2014.6.24
目次

飯田町

飯田町は昭和29年に浜松市に合併したので「浜松風土記」には収録されていない。以下、各種資料によって、飯田町の姿を見てみよう。参考となるのは。

わがまち飯田
飯田地区浜松市合併50周年記念誌
飯田地区自治会連合会篇
平成16年4月1日発行
など



浜松風土記

会田文彬
昭和28年12月
浜松出版社

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飯田町



現在の飯田町は、このような範囲だ。中心市街地の「町」に較べると、かなり広い。北側は東海道本線に接し、中央を東海道新幹線が横断している。又、国道1号線が街を南北に縦断している。



明治23年の地図御を見ると、国道1号線飯田交差点の周辺が「上飯田」、東海道線に近いところが「下青屋」となっている。



しかし明治の地図から境界線を拾ってみると、明治時代の「飯田村」は、現在の「飯田町」よりも遥かに広い範囲であったことが分かる。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、長上郡の別久村、次広村、西ノ郷村、福増村、小松方村、青屋村、渡瀬村、上飯田村、安富村、庄屋村、北長十郎新田、三郎五郎新田、領家村、鶴見村、新貝村、小池村、下飯田村、西大塚村が合併して敷知郡飯田村が発足。

したからだ。明治の「飯田村」が、現在の「飯田地区」と考えれば良いだろう。明治時代の飯田村に、現在の道路を重ねてみよう。



1889年に東海道鉄道が開通し、1898年には天竜川駅が開業すると、駅周辺は急速に近代的な工業が集まり始めた。周辺の村々でも、織物工場などを始める人達がいた。天竜川駅は天竜材の出荷にも使われたので、製材業なども発達した。

1923年、関東大震災が起ると、天竜材は復興の為の需要が高まった。金原明善翁が「木を切ったら、植えなさい。」と言ったのもこの頃だ。

1945年、第二次世界大戦が終わると、戦災復興の為の木材需要が高まった。そして1960年代以降には住宅ブームがこれに続いた。

天竜川駅周辺は木材産業、楽器など木材関連産業を中心とした工業化が進み、線路沿いには楽器会社の巨大な貯木場が作られた。

周辺の農村地域は、恵まれた土地条件の上で、それまでと同じく営農が続けられた。

1964年には東海道新幹線が盛土によって飯田町を南北に分断した。新幹線の北側は工場地帯、という性格を強めて行く。



1969年には浜松バイパス開通し、飯田町を東西に分断した。旧飯田村の新貝町には、開発によって中央卸売市場が作られたが、周辺環境を害さない様、緑地を取るなどの工夫がされている。



現在の飯田町の都市計画用途地域は、図の様に決められている。国道1号線バイパスの東側、三和町とともに南部は市街化調整区域として、これまでの近郊農村の姿を尊重する。

新幹線の北側は工業地帯。

バイパス西側の新幹線南側、飯田街道に添った部分は、飯田町の中心として住居地域とされている。



用途地域を明治23年の地図に重ねて見ると、役場を中心とした飯田村の中心-開戸・田畑が住居地域、楽器工場脇の下青屋が工業地域、飯田街道沿いのバイパス東側-新田・田畑が市街化調整区域となっていることが分かる。