野口町

現在の野口町。
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区画整理以前の野口町。
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浜松発詳の古驛で、往昔聚落の中心地として繁栄を極め、また曳馬野に上る口という意から野口の名が起った。平安紀行で太田道灌が
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波かかる浜松の根を枕にて
いくたびさめね夏の夜の夢
と詠んだところは野口である。
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明治22年曳馬村に合併。大正5年浜松市に編入。大正14年八幡・元浜・山下・中澤及び船越の各町へ廣汎な土地を割譲したが、今なお浜松十大町の一つ。
颯々の松の古蹟(昔の天龍川々端の田圃中)がある。この松は一本ではなく30数本生い茂つた田中の森と稱した所で、永享年中足利義満將軍がこの前を通つて
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浜松の昔はささむさ
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と謡つたことから有名になった。
後ち慶承法師が
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その松ざざんざざんとおびただしくなりどよめき
物言う声もきこえす
ひとびと耳をおおうて三河路にいそげり
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などと大仰に傳えた。ざざんざの松ともいう。
今はこの邊一帯街區を形成し、道端に後繼ぎの小松を植え、記念碑だけ建ててある。
野口にはもつと多くの史蹟が遺存しているに違いないが、研究する資料がないのは遺憾なことである。
万福寺の切られ地蔵(身代地蔵)は傅説として有名であるが、昭和20年の空襲で灰燼と化し、同27年佛魂を繼いで再建した。
遠州大念佛は野口町と特別に深い関係はないが、三方原合戦で武田信玄勢が家康の「布橋」の計略にかゝつて犀ケ崖で夥しく戦死をし、その亡霊が夜な夜な激しく号泣して住民を悩まし、また無数の蝗となつて農作物を食い荒したので、家康が宗圓という僧に命じて大念佛を修し、この宗圓の結んだ庵を宗圓堂といわれている。
亡霊が泣き叫んだり、蝗となつたなどとはあくまで傳説であるが、戦乱時代は親子兄弟骨肉相含み、主従でさへ忽ち仇敵となって反間苦肉を策して、斬つたり殺したりした。いわんや町人百姓は殺戮、掠奪の脅威が絶へず、塗炭の惨苦を嘗めて呪いの声は巷にあふれていた。
これが家康入城前の浜松の世相でめった。従って大念佛嚴修は、戦死者ばかりがその對象ではなく、野口を中心とした町人百姓の亡霊をなぐさめるためでもあつた。
大念佛は別名「トツタカ」ととなえ20名から30名くらいの集團が赤襷、菅笠姿でヒン燈寵・鐘・笛・太鼓の隊列を組み、歌枕に和して踊り抜く獨特の盆踊である。
初盆の家を廻り、寺院の供養に参会する時には、弓張提灯を揚げた先頭が
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トツタカを一庭申す。
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と触れてから始める、また農作物の害虫を除く行事はトツタカと類似し、「虫送り」で矢張り集團がタイマツを持つて、双盤という鐘を打鳴らし
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ようい
とうとようい
とうと
蟲をくれ、蟲をくれ
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などと唱和してタイマツを燃やした。
雨乞いや疫病の猖獗を避けるためにも、大体これと似通つた習俗があつた。
明和から寛政にかけて、天下の名醫といわれた足立東郊は野口の出身。その二男貞二は内田氏を継ぎ乾隈と改め、眼科の大家になると共に、政治・國防を論じて名を轟かせ、明治32年73歳で歿し、天林寺に葬つた。
仙林寺は天耗寺の末寺。
浜松繭市場は八幡宮北に大正13年5月設置され、昭和16年まで盛況を極めた。その前の浜松繭取引所は鍛冶町にあつた。山本幾蔵ば初代総代。
船越町

この町は今の馬込川流域が、天龍川の本流になっていた時代に、その河畔に沿った津ロで、船越一色と稱した所。
村を擧げて渡船一さいのことをつかさどったので、この名が起つたが、常時の東海道の駅路に當り、街道を上り下りの旅人はここから船にのつて川を越していた。遠江風土記傳は
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船越は馬龍にあり、麁玉川の流れにして驛路也。昔天龍川、麁玉川より起り南に合流す。行人渡船の所故船越という。中古この河大天龍という。池田の流れを小天龍という。後に大天龍塞がり小天龍倍々大となる。
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十六夜日記はここの渡船の模様を
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天龍のわたり船に乘るに
西行の昔も思い出でられていと心細し
