」として、他の世界と共有しうる理想であろう。
この理想は、聖徳太子が「和を以て貴しとなす」として、十七条憲法の冒頭に掲げられたものである。 (文責:伊勢雅臣)
(2)1分間書評!『一日一冊:人生の智恵』45,000部まぐまぐID:0000094236
「日本人はどこまで減るか」古田 隆彦、幻冬舎(2008/05)\798
■人口の減少がはじまった日本ですが、人口の歴史、そしてこれからどうなるのか、について教えてくれる一冊です。
私には世界の人口の歴史が非常に興味深く読めました。
■歴史を見ると、世界でも日本でも、ある壁を突破したときに人口が急増しています。
その壁とは、石器を使うようになったとき、農業を始めたとき、工業が発展したときなどです。
こうした文明の発展のときに人口は大幅に増加しているのです。
■こうしてみると、人口というものは、社会状況によって人間が制御しているとも言えると思います。
それは強制的なものではなく、そこに生きる人が、経済状況などから子どもを生むのか生まないのか選択しているということなのでしょう。
■日本も人口が減っている状況に対し、「どうすれば増えるのか?外国人を入れるべきか?」などという議論がされていますが、著者は、日本の人口は減っていないと主張しています。
つまり、老人の定義を六五歳以上から七五歳以上へ変えれば、働ける人は増えているということになるのです。
確かに60歳で引退するのは、ちょっと早いかなと感じるところもありますね。
・子どもの定義を十五歳未満から二五歳未満へ、老人の定義を六五歳以上から七五歳以上へ、それぞれ変えていけば、2030年ころまで「子どもは増え、老人は減る」のです(p10)(以下略)
☆★☆ コメント ☆★☆
おもしろい論です。というより、私も常々感じていました。「少子高齢化」の「子」は社会に出る前の人という意味ではないのかと。人口は平和度と比例すると聞いた事がありますが、それなら今はどうなる?