東浜名地區署玄関は樹齢千年枝葉八蓋、欝蒼魔天といわれた「家康鎧掛松」の跡である。三方原合戦の時、ここで武田方戦死者の首実験をしたので「首実験の松」ともいわれた。
明治45年まで、本通りの雨側に小さな堀があつて、山ノ手から落ちる綺麗な水がチロチロ流れて、小魚類がいた。
明治藩政の初め浜松城代になった井上延陵(八郎)は作左山に住み、袋町には弘化・安政にかけて東海随一といわれた剣豪、小林平之進の大きな町道場があつた。門人五百人を越え、他流試合の武土が來ると、平之進が大喝とともに叩き据え、かつて負けたことがなかつた。
作左曲輪から元城町へかけて、1700年の古墳時代の遺跡になっている。明治16年から25年にかけ、浜松城の石垣の下から大小無数の古墳が現はれて、市民を驚かせたことがあり、彌生式後期のものと考証された。
市立高等学校の前身、浜松高等女学校は、明治34年元城町の大手から、馬冷に新築移転をした。今の誠心高校のすぐ東側で、前側に大きな凹地があり、明治時代は塵芥捨場となっていた。
渥美敬次郎、山崎金重、野口周太年、近藤雄三、美甘光太耶、近藤鍬吉、中村雷十郎、杉本國作、小出庄吉、大高虎太郎、新籾城、石井忠晴らは、殆んど舊井上藩士と徳川藩士の知名人。
又安政2年、浜松城主井上河内守正春が、公儀からわずかなことで咎めを受け、出の丸に半歳の間幽居した時、成子の「魚六」という仕出し屋山本六兵衛が、酒肴をせっせと裏口から運んで差入れた。正春がちツ居を赦されてから、六兵衛を呼んで厚く禮を述べ、澤山な贈り物をして、達筆で「白笑」と書いて渡した。これが今の浜松駅辨自笑亭の起りである。
元城町

濱松城内二の丸・三の丸の大手および年行司・下馬場の全部と元目の一部を、明治15年9月13日合併して元城町と命名した。
今の小学校附近は侍屋敷跡で、その東北が年行司、その西方に八千藏と稱する幾つかの大きな米蔵があり、濱松新市廰舎は御馬屋跡で、すぐ東南寄りを下馬場と稱した。
元の元城小学校附近にも侍屋敷が並んでいた。古城は今の元城小学校から下池川・元目兩町に跨つた地區にあつた。
徳川氏の手に歸したのが永禄11(1568)年12月で、この月から家康入城の永禄12年12月まで、酒井左衛門尉忠次が城代を命ぜられていた。
酒井忠次在城中の永禄12(1569)年2月、武田信玄軍千騎が襲つて危機に見舞はれた。この時忠次は城を開門したまま、節分の祝宴を張つて気勢をあげた。
信玄軍は城内のどよめきを聞いて薄気味悪く感じ、引返して了つた。
この忠次の剛膽と奇智を、河竹默阿彌が脚色して、九代目市川團十郎の旗上げ興業にしたのが、世に有名な「酒井の陣太鼓」である。
文化14(1817)年9月、濱松城主となった水野越前守忠邦の城代家老、拜郷五左衛門直昭は御馬屋北の、俗稱御花屋敷に住んでいた。
越前守以下家中が、肥前唐津から浜松に國入りしたのは、文政元年6月10日である。
越前守が老中筆頭に任じ天保12(1841)年5月15日、天下に発令した天保改革は。拜郷五左衛門の建策に基くもの多く、江戸と濱松の君臣意気相投じ疾風の如く行はれた。
このため諸國大名は「拜郷係り」を置きわざわざ濱松まで折衝にやつて來た。「濱松侍従の改革は拜郷めの筆とこそ知られぬ」と御三家水戸中納言烈公がいつている程である。
この改革が苛酷に過ぎて、呪いの声が津々浦々にあがり、
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