組合せたる船ただ一つにて
多く町人の行き來にさしかえるひまもなし
水の泡のうき世に渡るほどを見よ
早瀬の小舟さをもやすめよ
と記している。
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船に乘るに西行の昔も思い出でられて、いと心細し
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と十六夜日記にあるのは、西行物語に
遠江の國天の中川(大天龍)のわたりという所にて、武士の乘りたりける船に便船をしけるに、人多く乘りて、船危くやありん。あの法師おりよおりよといいけれども、聞き入れぬさましてありけるに、情けなく鞭をもて百行を打ちけり。血など頭より出で、世にあえなく見えけれども、西行少しも怨みたるけしきなくして、手を合せ、船よりおりにけり
云々とあるのをいうのである。
船越一色の一色は一種、つまり専問といふ意味であるが、大正14年に地籍を整理して、野口・佐藤・木戸・天神の四ケ町へ割譲し、別に野口の一部を細入して、船越一色を船越町と改名した。
天正7年船越は徳川家康から、天龍渡船取扱いを正式に命ぜられ、渡船の心得を書いた定書、渡船料70石給付の朱印書を下附されたが、元和3年に村内の火災で焼失したので、濱松代官彦坂九郎兵衛へ申立て、引続き渡船料70石を給せられた。
ところがこの前後から上流新原村の彦助堤が完成した結果、今までの大天龍は水量が俄かに減じて、渡船の必要がなくなり、寛永元年に下流へ延長五十問の板橋が架けられた。
船越村の船頭は失職難渋を申立てたので、浜松代官大久保左衛門、中泉代官中根七蔵らが立合つて検分を行い、古来の由緒により、池田村と同様に渡船役を勤むべき旨を、改めて申渡され、1ケ月に15日、隔日に1里半の道を池田村へ通つて渡船役を勤めたが、次第に生活が困難になて農・工・商に轉ずるものが殖えて行った。
富田伊平・水野藤一郎らは舊家である。八柱神社は寛永元年11月創建。臨済宗廣嚴寺があり、日本形染株式会社は明治33年に創立した。
追分町

昭和27年頃の追分町は今の布橋と城北2・3丁目の一部。

昭和32年頃の追分小学校 中野時久君 提供
舊幕時代は「名殘追分新田」と稱し、その後東追分と西追分に分れ、明治22年富塚村に編入して両追分と改稱、さらに大正元年浜松市に合併、同14年追分町となった。
追分の地名は姫街道の分岐点から發祥した。
元龜3年12月22日の大風雪の日に、徳川家康は15,000余の兵を率い、粛々と浜松城を出て犀ケ崖の直ぐ北にある追分に陣を敷いた。武田信玄が25,000余の大軍を率いて野部村を発し、天龍川を渡って都田口から浜松へ攻めて來たとの注進により、その行手を擁するためで、史上有名な三方原合戦はこの追分町で火蓋が切られた。
武田勢の先鋒は小山田信茂・山縣昌景らで、徳川勢の左翼へ攻めかかつて來た。これに績いて住吉町邊の二番手にあった武田四郎勝頼は、白地に黒い大文字をつけた、二本の馬印を左右の脇に押し立てて、上池川から追分に猛進して來たので、徳川勢はここを必死とこれを支えて戦つたが、結局散々に打ち破られて、先づ龍川一益と青木廣次が戦死、中根平左衛門正照も一族四人と枕を並べて討死した。
臆病者と罵られ、それを怒つて先手へ飛び込んだ鳥居四郎右衛門忠廣も、存分太刀に敵血を吸わせてから、壮烈に雪を染めて死んだ。
平手甚左衛門汎秀は、伊場まで追われて戦死する等、この日は徳川方諸將の戦死限りなく、武田勢はどつと色めいて、ひた押しに押し寄せ、馬場美濃守・小幡上総守の軍は、ついに本陣家康目がけて突き入つて来た。
この時浜松誠に留守をしていた、夏日次郎左衛門正吉は、與力25騎を引きつれて、城から一気に馬を飛ばして來るや、討死一歩手前の家康に
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それがしこの所において殿が御いのちに代り申すべし。
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と叫び立てた。家康は敵を斬り伏せ突き立てながら
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おお夏日か、かく負けいくさとなり、幾多の將士を失い、何條引揚げられようぞ。
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といった。正吉は怒って
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言い甲斐なき御心かな。大將たらん人が、葉武者の如き働きは何事ぞ。さ一刻も早く御引上げ遊ばせ。
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とはらはら涙を流し、突差に家康の馬のくつわを取つて、濱松の方へ引廻すや否や、槍の穂先でその馬の尻を力ー杯叩いた。
馬は驚いて、疾風の如くに雪の中を駈け出し、馬より落ちまいと馬上に伏した家康の姿は、見る見る遠のいていつた。
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これでよし。
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と夏目は十字の槍をふるつて、與力と共に敵と戦い、一人残らず討たれた。これに績いて成瀬正義・本多忠眞・安藤基能などが戦死した。
夏目はかつての一向宗騒動の時に、一揆にくみして家康の捕虜となり助命されて、時期あらば此の身に代えてと、堅く決心していたが、ここでその恩を報いたのである。
追分町には夏目次郎左衛門正吉の碑と大島寥太の
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岩角にかぶとくだけて椿かな
の句碑が大通りに立つ。
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正吉の妻は頭陀寺松下嘉兵衛の娘、金でその妹銀は、剣法の達人、柳生但馬守宗矩に嫁し、柳生十兵衛三嚴及び、同飛騨守宗冬を生んだ。
日本外史は正吉戦死を次のように書いている
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敵兵益逼 侍従(家康)自度下脱
欲返決死 士多喪 馬歩従
夏目正吉在浜松城 聞急馳至
諌曰勝敗常事耳 此非大將授命之日
君弟速走 臣請代焉 乃扣其馬一宿向
以槍鎚策馬走 正吉呼 柳武重曰
子以我君免 武重欲止共死
正吉揮而去之
自奮槍拒敵 苦戰而死 侍従得間而走
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この町に住岡喜平が明治41年郵便局を開設。二橋三郎は育英事業につくした。他に野田宇三郎・野田友十・内田治三郎・鈴木藤太郎・鈴井七十吉・鈴木福太郎・内山小一郎・犬塚伊三郎等があつた。
上池川町

概ね今の城北1丁目が上池川町
今の新川の上流で、古くから山間に池沼があつて、高原から奇麗な水が絶えず流れていたので、寛永の頃に池川と地名がついた。
池の端に聚落の鎮守として、豊受大神を祀る明神社の祠があったが、正徳元年12月天林寺山内に移された。
腹痛を起した時に、この池川の水を飲むと忽ち治り、無病の者はこの水を汲んで明神社にさゝげ、自らも用うれば一年の邪気を除く、という習俗が行はれ、正月の若水にも盛んに用いられた。
若水とは正月元旦、又は立春の日に、生氣の方の井戸水、あるいは池や川の水を汲んで、神佛にささげることが古例になっておリ、近年は餘りいわれないが、昔は平日でも朝早く汲んだ水を、華水・井華水などと稱し、邪気をはらい、五臓をととのえ、熱気を下す効能があると尊重せられた。
生氣の方とは陰陽這にいう、その年のよき方位を指し、天地万物を生ずる功徳があると説かれていた。
元龜3年12月22日の三方原合戦に、徳川方は犀ケ崖の北に陣を布いたが、この時の犀ケ崖の大きさは南北264尺、東西195尺、深さ96尺以上無限といわれた。
武田信玄の兵力は、北條氏の援軍を合せて無慮25,000、徳川方は織田氏の援軍を加えて15,000で、この上池川町も追分・和地山とともに徳川方の陣地になった。
北西から吹きおろしてくる、雪催いの寒気に、將士達は鎧を通して、胸の芯まで剌するようであつたが、敵状探察に出ていた軍目付鳥居忠廣が、手勢を率いて汗馬を躍らせて戻り、
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武田勢只今三方原へ攻めかかりましたるぞ。
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と息を切つて呼んだので、將士達はすわこそと、武者ぶるいをして立ち上った。
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武田勢の第一線は小山田信茂・山縣昌景・内藤昌豊・小幡信貞・山家三方衆、第二番は馬場信房・武田勝頼の兵でまとめ、総大將武田信玄はしんがりとなって、尖兵共につぶてを打たせ、推太鼓をとうとうと打ちながら押し寄せてくるさまは、鬼神も鉾を伏せて道を避けるばかりの威勢でござる。
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と忠廣は告げ、
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このまゝ眞正面から打ち出ては、とうてい勝味がない。
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と附け加えた。徳川援將佐久間信盛の軍が、高林町から天祐寺山下を経て、池川の低地を迂回して、陣立偵察にやって来た武田方の物見役30人余を發見して、血祭りに討取たのは東町地内であつたが、小山田信茂軍に攻めまくられて散々にやぶれ、又猛將瀧川一益の軍が、武田勢山家三方衆のために全滅されたのは西町附近である。
明治22年町村制施行の際に曳馬村に編入。大正5年5月浜松市に合併。同14年下池川町と分離した。
緑の丘、樹林の谷など、風致に富んだ山ノ手の大きな町で、東町と西町がある。古書に池谷・二橋二氏は元和時代からの舊家とある。池川健太郎は開発功勞者。
中澤町

池川の下流にて澤を為す所と、古書に出ている。舊幕時代は獨立の農村で、明治22年曳馬村に編入。大正5年浜松宿へ合併した。
縣道浜松・二俣線の要衝で、日本楽器工場建設後、著しい発展をとげた。この縣道は舊幕時代から明治までは、秋葉街道と公稱されていた。
日本樂器は山葉寅楠が明治18年オルガンを完成、同30年株式会社設立。その後ピアノ・ハーモニカの製造を開始したが、自動ビアノの穿孔樂譜は、河合小市の発明である。この町の高台は風致地區で、大正13年古刹常樂寺山に、浜松市營火葬場と浜松墓園がおかれた。達江風士記傅に
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常樂寺在中澤村。元龜3年甲斐軍乱入 奪阿彌陀本尊 以橋干溝 至太平之時移佛首於寺内
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とあるように、阿彌陀像像が橋代りになつたので、川柳子が
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信玄の勢は 佛を踏みつぶし
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と詠んだ。勝坂下のハ幡宮は寛永10年勧請したもの。
三方原合戦の時、大久保七郎右衛門忠世が、かがり火を焚いて敵をあざむいた有名な「火ともし山」は天林寺山
の東北一丁、俗稱火ともし地内の水田中に、直径一問位の跡があつた。これを曳馬拾遺は
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元龜3年、甲斐の武田と浜松との戰ありけるに、ひねもす戰い疲れけれども、夜の防ぎにもとて、大久保七郎右衛門忠世のはからいにて、鐵砲18丁を射たせて、かがりをこの山にたて、夜もすがらこの山軍人守りおりけり。
されどもあまりに鐵砲も多からずありて、防ぎもいと甲斐なかりける所に、伊場村の住人岡部何の某里人を數多催して、この中に加わり「ふい」というものを作りて、鐵砲にぞ交えてうちけるにより、軍人数多こもれる様になりて、敵は夜討をせざりけるとなり、その時篝火をおびただしく焚きけるによりて、この山の名を火ともしやまとはいうといえり。
所は名殘の原の、御馬場よりは東に当り、今もなお人知れる所なりという。
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竹山善太郎は戸長などをつとめ。飯尾儀一郎・中川五郎平も傑出していた。大正14年まで中澤及び池川、高林三ケ町は行政連合を結んでいた。
助信町

元曳馬町大字助信で昭和11年浜松市に合併した。
地名の起因については諾説があり、中に享徳(1452-1454年)の頃鎌倉の公方成氏朝臣助信が、管領の上杉氏と仲違いをして戦が始まり、朝臣は関八州に身の置く所もなく、遠江に逃がれ来って此地に住んだ古事からだという。
遠電助信驛東北半丁の地点に、三尺四方位の祠堂があって地蔵尊が安置されているのは、刄物を買う時この地蔵に參拜して行けば業物を得る。又悪魔を祓うとの云い傅えから、明治年間まで夜晝となく香華のたゆる時がなかった、これぞ刄物佛と呼ばれた刀匠新津三郎兼吉の墓である。
一説には兼吉の本名は新津三郎助信といい、此處に葬られたので助信の名がついたともいう。
遠く弘治、天正(1555-1592年)以来三方原の立入權をもっていたのは敷地郡45ケ村、長上郡72ケ村、豊田郡14ケ村、引佐郡5ケ村、麁玉都2ケ村、合計138ケ村であるが、現在その村名は分らない。おそらくこの助信町を中心とした曳馬村、三方原村、積志村、長上村、小ノ口村、芳川村及び三方原寄りの引佐郡であろうといはれ「入会村」として入札により樹木を伐り、また山錢というものを代官所に納めて落葉や枯枝を採って浜松宿へ賣りに行った。
故白尾金太郎は村政に袴田五平は財的に土地につくした。
新津町

舊曳馬町大字新津で、昭和11年浜松市へ合併の上獨立町となった。
津は海湖沼又は河に通じ、往古大天龍の流域にあったので、それが地名の起因となった。
遠州鐵道助信駅東側の街區は助信町でなく新津町である。天明から寛政の頃、志津三郎兼吉という刀匠が、備前長船から此所に移住して新津三郎と名を改め、主として刄渡り9寸5分以下の短剣ばかりを錬えていたが、時の天子光格天皇の枕刀を打つて、日本一の折紙をつけられた程なのに、何故か常に人を近付けず孤獨で暮した。長髪を振り乱した物凄い相貌の人で、晩年は家の軒は傾き板戸は破れ、屋根は雨漏れ、床はじゆくじゅくと濡れるに任せ、まことに淺ましい限りであつた。天保13年秋、知らぬ間に死んでいたのを、里人が発見して助信町の森の中に葬り、俗に刄物佛と呼んだ。
生前の暮し向きにつき、高岡氏ら三・四名の里人が、何彼と面倒を見ていた縁故で、後ちに地蔵堂を建てた。鍛えた物は総て切味が古今無類の刄物であったという。
またこの町に樹齢五百年の名高い天王杉は、歳徳神を祭る。縁起故事記に
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歳徳紳は午頭天王、即ち武将天神以下四柱也。稲穂を天下に播し給う。人々生食を養い保つは、この神の恵み也。
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とある。歳徳神はまだ吉方棚ともいうが。根據は天地十于の陰陽配合であつて、その方位は大地万物生する功徳ある「あきのかた」だとし、この明きの方、つまり吉方に向って、高く棚を吊り、シメを張り、松竹を立て、供物、燈火を献じて祭る行事を言い、民間行事としては可なり古くかつ廣い一種の神事であった。この町には別に傳説も多い。
茄子町
舊曳馬町大字茄子と称し、昭和11年浜松市に合併した。
曳馬地區の茄子の特産地といわれた。文久事物考に
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茄子は悪血を去り膿を拂い、いぼを除くの効あり、一人茄子を食せば一家病なし。されど一つ地に茄子の連作よろしからず。
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と害いてある.
弘化3年春、勘場並本の享徳寺が、龍東へ引越で馬込川を渡るとき、茄子橋から、本尊の十一面観音が河中に轉がり落ちたので、水難除の佛として、そのまゝ川瀬へ祠を建てて祀ったが、慶應2年秋の大水で押流されてしまつた。
この橋の上流に太鼓橋・三浦橋・十軒橋・八幡浦橋などがあり、河身の灣曲した箇所を五神ケ淵と呼び、激しい水勢に深く堀られて、底が摺鉢型となり、常に大さな渦を巻き、明治から大正初期までは、水死人の絶え間なく、心中の名所でもあつた。
その後縣營馬込川改修工事が完成して、今茄子橋の上・下流は魚釣に水泳に夏の遊樂地帯となり、水郷の名がある。
「ナス」町というのは誤まりで「ナスビ」町と読む。古語源に
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茄子は「なすび」なり、夏季つくりて食す。
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とある、語尾の「び」を略して「なす」と呼ぶようになったのは、比校的近年のことらしいが、茄子町の場合はなお改めず「なすび町」と呼ばれている。
語音から言っても「ナス」より「ナスビ」町の方がよい。この附近は大体において寛文・元禄・享保時代に開墾されたので、昔は俗に茄子新田と呼ばれたこともある。茄子橋が最初に架かつたのは、天保年間であるが、川の端から端へ渡したものでなく、水勢の強い主流へだけ架けて淺い所は歩いた。
細島町

元龜3年12月の三方原合戦で、徳川方は総崩れとなり、家康はじめ諸將はハ方に逃げ惑つたが、四天王随一の豪將榊原小平太康政は名は小平太でも身の丈六尺七寸といわれた巨躯で、單身細島河原へ逃げ込んだと、戦國武將傳に載せてある。武蔵坊辨慶の身長も七尺七寸と記録にあり、日本でこの小平太や辨慶に勝るものは、身長一丈に餘つた人皇十二代景行天皇の御子日本武尊お一人だけであるという。
後ちの川柳に
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小平太は 細島までに 二度ころび
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というのがある。
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昔權現様逃げるが勝ちよ
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との古諺は、逃げては負け、負けては逃げて、最後に勝った家康を教訓に、喧嘩に勝つな、進退を過まるなと。戒めたもの。三方原古戰跡書には
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酒井左衛門尉の家來、伊奈四郎というは、武勇すぐれ、武田勝頼の旗本へ横筋かいに斬り入りたれば、武田軍ぐずれ立つを、山形衆が引返して斬りかゝり、また甘利衆も横槍を突き入れ來れば、酒井勢ついに大くづれとなりたり。榊原小平太勢もくづれて三方原の遥か東の方、細島という所まで走れり。ある書に西島と書けるは誤りなり。また家康公の逃げ給う時は、御一人にはあらす小栗忠蔵というもの、よくふか手に耐えて御城まで御供したるなり。
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とある。
細島町は往古大天龍の川敷で、今も純朴な農業地帯。茄子橋と大鼓橋の中間に新架橋の計画がある。
富塚町
町の南にある佐鳴湖は、遠く聖武天皇の天平年間、米津浜の大津波から出来た湖水で、俗に猿投浦と将したこともある。
貞享元年9月、浜松城主青山和泉守が船で遊び、儒士をして遊記を作らせたが、その文中に
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湖北有富塚之里 茅屋斜速間水流 漁村夕照景有此乎、
西有鴨江寺 安置白衣観音像 昏曉推樓上之鐘
云々とある。杉浦國頭は享保14年8月7日加茂眞淵と遊んで
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入江吹くあき風は止み波かけて 萩の葉さわぐ音ぞ身にしむ
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と詠じた。
明暦から寛政にかけた古文書には「富塚の原」といふ文字が多く見える。
西脇地區は彌生式文化と奈良朝文化との接觸時代の遺蹟地で有名な「鳴乎阿塚様」がある。
西端の安座地区には、蒲冠者源範頼由緒の「お茶屋」跡が殘り、小藪地区の御前谷について、曳馬拾遺は
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この谷は三ツ山の北にある谷なり、昔駿河國今川治部太夫義元朝臣のやから、関口別部少輔氏綱の姫君は、その容姿人に越えて、いとめでたくみやびやかなる御粧いにおわにましければ、その世の人、従がわずというものなかりけるなり。
然るを義元朝臣の計らいにて、故君(家康)ぞめとり拾いける。この御腹に治郎三郎信康の御方、奥手昌信の北の方の御ふたりましましける。
かく睦まじく御子迢もおはしまして、目出度く年月を送り給いけるに、いかなる御事にや、ものねたみし御心ざしの出來にけるか、いと淺からす成り行くままに、後々はおそろしき聞えもひろがりけるとて、信長公より度々仰せ有りけば、故君ももだし難くや思召しけん、信康君、母君ともに討ち奉らんと思召しけるままに、先ず信康の君をばいくさ立ちのように仰せありて、天正7年8月4日に、岡崎より大浜へ移し給いけり。
それより同月9日大浜より此の國堀江(北庄内村)に移し給いその後二俣の城へぞ遺わし給う。9月15日に渡邊半藏天方山城守に仰せつけて討ち奉りぬ。
惜しきかなはたち餘り二とせの秋の露と消え給いぬ。渡邊あまりに泣き悲しみて、討ち奉らざりければ、天方失い奉りけりといえり。御からをば清瀧寺にかくしぬ。又母君をば9月25日、本坂越を二俣へ遺わし給うとて、富塚の原に向いて入野の水海をあがり、この谷に至りて岡本軍左衛門、石川太郎右衛門、野中三五郎ら失い奉りぬ。
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とあり、ここに大刀洗の池がある。權現谷には幕末の頃大砲が据えられた。俗に昔の本村は町の中央で、向乎・谷田平・上の平、東島等の各字がある。
井上藩士青木半兵衛は、維新後富塚に住んで大いに羽振りをきかせた。法林寺住職松山舜應は、明治時代奥山方廣寺管長をつとめた。青木銀藏は功勞者であるが、青木半兵衛とは無関係。神田忠五郎は村出身随一の成功者で、中野彦太郎は村長をつとめた。
諏訪紳牡・八柱神社・山ノ神神社・神明宮・稲荷社・辨財天社があり、法林寺・寳藏寺・兩光寺はいづれも方廣寺末。なお根川山近くの佐鳴湖畔には、今も遠州七不思議の「片葉の芦」が生えている。
舊富塚村に大字文丘がある。
和地山町
明治12年3月12日郡區改正のとき、浜松宿に合併したが、後ち分離して同22年富塚村に編入、さらに大正元年10月浜松市に再合併となった。
徳川家康浜松在城中御馬場のあつた所で
跡あれて ただ引馬野の道の邊に 殘るさかいを見るもなつかし
と歌はれ、曳馬拾遺に
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この馬場は犀ヶ崖より北に常り、昔君の馬など乘り給いし所なりけるを、今はこの所の土大根によしとて、これをもてはやすばかりなり。
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と書いてある。大根は古名をおおねといった。根が大きくて専ら根のみ重要したからである。根が清らかで、大きく潤いが多いので縁起もよいとし、とくにその頃は正月に用いた。
今は大根は一年を通じてあるが、昔はいわゆる秋大根一種であつた。そこで大根は陽に蒔いて陰に生ず、陰陽にまたがつて成り、食毒を消してけがれを去る、餅は陽、芋は陰、大根は陰陽を和するとあつて、盛んにもてはやされたわけである。
浜松では和地山を中心として、富塚大根・三方原大根を多量に産出している。
さて、家康の御馬場のあつた和地山が、一時浜松競馬場の候補地になつたのは因縁といえよう。この町は明治40年追分に跨つて、陸軍歩兵第67連隊が置かれてから、だんだん発展を示し、現在練兵場跡の東半分は住宅街となった。
浜松名物凧合戦は明治43年以來、主として此所で行はれた。凧の起原の最も古い文献雍州府志に
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児童紙鳶を造り、糸を著け風に乘せて之を操り、空中に飛揚す
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又建寅贅六には
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凧は元来児戯にして、元服を越えたる大人は揚げず。
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とあるが、浜松凧揚の元祖佐橋甚五郎は後ち、朝鮮に帰化して朝鮮人使節となって来た時に、浜松の凧を見て、大人が揚げるのは笑止千万と嘲笑したので、問題を起したことがある。
また後ちに浜松井上藩の小林彌右衛門は
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甚五郎おのれの凧をあざ笑い
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という川柳を作つた。和地山は古くは公称の地名がなかつたが、和合町・泉町を越えた向うに古來和地村があり、この和地村が三方原の草を刈つたことに起因している、との見方が常を得たものであろう。
明治初年以来の開発功勞者は堀口勘蔵、伊藤修忠をはじめ木村正信・鈴木市三郎・小林三代蔵らである。
住吉町
三方原高台で元曳馬町。昭和11年浜松市へ合併して「良い町住みよい町」にしたいというので、住民が相談のうへ住吉町と命名した。
元亀3年12月22日の三方原合戦の時、武田四郎勝頼が陣を敷いたのは、この住吉町である。総大將信玄はさらに後方におつて、戰況を眺めていたが、山縣昌景の軍が、河井忠次勢に追われて来たので、大音揚げて
それ甘利衆、あの浜松勢に横槍せい
と下知をした。畏まつた米倉丹後重次が、馬を乘り捨てて酒井勢へ突いてかかり、典厩信豊・穴山梅雪が左の窪から酒井勢の後ろへ廻つて、どつと一時に攻め立てた。
この激戦で浜松軍が散々に打破られた、三方原合戰由緒の地であるが、享和時代から明治初年へかけて、追剥が頻出した。
松小立の繁つた姫街逍を、歩いて來る者があると、突如十数人の賊が行手を遮り、金・衣類・荷物を容赦なく剥ぎ取った。時によると聲もかけず、抜討ちに斬付けて痛ましい殺生までした。
文久2年冬、浜松藩代官宇多格之助が剣士兵藤陽左衛門以下20數人の兵力、同心を連れて召捕りに向い、先ず最初に現はれた賊2・3人を兵藤が水もたまらず切って落した。
これに怖れをなした他の賊共は一散に逃げ出したので、同心がそれッ、と一丁ばかり追跡すると、松原の中から十數人の別の賊が現はれ、前に逃げて行く賊兵も取って返して、挟撃して來たので、同心達はあべこべに生捕られたり、死傷者を出した騒ぎがあつた。
その後続いて何回も浜松藩の大手入が行はれ、又15代慶喜將軍の剣道指面役をつとめた、間宮勇大郎はじめ多数の徳川藩士族が、明治2年11月から同3年5月にかけて、三方原へ入植して、姫街道の往来が、頻繁になって來てから、賊は段々と出なくなったが、何時の間にか誰れいうとなく「錢取」という地名がついた。
今の遠州鐵道錢取駅附近は賊の山塞のあつた所といわれる。徳川時代に永く山窩の居た所という説もあるが根拠はない。
浜松市上水道淨水場は昭和2年の建設である。
昭和23年曳馬中学校の敷地から堅穴式の石室が発見されて、幾つかの切子玉や耳輪が出土した。上代文化の遺蹟地であったことがわかる。
故大野篁二がいた。
高林町
昔の曳馬村大字高林で、大正20年5月1日、野口・八幡・下池川・船越一色・中澤・上池川及天紳町村の北馬込(馬込町)と共に浜松市に合併した。
懸道二俣街道を挾んで東西に跨り、高台地區には鐵器時代の古墳群が点在する。
この遺蹟は三本松から千人塚にかけた「曳馬野古墳分布圈」に屬し、彌生式文化時代の終わる頃、大陸渡来氏族の一團が豪華な生活を營み、やがて大和朝廷に統合されたが、その原始人の屍体を埋葬した石室式の古墳群で、何れも直刀や馬具を伴い、當時いかに權力的な存在であつたかを立証しているが、明治から大正にかけて盛んに盗掘が行はれた。
昭和24年の國学院大学調査隊の報告書に
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1世紀から3世紀あたりの頃、大陸文化が傳來し、豪族或は貴族のような人が一群の長となつて、此所に生活し安穏な月日を過ごしているうち、死んで埋葬した。
三方原分布圏の中では、人間一代位の時代的な差異は認められるが、何れにしても浜松は原始文化の香りが高い。
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という。繩文式はアイヌで、彌生式は大和民族であるが、その彌生式文化の終末期に、宏大なこの分布圏へ移住民族が居を占めて、土地の開発に力を到したわけである。
出雲氏族の人々という説と、三韓人説とがある。
三方原に上る坂に無数の石段があり、俗に百段坂と稱し、坂上に白山社、坂下小林寺は天正7年6月、天秀和尚が開き、昔はかなり大きな瀧があった。
ここの子育観音は慶長年中、森大洞院から勧請。賓暦以来婦女の參詣で賑い、天保から明治中期にかけ子育餅の茶店が出た。
子育地蔵はどこにもあるが子育観音は少く、御木像は木之花佐久夜姫を象兆した聖観音菩薩である。木之花は麓はしきこと、佐久夜は櫻の花で、み姿のえん美なることをたたえたもので「舊事紀」にその名がのせてある。
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ニニギノ尊、姫の名を問い給えば、
われ大山祗のむすめ、コノハナノサクヤ姫、姉あり磐長姫と申すと、
ニニギノ尊、告げてのたまはく。
われ、ナをもつてメとせんと欲す。
姫こたえて申さく、アに父あり願くは先づ父に問い給え、
天孫よつて大山祗神を通して姫を娶らんとし給う。
父神大いによろこび拾い、
百なす机におすものを盛り持たしめ、
磐長姫をも添えて奉る、
すでにして姫みごもり給うに、
疑い給うてわが子にあらすとのたまい給う。
姫大いにいかり恨み給いて
うぶやをつくりて中に隠れ御子なることを誓いて火を放つに、
つつがなく御子生まれませり、
よりて天孫疑いをとき給う、
生れいでませる御子は
ホスソリノ命
ヒコホホデミノ命
ホアカリノ命
の三皇子にまします。
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との事蹟に現はれ、大神徳を仰いで後年火に風に水に強い子を育て、又お産のつつがなく、夫婦和合の守護もする観音菩薩にかたどり祀られたもの。
飯尾周三は曳馬村長等をつとめた。
曳馬町
古くは大天龍川に沿つた島の郷。又三方原続きの引馬野の口で、この辺を廣く曳馬野と總稱したが、昭和11年浜松へ合併となつた。
往昔曳馬野と稱した三方原は、どこからとどこまでを指したのか、明らかでないが明治以来は東百2里15丁、南北3里18丁、總反別3,600丁歩といわれ、大部分帝室の御料地で、大正13年そつくり本縣へ拂下げとなり、翌14年縣が内110万坪を陸軍省に譲渡、浜松飛行第七連隊を初め一校五隊が設置された、その後土地は頻々と變遷を示し、今日に至つた。
徳川時代は境域が敷地・長上・引佐・麁玉4郡に亘り、地籍不明で元和6年浜松城主高力摂津守は敷地、長上2郡35,000石、井伊谷城主近藤石見守が引佐、麁玉2郡15,000石を領して所属をきめたがハツキリした線はなかった。
阿彌陀區地名の起原につき、曳馬拾遺は
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浜松の北、島の郷村、行き來繁き道の邊りに、溝ありけるが、元亀3年の戰いの時、この溝行き來のわづらい也とて、常樂寺に軍人入乱れて、かの阿彌陀を取りて橋として通いける。
その後月日を経るままに、かの佛大方朽ちぬるを漸々みくしばかりを取りて、かの寺の本尊となしける。それよりこの橋を阿彌陀橋というとなり。
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と載せている、八坂神社がある。
加藤熊次郎は村長、郡会議員等を歴任し、田畑義一は市会議員をつとめた。
十軒町
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馬込川沿いの曳馬村十軒家と稱し、家が十軒しかない閑寂な村落であったが、明治末期から人の往来繁く。段々とひらけてき`こので、昭和11年浜松へ合併したのを機会に十軒家の「家」の宇を剖って十軒町と改めた。
現在戸数的80戸、人口450を算えている。
一説には遠く延暦14年2月2日、智仁勇兼備の坂上田村麿將軍、主従53人束海這を下り、濱松駅旅宿東陣佐藤与三右衛門の家に到着したが、16人しか泊れぬため、近くの麁玉川(馬込川)堤に十軒の家を急拵えして入った。これが十新町地名の起こりだと傳わる。
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昔この土地は太箸を用いたといぅ。田村麿將軍のよぅな剛勇無双の人は、太箸を用いたに違いないが、箸の名義からいうと、ハシとは橋の意、食物とロとの間を通らせる義、そこで
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| お箸の渡る
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などと古書にも書いてある。ついでだが古事記の須佐之男命のくだりに
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箸が流れて来た、この河上に必ず人あらん。
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と記されている所をみても箸は神代以来のものである。十軒町が太箸を用いたわけは別として、一般に正月の雑煮箸に限って、特に大きい太箸を用いたことが雜談抄に書いてある。卽ち
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箸の折るるは落馬の相なり。將軍の足利義勝、幼少にて治世の時、元朝儀式の箸折れたり。その年の秋落馬し失せ給う、御舎弟義政治世の時、折れざるように太くせしより、太箸始まる。
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と。
馬込川に架かる十軒橋は昔から名高いが、堤防から堤防へ架け渡したものではなく、膝をまくって渡れぬ深い流れだけへ架けてあつたもの。
早出町
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元曳馬村早出(ソウデ)で、昭和11年浜松市に合併した。
勤勉実直な農家が揃い早暁から野良仕事に出たので昔から早出の村といはれた。
朝起と早作は損をした事がない。舅の門と麦畑は踏む程良い。生姜は田植歌を聞いて芽を出す。などと増産の教えがある。
永禄年間今川家の浜松城代、飯尾豊前守乘龍の家老、江間加賀守がその領地として居住した所。又同じ家老職の江間安藝守は連尺に居住して江間殿小路の名が残つた。
飯尾豊前守は乘連乘龍の父子二代、天文から永禄にかけて浜松にいたが、井伊氏の系譜によると、飯尾は井伊家の家老だと載せてある。おかしなことであるが、二代飯尾乘龍は今川義元の子氏眞に背いた。
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氏眞は家臣の新野左馬之助をして、浜松に飯尾乘龍を攻めたが、左馬之助があべこべに戦死した。
そこで永禄8年欺いて乘龍を駿河に連れ出して殺し、家老江馬安藝、江馬加賀が城を守っている内、安藝が加賀一殺し加賀の臣がまた安藝を殺したのである。
明治3年一般農、工商に苗字の使用を許された際に、早出村の家々は昔の由緒をたどつて、飯尾と江間を名付けたものが多かつたと、古老から口授があった。
馬込川向うで水郷の名かあり、長上村中田に接し、森の中に八幡社が鎮座している。
浜松信用銀行頭取、浜松委託会社々長をつとめた、明治時代浜松実業界の大立物、伊藤磯平治はこの町、中村八左衛門の二男で、歿後に森村市左衛門が
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功業固磯
永益四隣
擧名不朽
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と碑銘を書いた。
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